――しばらくカエレは、楓の胸に顔を埋めて、声を押し殺して泣いていた。  
ようやく落ち着いたのか、緩慢な動作で埋めていた顔を上げるカエレ。  
その顔は、何だか気まずげだった。  
我に返ってみれば、いくら中身は女性の楓とはいえ、身体は間違いなく男である担任教師のモノなのだ。  
恥じらいも無く男性の胸で泣いていた事を自覚すると、途端に羞恥心が込み上げる。  
「落ち着きましたか?」  
そんなカエレの内心を知ってか知らずか、楓は柔らかな笑みを湛えてカエレの顔を覗き込む。  
いつも大人気ない表情を浮かべる事の多い望の顔に、今は楓が憑依した事により、穏やかな笑みが浮かんでいる。  
それが妙に似合っていて、カエレの胸は訳も無く高鳴った。  
「へ、平気ッ!」  
自分の感情に動揺して、思わず声が裏返る。カエレは慌てて楓の身体を押し退けて、そそくさと立ち上がった。  
楓も袴についた汚れを掃いながら立ち上がる。  
生きている頃、楓はカエレより若干背が低かった。だが今は望の身体を借りている為、彼女を見下ろす形になる。  
今更だがその事に新鮮さを覚えて、楓は自分が今、愛しき人の身体に居る事を再確認した。  
そっと、男性にしては薄い胸を両手で押さえてみる。  
鼓動が掌に伝わる。  
温かい。  
―――生きている。  
初めて親友の身体を借りた時と同じ感動が、静かに心を震わせた。  
「どうしたの?」  
「……色んなことが、嬉しくなったんです」  
キョトンとしているカエレを、幸せそうに目を細めながら見つめる楓。  
今までは鏡越しにしか見られなかった彼女の姿。それが今、こうして確かに目の前にある。  
そしてその瞳にはもう、楓に対する悲しい感情はない。  
戸惑いながらも、確かに親愛を湛えた優しい瞳で、楓の事を見つめている。  
「私、凄く幸せです」  
少しだけ瞳に涙を浮かべて、楓は花の様に笑って見せた。  
その笑顔があまりに綺麗で、カエレは咄嗟に視線を逸らしてしまう。  
表情そのものは、懐かしい「楓」という親友のそれだ。  
けれど、それを浮かべている顔の持ち主が問題なのだ。  
拭えない違和感。だがどうした事か、カエレの鼓動はさっきから速くなっていくばかりだ。  
「……ね、ねぇ。今までのお詫びに、何かさせてよ。もっとアンタが幸せになるようなことがしたいの」  
気まずいのか恥ずかしいのか、不器用な笑顔を浮かべながら、若干早口で言い放つカエレ。  
楓は気にしていないとしても、何かの形での償いを、カエレは求めていた。  
「そんなこと――あ――」  
首を左右に振ろうとして――彼女はハッとしたように動きを止めた。  
「何? 何かあるのね?」  
その反応を見逃さず、カエレはここぞと食いついて、楓に迫る。  
顔を突然寄せられて驚いたのか、楓は少し顎を引きつつ、おずおずと頷いた。  
薄っすらと頬を染めつつ、ごにょごにょと口の中で何かを呟く楓。  
その小さな声を拾おうと、カエレは小さく動く唇にそっと耳を寄せる。  
「―――あの―――」  
 
