◆ ◇ ◆ ◇
喉の奥に蓋をされたような圧迫感にも、もうすっかり慣れてしまった。
他人とのコミュニケーションは、手の中にある小さな機械さえあれば、なんとでもなる。
そもそも自分は馴れ合いなんて求めてない。
今のクラスは何かと腹の立つ奴ばかりで、つい何かとかまってしまうが。
とにかく、もう今更、この喉を声が通らない事なんて気にしていなかった。
―――気にしてなど、いないのだ。
◆ ◇ ◆ ◇
その日音無芽留は、普段訪れない屋上へ足を運んでいた。
時刻は昼休み。何かと騒がしくなる2のへの教室。
普段は奈美や、他の比較的マトモな生徒に交じって食事を取るのだが、
今日はなんとなく食欲がなく、騒がしい教室に居心地の悪さを感じでしまった。
自分が食事を取らないのを見れば、お節介な生徒は「どうしたの?」「気分が悪いの?」などと気にかけてくるだ
ろう。
千里に見つかれば「食事はキッチリ三食とりなさい!」などと難癖を付けられるかもしれない。
…どうして今のクラスは、こんなにもあらゆる意味で遠慮がないのだろう。
芽留は自分の事は棚に上げて溜息を吐く。
そんなのはうんざりだ。
そうして静かに教室を抜け出し、一人になるために選んだ場所が、屋上だった。
季節は冬真っ只中。こんな寒空の中にわざわざ出ていこうとする生徒は居ないはず。
冷たい風さえ我慢すれば、一人になるには絶好の場所―――の、はずだった。
「……?」
このドアを開ければ、低い雲の広がる寒空が見れるだろう。
だがメルはノブを掴もうとした手を、何かに戸惑うようにさ迷わせた。
―――ドアを隔てた向こうから、誰かの声がするのだ。
予想外の先客に、芽留はオロオロと弱り顔で後ずさる。
が、そんな弱々しいリアクションとは裏腹に、内心では思いっきり舌打ちしていた。
まさか自分以外に、この馬鹿みたいに寒い屋上を居場所とする人間がいるとは。
そのまま帰るのも癪なので、せめて自分の居場所を奪ったのがどんな奴なのかだけは確認しようと、
物音を立てないように気をつけながら、そっとドアに耳を押し当てた。
そこでようやく、さっきから聞こえる声が、何かの旋律を奏でている事に気付く。
風の隙間を縫うように、低く、時には声高に流れる、女性の歌声。
―――こうして耳を澄ませてようやく、その歌声の美しさに気付いた。
その歌に歌詞はなく、ただただ自由に喉を震わせ、伸び伸びと旋律を奏でている。
ドア越しであるにも関わらず、僅かに届く音だけで、芽留の心は大きく震えた。自然と目に涙すら浮かぶ。
背筋が慄く。切なく流れるゆっくりとしたメロディに、自然と惹き込まれていった。
―――気付けば歌は終わっていて、芽留はいつのまにか脱力したようにドアにもたれ掛っていた。
はっと我に返る。自分がだらしなく呆けていた事を恥じて、頬を赤くする芽留。
だが、恥じる気持ちと同時に、あの歌が誰のものか無性に気になった。
少なくとも自分のクラスに、あんな美声の持ち主などいない。
だがあれほどまで美しい声ならば、噂くらい立ちそうなものなのだが。
「………」
芽留はゆっくりと立ち上がり、ドアノブに手を掛けた。
―――あの歌をもう一度聴きたい。出来る事なら、ドア越しではなく、目の前で。
その一心で、思い切りドアを開いた。
―――真上に上った太陽が視界を白く閉ざす。
眩さに思わず目を閉じる。次に目を開いた時には、視界はクリアになっていた。
屋上の真ん中に立っていた人物は、驚いたように目を見開いて、芽留を見つめている。
「―――ッ!!?」
その人物が誰なのか一瞬で理解してしまって、芽留は愕然と掠れた息を吐いた。
冷たい風に靡く、日の光を受けて眩く光る金髪。見開かれた瞳は澄んだ若葉色。
「…ぬ…、盗み聞きとは良い度胸じゃない、訴えるわよッ!!」
木村カエレ。
芽留の中では、おそらくもっとも想定外の人物だった。
『…じょうだんだろ…ほるすたいん…』
「誰がホルスタインよ!」
グッタリと項垂れながらも、しっかりとメールは打っている。
カエレは受信したメール内容に憤慨しながら、ツカツカと芽留に歩み寄った。
『さっきのうた、おまえのか、ほんとに?』
「あーもう、そうよっ、悪い!?」
動揺のあまり漢字変換すら忘れてメールを打つ芽留に、カエレは半ばヤケになったように答えた。
頬が僅かに赤い。どうやら自分の歌を聞かれるのが恥ずかしいようだ。
「ったく……、こんな馬鹿みたいに寒いなか、わざわざ屋上に来る奴が居るなんて…」
『そりゃこっちの台詞だ。
…お前、もしかしていっつもここで歌ってるのか』
「――いつもじゃないわ。気が向いたときだけ、たまによ」
答えながらそっぽを向くカエレ。相変わらず頬を赤くしたままで、
「あんたは? 何の用があってこんな所に来たのよ」
『何だっていいだろ、一人になりたかったんだよ』
芽留も気まずげに俯く。
まさか自分を戦慄すらさせた歌声の持ち主が、よりによってこの女とは。
あらゆる意味でショックだった。
『でもお前、文化祭の時の歌は酷いもんだったじゃないか』
そう、芽留はカエレの歌を以前聞いた事があった。
