――沈んだ意識が、ふっと浮上する。
気が付けば目前に、見慣れた担任教師の顔があった。
(……は?)
唖然として、困惑の声を出そうとする。だが、唇が何かに塞がれていてそれはかなわない。
覚醒したばかりのぼんやりとした思考は、唇を塞ぐモノが何なのか理解するのに、たっぷり1分ほどの時間を要した。
「………」
目の前の男と、キスをしている。それに気が付いた瞬間、
「―――っぎいぃやああぁああぁあぁぁぁあッ!!?」
とてもうら若き乙女とは思えぬ豪快な悲鳴を上げて、カエレは思い切り望の身体を突き飛ばしていた。
「きゃあッ!」
望は甲高い悲鳴を上げながら、なす術もなくその場に尻餅をつく。
「うううううう訴えてやる!何がなんだかわからないけど訴えてやるぅううぅぅぅッ!!」
錯乱して髪を振り乱し、絶叫するカエレ。
「……って、きゃあ?」
だが、突き飛ばした望の口から漏れた、彼に似つかわしくない悲鳴に違和感を感じて、一先ず頭を振り回すのを止めた。
「痛たた……」
弱々しい声を上げながら、ぶつけた尻を擦りつつ起き上がる望。
「あぁ良かった…成功したみたいです」
立ち上がると、望は自分の身体を物珍しげに見下ろした。まるで新しい服を見せびらかす少女のように、その場でクルリと一回転してみせる。
「どうですか? 私、ちゃんと先生に見えてますか?」
そう問いかける声色は、紛れも無く聞きなれた担任教師のモノだ。
だが、不思議と妙に甲高いというか、少女のような初々しさを漂わせている。
男の声にはあまりにミスマッチな喋り方で、唐突に意味不明な事を問い質してくる。明らかに様子がおかしい。
カエレは唇を奪われたショックよりも、オカシイを通り越して不気味な望への恐怖が上回り、身震いした。
自分の身体を抱きながら、ズリズリと後ずさる。
「き、、気持ち悪いわよ、先生……。
っていうか、ココはどこ!? 何で私、こんな所に連れてこられてるのよ!」
周囲を見回し、自分が今居る場所が墓地と分かると、カエレはまた混乱がぶり返したようで声を荒げた。
「落ち着いて、落ち着いて下さい」
「落ち着けるわけないでしょう!? 気が付いたらいきなり、ふぁ、ふぁふぁファーストキッスを奪われてて、
挙句その場所が墓地!!? シャークだとしても笑えないわよ!!」
「……鮫がどうかしましたか?」
ジョークと言いたかったらしい。間違えるほうが難しそうだ。
「しかもキッスの相手はよりによって先生だし、何か妙に態度が気色悪くなってるし!」
「あ、あ…そ、そうですよね。私は今、男性ですものね。こんな風に振舞ったら駄目ですよね。
……でも、そんな……気色悪いだなんて……」
と、言われた傍からしなりと身体をくねらせて、よよよ…と泣き崩れる望。
「そーれーがー! 気持ち悪いってのよ!」
「あぁ、申し訳ありません…ッ」
ダン!と足を苛立たしげに踏み鳴らし、頭上から罵声を浴びせると、望は怯えたように身を竦める。
慌てたようにその場に正座し、畏まった態度で揃えた両手を膝の前に置き、頭を下げた。
――ふと、カエレはその仕草に懐かしさを覚える。
だがそれは、遠い昔に失くしたモノの筈だ。
こんな男に彼女の影を重ねるなんて、自分も等々焼きが回ったか。
「あの、お怒りは静まりましたか?」
突然押し黙ったカエレを、恐々と上目遣いで見上げる望。
その様子が本当に彼女ソックリで、余計にカエレの癇に障った。
「先生がその気持ち悪い態度を治さない限りは、静まるものも静まらないわよッ!」
「あの、私は、先生ではございません」
「―――はぁ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。何を言っているのだろう、この男は。
望は潤んだ瞳でカエレを見上げて、そっと両手を伸ばして来た。
普通ならば身を引いて、その手から逃れようとしただろう。
だが、何故だかその時、カエレにはその手を避ける事が出来なかった。
この手は避けてはならない。避ける必要はない。
だってその手は、いつだって自分の心を守ってくれた、彼女の―――
ふわり、と、彼の着物の袖が身体を包む感触。
背中に回された腕に、ほんの少しだけ力が込められた。
膝を立てて身体を伸ばし、ともすれば縋りつくように、カエレを抱きしめる望。
耳元に感じる暖かな呼吸が、くすぐったかった。
「…私です…、楓です。
