ゴトン、ゴトン、ゴトン―――  
規則的に身体が上下に揺れる。風の鳴る音が窓越しに耳を打つ。  
平日の昼間だからだろう。人の少ない電車内で、望は一人の少女と向かい合って座っていた。  
「あの……、私、どこへ連れてかれるんですか?」  
さっきから俯いたまま顔を上げない少女に、おずおずと話しかける。けれど少女は、頑なに顔を上げようとしない。  
 
「……あの……、木村、カエレさん?」  
 
名を呼ぶと、ピクリと細い肩を震わせる少女――木村カエレ。  
彼女はゆっくりとした動作で、長い金髪に埋もれた顔を上げる。  
その表情は、いつもの彼女からは想像出来ないほど儚げだった。望はハッとして、もしやと思いつつ問う。  
「もしかして、今は……楓さん、なのですか?」  
カエレ――いや、楓はゆっくりと頷くと、眉をハの字にして目を伏せた。  
「…突然このようなマネをして申し訳ありません…。ひどく、驚かれたでしょう?」  
「い、いえ、確かに驚きましたが……」  
滅多に顔を合わせる事のない、彼女の中に眠るもう一つの人格の発露に慌てつつも、  
本当に申し訳無さそうに謝られて、望は咄嗟に手をパタパタと振りフォローする。  
「何か理由があるのでしょう?  
 話してくれませんか。これから、私をどこに連れて行こうとしているのか」  
楓の緊張を解すような優しい声色で問いかける。  
伏せていた目を上げた彼女は、その瞳に決意の色を宿していた。  
 
◇ ◆ ◇ ◆  
 
紅葉の美しい中庭で、望はベンチに座りぼんやりと秋の空を見ていた。  
昼休みの僅かな休息を、独りでセンチメンタルに過ごしていると―――  
「せ、先生」  
「ん?」  
気の抜けた返事を返しつつ、空から視線を下ろす。そこには心なしか頬の赤いカエレが立っていた。  
「木村さん。どうしました?」  
スカートを押さえてモジモジと視線を逸らしながら立っている彼女の様子に、怪訝な顔をしながらも立ち上がる望。  
思えば、もうこの時既に彼女の人格は入れ替わっていたのだろう。そもそも気付かなかったのがおかしい。  
「あ、あの…その」  
紅潮する頬をそっと掌で覆いながら、上目遣いに望を見つめる彼女であったが、  
「――!」  
ふいに、彼の背後から突き刺さる視線に身体を硬直させる。  
そこには、いつも望に付き纏っている少女の姿があった。彼は気付いていないらしく、キョトンとした顔で楓を見ている。  
「木村さん?」  
訝しげに首を傾げる望。その背後で、まといは鋭い視線を楓に向けた。  
 
近寄るな。  
 
彼女の目は明らかにそう告げていたが、逆にそれが楓の対抗心を燃やす事となる。  
今の彼女には、譲れない目的があったのだ。  
 
「――先生!!」  
まといの視線を撥ね退けるように大声で愛しい人を呼びながら、その細い腕を掴む楓。  
「え、な、なんです?」  
ぎょっとしながら目を白黒させる望。その背後で、まといの目が更に険しくなった。  
まといの身体が動く、その前に。  
 
楓は望を引き寄せると――その身体を勢いよく抱え上げた。  
ちなみにお姫様抱っこである。  
 
突然の事にぎょっとするまといの隙を突いて、彼女は全速力で駆け出した。  
「は、え、えええぇぇえええッ!?」  
何故いきなりこんな展開になっているのかちっとも分からない望は、困惑の中で悲鳴を上げた。  
正直楓自身、自分が今何をしているのか分かっていなかった。  
ただ愛しい人を是が日でもあの場から引き剥がしたい。その一心で、彼女は大和撫子の謙虚さを捨て去った。  
「今は何も聞かず、どうか私についてきて下さいましッ!」  
「いや、いやいや、ついて行くも何も連れ去られてますから!  
 ちょ、ま……だ、誰かーーーッ!!人攫いですーーーーッ!!」  
   
