後ろ姿は親子ほども身長差がある少女が二人。そろって柳眉を逆立てた表情で、不機嫌さを隠そ
うともせずに通路の真ん中を並んで歩いていた。
『何だあの店員! 子供扱いしやがって! 責任者出て来い!』
「ホントムカツク! 何で私がお母さん扱いなの!?」
それぞれ怒りの向く方向は違うが、お互いに不満の言葉をつらねてゆく。
―――もっとも、小柄な少女の方は携帯の画面に文字を打ち出しつづけていたので、背の高い少
女の方が一人で喋っているように見えるが。
「どこをどう見たらそんな年に見えるかな!? ねえ芽留ちゃん?」
芽留は勢いよく訪ねられて、背の高い方の少女―――奈美を横目で見上げる。
藍色のタートルにクリーム色のジャケット。下はジャケットと同色のショートパンツと足には黒
のストッキング。首に掛けたロングのパールネックレス。
『どこをどう見ても 授業参観スタイルだ ブス』
そう打った画面を見せて芽留はニヤリと笑ってみせる。
奈美は口を半開きにして、虚ろな表情で少しよろめいた。
「・・・ちょっと大人っぽくしたつもりだったのに。」
『フケて見えてんなら 成功じゃねーか』
「成功って言うのかな!? それ!?」
怒りが何処かに飛んでしまったのか肩を落として歩く奈美の隣。
奈美を消沈させて機嫌が直ったようで、嬉しそうに携帯をいじりながら歩く芽留は、赤いAライ
ンのコートをすっぽりとはおり、首元にはゆるめたマフラーが巻き下げられている。
コートの裾は足首に届く所まで来ており、袖は辛うじて手の甲から先が出ているだけだった。
やがて二人は駅ビルを繋ぐ連絡路にさしかかりガラス張りの天井を見上げた芽留が足を止めた。
『雨 止んだな』
つられて足を止めた奈美もガラス越しに見える空を仰ぐ。
「ホントだ。・・・あー、ゆうべ降っていた雪が、朝は雨になっていたのはショックだったよね
ー。」
少し眩しそうに、遠い太陽の姿を見ながら奈美は答えた。
『・・・コドモ』
「何で! ・・・・・・でも、雨上がりの空って気持ちいいよね。何かこう、いい事が起こりそ
うな気がしない?」
芽留は肩をすくめ、奈美の顔をチラリと見た。
『まあ 雨よりはマシ だな ・・・普通は』
「普通って言うな!」
―――いつもの私の叫びに彼女は肩をすくめてみせる。
雲の隙間から光の柱となって街の遠くへと落ちる日差しと、重なるようにしておぼろげな姿を現
わす虹の切れ端。灰色の雲が少しずつ散り、明るく照らし出されてゆく街の姿。
私は、楽しい何かが起こりそうな予感を抱きながら、彼女と二人佇み、しばらく眺めていました―――
「芽留ちゃんどうする? このあと。」
エレベーターホールに入った所で足を止め、奈美は傍らの芽留を見て尋ねる。
『もう用事はねーからな 帰ろーぜ』
奈美の脇から手を伸ばし下りのスイッチに触れる。
ポン と軽い電子音が響いた。
「だねー。じゃ、さ。帰りがけに学校寄って行かない? 私、来週から交くん当番だしさ。・・・あと、
先生の様子も見ておかないと。」
芽留は小さく肩をすくめて首を縦に振った。
『生徒に これだけ心配かける先公も大概だな』
「まあ、それが先生だしね。」
奈美はクスリと笑って見せる。
再び電子音が鳴り、到着したエレベーターのドアが開いた。
「・・・え。」
「ああっ!? 普通に偶然ですか、これは!?」
「いきなりイヤミかあ!!」
エレベーターの中には男性が二人。
その袴姿の相手に向かって奈美は怒鳴り返す。
『もう脊椎反射で出るんだな 普通に』
「芽留ちゃんまで!?」
ショックを受けた表情で肩を落とす奈美に、先生は しれっ とした顔でそっぽを向いてしまった。
ふと、もう一人の男性がクスクスと声を抑えて笑っている事に気がつく。
「あれ!? お兄さんじゃないですか。」
「や。ひさしぶり。」
奈美の声に眼鏡の位置を直しながら、命は笑いかける。
『よお 死ねる医者』
携帯の画面を見せた芽留に苦笑を浮かべて、命はその携帯を軽く押し戻した。
「もうネットでは流さないでくれるかい? 困った患者さんばかりが押しかけて来て大変だったから。」
そのやりとりに奈美はひきつった笑いを浮かべた。
「あー・・・えっと! 先生達も買い物?」
話題を変えるように、そっぽを向いたままの先生に話しかける。
「いえまあ、買い物ではなくてですね・・・・・・」