―――耳に届いた彼女の頼みは、二つ返事で頷けるものではなかった。  
 
カエレは目を点にしつつ、楓の顔を見上げる。  
「……は?」  
「ですから、あの――」  
もう一度、同じ言葉を繰り返された。今度は先ほどより大きな声で。  
 
「先生の事――好きになっていただきたいんです。カエレにも」  
 
―――見る見るうちに、カエレの頬が朱に染まる。  
「な、何でよ! べ、別にアンタの趣味にケチ付ける気はさらさらないけど、何で私が!?」  
ズザザッ、と飛び退り、楓から距離を取りながら叫ぶカエレ。  
そのリアクションが以外だったのか、楓は心底不思議そうな声を上げた。  
「え? 嫌なんですか?」  
「当たり前よッ!!」  
「えぇぇッ!?」  
思わぬ即答に、楓は涙目で自分の顔を指差しながら、  
「どうしてです!? 格好良いじゃないですか、素敵じゃないですか、今の私!」  
「あぁぁ、自画自賛――じゃないのはわかるんだけど、何か腹立つ!」  
楓は愛しの先生を褒めるつもりで言ったのだろうが、自分を指して賛美の言葉を並べる姿は、自画自賛にしか見えない。  
「そもそも、そんな事したら、私がアンタの恋敵になっちゃうでしょ!?」  
「なりません。カエレは特別です。  
 それに、これからも貴女と一緒に居続ける上で、これは必要な事なんです」  
楓はこれからも、カエレと身体を共有するつもりでいた。  
「え…アンタ、私の身体に帰るつもりなの?  
 てっきりそのまま、先生と一緒に居るものと思ってたけど」  
楓が望に好意を寄せている事は知っている。  
何があったか知らないが、こうして楓は大好きな先生の身体の中に居るのだ。  
好きな人と共に居られるならば、きっと楓はそうしたいだろう、と思っていた。  
今まで共にあった親友が離れるのは寂しいが、会えなくなるというわけでもない。  
だが、楓は顔を真っ赤にして、ブンブンと首を左右に振った。  
「そ、そんな恥ずかしい事できませんッ!  
 と……殿方の、それも先生の身体に居続けるなんて、そんな……」  
――寝る時、風呂に入る時、その他諸々の生理現象など。  
色々な望の姿を想像してしまって、楓は思わず頬に手を当てて身悶えた。  
同性、それも馴染みの親友ならば気にならなかったが、相手が異性、それも片想いの相手となると話は違ってくる。  
カエレは身悶える楓――の入った望の姿に若干引きつつも、彼女が何を恥ずかしがっているのか察して納得した。  
カエレとて、これからも楓と居られるというのならば願ったり叶ったりだ。  
「その、ですから……身体を共有するにあたって、カエレにも先生を好いてもらわないと困るんです。  
 カエレが嫌いな相手と、その……こ、恋人になんてなれませんもの」  
――もう既に、好きでもない相手とキスをさせられているのだが。  
カエレは内心の呟きを口には出さなかった。  
言ってしばえば、楓はまたその事を思い出して身悶えるだろう。男のそんな姿はなるたけ見たくない。  
 
―――その後しばらく、楓は望の良い所を並べ立てた。  
けれど言えば言うほど逆効果で、カエレは頑なに首を横に振り続ける。  
しばらく言い合って、ようやく楓は諦めたのか、深い溜息を吐きながら肩を落とした。  
「そうですか……、そんなに、嫌なんですね」  
その様子に、カエレの良心が小さく痛む。  
いくら彼女の希望が耐えかねるものとはいえ、自分から彼女の望みを叶えると言ったのだ。  
このまま拒否するだけというのも忍びない。  
それに、断るという事は、彼女に「望と恋人になるな」と言っている事に等しい。  
難しい顔で押し黙るカエレ。  
――そもそも、楓は望のどこに惚れこんでいるのだろう。  
「……仕方ない、ですね」  
考え込んでいる間に、いつの間にか両肩を楓に掴まれていた。  
訝しげに楓を見上げると、真剣な眼差しで見返される。  
「でも私、諦めません。カエレにはこれからじっくりと、先生の魅力に気付かせてあげます」  
「み、妙に強気ね……」  
「はい。恋には多少強気にいかないと勝てないって、わかりましたから」  
楓の脳裏に、少し意地悪な笑みで振り返るまといの姿が過ぎる。  
彼女にも他の女子にも、ずっと大和撫子の謙虚さを優先させたままでは、とても勝てない。  
「これからじっくり、時間を掛けて、絶対カエレを懐柔してみせます!」  
間近でじっと瞳を覗き込まれ、カエレは目を逸らさないまでも、思わず顎を引いてしまう。  
―――楓はそのまま、鼻が触れんばかりに顔を近づけてきた。  
「ちょ、ちょっと…?」  
「先生の唇って、とっても柔らかいんですよ。  
 懐柔作戦その1、です」  
彼女が何をしようとしているのか気付いた頃には、時すでに遅し。  
「――ちょ、ま――」  
 