少なくともその時はこんなに美しい声などではなく、むしろ音痴代表の某漫画キャラも全裸で逃げ出しそうなレベルの歌声だった。
「あれは、最低限文化的な日本人のレベルを合わせてあげてただけよ」
『いや、あれはむしろ別の方向に文化的過ぎただろ』
「どういう意味よ!?」
怒鳴り返すカエレ。だが、意外な事に自覚があったのか、すぐに気まずげに視線を逸らした。
芽留はある一つの可能性にたどり着き、まさかと思いつつ聞いてみた。
『お前まさか……あん時、酷い歌って言われたのが悔しくて、練習したのか』
ギクリ。
僅かにカエレの両肩が震える。図星のようだ。
芽留はさらに驚愕して、目を見開いてカエレの赤い顔を見つめた。
パンツとおっぱいしか能が無いと思っていた女が、こんな風に影ながら努力していて、
しかも文化祭から数ヶ月でここまで上達したというのだ。驚きもする。
「何、なんか文句あんの!?」
『…………』
画面に並ぶ三点リーダ。
「わざわざ沈黙まで打たなくていい!」
―――次に携帯の画面に現れた言葉は、酷く刺々しかった。
『こんな寒いなか歌の練習とは、ご苦労なこった。そんなに下手って言われたのがこたえたのかよ。
案外繊細なんだな、外人のクセに。
まぁ多少歌がマシになったからって、結局おっぱいとパンツしか存在価値がないってのは変らないがな』
芽留の中に、もやもやと嫌な感情が渦巻き始めていた。
本心では、カエレの努力に感心している。
鼓膜を突き破らんばかりに震わせる歌声は、人の心を静かに震わせる歌声に化けた。
だが、普段あまりカエレと仲の良くない芽留である。素直にその努力を認めるのは癪だった。
それになにより――カエレの成し遂げた事は、自分には絶対に出来ない事だ。
それが本当は、悔しくて堪らないのである。
そんな芽留の内心を知ってか知らずか、カエレは鼻息荒く、残酷な言葉を返していた。
「っふん、まぁアンタのお得意のメールじゃあ、歌なんて披露できないでしょうからね。
嫉妬するのもわからなくはないけど、みっともないわよ?」
豊満な胸の前で腕を組み、心なしか上体を反らして、自信満々に言い放つカエレ。
その言葉があまりにも図星を突いていて、芽留は喉の奥で低く呻き声をあげた。
もちろん、カエレは芽留を深く傷付けようとして言ったわけではない。売り言葉に買い言葉、というやつだ。
だが、予想外に押し黙る芽留の様子に、訝しげな顔になる。
「何よ、図星?」
――沈黙。
今度は、携帯に三点リーダを打つ気力すらない。
いつも数々の暴言を発信している芽留が、携帯がその手にあるにも関わらず、無言でいる。
その様子を珍しく思うより前に、カエレは日頃のお返しとばかりに罵倒を浴びせかけた。
「あら、悔しいならお得意のメールで歌ってみてごらんなさいよ。
出来ないの? …っふふん、そんな事でよくもまぁ失礼な口がきけたものね。
さぁ歌って御覧なさいよ。それとも、おっぱいとパンツが存在価値の私より、自分が劣るって認めるの?」
次々浴びせられる言葉の刃。
それは、日頃芽留が他人にしている事となんら変わりない事だ。
だからといって、自分がその暴言に耐えられるかというと別の話である。
悔しさで視界が滲む。
さっきまで意識していなかった、喉の奥を塞ぐ圧迫感が、俄かに重くなってくる。
◆ ◇ ◆ ◇
――お前、変な声だな――
クラスメイトの何気ない一言。
ラジカセから流れる自分の声。
その声は自分の想像と違うもので、芽留はほんの少しだけ傷ついた。
それだけならば、いい。
それだけなら、多少無口になる程度ですんだはずだった。
数日後、芽留の声を指摘したクラスメイトが、消息不明になりさえしなければ。
犯人は判りきっていた。
あの男が自分を溺愛している事は判っていたが、まさかここまでするとは思わなかった。
芽留はもちろん父親を責めた。だが、だからといって失われた者が戻るわけではない。
その日から、芽留は声を出す事が恐ろしくなった。
また、誰かが自分の声を指摘したらどうしよう。
そうしてまた、その誰かが居なくなってしまったら、どうしよう。
芽留に罵倒されて父親も流石に堪えたのか、あれから多少自重するようにはなった。
けれどだからといって、一度植えつけられた恐怖が薄らぐわけではない。
気付けば、喉の奥に圧迫感があった。
声を出そうにも、醜く掠れた呻きしか出ない。
そうして芽留は喋れなくなった。
声を、出せなくなったのだ。
◆ ◇ ◆ ◇
「―――……ッッッあ”」
声を、出そうとした。
悔しさのあまり、無理と判りつつも、歌を歌おうと試みた。
だがやはり、喉から出たのは醜く潰れた酷い音。
咄嗟に喉を押さえる。このまま、掻き毟ってしまいたかった。
はっとして、カエレの反応を見る。
カエレはきょとんとした顔で、芽留を見下ろしていた。
その表情が、何故か自分を馬鹿にしているように見えて、芽留は深く俯いた。
「――……ぐ…――!」
惨めさに耐え切れなくなって、咄嗟に踵を返す芽留。
瞳に溜まった涙が、きつく閉じた瞼に押し出されて、宙を舞う。
「ストーップ!」
するんぱしっ!