「今日、上で医療機器の展示みたいな事をやっていてね。ああ、延命治療のね。―――望が連れ
て行ってくれと言うもので・・・・・」
言いよどんだ先生の代わりに命が答え、先生は再び顔をそむけてしまう。
命の言葉を聞いて奈美の顔が少し意地悪そうな笑みを浮かべてほころんだ。片手を口元に当てて
横目で先生の顔を眺めながら、わざと鼻を鳴らすような笑い声を上げた。
「なぁーんだぁ。先生、死ぬ気ないんだー。せっかくいつも、私達が様子を見に行ってあげてい
るのに、損しちゃったなー。」
てっきり反論してくるかと思いきや、先生は目をそらしたままでボソリとつぶやいた。
「また、恩着せ様が始まりましたか・・・」
「何か言いましたよね!? 聞こえよがしに!」
奈美は口に当てていた手を外し、眉間に皺を寄せて先生の顔を覗きこむ。
先生は奈美の視線を避けるように首を振って目をそらす。
「・・・おーい。エレベーター閉めるよ。」
「あ! ごめんなさい!」
命に声をかけられ、奈美は慌ててドアから離れて中に入る。すでに壁にもたれて待っていた芽留
が小さく溜め息をついた。
『みっともねー女だな コドモか』
「うう・・・」
奈美は気まずそうにうつむいてしまう。
エレベーターのドアが閉まり、下の階に向けて動き出した。今は自分達しか乗っていないが、ホ
ールにいた他の客達には丸聞こえだっただろう。
「普通に変な人ですね。」
「だから普通って言うなあ!」
先生は涼しげな顔をしたまま奈美に背を向けている。奈美はぶすっと口を尖らせた表情でその背
中を見ていた。
エレベーターのくぐもった作動音の中、四人は揃って無言で階数表示を眺めている。命は背を奥
の壁に預けて、困ったような顔で微笑みながら目の前で前後に並んだ二人をしばらく見ていた。
「・・・ああ、そうだ望。私はちょっと行く所があるから。生徒さんを送って電車で帰ってくれ
るかな?」
「はあ? まあ、方向は一緒ですし構いませんが。」
命の言葉に、首だけを捻って先生は返事をした。
『しょーがねーな 送ってやるぜ 坊っちゃん』
「いや、それ逆でしょう!?」
奈美はクスリと笑うと命の方へと向き直る。
「お兄さん忙しいんですね・・・ ちょっと、みんなでお茶でも、って思ったけど。ほら、丁度そんな時間だし。」
「・・・誰にたかるつもりだったんですか?」
『そら 決まってるだろが』
奈美と芽留は揃って先生の方へと顔を向ける。
それを見て命は苦笑を浮かべて頬を掻いてみせた。
「・・・まあ、たまにはいいかもね。」
「あ、じゃあ行こうよ! スウィーツ!」
「兄さん・・・言っている事が違いませんか?」
振り向いた先生に命は軽く肩をすくめて見せる。
ポン
電子音が鳴り響きエレベーターのドアが開いた。
乗り待ちのお客は居ない。先生はホールへと足を踏み出し芽留もそれに続いた。
奈美は―――足を踏み出そうとした所を左肩に命の手が置かれた事に気がつき、思わず動きを止
めてしまった。
「・・・・・・え?」
戸惑っている奈美の右手に背中から命の右手が添えられた。命はその手を持ち上げ、エレベータ
ーの「閉」ボタンの前まで誘導するように動かした。
「・・・お兄さん?」
奈美の呼びかけに返事は無く、代わりに頭の上あたりからやや低めのトーンで命の声が囁かれる。
「追いかけてきて―――欲しい? ・・・欲しくない?」
柔らかく耳に届いた命の声が、瞬時にして両耳から全身へと流れるように広がりゆき、奈美の動
きを凍りつかせた。
急速に狭まった視界の中、少しずつ離れてゆく先生の背中と、やや遅れて続く芽留の姿が映っている。
二人とも背後の様子には何も気がついていないまま徐々に距離が広がって行く。
―――トクン
自分の心臓が大きく波打つのが聞こえたようだった。
「・・・・・・先生。」
奈美の口からぽつりとその言葉がこぼれた。
聞こえるような大きさの声ではないだろうが、何かを感じたのか、それとも二人が後ろに居ない
事に気がついたのか、先生は軽く振り返る。
奈美と先生の視線が絡んだ。不思議そうな表情が浮かび、その口がわずかに開いて何事か声を発
した様子がわかる。
何と言ったのかは奈美には聞こえなかった。
気がつくと、奈美は右手の人差し指を立て、その指は「閉」ボタンの上に触れていた。
響く電子音。そして扉は固く閉じられる。
「・・・あ・・・あれ!? えっええ!?」
