規則正しい呼気のリズム。それに合わせるように交互に跳ね上げる踵。
スパイクを効かせてアスファルトの表面を蹴りながら、軽快な足取りで住宅街の路地を走ってい
た。
「・・・よーし! あと一周したら終わりにしよっ!」
暮れなずむ空、屋根の隙間に見える夕日をチラリと目の端で捉え、奈美は一人つぶやいた。
片手でパーカのポケットからハンドタオルを取り出し、首筋に滲んだ汗を拭き取る。
ちらほらと家路につく背広姿や、買い物袋を下げた姿とすれ違いながら、奈美は商店街の方向へ
と走って行く。
ふと眉を軽く寄せ耳を澄ます。後ろから次第に近づいてくる足音が聞こえてきた。
その足音も走っているようだったが、どう聞いても靴の立てている音ではない。
興味をそそられた奈美が振り返ろうとするより先に、追い付いてきた足音の主が奈美の真横に並
んだ。
「あれ!? 先生!」
「おや日塔さん。感心ですね、まだ運動を続けていたのですか。・・・ああ、今日が三日目でし
たね?」
先生の物言いに、奈美の顔が引きつり不機嫌そうな声を出す。
「どうせ三日坊主とか言う気ですよね!?」 (ちゃらちゃらちゃら)
「まあ、運動の秋なんて、それが普通ですから。」
「普通って言うなあ!!」
むくれた表情で文句を叫んだ奈美だったが、ふと先生の格好が普段の着物姿である事に気が付き
首をかしげた。
袖や袴が風になびき、いかにも走りにくそうな雪駄が軽い足音を立てている。
「先生もジョギング? 動きにくくない?」 (ちゃらちゃらちゃら)
「はは、何を言っているのですか。そんな訳ないでしょう。」
じゃあ何で走っているの、と言いたげに眉をしかめる。 (ちゃらちゃらちゃら)
「よく分からないけど・・・ 先生さっきからうるさいです!」
「何の言いがかりですか!?」
「いくら普段はチャラチャラしてるからって、音まで立てなくてもいいのに!」
嫌そうな顔で告げる奈美に、先生はさらに嫌そうに顔をしかめてみせる。
「どこぞの普通さんみたいに、そんなアピールなんてしません!」
一瞬、苦い顔になり、反論しようと口を開きかけた奈美だったが、
「・・・あれ? じゃ何の音?」 (ちゃらちゃらちゃら)
よく耳をかたむけると、音は自分達の後方から聞こえ、心なしか僅かずつ近寄って来ているよう
にも思える。
走りながら、チラリと首だけを向けて振り返る奈美。
「ひっ!?」
短く悲鳴を上げた。無意識に足に力が篭り走る速度を早めてしまう。
「何で犬が追いかけて来てるんですかぁ!?」
後ろで音を立てていたのは、一匹の大きな土佐犬だった。
引き千切ったかのような不自然に千切れた太い鎖を引きずり、口の端からは泡混じりのよだれを
垂らし、目を輝かせながら二人の跡を追って駆けている。
「いやー・・・ ヘイの向こうに見事に熟れた実を下げている柿の木を見付けたものでして。―
――ちょっと竹ざおで突付いてみたら、なぜか怒られて犬をけしかけられましてね・・・」
「当たり前だぁ!! ・・・っていうか、犯罪!」
すました顔で説明する先生に、やや裏返った声で叫ぶ奈美。
「ちょっと一周して童心に返っていただけですが。」
「それ、一周してないだろ!?」
二人が言い合いをしている間も、後ろの犬はじりじりと間を詰めてきている。
「先生! 追い付かれちゃうよぉ!」
走りながらちょっと涙目になって叫ぶ奈美に、先生は額に汗を滲ませながら困った顔で口を開く。
「確か、犬は逃げるモノを追いかける習性があるとかで・・・・・・そうすると走っている限り
は、追われてしまいますね。」
「ええ!? じゃあ逃げない方がいいって事ですかあ!?」
「・・・止まってみますか?」
一瞬考えた奈美だったが、後方から迫る犬が低い唸り声を上げ、
「いやです!!」
「じゃ、走って。」
「あああ! なんでいつも私まで巻き込むかな!?」
人通りの少なくなってきた路地を右へ左へ折れながら逃げていた二人だったが、幾度目かの角を
曲がった所で強制的にその足を止める事となった。
「ええ! 行き止まりですよ!?」