走り去ろうとする芽留の細い腕を、カエレの手が強く掴んで引き止めた。
「タダ聞きとはいい度胸じゃない、訴えるわよ」
振り返った芽留の両目に映ったカエレの表情は、怒っているようにも見える。
口にした言葉はいつも通りきついものだが、口調は、ほんの少しだけ柔らかかった。
まるで芽留を気遣うように。
だが当の芽留はそれに気付かない。また何か言われるのかと、涙目でカエレを見上げている。
「―――私の歌を無断で聞いたんだから、それなりの代価を払ってもらうわよ」
「……?」
現金でも払えというのだろうか。
だが、カエレの求めた代価は、芽留にとっては現金などよりよほど大きなものだった。
「アンタの歌も聞かせなさい。等価交換よ」
芽留はよりいっそう表情を歪ませた。なんて残酷な女なのかと、信じられない思いでカエレを見つめる。
カエレはずっと掴んでいた芽留の腕を話し、今度は彼女の細い両肩に手を置いた。
身長の低い芽留に視線を合わすように、少しだけ膝を折る。
「アンタがマトモに歌えるようになるまで、私がレッスンしてあげる」
――その声が、今までにない程優しかったので、
それが彼女の精一杯の気遣いなのだと、芽留はようやく気付く事ができた。
「もちろん、この私がレッスンしてあげるんだから、それに見合うだけの歌唱力は身につけてもらわないとね」
肩を流れる金髪をかき上げながら、胸を張って言うカエレ。
詳しい事は知らないが、芽留が自分の声に何かしらのコンプレックスを抱えて居る事くらいは、カエレにも理解できた。
そして自分の言葉が、予想以上に芽留を傷付けた事も。
プライドの高い、素直になれないカエレが、芽留に出来る精一杯の償い。
それは、彼女の声を取り戻す手伝いをする、というものだった。
もちろん、芽留が声を出せるようになったあかつきには、代価として彼女の歌を聞かせてもらう。
たとえ芽留が拒否しようと、カエレは是が非でも彼女の面倒を見ることに決めた。
「訴えられたくなかったら、大人しく私のレッスンを受ける事! わかった?」
「………」
芽留はカエレの瞳をじっと見つめたあと、やおら携帯を取り出し、メールを打つ。
少し時間が掛かっている。
長文なのかと思いながら、受信したメールを開くカエレ。
画面一杯に広がる三点リーダ。
「だから、沈黙までわざわざ打つなッ! 嫌がらせかっ!!」
怒鳴りながらも、一応画面をスクロールさせてみる。
延々と続くかと思われた三点リーダ。
スクロールが、終わる。
三点リーダの海に、ポツンと浮かぶ四つのひらがな。
『ありがと』
「………」
芽留を見ると、耳まで真っ赤になっている。
「――ふ、ふん」
予想外のしおらしさに、カエレもどうしていいか判らず、顔を赤くして視線をあらぬ方向に向けた。
と、まるでその沈黙を待っていたかのように、予鈴が鳴り出す。昼休みは終了のようだ。
カエレは一つ咳払いをして、芽留の目前に指を突きつけた。
「それじゃ明日から、この時間、昼食持ってここに待ち合わせ! 良いわね!」
それだけ言うと返事も待たずに、長い金髪をなびかせて駆け出すカエレ。
そのまま屋上を出て行く直前、振り返り、
「サボったら訴えるわよ!」
そういい残し、ドアの向こうへと姿を消した。
一人残された屋上で、芽留は乾いた涙の跡を拭い、空を仰いだ。
低い雲。冷たい風。うんざりとする冬の寒さ。
『悪く、ねぇな』
誰にともなくそう打って、芽留も屋上を後にした。
二人が美しいハーモニーを奏でられるようになるのは、まだ大分先の話である。
『――――さて、何を歌おうか――――』