すかさず命に押されたB2のボタンが点灯し、エレベーターは降下を始めた。
奈美は呆然と行き先のランプと、閉まった扉を交互に見つめる。その肩を命の手が軽く叩いた。
「じゃ、行こうか。」
「・・・・・・い・・・行くって?」
振り返って尋ねる奈美に、命は澄ました顔で小首をかしげてみせる。
「ん? ―――お茶だよ。」
□ □ □ □
(―――先生)
ふと呼ばれたような気がして振り向いた。
後ろを歩いているはずの奈美と命の姿は無く、思わず先生は足を止めて二人を視界の中から探そ
うとする。
すぐに探している相手は見つかった。
エレベーターの中。なぜか降りずに残っている二人の姿。こちらを見つめる奈美の視線を正面か
ら受け止める姿になった。
「兄さん・・・何を・・・?」
視線の先、奈美の顔とその後ろに並ぶ命の姿。命はこちらに笑いかけ、軽く数回手の平を振って
見せる。気のせいでなければ、命に導かれるようにドアを閉めた奈美は訴えかけるような目で見
ているようだった。
階数を表示するランプが、階を下って行く。
『なんだ あいつらはどこいった?』
目の前に差し出されたディスプレイの文字に、先生はようやく我にかえる。
「あ―――、ええと、まあ。私にもよく分かっていないので、説明するとなると・・・・・・」
『分かるように言え ハゲ』
「・・・まあ、連れ去られたように見えましたねぇ・・・。兄さんに。」
芽留の携帯を打つ手が一瞬止まる。
『誰がだ!?』
先生は悩むように腕を組み、首を捻ってみせた。
「・・・日塔さんが・・・ですかね・・・?」
その言葉に硬直する芽留。―――先生は難しい顔をして唸っている。
無言になった二人をよそに、階数の表示はB2で止まった。
□ □ □ □
「さて―――少し走ろうか。」
「あー、ちょっとまっ・・・!?」
何か言いたげな奈美の手をひいて、命は小走りで自分の車まで誘導する。
走りながら取り出した鍵でロックを外し、助手席のドアを開けた。
「はい、どうぞ乗って。・・・頭、打たないようにね。」
「えーと・・・その・・・・・・」
背中を ぽん と押され、奈美は戸惑いながらも助手席に乗り込んだ。
そのまま運転席へと回り込む命を何となく見ていると、
ガツッ
「あ痛ッ!?」
座りなおそうとして、バックミラーの角に頭をぶつけてしまう。
「奈美さん? 大丈夫かい?」
「あ、うん。ちょっとぶつけただけだし・・・」
ぶつけた場所を手のひらで ぽんぽん と軽く叩いてみせる奈美を見て、命は口元に笑みを浮か
べた。
エンジンがかけられ、二人の乗った車は停車位置を離れて通路に滑り出す。
シートの横から後部座席の方を覗き込むと、ちょうど正面に位置するエレベーターが離れてゆく
様子が見えた。そして、奈美の目はボックスが降下してくる事を教える表示ランプを捉える。
表示はこの階で止まりドアが開く。
開いたドアをくぐって降りてくる先生と芽留の姿が見えた。
「ね! お兄さん?! 先生たち来たよー!?」
離れて行く二人の姿を捉えて離さないまま、奈美は運転席に声をかける。
命はチラリと奈美に視線を送り、
「―――あっと、忘れる所だったね。」
その言葉に、奈美はホッとしたように笑みを浮かべて振り返った。
「あーもうー びっくりしたじゃないで――――」
「シートベルトしなきゃ。・・・ね? 奈美さん。」
命にベルト口を示され、奈美は慌ててベルトを引っ張り出し―――
「違うー! まってまって・・・・・・」
「ちょっと高速使うからねー。ベルトは? つけたかい?」
「ええ? どこまで・・・ って、あの、ちょっとぉ!?」
混乱し、後部と運転席とに忙しく視線を変えながら、奈美はもたもたとシートベルトをつけている。
命は口元に微笑をうかべるとハンドルを切る。
―――地上へ続くスローブを上がりきった車は車道へと入って行った。
□ □ □ □
「あっと・・・! いけない。圏外ですねここ。」
先生は自分の携帯を取り出し、命のアドレスを開いた所で渋い顔をしてみせた。
『どっちみち運転中だろ?』
「ああ・・・たしかに・・・」
先生は大きく溜め息をつき、再びエレベーターに乗り込む。
芽留もそれに続いた。取り敢えずドアを閉め1Fのボタンを押す。・・・低い作動音が響き、エ
レベーターが動き出した。
先生の目の前に、そっと携帯のモニターが差し出される。