◇ ◆ ◇ ◆  
 
そんなこんなで突然連れ去られ、駅に着くとそのまま電車に押し込まれ―――  
あれよあれよという間に、今に至る。  
楓は今更になって、なんて大胆な事をしたのかと、羞恥心と罪悪感に襲われていた。  
だがもう後戻りは出来ない。彼女はぎゅっと膝の上の両手を握り締めて、真っ直ぐに望の目を見つめた。  
「先生に、どうしても見せたいものがあるのです」  
「見せたいもの、ですか」  
「とても大切なものなのです。それは、ここから少し遠い所にあります」  
「どのくらい遠いのですか?」  
窓の外に視線を移し、過ぎ去っていく景色を瞳に映す望。  
「隣町です。電車で30分程でしょうか…。  
 ――ついたら、そこで、とても大切な話をしたいのです」  
たどたどしい口調ではあったが、彼女の必死な想いだけは伝わってきた。  
望はやれやれと溜息を吐きながらも、ゆっくりと頷く。  
「仕方ありませんね。まぁ、ここまで来てしまったのですから、貴女の気の済むまで付き合いますよ」  
学校を早退してしまった事は気がかりだったが、今ままでにも似たような事は多々あったのだ。今更その程度の事で騒いだりはしない。  
「あ、ありがとうございますッ」  
楓はその返事にホッとして、そっと胸を撫で下ろした。  
 
望が連れてこられた先は、小規模な墓地だった。  
所々に紅葉の木が植えられている。目に鮮やかな落葉の舞う中を、二人は歩いていた。  
まさかこんな所に連れてこられるとは思っていなかった望は、内心混乱しながらも、無言で歩く楓の隣を歩く。  
彼女の歩は、ある一つの墓石の前で止まった。  
 
「これが――貴方に見せたかったものです」  
そう言って、楓は墓に向き直る。望もそれに習い、その墓に向き直った。  
木村家。そう大きく掘られたその墓石の脇に、ここに眠る故人の名が記された石がある。  
「これが、ですか……?」  
リアクションに困って、視線を彷徨わせながら聞き返す。  
そんな彼を尻目に、楓は故人の記された墓石へと歩み寄った。  
「来て下さい、先生」  
そこに屈み込み、肩越しに振り返って手招きをする楓。望は墓石に一礼してから、彼女の隣に同じように屈み込む。  
彼女の、今は亡き家族の名が記されているはずのそこに、  
「―――え……?」  
あってはならない名前を見つけて、望は小さく声を上げた。  
 
木村 楓。  
 
隣に居る彼女の名が、そこには記されていた。  
「どっ……、同名のご家族がいらっしゃったのですか?」  
一瞬唖然としたものの、すぐに思い直して聞き返す。そう考えるのが自然だろう。  
だが彼女はもの悲しげに目を伏せて、ゆっくりと左右に首を振った。  
楓はすっくと立ち上がると、悲しげな瞳のまま微笑んで見せた。  
少し、強い風がふく。彼女は長い金髪を風に遊ばせながら、望を見下ろして言った。  
 
「私は――もうこの世に居ないのです。  
 そう言ったら先生は、信じてくれますか?」  
 
風に煽られる彼女の姿が、とても儚く見えた。  
 
「な、何を言って……」  
何を言えばいいのか、わからない。これは彼女なりの冗談なのだと、そう思いたかった。  
けれど、微笑む楓の表情は、冗談を言うには似つかわしくない程悲しげだ。  
「今から、とても大切な話をします。  
 私はこれを伝える為に、貴方をここに連れてきました」  
立ち上がれないままでいる望に向き直り、楓はそっと胸に手を当てる。  
一度、深く息を吸ってから、瞳を閉じて話し出す。  
 
「木村カエレと、木村楓にまつわる、昔話です」  
 
◇ ◆ ◇ ◆  
 
木村カエレは、不器用な少女であった。  
外国の文化に染まった彼女は、日本に帰国すると、その文化と思想の違いに戸惑った。  
いつからか周囲は彼女を異物扱いし、かつての友人達は彼女から離れていく。  
そんな中で、ある一人の少女だけは、彼女の傍に居続けた。  
木村楓。  
偶然同じ苗字、そして名前の語感が似ている事もあり、楓はなんとなくカエレのことが気になった。  
恐々と話しかけてみると、不器用ながらに優しげな人柄が窺えた。楓は、カエレの友達になることに決めた。  
二人の性格は正反対で、淑やかな楓と、やや不躾なカエレで、丁度良いバランスが取れるようになった。  
不躾と言えどそれは表面的なもので、カエレは本来他人の事を考えすぎる所がある。  
だが彼女は、そんな繊細な自分を「弱い」と嫌った。  
そんな自分の弱さを悟られぬよう、つい無神経とも取れる態度を取ってしまうカエレ。  
友人の不器用さを心配しつつも、楓は彼女のそんな所が好きだった。  
 
