―――昔から、人を、愛したことなどない―――  
 
 
私は、何故か、幼い頃から人の心を読む術に長けていた。  
ほんの些細な表情やしぐさから、その人の考えていることを読み取り、先回りする。  
人は皆、私の想定どおりの行動しかしない。  
余りにも分かりきった人間という退屈な生き物に、愛情を抱けるはずもなかった。  
 
スクールカウンセラーという仕事を選んだのも、特技を生かそうというだけのこと。  
誠実そうな顔をして生徒達の悩みの相談に乗りながらも、心の中はいつも冷めていた。  
 
しかし、この高校に赴任して、私は、初めて自分が心を読めない人間に出会った。  
担任クラスを持つ教師でありながら、いつも、人生に絶望してばかりいる青年。  
 
三歳児かと思うような稚気を見せたかと思うと、  
次の瞬間、私でもはっとするほどにシニカルで辛らつな意見を言い放つ。  
大人かと思えば子供。  
子供かと思えば大人。  
生徒達に対しても、面倒見がいいのか悪いのか、その行動はちぐはぐで  
私は、全く掴めない彼の心の動きに戸惑った。  
 
彼は毎朝、私に、思いも寄らぬ人生の絶望を告げに来る。  
―――面倒な人…。  
そう思いながらも、私は、彼がSC室に来るのを拒むことはなかった。  
 
 
 
 
―――しかし、今朝の彼は、いつもとは少し様子が違っていた。  
私の前の椅子に座ったまま、床を見つめて口を開こうとしない。  
 
理由はだいたい予想がついていた。  
先日の、私と彼の兄との間の、ちょっとした過激なお遊び。  
それを、彼の兄から聞きでもしたのだろう。  
 
―――ばかばかしい。  
私は、ため息をついた。  
 
確かに、私は、彼の兄と関係を持った。  
けれど、だからといって、私が彼に対して何をはばかることもない。  
私も命先生も互いに独身同士であり、責められるいわれもない。  
あの出来事は、私にとって単なる娯楽以上の何の意味も持たなかった。  
 
私は、面倒になって、投げやりにいつものフレーズを口にした。  
「で?今日は何に絶望したんです?」  
ところが、彼は、私の問いに不思議そうに顔を上げた。  
「絶望…。私は、絶望してるんでしょうか…?」  
 
またしても、私の予測できない反応。  
私は、戸惑いながら問い返した。  
「私に聞かれても…。今日は絶望してないんですか?」  
すると、彼は、途方にくれた子供のような顔で考え込んだ。  
 
私達の間に、沈黙が落ちる。  
しかたなく、私は、口を開いた。  
 
「私と命先生とのことを気にされているのでしたら…。」  
私の言葉に、彼の両手が、ぎゅっと袴を握り締めるのが見えた。  
「あれは、単なるスキンシップです。特別なことではありません。」  
彼は、顔を上げようとしない。  
「先生が、気にされるようなことではないんです。」  
言いながら、私はイライラが募ってくるの感じた。  
 
何故、私はこんなことを彼に説明しなければならないのだろう。  
何故、私はこんなにも必死になっているのだろう。  
 
私は、思わず、皮肉な口調で言い放った。  
「なんだったら、先生も、私と寝てみます?」  
 
ガタン!  
 
彼が立ち上がった。  
 
私を見下ろす彼の表情に、私は言葉を失った。  
彼は、ひどく傷ついたような顔をしていた。  
 
私が何も言えないでいると、彼は踵を返し、無言で部屋を出て行った。  
 
私は、遠ざかる足音を聞きながら、しばらくそのまま椅子に座り込んでいた。  
 
―――私は、今、彼に何をしたんだろう…。  
 
自分の感情のままに、不用意な発言をするなんて。  
カウンセラーが聞いてあきれる。  
カウンセリングどころか、事態を悪化させてしまったようだ。  
 
いまだかつて、こんなミスはなかったというのに。  
いったい、私は、どうしてしまったんだろう。  
 
頭痛がする。  
アスピリンを取り出そうと引き出しを開けたが、  
目に入ったものに、ふと、手が止まった。  
アスピリンの瓶の横にあったのは、手編みの小さな靴下。  
 
今年の4月1日に、私が妊娠したというデマ(出所は私だが)が流れたとき、  
生徒達でさえ、それなりの品物を買い整えて贈ってきたというのに、  
彼が持ってきたのは、この、手編みの靴下だった。  
 
―――心をこめて編みました。  
何となく赤い目をしながら、照れくさそうに笑った彼の顔が目に浮かぶ。  
 
他のプレゼントは全て送り返したのだけれど、これだけは手元においてあった。  
「手作りのものを、返すわけにもいかないし、ね…。」  
私は、丁寧に編みこまれた、細かい編み目を手でなぞりながら呟いた。  
 