『ひょっとして 放っといても いいんじゃねーか?』
先生の表情が曇る。
「・・・そう言うわけにはいきませんよ。」
『オマエのアニキ そんなにアブナイ奴なのか?』
芽留の問いに先生は苦笑を浮かべて首を横に振った。
「いえ、そんな事はありませんが・・・ しかし、前から日塔さんに興味がありそうな感じでし
たから・・・ちょっと。」
芽留の瞳が少し不機嫌そうに細められた。先生には顔が見えないように足元に視線を落としたま
ま携帯を打つ。
『それが 何かマズイのかよ』
「いえ・・・・・・日塔さんはまだ未成年ですし・・・」
苦い顔をして首を振って見せる先生に、芽留はうつむいたまま大きく息を吸い込んだ。
『立場ばかり 気にしてんじゃねーよ タコ!』
『アニキを信用してねーのか? ついでに普通も?』
『どうせ 取り越し苦労で 終わるんだろーよ!』
ポン と電子音が響き、ドアが開いた。
芽留の勢いに少々呆気にとられた様子の先生と二人並んでホールへと進む。
『・・・まあ 心配なんだろーから あいつにメールしとくぜ』
小首をかしげて自分を見上げた芽留に、先生は半ば諦めたように短く笑ってみせた。
「では・・・お願いしますからね。音無さん。」
その言葉に芽留の肩からフッと力が抜け、照れ隠しのように顔をそむけてしまった。
先生に背を向けたまま何事か考えているようだったが、やがて携帯のボタンを打ち始める。
メールの着信音がして、先生は自分の携帯を開いて見た。
『じゃ ちょっと ヅラ貸せよ』
「・・・! 私はヅラではありませんから!!」
思わず肩を怒らせて叫ぶ先生。周囲を行き交う人達が何事かと注目する中、芽留は他人の振りを
装いながらメールを打ち続けニヤリと笑う。
『間違えた ツラ 貸せよ』
先生がメールを読んでいるうちに、芽留はてくてくと玄関口の方へと歩いていってしまう。
「・・・まあ、ワザとなのは分かり切っていますけどねぇ。」
先生は周囲の視線に気まずそうに咳払いを一つ落とすと、ちょっと大げさな動作で髪を一度掻き
あげてから芽留の後を足早に追って行った。
□ □ □ □
眼下に見える桟橋の先には釣り人が一人糸を垂れている。
紅く染まった遠くの空を渡ってゆくのはウミネコだろう。猫の声にも似たその泣き声は緩やかな
風に乗って奈美の耳まで運ばれてくる。
水平線に触れかけた太陽の光は優しく波間を照らし、見渡す海は一面が金色に染まりゆっくりと
揺らいでいるようだった。
「寒くないかな?」
レストハウスの方からかけられた声に振り向き、奈美は笑顔で頷いてみせる。
「うん! 意外と寒くないです。かえって気持ちいいくらい。」
「今日は風もあまり無いからね。・・・はい。」
命は湯気を立てているサーモマグを奈美に手渡し、テラスの手すりにもたれている奈美の隣に並
んだ。
自分が手にしているマグに軽く息を吹きかけると、沸きあがった白い空気が風下へと流れ、奈美
の目の前をかすめる。
「いただきまーす。あー、ココアの匂い・・・美味しそう。」
「熱いから気をつけて。」
奈美は命のように一息吹きかけて、甘い香りの漂うマグを口に運んだ。
一口含み、美味しそうに顔を綻ばせると、――ほうっ、と白い息を吐き出した。
微かに聞こえるウミネコの声に耳を傾けながら、二人はしばらく言葉を交わす事もなく熱い飲み
物を楽しんでいるようだった。
「あの・・・ お兄さん?」
「ん?」
「なんで連れ出したんですか? その・・・ちょっとひとさらい・・・ってゆうか・・・・・・
拉致? みたいに。」
命は口元にマグを運んだまま、少し目を細めて笑ったようだった。
「たまには・・・ こんなのも良いかな、と思ってね。」
「・・・まあ、先生達もあまり心配していないみたいですし・・・・・・いいですけど・・・」
奈美は携帯を取り出し、先ほど芽留から届いたメールを呼び出した。
『じゃあ オレは ハゲに二人分たかる』
少し苦笑を浮かべて、携帯をしまう。
「・・・それで、奈美さん。」
「はい?」
「その後 ―――どう? 望とは進展したかな?」
ぶはっ と盛大に奈美はむせ返る。
「なんですかぁいきなり!? ・・・ええ!? でも、ど、ど、ど・・・・・・」
命は語尾をどもり続ける奈美に少し首をかしげて考えたようだった。
「ああ・・・ 『どうして知ってるの』って事?」
「あ・・・う・・・!」