――戸惑う声を飲み込むように。  
柔らかな感触が、カエレの唇を覆った。  
 
 
―――沈んだ意識が、ふっと浮上する。  
気が付けば目前に、見慣れた生徒の顔があった。   
(………ん?)  
戸惑いが浮かぶより先に。  
 
「―――っぎいぃやああぁああぁあぁぁぁあッ!!?」  
 
めりぃッ!  
すぐさま顔を離したカエレの鉄拳が、顔面にめり込んでいた。  
「っォぶほ!!」  
堪らず仰け反り、強打した顔を抑えて悶絶する望。  
ぼんやりとした意識は、痛みで完全に覚醒した。  
―――そうだ。自分は、彼女に身体を貸し与えて……。  
それから先の事は覚えていない。何か柔らかいモノに触れた瞬間、意識が沈んでいったのだ。  
あれからどうなったのか、わからない。  
何がどうして、自分が殴られなければならないのかもわからない。  
「な、なんで私が殴られないといけないんですかぁッ!」  
じんじんと痛む顔面を押さえたまま、悲鳴じみた抗議の声を上げる。  
「うううう、うるさいうるさいッ!」  
カエレは顔を真っ赤にして後ずさる。眉を吊り上げて、怒っているようだった。  
その様子を見る限り、今彼女の身体の主導権を握っているのはカエレの方のようである。  
 
―――まさか、彼女とカエレの和解は失敗してしまったのだろうか。  
嫌な想像をしてしまって、望は恐る恐る口を開く。  
「―――か、楓さんとは、どうなりましたか?」  
カエレはハッとして、そっと自分の胸に手を当てた。  
―――とても馴染みのある、もう一つの存在を感じる。  
「……楓は、ここに居るわよ」  
「仲直りは……?」  
心配そうに問う望。ついさっき自分に殴られたというのに、今はもうこっちの心配をしている。  
その姿勢には、少しだけ好感が持てた。  
「か、楓が世話になったわね。  
 ―――仲直りは、できたわよ。……先生のおかげで」  
最後の台詞は、望が聞き取れないほどに小さな声で囁かれた。  
仲直りが出来たという事がわかると、望はほっと胸を撫で下ろし、安堵の息を吐く。  
「あぁ、良かった。身体を貸して、わけもわからず殴られて、  
 その上何の役にも立たなかったなんて目も当てられませんからね」  
「わ、悪かったわよッ!」  
確かに、キスをしたのは望の意思ではなく楓の意思だ。彼を殴るのはお門違いである。  
だが、つい反射的に拳が飛んでしまったのだ。  
―――心の端で、楓が少しだけ悪戯っぽく笑ったような気がした。  
「それで、結局どうなりましたか?」  
「ど、どうって……」  
「いえ、一応協力したんですから、事の次第を教えていただけないかと。  
 とくに殴られた理由とか」  
……殴った事を根の持っているようだ。  
さっき少しでも好感を持ってしまった事を後悔しつつ、カエレは半眼で見つめてくる望の視線から逃れるように背を向けた。  
「と、トップシークレット!!  
 これ以上追求するようなら、ちょ、著作権侵害で訴えるよ!」  
「……いえ、多分著作権には引っかかってないと思いますが」  
どうやら随分と混乱しているようである。  
おずおずと突っ込むも、彼女は望の言葉など聞こえていないように装って、ズンズンと大股で歩き出す。  
「あ、ちょっとッ、どこへ?」  
「帰る」  
「ま、待って下さいッ。私も……」  
小走りに走りよってくる気配がするが、カエレは振り返らずに歩き続ける。  
―――墓地を出るまで、一言もお互いに口を開かなかった。  
カエレは胸に渦巻く気恥ずかしさから。望は、不機嫌なカエレの機嫌を損ねないように。  
 