――また、こうして貴女に触れられるなんて、思わなかった」
耳元で囁かれた言葉は、みっともないほどに震えている。
カエレは自然と、自分にしがみ付く望に合わせるように中腰になる。
望――楓は、カエレの首筋に顔を埋めて、彼女の温かな体温に酔いしれる。
首筋に濡れた感触を感じて、カエレは彼――彼女が泣いている事を知った。
「何、泣いて……」
何を泣いているのか。そう問おうとする自分の声が、彼女のそれよりも震えている事に気付く。
自分もまた泣いているのだと、その時になってようやく気が付いた。
自分でも何故泣いているのかわからない。頬を流れる涙の温かさに、呆然とするカエレ。
――しばらく二人は、泣きながら身を寄せ合っていた。
先に我に返ったのはカエレだった。ハッと目を見開いたかと思うと、その顔は見る見るうちに朱に染まる。
「ふ……、ふ、ふざけないでッ!」
叫びながら、温かな身体を引き剥がす。途端、秋の風をやけに冷たく感じた。
恐ろしいモノを見るような目を楓に向けて、じりじりと後ずさるカエレ。
そんな彼女の反応を、覚悟していたとはいえいざ目の当たりにすると、酷く心が軋む。
地に膝を付いたまま、楓は泣きそうな瞳でカエレを見つめていた。
「い、意味がわからない……、先生だって楓のことは知ってるはずでしょ!?」
「はい……先生は、私のことを全部知っています。知った上で、協力してくれると言ってくれました」
楓はようやく身体を起こし、自らの身体を抱いて震えているカエレに歩み寄る。
「全部…?」
呆然と呟きながら、カエレの瞳が泳ぐ。その視線は、木村と記された墓石に吸い寄せられた。
ようやくここが誰の墓なのか気付いたカエレは、驚愕と悲しみの入り混じった瞳で、木村の二文字を凝視している。
カエレはずっと、親友の墓参りに行けないでいた。
彼女の死を乗り越えるため、無理をして赴こうとした事もあった。
だが、その度に自分の中のもう一つの心が、優しく諭すのだ。
――悲しいのなら、無理をして行かなくてもいいのですよ。
だって私は、ずっと貴女の傍に居るのだから―――と。
もちろんカエレはその声に反発した。けれど、いざ行こうと踏み出した足は、どうしても二歩目を踏み出せない。
それが楓の意思なのか、自分が臆病な所為なのか、彼女にはわからなかった。
だが、今こうして自分は、数年ぶりに親友の墓を前にしている。
もちろんここまで来た記憶はない。という事は、人格が楓に切り替わっている時に、来させられたのだ。
「――ッ、なんで……なんで今になって連れて来たのよ、楓……」
「貴女と、仲直りがしたいからです」
「先生には聞いてないわ!」
弱々しい呟きに楓が答える。けれどカエレは、そんな彼女の言葉を跳ね除けるように叫び、ギリ…と奥歯を噛んだ。
苦しげなカエレの視線を真っ向から浴びながら、楓は、ただただ優しい口調で、そっと問いかける。
「カエレ……。今、貴女の中に、私は居ますか?」
――その言葉に、気付かないフリをしていた、心の空白を意識させられた。
「―――………」
暴れ狂う心臓を押さえるように、服の胸元を握り締めるカエレ。
その顔は、とても昔――楓の亡骸を前にした、あの時を思わせる。自分が直面している現実を、受け入れられないでいる時の顔だ。
「カエレ、寂しくなんてないですよ。
だって私は、今もこうして貴女の傍に居るじゃないですか」
楓の足が、一歩前に出る。砂利の擦れる音にハッと我に返ったカエレは、ぶんぶんと激しく首を左右に振った。
「嘘…ッ!」
「私、本物です。本当の、貴女の親友の楓なんです」
「来るなッ!」
ゆっくりとした足取りで、そっと両手を広げてカエレに歩み寄る。
彼女はそんな楓を言葉で拒絶しながらも、その場を動けないでいた。
逃げ出したいのか、それとも――親友との再会を喜んでいるのか。
それを認めたいのか、認めたくないのか。もう、カエレは自分の本心がまったくわからなくなっていた。
本当に心が二分しそうになる。頭が割れるように痛い。
いや、本当はわかっている。きっと、認めているのだ、認めていたのだ。とっくの昔に。
けれど周囲の人々は、そんな彼女を異常だと言った。
本当は……そんな人々の声など気にせずに、自分さえ彼女の存在を信じ続けていれば良かったのだ。
――だが彼女は、死して尚自分を想い続けた親友よりも、万人の声を優先した。