口を開けたまま言葉が出ずに顔を真っ赤にしている奈美に命は微笑んでみせる。
「ああゴメン。・・・以前話した時に、そうじゃないかな? って思っただけ。」
「カマかけですかぁ!?」
「うん、まあ。」
ちょっと人の悪そうな笑みを浮かべた命に、奈美は手すりに突っ伏して両腕で顔を覆い隠す。
「・・・お兄さん、意地悪い。」
奈美は腕の中に顔をうずめたまま、くぐもった声でぼそりとつぶやいた。
命は何も答えずに、微笑んだままカップの中身を一口含んだ。
「あの・・・・・・どうせ恥掻きついでに聞いていいかなぁ・・・?」
「ん?」
奈美は少し頭を上げ、腕の上に顔を半分見せた。
「先生って・・・ その、いわゆる、彼女・・・とか、居るのかな?」
顔は命に向けたまま、しかし視線は合わせずに奈美は問い掛けた。
命はその言葉に少し眉を上げて驚いたような表情をみせる。一瞬考えて口を開き、
「―――いるよ。・・・・・・って言ったら、どうする? 諦めてしまうのかい?」
奈美の目が驚きで見開かれ、顔を上げて呆然とした表情で命を見つめ・・・一拍置いて顔を伏せ
てしまい、力無く手すりの上に顎を乗せて水平線を見つめている。
「・・・わからない。そんなの。」
やや投げやりな声で奈美はポツリとつぶやいた。
「そうだね・・・わからないよね・・・」
ココアを口に運び、コクリと一口飲み干す。
奈美の口から、白い溜め息が漏れた。
「さっきのエレベーター・・・ お兄さんも意地悪だったけど、私も悪い事考えていましたよ。」
苦笑交じりの奈美の表情に、命は一つ肩をすくめてみせる。
「追いかけてきて欲しいなぁ―――って・・・・・・ 血相変えてさ・・・」
その自分の言葉を自嘲するような笑みを浮かべ、奈美は片手で頬杖をつく。
「・・・普通にいやらしい奴ですよね私・・・・・・ あ! 自分で普通って言ってるし!?」
口を丸く開けたまま眉間に皺を寄せる奈美に、今度は命が苦笑を浮かべる。
「やっぱり、『普通』って言われると嫌なんだ?」
奈美は少し考えているようだった。
「・・・うん。面白くはないかも。・・・特に先生に言われると。」
「望にかい? ・・・じゃ、もし、望だけが君に言わなくなったら―――どうかな?」
「先生だけが?」
その問いに奈美はきょとんとした表情を浮かべた。
しばし無言で空を仰ぐ。
「それならまあ・・・・・・ 我慢できないほどじゃないかも。・・・言われたい訳じゃないけど。」
「そうなんだ。なぜ、望だけだろう?」
「―――それこそ教えて欲しいくらいですが。」
口を尖らせる奈美に、命は笑って自分のマグを傾けた。
「そうだね・・・・・・ 他の友達には言わないんだよね? じゃ、君にだけ言うのかな?」
奈美はクラスメイトの顔を思い出し、一つ呻いた。
無意識にサーモマグを揺らして回転する中身を見つめながらボソリと言葉を吐き出す。
「―――私が、平凡だからだな・・・ 特徴が無いっていうか・・・ でも、それは皆が個性的
すぎるからだし!」
空いている手で少し風で乱れた髪を押さえる。カップの揺れがだんだん大きくなってきた。
「そりゃ、私は、千里ちゃんや霧ちゃんみたいに美人じゃないし、芽留ちゃんみたいに可愛くな
いし! あびるちゃんやカエレちゃんみたいにスタイル良くないし、まといちゃんみたいな色気
も足りないし!」
奈美は一度そこで言葉を切って、手の動きを止めた。
「・・・可符香ちゃんみたいに女の子らしい・・・ 愛らしさもないから、さ。だから・・・!」
奈美は両手でカップを抱えて回るココアの動きを止めた。
湯気の隙間、褐色の水面に自分の顔がぼやけて映りこんでいた。
「・・・うん。」
軽く相槌を打った命に促されるように、奈美は深く溜め息をついて言葉を続ける。
「そうか・・・ 私、特別扱いされたいんだな。先生にだけ、特別・・・・・・」
褐色の面に映る自分の顔が揺れたように見え、奈美は残りの液体を一気に口に含んだ。
まだ熱いココアが喉を通り過ぎ胸の内側が焼けるように熱を帯びる。
奈美は顔をしかめると、空になったカップを両手で抱えて手すりに置いた。
「自分を特別に見て欲しいんだな、私は。・・・・・・なんだ、全然成長してないって事かぁ・・
・・・・・」
肩を落とす奈美を、命は静かに一つ頷き、黙って見ている。
「そういや、『私を見て!』って言わんばかりの事、何度もやっちゃっていた・・・ 先生に