曲がった路地の先は三方を壁に囲まれ、逃げ道など何も無い空間となっていた。
中身が空の青いポリバケツが数個転がり、ここを餌場にしているのか数羽でたむろっていたカラ
スが空へと逃げてゆく。
壁は何の足がかりも無くすぐに登れるような高さではない。それに、二人の人間が登っている暇
などないだろう。
「せんせえ・・・・・・どうしよう・・・・?」
じりじりと近寄ってくる犬の姿に涙声になりながら奈美は先生の顔を見上げる。
焦った顔で犬の濁った目を睨みつけていた先生だったが、ハッと何かを閃いた表情を浮かべ、お
もむろに自分の履いている雪駄を片方掴み、犬の後方に向けて放り投げた。
「ほら、取ってきなさーい!」
先生の声と共に放物線を描きながら放られた雪駄に反応し、犬は自分の頭上を越えていったそれ
を求めて勢いよく踵を返して突進してゆく。
「今です!!」
「あ、待ってよお!」
嬉しそうに雪駄を齧っている犬の横をすり抜けて一目散に駆け出した先生に続き、少し遅れて奈
美も後を追い全速で追いかけていった。
「・・・こ・・・ここまでくれば・・・さすがに・・・・・・」
「・・・先・・・生。息切れ・・・て、ますよ・・・」
夢中で走って辿り着いた河川敷は見渡す限り人の姿すらなく、しつこく後を追ってきた犬の姿も
何処かへ消えていた。
奈美は大きく息をつきながら枯草が混じりはじめた土手に腰を下ろす。
火照った顔に川面から吹き付ける風があたり、奈美は気持ちよさそうに目を細める。
遠くに見える橋の上を行き交う車のライトが時折チラチラとした瞬きを見せていた。
パーカのポケットからハンドタオルを取り出すして顔の汗を軽く拭い、隣に腰を下ろした先生に
差し出す。
「どうぞ。風邪ひいちゃいますから、汗拭いて。」
「ああ、どうも・・・って、これ、今使った物ですよね?」
先生は指で摘まむようにしてタオルを受け取る。奈美は顔をしかめた。
「汚いものみたいにつまむなぁ! 裏返して使えばいいじゃないですか!」
先生は少し意地悪そうな笑みを浮かべ、そのタオルで汗を拭った。
川沿いに並んで伸びたススキが、さわさわと枯れた葉音を立てている。
汗を拭きながら、先生はどこかすがすがしい口調で話しかけてきた。
「いや、いい運動をしましたねえ。」
「爽やかに言うな! しなくてもいい運動だぁ・・・!」
奈美は文句を言いながらもその顔には笑みが浮かんでいる。―――どさり、と音を立てて土手に
仰向けに寝転んだ。
ほとんど日が落ちた空には、時々小さな光を放つ星が姿を現わし始めていた。
「どうも。・・・日塔さん、香水などを使われているのでしょうか?」
タオルを手渡しながら問いかける先生に、奈美は小首をかしげた。
「使ってないけど・・・何で?」
「いや、タオルから良い香りがしましてね。そうなのかな、と。」
奈美は、がばっと起き上がり、手に取ったタオルを鼻の近くに持ってくる。
「そ・・・そうですか? あれー・・・? 自分じゃわかんないのかなー?」
柔らかな生地を鼻と口に押し当てて息を吸っているが、特に何の匂いも感じないのか、奈美はし
きりに首をかしげている。
「うーん・・・ しないなー」
「まあ、嘘ですから。」
「・・・さらっとウソつくなぁ!!」
伸ばした足の踵でドンドンと地面を叩きながら、奈美は顔をしかめて叫んだ。
先生は澄ました顔で視線をそらし、おもむろに立ち上がって服についた枯れ草の端などを払い落
とした。
「さて。もう、ほとぼりも冷めたでしょうし、帰りますか。」
「いいですけどね、別に・・・・・・」
何か言いたそうな顔でブツブツと呟きながら立ちあがり、奈美は先生の足元に気がついた。
「あー・・・先生、片足だけ履物無しで走ってたなぁ・・・ 怪我してない?」
奈美に言われて、先生は足袋を付けただけの片足を抱えて、足の裏を確認してみる。
「さすがにちょっと擦り切れていますが・・・ まあ、大丈夫でしょう。」
「危ないと思うけど。何が落ちてるかわかんないし・・・ ―――あ! よし!」