楓のおかげか、徐々に日本に慣れ始めたカエレ。  
だがそんなある日、カエレの心を絶望の底に貶める出来事が起きる。  
いつも一緒に登校する楓とカエレだったが、その日カエレは寝坊して、偶然一人での登校となった。  
少し遅れて学校に着くが、先に来ている筈の親友の姿はない。  
不信に思うカエレのもとに、教師からの知らせが届く。  
 
今朝、楓が交通事故にあった。  
 
呆然と、信じられない思いで病院へ赴くカエレ。  
だが、そこに待っていたのは見紛う事のない親友の――動かぬ身体。  
体中に包帯やガーゼを纏った楓は、もう二度と、彼女に微笑む事はない。  
青白い顔で横たわる彼女の姿は、カエレの心を打ち砕くのに十分過ぎた。  
どうしてあの朝に限って、自分は寝坊なんてしたのだろう。  
いつものように、一緒に登校していれば、何かが出来たはずだ。  
何も出来なかったとしても――最悪でも、一緒に逝くことくらい出来たはずだ。  
慣れない環境の中での唯一の支えを失った彼女は、独りきりで塞ぎこんだ。  
 
そんな痛々しい友人の姿に、楓は魂をこの世に繋ぎとめられた。  
 
自分が居なくなった所為で、カエレの心は酷く傷ついている。  
独り部屋に蹲るカエレの姿があまりに痛々しく、楓はそんな親友の姿を見ている事しか出来なかった。  
葛藤の末、限界に達したカエレは自ら死を選ぼうとする。  
自室の窓から飛び立とうとする親友の身体に、触れられぬと知りつつも、楓は必死で縋りついた。  
 
その時。  
楓の魂が、カエレの中に溶け込んだ。  
 
ふっと自分の中に降り立った暖かなものに、カエレは飛び降りるのを思いとどまる。  
鏡を見た。  
そこには、泣きながら微笑む自分の顔があるだけだった。  
けれどその微笑みは、紛れもなく親友のそれだという事が、彼女には分かった。  
ああ、この胸の中にある、もう一つの暖かい存在は彼女なのか。  
カエレはそれを理解すると、泣きじゃくりながら鏡に縋りついた。  
鏡は冷たい感触を掌に返すだけだったが、その向こうには、穏やかにカエレを見守る楓の姿がある。  
二人は別離の果て、誰よりも身近にその存在を感じる間柄となった。  
 
だがそれは、周囲の人々からすれば、カエレの心の病が悪化したようにしか見えなかった。  
故人となった親友が自分の中に居る。そんな事を、誰が信じるというのだろう。  
幼い二人は、楓の存在を信じてもらおうと必死になった。  
時には楓、時にはカエレとなり、死に物狂いで訴えかけた。  
だが彼女らが必死になればなるほど、カエレの心の病は悪化していると捉えられる。  
多重人格障害。そう診断されたカエレは、外国で専門的なカウンセリングを受ける事となる。  
そこでカエレは、もはや洗脳とも言えるカウンセリングを受ける。  
今自分の中に居る「楓」という存在は、自らの弱さが作り出した、親友の偽者である。  
そう大人達から言われ続け――カエレは否定し続けた。  
この暖かな存在は、紛れもなく親友の魂なのだと。  
だが、長い長い月日をかけて、「楓」がただの別人格でしかないと、心に深く刻み込まれ―――  
 