は、恩着せだのホワイトライだの言われてスルーされてたけど。」
「らしいね。」
苦笑いを浮かべ肩を落とした奈美に笑いかけ、命は体の向きを変え、水平線の方を向いた。
日はもう半分ほど沈み、やや空気も冷えてきている感じだった。
「あいつはね・・・・・・ いつか君の言っていたように、臆病なんだよ。昔から。」
小さく笑ってカップを口に運ぶ。
「まあよく言えば、気が優しいんだろうけどね。だから正面からくる言葉は避けてしまうんだ。
小理屈を言い出したり憎まれ口を言ったり・・・・・・ それでかえって相手を怒らせる事もあ
るけど。」
奈美はクスリと笑う。
「・・・でもそれで、相手も自分も、逃げ場が無くなるような状況を作らないようにね。してい
るんだろう。大事な相手なら余計にね。」
「大事な相手・・・自分の生徒ですもんね・・・」
奈美はそう言って、ふう、と大きく息を吐き出した。
「・・・それって後ろ向きだなぁ。」
「あいつなりの表現なんだろう。君が可愛いんだろうさ。」
さらりとした命の言葉に、奈美は思わずカップを落としそうになる。
「・・・・・・お兄さんまで私をからかう!?」
「いや、本当に。」
命は笑って、奈美の手から空になったマグを取る。
少し小首をかしげてみせ、
「まあ、私がそう思っただけ、だけどね。本心はあいつにしか分からない事だから。」
命は奈美の目線にマグを持ち上げた。
「・・・おかわり、どう? ・・・三種のベリーパイも一緒に。」
「・・・ください。」
真面目な表情で言葉を交わし、二人は揃って小さく笑った。
□ □ □ □
『オマエの一歩は オレの二歩なんだ』
『だから オレが早足になるか オマエがゆっくり歩くか どちらかなんだ』
『大抵オマエが オレに合わせるだろ』
『だから 他の奴らの倍は 長く 一緒に歩けるんだぞ』
「さっきからずっと何を打ってみえるのですか?」
ちょっと興味をひかれた様子で尋ねてくる先生に、芽留はもともと見えないように打っていた携
帯を隠すような仕草をみせる。
素早く文章を打ちなおし、画面を向けた。
『プライベートを 覗き見 するんじゃねーよ ハゲ』
「ああ、すみません・・・ とは言っても覗いてはいませんが?」
先生は少し納得がいかない顔を浮かべたが、すぐに元の表情に戻り、無言で歩みを進めてゆく。
遠くから遮断機の警鐘が聞こえ始め、線路が震える音が近づいてくる。
やがて土手の上を列車が通って行く。
その窓ガラスから外へと落とされた明かりは、フェンスを通して二人の足元を照らし、互いの顔
に網目模様の影を映し出し通りすぎていった。
再び、街灯の明かりだけが二人の歩く道に落ちている。
「・・・しかし、地下街を歩き回ってクレープを食べただけでしたが・・・何も買わなくて良か
ったのですか?」
『別に 買い物 したかったワケじゃねーよ』
「はあ・・・とすると、何をしに・・・?」
『・・・・・・買い物だ』
『さっきから 細かい事ばかり ウゼーぞ!』
困惑して眉を寄せる先生に芽留は少し苛ついたように強く携帯のボタンを押す。
先生は一つ肩をすくめると、少し冷えてきたのか羽織っている外套の襟元の隙間を直した。
しばしお互いに口を開かず、ゆっくりと歩みを進めていた。
芽留は携帯の画面を眺め、チラチラと先生の顔を見上げながら躊躇していたが、やがて意を決し
たように先生の前に携帯を差し出す。
『おい ハゲ 正直に答えねーとコロス』
「・・・えっ? わ、私が何かしましたかっ?」
動揺した様子で足を止めた先生の正面に立ち、芽留はさらに携帯を突きつける。
『いるんだろ? ・・・想ってる相手は』
先生は苦い表情を浮かべて頭を掻いた。
「・・・聞いてどうするんです?」
『だったら何で 普通に ちゃんとしてやらねーんだよ? 』
しばし瞑目し先生は口を開いた。
「・・・・・・いつかはきちんと断らなくては、とは思いますよ。・・・でもね・・・言えない
んですよねえ ―――あっ? 鼻で笑いますか?」
苦笑を浮かべて小首をかしげている芽留に、先生は短く溜め息をついた。
「そりゃあ、私だって日塔さんは好きですよ?」
芽留の表情が、苦笑のまま凍り付く。
「・・・でも、それは、愛とか恋とは違うものでしょう。」
『その言葉は 結構 傷つくぞ』
顔をそらして芽留は再び歩き出し、先生もその横に並ぶ。