奈美は軽く手を叩き、先生の前に回りこむと背中を見せてしゃがみこんだ。
両手を背中に回して少し首を捻って後ろを見る奈美の姿に先生は眉を寄せた。
「・・・何ですか?」
「私、おぶってあげますよ! はい! どうぞー。」
「えええ!? そんな、普通に格好悪いではないですか!」
「普通って言うなあ!!」
ぶすっとした表情で奈美は後ろ手に先生を招く。
「かっこ悪いのはいまさらだろ! いいから! 私こう見えて結構体力ありますよ?」
奈美に促され、先生はしぶしぶといった感じで肩に腕を回す。
「なるほど・・・意外と肩幅ありますね。・・・・・・骨太ですか?」
「余計な事言うなぁ! まったく・・・!」
先生の足に手を回し、抱え込むと奈美はゆっくりと立ちあがった。
その両肩を手で掴みながら、先生は不安気な表情になる。
奈美の表情が変わった。低い唸り声を出しながら一歩踏み出し――――踏み出したところで、べ
ちゃっ と潰れてしまった。
「大丈夫ですか?」
「先生・・・痩せてるのに意外と重いー・・・」
やれやれといった顔で先生は苦笑を浮かべながら体を離し、まだ土手に突っ伏したままの奈美の
頭をポンと叩いた。
「なにするんですかぁ・・・?」
「まあ、発想は悪くありませんよ。」
そう言って微笑んでみせた。
「・・・何だか、私の方が迷惑かけてるみたいじゃないですかぁ。」
背中で揺られながら奈美が少し不満そうな声を上げた。
先生は何も答えずに小さく笑ってみせる。
その足には奈美のジョギングシューズを履いており、雪駄は帯に挟みこんであった。
奈美の目の前に先生の横顔があった。
息をするたびにその髪が僅かに揺れるのが妙に気恥ずかしく、奈美は顔をそらして住宅地の方を
眺めつづけている。
「日塔さん――――良い香りがしますね。」
「え?」
思わず奈美は顔を上げた。
「ほら・・・何処かのお宅が今夜はカレーのようですよ。」
「あ・・・そうですか。」
ふう、と息を軽くついて奈美は再び顔を落とした。
力の抜けた顔でゆっくりと進む景色を眺めていたが、やがてあることに気が付く。
(カレーの匂いなんてしないじゃない・・・)
奈美の口元がほころび、ほんのりと顔が赤くなった。肩に回した腕に力を込め体を押し当てるよ
うにしてさらに密着させた。
先生は変わらぬ様子で歩いている。
「・・・今度、カレー作ってあげますよ。」
「おや? 恩着せ予告ですか?」
奈美の顔に苦笑が浮かぶ。
「・・・・・・口が曲がるくらい辛くしますからね。」
「はは、カレーが辛いのなら普通ですね。」
「普通って言うなあ!」
小さく叫ぶ奈美に笑いを浮かべ、先生は土手の横にある小道に入った。
奈美は訝しげな顔で口を開く。
「先生? そっち道が違う。遠回りだよ?」
「また、あの犬に逢わないとは限りませんから。・・・まあ、町の外側を一周する事になります
が、急がば回れと言いますしね。」
奈美はクスリと笑った。何も言わずに背中に頬を寄せて目を閉じる。
「じゃ、もう一周しちゃいますか。」
「運動不足でしたからねぇ。ちょうどいいですよ。」
先生の声を半ば聞き流しながら、奈美はぼんやりと胸の内に広がる考えに入りこんでいた。
(先生のスタート地点・・・どうなんだろ? 聞いたって教えてくれないよなぁ・・・・)
奈美は心の中で溜め息をついた。
(・・・私はやっぱり――――もう通りすぎた後なのかな・・・いや、それ以前に、通るのかなぁ・・・・)
一人考えに耽る奈美の耳に、先生の言葉が入ってくる。
「まあ、二周目に入るとしますか。」
奈美は一瞬驚いた表情を浮かべ―――少しはにかんだ笑顔で「うん」とうなずいた。
「明日は、普通に筋肉痛でしょうねぇ。」
「普通って言うなぁ・・・!」
言い返しながらも言葉には出さずに、ありがとうと胸の中で呟いた。
この背中をもう少し暖めていられる事が今はとても嬉しい。
この場所に自分の温もりを残したい。
残り香のように、なればいいな、と。
そう願い、もう一度、そっと目を閉じて頬を寄せた。