ふいに頭痛がひどくなってきたような気がして、  
私はアスピリンを取り出すと、乱暴に口に放り込んだ。  
 
 
翌朝、彼は、SC室に来なかった。  
 
それが、昨日の出来事のせいなのか、他に用事があったせいなのか分からない。  
でも、もし、彼がこのまま二度とSC室を訪れなかったら…。  
ふいに胸がしめつけられ、私は、そんな自分の心の動きに驚いた。  
 
―――毎朝、彼の口から聞かされた思いも寄らない絶望の数々。  
面倒だと思いながらも、彼が、嬉しそうにSC室を後にするときは  
いつも、どこか心が満たされているのを感じていた。  
 
あれは、きっと、カウンセリングがうまくいったことへの自己満足。  
単に、それだけのこと。  
そのはずなのに、何故私は、それがなくなるかもしれないという予感に、  
こんなにも怯えているんだろうか…。  
 
SC室でぼんやりと考え込んでいると、窓の外から歓声が聞こえてきた。  
見下ろすと、窓の下、彼のクラスの生徒達がサッカーをしていた。  
 
彼は、相変わらず、生徒達に囲まれてそこにいた。  
1人の生徒に頭にボールをぶつけられ、「死んだらどーする!」と叫んでいる。  
余りにいつもどおりの彼の姿に、私は思わずくすりと笑った。  
 
と、彼が、突然こちらを見上げた。  
彼と、目が合った、ような気がした。  
 
ガターーーーーン!  
 
椅子が音を立ててひっくり返る。  
私が、体を引いて立ち上がったからだ。  
 
心臓が止まるかと思った。  
―――なんなの、これは。  
こんな感情、今まで経験したことがない。  
混乱の余り叫び出しそうだった。  
 
と、そのとき  
「何か派手な音がしたけど…。」  
怪訝な顔で、命先生がSC室のドアから顔を覗かせた。  
「あら、命先生。」  
私は、慌てて、倒れた椅子を起こすと体勢を整えた。  
 
「今日は何か?」  
「いや、ちょっと学校に用事があったんで、寄ってみただけで…。」  
「…また、お誘いですか?」  
妖しく笑って見せると、命先生は苦笑して手を振った。  
「いやいや、さすがにもう懲りた。私も長生きしたいし。」  
「ま、なんて失礼な。」  
 
感情を伴わない軽口の応酬が心地よい。  
命先生は、基本的に私と同類の人間だと分かっていた。  
上辺はにこやかに接しながらも、決して相手のテリトリーに踏み込まず、  
そして、自分のテリトリーにも立ち入らせない。  
本来、私が理想とする人間関係はこうあるべきだったはずなのに。  
 
再び、外から歓声が上がった。  
視線を窓の外にやると、そこには、生徒達に文句を言っている彼の姿。  
―――さっき、目が合ったと思ったのは、錯覚だったのかしら…。  
 
しばらくの間、命先生がそこにいるのを忘れていた。  
はっと気づくと、命先生が私のことをじっと見ている。  
慌てて「お茶でもいかがですか?」と声をかけた。  
 
命先生は、私の言葉に答えずに、私の顔をまじまじと見ていた。  
「もしかして…また、私はあいつに負けたのかなぁ…。」  
命先生の不可解な呟きに、私は眉を上げた。  
 
「ま、あいつも今回の件ではかなり落ち込んでたみたいだからな…。  
 ここは、ひとつ兄として祝福してやるとするか。」  
ぶつぶつ独り言を言うと、命先生は私を見てにやりと笑った。  
「智恵先生、うちの不肖の弟を、末永くよろしく頼みます。  
 ただ、あいつは私よりも体力がないんで、あっちの方はお手柔らかに。」  
「え…。」  
 
私は、命先生を呆然と見返した。  
次の瞬間、顔が真っ赤になったのが分かった。  
 
命先生は、再び私の顔をまじまじと眺めると、  
「へぇ…いいもん見させてもらったなぁ…。それじゃ、また。」  
楽しそうに笑うと、後ろ手を振って出て行った。  
 
―――なんてこと。  
私は、へなへなと椅子に座り込んだ。  
命先生の言葉で、自分の中に浮かび上がった感情の名に、私は首を振った。  
 
―――そんなこと、あるはずがない。  
あるはずがない、なのに、何故、私はこんなにも混乱しているのだろう。  
まがりなりにもカウンセラーの資格を持つ人間が、情けない。  
 