『じゃ 嫌われようとか思ってんのか? いつもヒドイ事してるだろ』
「・・・まあ、半分くらいは、そうです。」
『あとの半分は何だよ?』
先生は何も答えない。しかし、考え込んでいる様子は無く、ただ黙って歩き続けていた。
その視線はどこも見ていないように感じられる。
芽留はわざと大きな溜め息をついてみせた。
『かえって期待させちまうだろーが! 普通に図々しい女に!』
先生は、夜空を仰ぎ大きく息を吸い込んだ。
吐き出した息は白い塊でその姿を見せ、あっという間に冷えた空気の中へと霧散してゆく。
「気持ちを―――受け止めきれる自信が無いのですよ。・・・私は。」
芽留は先生の顔を見上げた。
夜空を眺めるその顔にほんの一瞬、とても苦しそうな表情が浮かんだように見えた。
『じゃあ もし 本気で攻められたら どうするんだよ?』
「・・・逃げてしまうでしょうね。私は。」
『逃げ道なんか なかったら!?』
「・・・・・・・・・・・・」
『逃げ道なんて用意できるような 気の利いた女じゃねーぞ!』
先生は目を閉じて頭を振った。
「―――わかりません。」
芽留はつい興奮している自分に気がつき、慌てて目をそらした。
そのまま誤魔化すように少し歩みを速めて、先生の数歩先を歩く。
沈黙が訪れた。
通り過ぎる電車の立てる音がやけに重く大きく響く。
「・・・私なんかの何処がいいのでしょうかね。」
ぽつりと呟いた先生の言葉に、芽留の足が一瞬止まる。
腕だけ差し出して、画面を先生に見せた
『わかってたら 苦労はしねーよ バカか ハゲ! シネ!』
「そ、そうですか・・・」
先生は気まずそうに頬を掻いている。
芽留は前を向いたまま、少し歩みを緩めてその隣についた。
「―――音無さんは、友達思いですね・・・ ちょっと以外です―――と、失言でしたね! す
みません。」
冗談めかした先生の言葉だったが、芽留は胸の中が締め付けられるような痛みと、眩暈にも似た
感覚に襲われ思わず両手で胸を抱え込む。
じくじくと疼くような痛みを感じ、不規則になって行く自分の呼吸に苦しそうに顔をしかめうつむく。
「音無さん? どうしました?」
芽留の様子に気がついた先生に、画面も見ずに打った文字をつき付けた。
『なんでもねーよ』
「・・・苦しそうに見えましたが・・・ 大丈夫ですか?」
芽留は答えない。何事も無かったように前を向いて足を進める。
怪訝そうな顔のままだったが、先生も並んで続く。
芽留は横目でチラリと隣の様子を伺う。
目線の位置にあるのは先生の腰あたり。視界に入るのは歩みと共に揺れる外套に包まれた腕。
手を伸ばせばすぐ届く場所。
芽留は視線は前に向けたままそっと腕を伸ばす。
柔らかい手の平に触れた。長く揃った指を芽留の小さな手がそっと握り締める。
冷えた芽留の手に先生の温もりが広がる。
「―――! 音無・・・さん!?」
動揺の声を上げた先生に構わず、その手を掴んだまま外套のポケットへ納める。
柔らかな生地に包まれた中でさらに強く握り締めた。
『このポケット オレのだろ?』
「あ・・・・その・・・・」
持ち替えた左手で見せる携帯の画面に、先生は言葉に詰まる。
芽留は素早く携帯を戻し何やら操作すると、空いている先生の片手にグイと押しつける。
手渡されたその携帯に目をやった。
フォントを最大にした時刻表示。そして、壁紙は文字が一行だけ。
『 五分だけ くれ 』
芽留は外に出ている左手で先生の腕を包むように抱え込み、そっと顔を寄せた。
赤らめた頬を隠す様に押し付け、目を閉じ、自分の体温を分け与えるように体を寄せる。
人通りの無い線路沿いの小道。寄りそう二人の姿は別れを惜しむ恋人のように見えた。
□ □ □ □
「いいのかい、ここで?」
「うん! 交くん迎えに行くし、そんな遅い時間でもないし、大丈夫ですって!」
車を降り運転席の窓側にまわって、奈美は命に頭を下げていた。
「ちょっとびっくりだったけど、今日は・・・ありがとう。お兄さん。」
「・・・そろそろ『お兄さん』は、ちょっと変えないかな?」
奈美は悪戯を思い付いた子供のような笑みを浮かべ、
「じゃあ・・・絶命先生!」
「くっつけて言うな!」
思わず叫んでしまった命に、奈美は吹き出した。
「ごめんなさい! ・・・やー、唯一のからかいポイントだからつい。」
「まあ、慣れているけどね。」
「ほんとー?」