人々の、自分を異常者として見る目が怖かったのだ。
それからはずっと、自分を騙し続けていた。楓に自分の嫌なモノ全てを押し付け、それでも尚縋っていた。
そんな無様な自分を見て見ぬフリが出来たのは、楓がただの別人格、つまりは自分自信であるという、言い訳があったからだ。
だがこうして、楓が本物であるという証拠を突きつけられてしまったら、その言い訳は成り立たなくなってしまう。
今まで楓に向けた罵詈雑言は、自分自身へではなく―――紛れもなく、親友へ向けたもの、という事になってしまう。
その罪悪感と自己嫌悪に、カエレは耐えられる自信がなかった。
自らの思考に逃げ込んでいた意識だったが、間近に感じる他人の息遣いに、一気に現実に引き戻される。
気が付けば、呼吸が顔に触れるほど間近に、望の顔があった。
見慣れた担任教師の顔。だが、そこに浮かぶ儚げな表情は、紛れもなく彼女のものだった。
薄い唇が小さく開き、震える声で言葉を紡ぐ。
「信じて下さい……楓です、私。楓なんです。
私が泣いてる時は、ずっとうんざりした顔で、それでも一緒に居てくれた貴女が大好きな、楓です」
泣きそうなのを必死に我慢しているのがわかった。
懸命に堪えているが、見る見るうちに瞳に涙が浮かび、声はみっともなく裏返ってしまう。
「今でも、これからもずっと、貴女の事が……大好きな……」
僅かに広げた両手は、拒絶される事を恐れてか、静かに下ろされた。
咳き込むような短い息が、カエレの頬を撫でる。耐えかねたように俯いて、小さく肩を震わせはじめる楓。
ひとつ、ふたつ。温かい雫が、二人の足元に染みを描いた。
消え入りそうな、言葉にならない小さな声が、カエレの鼓膜の奥に響くように届く。
『信じて下さい』
―――もうこれ以上、言い逃れなど不可能だった。
「……か」
カエレの唇が、震えながらも、ゆっくりとその名前を紡ぐ。
「か、え……で」
掠れた声で、親友の名を呼んだ。
楓はその声に答える様に顔を上げた。頬にいくつも涙を伝わせながらも、その表情は瞬く間に希望に染まっていく。
「――は、はいッ。そうです、楓ですッ」
「……楓…、本当に……」
認めた。自分が虐げてきたモノは、あんなにも優しかった親友であると、認めた。
数年越しの再会への歓喜。罪悪感。自己嫌悪。様々な感情が渦巻く中で、カエレは咄嗟に彼女に抱きつこうと身を乗り出す。
けれどそれを、喜びより遥かに強い罪悪感が制止した。こんな自分が、また彼女を求めて良い筈がない。
彼女に触れようとした掌は、冷たい風だけを掴む。
ガクン、と、膝から力が抜ける。地面に倒れる彼女の後を追うように、長い金髪が靡く。
「カエレ…ッ」
固く冷たい砂利の上にカエレの身体が触れる直前、寸でのところで、楓の腕がそれを抱きとめていた。
そのまま、もつれ合うように座り込む二人。
再び温かな両腕に包まれながら、空を思わせる青い瞳に楓の姿を映し、カエレは泣いた。
声を上げる事なく、ただ自分を心配そうに見下ろす親友の顔を見つめながら、涙を流す。
「泣かないで、泣かないで下さい」
喜びの涙ならば良かった。だが、その涙が苦しみから流すものという事が、楓にはわかってしまった。
「――私、酷いこと、してきたね」
「いいんです、いいんですよ。………寂しかったんでしょう?」
望が優しく自分に言ってくれた言葉を、今また彼女は口にしていた。
いくら大事な親友が傍にいるとはいえ、それ以外の人間に淘汰されるなんて、寂しすぎる。
だから彼女は、心を痛めながらも他人に合わせる事を選んだ。
その為には、楓は「幽霊」ではなく「別人格」である必要があった。
それだけのことだ。彼女に罪などない。ただ、寂しかっただけなのだ。
自分と同じように。
「……許してくれる?」
「許すも何も、怒ってなんていません。
ただ、また貴女と仲良くなりたかった……、それだけです」
カエレの右手が、おずおずと上げられる。楓はそれをしっかりと掴んだ。
「また、仲良くしてくれますか?」
――カエレは答える代わりに、繋いだ掌に力を込めた。
そして、自分から楓の胸に縋りつく。声を出せば、みっともなく泣きじゃくってしまいそうだった。
親友の身体を、冷たい風から守るように抱きしめ返す楓。
カエレは薄い胸に顔を埋めながら、額を擦りつける様にして、小さく頷いた。
『信じて下さい』
数年越しの訴えは、ようやく彼女の心に届いた。