「……結局」  
「はい?」  
駅に向う道すがら、沈黙を破ったのはカエレの方だった。  
彼女は赤い顔を見られないように、思い切り顔を逸らしながら、  
「結局、何も変らないわよ。  
 楓はずっと私と一緒に居て、私は――ずっと、先生の事なんて気に食わないままなんだから」  
その言葉は、望に向けてというより、自らの中の親友に向けての言葉だった。  
だが、望は少しだけ考えるように間を置いて、答える。  
「―――変らなく、ないじゃないですか。  
 貴女と楓さんは、仲直りできたみたいですし……それに」  
 
―――秋の風が、赤く色づいた楓を運んでくる。  
一片の葉は、望の頬を撫でて、遠く遠くへ運ばれていく。  
舞う葉を無意識に目で追っていたカエレは、結果、望と思い切り目を合わせてしまう。  
「出来れば私のことも、気に食わないままでいてほしくは、ないですね」  
そんな事を言いながら、柔らかな眼差しが、静かにカエレを見つめていた。  
それは楓が憑依していた時に浮かべていた優しい表情と、少し似ている。  
似ているが、それは確かに糸色望本人の顔だ。彼の心の底から滲み出る、柔らかく、温かな。  
「………」  
ほんの少しだけ、楓が彼に惹かれている理由が、分かった気がした。  
「木村さん?」  
望の声に、ようやく自分が立ち止まっていた事に気が付いたカエレは、ハッとして赤い顔を伏せた。  
望もまた立ち止まって、不思議そうにカエレの顔を覗き込む。  
「木村さん、気分でも優れないのですか?」  
「―――か」  
ぎゅっと、スカートの端を握る。  
「か?」  
「カエレ、よ」  
短く答えると、カエレは望を半ば突き飛ばすように駆け出した。  
「え、え? ちょ、待って下さいよ!」  
よたよたとふらつきながらも、置いていかれては困ると、急ぎ足でカエレを追いかける望。  
だがカエレは立ち止まらない。このまま駅まで、走り続けるつもりでいた。  
「だから、カエレよ! カ・エ・レ!  
 木村じゃあ、どっちの事かわからないでしょ!」  
走りながら、振り返りもせず叫び返す。  
「――そ、そうですね…ッ、それじゃあ――。  
 カエレさん、待って下さいッ!」  
弾む呼吸をぬうように、少し擦れた声で名を呼ぶが、カエレは一向に立ち止まらない。  
むしろさっきよりもスピードを速めて、みるみる望とカエレの距離はひらいていく。  
「えぇぇぇッ!? ちょ、何で足を速めるんですか!」  
駅への道は覚えているが、このまま彼女に振り切られるのも、何だか負けた気がして嫌だった。  
必死で追いすがろうとしている望の気配を肩越しに感じながら、  
―――カエレは無意識に、口元に堪えきれない笑みを浮かべていた。  
 
『――ね? 先生、素敵でしょう――』  
 
「全ッッ然!!」  
高く、遠い空に吼えるように、親友の問い掛けに即答した。  
笑顔のままで。  
 
◆ ◇ ◆ ◇  
 
大切な親友。  
愛しい先生。  
その両方を手放そうとしない自分は、大和撫子とは呼べない、貪欲な人間なのだろう。  
それは本来、恥ずべき事だ。けれど――この幸せを、今更手放せない。  
手放す必要もないと、今ならば思える。  
認められない好意に心を震わせる親友の様子を、微笑ましく思いながら、  
楓はそっと、柔らかな笑みで呟く。  
 
―――和をもって、良しとしましょう―――  
 
◇ ◆ ◇ ◆  
 
 

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