命は困った表情で少し肩をすくめてみせるが、ちょっと表情を改めて口を開く。
「・・・君は、まあ思いつめるタイプじゃ無いと思うけど・・・・・・ 一人で考え込んだりし
ないようにね。潰れていってしまうから。」
「潰れる・・・って?」
「・・・大事な気持ちが――― ね?」
奈美は少しはにかむような笑みを見せてうなずいた。
「・・・うん。大丈夫ですよ。・・・なんたって、家に篭る事が出来なくて不登校に失敗してる
実績が私には・・・・・・ あ、ちょっと関係ないか?」
命は顔をそむけ、少し吹き出すように笑ってしまう。
奈美もつられて微笑んだ。
「じゃ、命先生! ありがと! またねー!」
命は軽く手を振ってみせ、車を発進させる。
奈美はそのテールランプの光が完全に見えなくなるまで、その場に佇み見送っていた。
□ □ □ □
「奈美ねーちゃん!」
校門をくぐろうとしたところで呼び止められ、奈美は立ち止まる。
足音を立てて交が駆け寄ってきていた。
遠くから走ってきたのか、肩で息をしながら奈美の前に屈みこむ。
「交くん? どこかに出かけていたの?」
「・・・ちょっと、おじさんを、迎えに行こうと、しただけ・・・」
「あー 先生まだ帰ってないんだ?」
奈美の言葉に交は首を振ってみせる。
「見つけたんだけど・・・・・・いいよ! ほっといて。 今日、奈美ねーちゃん家だろ?」
「は? え、置いて来たの?」
「いいってば! 行こうぜ!」
交は奈美のジャケットの端を握り、強引に引っ張って歩き出す。
「ちょ、ちょっと交くん?」
つんのめりながらも、何とか転ばずに、奈美は小走りで進む交に引きずられるように校門を後にした。
「・・・何よー? いつもは渋々みたいな顔でついて来てるのに。」
「うるせーな、いいだろ別に。」
やや不機嫌な声で、交は返事を返す。
奈美に手をひかれながら、いまは落ち付いていつも通りの速さで歩いていた。
「・・・奈美ねーちゃんは、悩みとかなさそうだよな。」
「なんだぁ! いきなり何を言うかな?!」
眉間に皺を寄せて怒る奈美に、交は、ぷいと横を向いてしまった。
「だっていつも明るいじゃねーか。悩みなんてなさそうに。」
「あのねぇ、私にだって人並みの悩みくらい・・・・・・!」
奈美の声がそこで凍り付いたように途切れた。
寒いはずの時期なのに頬に汗が一筋流れたように見える。
「そっか。普通にあるんだな。」
「普通て言うなあ! ・・・って、交くんにまで言われるか私!?」
思わずしゃがみこんでしまった奈美の肩を、交がポンと叩く。
「早く行こうぜ。今日、カレー作ってくれるって言ってたよな?」
「・・・はいはい。・・・ほんとにもう。何か先生に似てきたなー・・・」
奈美は諦めたような笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「カレー、辛口にしてよ。」
「へ? 交くん甘口がいいんじゃ・・・」
「辛口がいい。」
「まあ・・・いいけど。辛いよ?」
「知ってるよ。」
二人の会話は、そのままカレー談義へと移って行き、寒風が強くなってきた道を並んで歩いて行った。
□ □ □ □
芽留はひったくるようにして取った携帯を見つめていた。
困惑している先生を残し何も言わずに走り去り、先生の姿が見えない所まで来てようやく一息い
れた所だった。
芽留は自分の胸に手を当ててみる。
まだ激しく打ち付ける鼓動が伝わってくる。それが、全力疾走した理由だけでは無い事を自身で
感じ芽留は苦笑を浮かべる。
『まんざら 悪いものじゃねーな』
すこし心地よさげな顔で、その文字を打った。
そのまま携帯をいじりアドレス帳を呼び出す。
奈美のアドレスを出した。名前欄に[普通女]と書いてある。
少し震える指でボタンを押し、芽留は名前欄を書き替えた。
[日塔]と入力し、決定キーを押そうとして一瞬指がぶれる。
「・・・ぅ・・・・・・!」
意を決したように一つ呻き、キーを押しこんだ。
短く溜め息をつき、芽留は空を見上げた。
一面黒い雲に覆われ、月明かりさえ落ちる隙間もないような夜空は、今にも泣き出しそうにどん
よりとした姿を漂わせている。
『泣きたいのはこっちだぜ』
夜空に毒づくように画面に文字を入れた。
雪でも降りそうな寒い夜。
それでも、空は落ちてくる事もなく、ただ暗く重い幕となり広がり続けているように見えた。