彼を毎朝楽しみに待っていた、この感情は、  
カウンセラーとしての自己満足、それだけのはずなのに―――。  
 
机に突っ伏していると、再びSC室のドアが開いた。  
命先生が帰ってきたかと思って顔を上げた私は、思わず手を口に当てた。  
―――そこには、思い詰めた顔をした彼が、立っていた。  
 
私は、言葉もなく彼を見つめていた。  
 
「今、下で、兄さんと会って…。」  
彼は、そう言うと下を向いて唇を噛んだ。  
私が黙っていると、彼は顔を上げた。  
「私は…兄さんとあなたとの間に口出しする、何の権利もありません。  
 でも、兄さんがあなたに会いに来ていると知ったら…やはり…。」  
もどかしげに手を振り回す。  
「うまく言えないんです!私は…。」  
 
私は、次の瞬間、ほとんど何も考えずに行動していた。  
 
無言で立ち上がり、彼に歩み寄ると、彼を見上げた。  
そして、彼の頬に手を伸ばし、ゆっくりと口付けた。  
 
彼は、目を見開いて、私の口付けを受けていた。  
ようやく唇を離すと、ぼんやりと私を見返す。  
 
「あの…智恵先生?」  
「はい?」  
「今のは…その、ええと…?」  
「…。」  
 
私は、答えなかった。  
―――自分でも、今の行動に、答えを与えることができなかった。  
 
しばらく、私達の間に沈黙が落ちた。  
私を見つめる彼の目の色が、ふいに深みを増した。  
 
「智恵先生…!」  
いきなり、彼が、私を抱きしめてきた。  
そして、私の唇に彼の唇を強く押し付けてくる。  
私も、ためらうことなく彼の背中に手を回すと、彼の口付けに答えた。  
 
そうしてみて、初めて分かった。  
私は、彼とずっとこうしたかったのだ。  
彼と唇を合わせ―――そして、全てを重ね合わせたかった。  
 
私達は、お互いの体を抱きしめながら、激しく舌を絡ませ合った。  
徐々に、もどかしい気持ちが我慢できなくなり、私は彼の袴の帯に手をかけた。  
彼は、驚いたように一瞬体を離したが、目を細めると、  
いきなり私を床に押し倒した。  
 
そのまま、彼の手が私のブラウスのボタンにかかり、私は、彼の袴の帯をほどく。  
 
ふと、自分の余裕のなさにおかしくなった。  
いい大人が、床の上でなんて―――まるで、思春期の少年少女のようだ。  
 
くすくすと笑い出した私を、彼が心配そうに覗き込んだ。  
私は、何でもない、と首を振ると、彼に再び口付けた。  
 
着物を脱いだ彼の体は、思ったよりもしっかりとしていた。  
その腕に力強く抱きすくめられて、頭に霞がかかったようになる。  
私は、夢中で、彼の肌を唇でまさぐった。  
 
今まで、性の快楽はさんざん味わってきたつもりだったけれど、  
こんなにも逸る気持ちで誰かと体を重ねたことはなかった。  
 
彼の息遣いが荒くなる。  
私も、絶え間ない彼の手の動きに、既に息を切らしていた。  
 
いつもなら、主導権を握るのは常に私。  
相手の男を、焦らしに焦らした挙句、先に果てさせる。  
そうして手にした圧倒的な支配力で、男達の上に君臨するのが心地よかった。  
 
でも、今は、彼の愛撫に、ただ声を上げるだけ。  
彼を焦らすことなんて思いも寄らなかった。  
 
―――私は、知らなかった。  
人に抱かれるということが、こんなにも心震えるものだということを。  
そして、感情がこんなにも感覚に影響を及ぼすということを。  
 
彼の指が私の中に入ってきた。  
「…っ!ぁぁっ!!」  
思わず、大きな声が出てしまう。  
 
彼が、顔を上げて私を嬉しそうに見た。  
顔が熱い。  
 
「…聞かせて下さい、もっと…!」  
彼は、私を強く抱きしめると、さらに指を奥に進めた。  
 
「だ、だめ、はぁ…っ、あ、ぁぁぁぁああ!!」  
目の前に火花が散って、私は大声を上げた。  
相手より先に、自分が昇り詰めてしまうなんて、初めてのことだった。  
 
胸を波打たせて、彼を見上げる私に、彼は荒々しく口付けると、  
「いいですか…?」  
と、尋ねると、私の中に入ってきた。  
 
「ん、くぅ、ぁああ!!」  
心も、体も、全てが彼でいっぱいになる。  
私は、また、大きな声を上げた。  
 
「ああ……智恵…!」  
彼が、私の名を、うわごとのように呟いた。  
そのかすれた声が耳朶を掠めた瞬間、体の奥に痺れが走った。  
 
「はぁ、はっ、ぁあっ!」  
体中の、どこを触れられても気持ちが良くて気が狂いそうになる。  
人の手が、体が、こんなにも快感をもたらすものだなんて。  
本当に、私は、人について、何も分かっていなかった―――。  
 