長い洗脳の末、彼女は、「楓」が自らの弱さが作り出した別人格である事を、認めざるを得なかった。  
 
◆ ◇ ◆ ◇  
 
「それから彼女は、私の事を嫌うようになりました。  
 友人の死を乗り越えられない自分への嫌悪を、私に向けるようになったんです。  
 自分の弱さを、何よりも嫌う彼女でしたから………」  
カエレの心が悲鳴を上げる時、楓は彼女を想うあまり、表に顔を出す。  
けれどそれは逃げでしかない事を、カエレは十分に自覚していた。  
だからこそ楓が顔を出す際には、苦しげに身悶えて楓の存在を否定する。  
二人はお互いを想い合っているにも関わらず、お互いを傷つけ合っている。  
そんなのは悲しいと、楓は強くスカートの裾を握り締めた。  
「―――昔話は、これで終わりです。  
 先生は……先生も、私を偽者だと思いますか?」  
楓は深く俯いて、強く瞳を閉じた。  
信じてもらえないかもしれない。  
全て、カエレの作り出した妄想だと取られるかもしれない。  
そうならない為にわざわざ自分の墓にまで連れてきたのだが、  
だからと言って、今、目の前に居る楓が本物である事の証明にはならない。その事は、痛いほど理解していた。  
あるいは全て信じてもらえたとしても、幽霊など恐ろしいと逃げられるかもしれない。  
もしもそうなら、いっそ信じてもらえないほうがマシだった。  
愛しい人が恐怖に染まった目で自分を見るだなんて、きっと耐えられないだろうから。  
――望が立ち上がる気配がする。楓は恐々と顔を上げて、望の様子を窺った。  
望は戸惑うように目を泳がせていた。だが、そこに恐怖の色はない。  
「……正直、あっさりとは信じられません……」  
彼は心の内を正直に口にした。オブラートに包む事はせず、感じた事をそのまま口にする。  
「ですが、貴女がわざわざここまでして嘘を吐く理由も思い当たりません。  
 だから――その……、信じてみようかと、思います」  
戸惑いながらも、自分の思いを正面から受け止めてくれた。  
――ああ、やはり、この人は他の大人達とは違うのだ。  
自分達の理解できないモノを頭ごなしに否定して、無かった事にしようと躍起になる大人達とは、違う。  
楓は魂のみの存在となって初めて、自らを肯定してくれる他人に出会う事が出来た。  
 
正直、楓の心は限界に来ていた。  
大切に想う友人には嫌悪され、誰一人として自分の存在を信じてくれない。  
そんな中、所謂幽霊という存在である自分が、恋をしてしまった。  
それが罪深い事と知りながらも、出会った時から一目で恋に堕ちてしまったのだ。  
けれどそんな彼の周りには、彼を想う人々が寄り固まっている。  
特にあの、まといという名の少女には、露骨に敵意すら向けられた。  
そもそも、生者に死者である自分が、勝てる筈もなかったのだ。  
失意の最中、彼女の脳裏に過ぎった、一番選んではいけない選択肢。  
 
もう一度、死んでみましょうか。  
今度は、大切な友人を連れて。  
 
そもそもカエレを独り遺して逝く事が未練だったのだ。  
ならば彼女を連れて逝けばいい。彼女だって、一度はそれを望んだのだ。  
弱った楓の心は、そんなあまりに絶望的な選択肢を選んでしまった。  
 
だが、それを止めてくれたのもまた、望だった。  
 
やはり彼は特別なのだ。  
きっと今度も、自分を正しい方向へ導いてくれる。きっと、力になってくれる。  
「あぁ……、やっぱり先生は、私にとって特別な人です……ッ」  
感極まった楓の瞳に、見る見るうちに涙が浮かぶ。  
はらはらと落涙しながらも、心から安らいだ笑顔を浮かべる楓。  
その表情があまりにも美しく――望は彼女を心配するより先に、思わずその笑顔に見惚れてしまった。  
呆けたようにその涙に見惚れていた望だったが、すぐにハッと我に返り、慌てて懐からハンカチを取り出す。  
「大丈夫、ですか?」  
おずおずと、今なお彼女の頬を濡らし続ける涙をハンカチで拭う。  
その優しい感触に、楓は波打つ心が穏やかになっていくのを感じていた。  
そのまま瞳を閉じて、彼が頬から手を離すまで、しばらくその優しい感触に浸る。  
「――はい……、申し訳ありません。みっともないところをお見せしました」  
「いいえ、いいのですよ。……寂しかったのでしょう?」  
離れていく柔らかな布の感触。染み渡る優しい言葉。  
思わずまた瞳に涙が浮かぶのを、楓はぎゅっと目を閉じて堪える。  
次に目を開けた時には、もう心はすっかり落ち着いていた。  
「もう、話せそうですか」  
「えぇ。大丈夫です、ご心配お掛けしました」  
そっと赤くなった目尻を拭いつつ、楓はもう一度唇を開く。  
「それで、この話をしたのは――」  
「私に頼みたい事があるから、ですか」  
「はい」  
そう、わざわざこうして身の上話をしたのは、何も望が想い人であるからというだけではない。  
「カエレと、仲直りがしたいのです」  
「仲直り?」  
小首を傾げる望。楓はコクリと頷いた。  
「私を自分の別人格だと思い込んでから、彼女は私の事を嫌悪し続けています。  
 そんなのは――彼女にとっても、私にとっても不幸な事です。  
 けれどもう、私の訴えは……、彼女に届きません」  
どんなに言葉を連ねても、それは全て自分自身の言い訳に過ぎないと、カエレは思ってしまう。  
楓一人の力では、彼女の心を開く事などできなくなっていた。  
まず、楓が「本物」である事を、カエレに認識させなくてはならない。  
「そのために、先生の協力が必要です」  
「は、はぁ…協力は惜しみませんが、私に出来る事なんてあるんでしょうか」  
困ったように顎に手を当てる望に、楓はずいっと身を寄せて、  
 
「先生の身体を、私に貸して下さい!」  
真剣な眼差しで、そう力強く言った。  
 
「へ?」  
唖然と目を瞬かせる望。言われた事の意味が、よく理解できないでいた。  
「そ、それは、どういう…?」  
困惑する望に、楓は人差し指を立てて説明する。  
 
別の身体に憑依した状態で、カエレと再会を果たす。  
そうすればカエレもさすがに、楓が自分の別人格であるとは思わくなるはずだ。  
 
その案に、なるほどと頷く望。だが、  
「――で、その、憑依する別の身体、というのが…?」  
っぴ、と人差し指を望に向けて、  
「はい。先生です」  
楓は笑顔で頷いた。  
 
「あ、あのいやでもその…ッ、何故私なのですか?  
貴女は女性ですし、男の私に乗り移るのは、何かと抵抗があるのでは……」  
「いいえ、先生でないと駄目なんですッ」  
しどろもどろになる望。だが、楓はブンブンと首を左右に振って、力強く言い放つ。  
「こんな事を頼める人、先生以外にいらっしゃいませんッ。それに……」  
さっきまでの勢いはどこへやら、突然言葉に詰まってしまう楓。  
「……それに?」  
先を促すように問いかけると、彼女はポッと頬を染めて俯いてしまった。  
「――こ、これ以上はその、言えません」  
頬に両手を当てて上目遣いに望を見ると、彼はただ不思議そうに首を傾げていた。  
しばらくじっと楓の赤い顔を見つめていた望だったが、覚悟を決めたように瞳を閉じて、  
「わかりました。力になると言いましたからね。  
 こんな身体でよろしければ、どうぞ使ってやって下さい」  
幽霊にとりつかれる、なんて経験は普通そうない筈だが、以前望は一度だけそれを経験していた。  
得体の知れないモノが自分の中に入ってくるあの感触には、言葉では言い表せない恐怖がある。  
けれど、身体を貸し与える相手が目の前の少女というのであれば、それほどの抵抗感はない。  
恐怖がないといえば嘘になる。だが、そんな粗末な感情より、楓の親友を想う気持ちの方が大切だと思った。  
「あ、ありがとうございますッ!」  
楓は思い切り身体を二つに折り曲げて礼をした。勢いよく金髪が揺れる。  
「それで、私はどうすればいいんですか?」  
「はい。先生はそのまま、じっとしていて下さい」  
言われた通り、緊張で身体を固くしながら立ち尽くす。鼓動がやけに大きく耳に響いた。  
身体を起こした楓は、少し何か思案するように沈黙する。  
――楓は、自分がカエレに憑依した時の事を思い出していた。  
あの時は親友の自殺を止めようと必死で、彼女の身体に縋りついた。  
 
……身体に触れればいいのだろうか。  
 
そう思い、目前に固い表情で立ち尽くす望に手を伸ばす。  
思わず身を引きそうになるのを堪えながら、迫る指先をじっと見据える望。  
彼の鼻先に触れる直前、その指先はピタリと動きを止めた。  
「―――先生、目を……閉じていただけますか?」  
「え? あ、はい。こうですか?」  
静かに目を閉じる望。  
触れる直前だった手が再び動き、そっと望の頬に触れる。もう片方の手も同様に。  
やや冷たい少女の掌の感触。そのすぐ後に、  
「――……失礼します」  
微かな呟きと、鼻先に近づく体温。そして。  
 
唇に柔らかな感触を感じた瞬間、望の意識は深く沈んでいった。  
 

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