私は、目を開けて、彼の顔を見上げた。  
彼は、目をほとんど閉じて、頬を紅潮させている。  
その額には、汗が伝っていた。  
 
―――この顔を、いつまでも覚えていよう。  
初めて、体を交わした瞬間の、彼の顔を。  
 
訳も無く涙が出てきて、私は、手を伸ばすと彼を抱きしめた。  
彼は、一瞬驚いたように動きを止め、すぐに強く抱きしめ返してきた。  
 
「智恵…愛してます…愛してます!!」  
 
―――その言葉に返す答えを、私は持っているのだろうか…。  
 
もう何も考えられなかった。  
ただ、最後の瞬間に、  
気が遠くなるような幸福感に包まれたことだけを、覚えている―――。  
 
 
ふと我に返ると、私は彼の腕の中だった。  
彼が私の髪をそっとなでている。  
なんだか、くすぐったい気持ちが溢れてきた。  
 
顔を上げると、彼が、面映そうに目を伏せた。  
「あの、すいませんでした…どうにも、夢中になってしまって。」  
私は、首を振ると彼の胸に頭を寄せた。  
「全然…私も、同じだったもの。」  
 
そのまま、うっとりと目をつぶっていると、  
「あの、智恵先生…。」  
彼が、おずおずと声をかけてきた。  
「…これきり、てことは…ない、ですよね。」  
―――この期に及んで、この人は…。  
私は、くすりと笑うと彼を見上げた。  
 
「先生ご自身は、どうされたいんですか?」  
「…。」  
 
彼は、しばらく黙っていたが、やがて息を大きく吸うと言った。  
「…私は、あなたを、兄さんにも、他の誰かにも渡したくはありません。」  
―――命先生には、先ほど丁重にお断りされたばっかりだけど…。  
彼の言葉に、私は、心の中でこっそりと呟く。  
 
彼が起き上がり、私の手を取った。  
「私だけの、智恵先生になってくれますか?」  
「…。」  
私を見下ろす彼の目は、不安げに揺れている。  
 
―――人を、心から愛したことなどなかった。  
愛情なんて、自分の人生にはいらないものだと思っていた。  
けれど…。  
 
私は、彼の目を見た。  
―――私は、この人を、愛している…?  
今まで経験したことのない感情が、私の中に生まれていた。  
それを、愛と名付けてよいのか、今はまだ分からないけれど―――。  
 
私は、彼に向かって微笑むと、はっきりと答えた。  
「ええ―――喜んで。」  
 
 
 
 
 
 
「弟さん、あの美人のSCの先生とお付き合いしてるんですね。  
 この間、お2人で腕を組んで歩いてるのお見かけしましたよ。」  
看護師の言葉に、診療室に座っていた命は面白くなさそうな顔で頷いた。  
「全くなぁ…結局こうなるとは。」  
看護師は、そんな命を、少し口を尖らせて見下ろした。  
「そんな顔して…。先生、もしかして、やきもち焼いてます?」  
 
命は驚いた。  
「やきもち!?…私が!?」  
冗談じゃない、と命は思った。  
良い女だとは思ったし、体の関係も結んだが、彼女に対して恋愛感情はない。  
そもそも命は、いまだかつて、女性に特別な気持ちを持った記憶はなかった。  
 
―――しかし。  
最近の、幸せそうな弟の姿が脳裏に浮かぶ。  
 
「…人を好きになる、っていうのは、どういう気持ちなんだろうな…。」  
ぼんやりと呟いた命に、看護婦は目を丸くした。  
「えええ、何を言ってるんですか。好きは好き、じゃないですか。  
 その人を思うと心がほんわか温かくなったり、とか…  
 そういう気持ちになったこと、ありません?」  
「ほんわか…?」  
命は、きょとんとした顔で看護師を見上げた。  
看護師は急に赤くなり、  
「あ、わ、私、そういえば、掃除の途中だったんです!」と診療室を出て行った。  
 
「なんだ、今のは…。」  
命は、首をかしげて看護師の出て行ったドアを見ていたが、  
「ほんわかした気持ちねぇ…。」  
と呟いた。  
 
―――あの子は、それこそ何だかいつもほんわかしてる感じだけどな…。  
 
命は、明るい顔で動き回る看護師の姿を思い浮かべ、くすくすと笑った。  
そんな自分が、最近の弟と同じ顔をしていることに、命は全く気づいていなかった。  
 
 

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