「ふう、これでひと通り終わったかしら…。」  
私は1人、SC室で、出来上がった資料を整えると息をついた。  
時計を見上げると、既にかなり遅い時間になってしまっていた。  
 
そのとき、ドアが開き、彼が顔を覗かせた。  
「智恵先生。お仕事終わりましたか?」  
「ええ、もうほとんど…。」  
「あとで、私の部屋にいらっしゃいませんか?  
 実家からワインを何本か持って帰ったんですよ。」  
 
はにかみながら微笑む青年は、2年へ組の担任教師。  
彼は現在、この学校の宿直室に住み暮らしており、その代わりに  
学校内の見回り、戸締りなど用務員のような仕事も引き受けていた。  
 
そして、彼は、目下のところ私の恋人でもある。  
 
「ええ…そうね…。寄らせていただくわ。」  
私は、あいまいに微笑んだ。  
 
彼が嬉しそうな顔を引っ込めると、  
私は、小さくため息をついて、手早く残り仕事を片付けた。  
 
帰り支度を整えて階下に降り、  
宿直室のドアをノックすると、彼の声が返ってきた。  
「ああ、どうぞ、お入り下さい智恵先生。」  
「おじゃまします、糸色先生。」  
 
付き合うようになって日が浅いせいか、彼は私のことを律儀に智恵先生と呼ぶ。  
そのため、私もつい、彼のことを糸色先生と呼んでしまう。  
 
「交君は?」  
「あいつは、今日は倫の家ですよ。あ、ワイン、これでいいですか?」  
 
私は、狭い部屋のちゃぶ台の上に目をやって、絶句した。  
ちゃぶ台の上に抜栓して置いてあるのは、なんとDRCのモンラッシェ。  
そういえば、彼は良家のお坊ちゃまだったのだ…。  
しかし、その横にあるのは、まるで学食に置いてあるようなコップだった。  
 
「先生…いくらなんでも、このワインに、このコップって…。」  
「え?ああ、今、ここにはそれしかないんですよ。」  
彼は、全く意に介さないように、ワインをコップに注ぐと、私に差し出した。  
私は、思わず苦笑してそれを受け取った。  
 
「乾杯。」  
ゴッ、と鈍い音をさせてコップを合わせると、口にワインを含んだ。  
樽のきいたシャルドネの、馥郁たる香りが口の中に広がる。  
 
安っぽいコップで飲む、途方もなく高価なワイン。  
このアンバランスさは、まるで彼を象徴しているようだった。  
子供のような無邪気さと、ガラスのような繊細さを併せ持つこの人に、  
私はここのところ、振り回されっぱなしだった。  
 
「うん…これで飲んでも、十分に、おいしいですよ。」  
彼は私を見て、にっこりと、満面の笑みを見せた。  
 
その笑顔に、突然、きゅ、と胸がつかまれるような気がした。  
鼻の奥が、つんと痛くなる。  
 
―――ああ、まただ。  
 
最近、彼の表情の1つ1つに感情が揺さぶられる。  
理由もなく、泣きたくなる。  
こんなことは今までになかったことだ。  
 
彼のちょっとした表情や些細な言動で、  
幸福の絶頂に上るかと思えば、次の瞬間、不安でたまらなくなる。  
経験したことのない感情の乱高下に、私は、ほとほと疲れていた。  
 
そのまま2人で、彼が用意したチーズとともにワインを飲んでいたが、  
しばらくすると、彼がコップを置き、私を熱い目で見た。  
 
「…智恵。」  
その低い声に、私の体の芯に電流が流れた。  
 
彼が私を呼び捨てにするのは、体を合わせるときだけだった。  
そのときだけは、彼は、はにかみやの青年から、猛々しい雄になる。  
 
これも、私が翻弄されている彼のアンバランスの1つだった。  
 
口付けは、ワインの香りがした。  
彼の舌が私の口内で動き、酔いが回った体に快い痺れが走る。  
私は、彼の眼鏡をそっと外した。  
 
彼が、唇を合わせたまま私を畳に押し倒した。  
その手は、忙しなく私のブラウスのボタンを外していく。  
前から思っていたけれど、彼は、女性の服を脱がすことに慣れている。  
人のことは言えないけれど、彼の過去に、ちり、と胸が焼けた。  
 
ふいに悔しくなって、起き上がると彼の着物の襟に手をかけた。  
彼は、悪戯そうな顔で私の両手をとると、再び私を押し倒した。  
 
「駄目ですよ…私の方が先です。」  
そう言いながら、彼が両手で私の胸を柔らかく挟んだ。  
彼は、私の胸にこうやって顔を埋めるのが好きだった。  
 
胸元を強く吸われて  
「ん…っ。」  
思わず、吐息が漏れた。  
彼が唇を離したところに、紅い跡が残る。  
 
「ああ…智恵…。」  
彼が、私の胸を指と唇で味わい始めた。  
与えられる刺激に、息が上がる。  
 
ところが、しばらくして、  
「…なんで、声、出さないんですか…?」  
彼が顔を上げると、不満そうに尋ねた。  
 
「…。」  
最近、いつも、私は声を出すのを必死に抑えていた。  
声を上げてしまうのは、何だか彼に負けているみたいで悔しかった。  
これ以上、彼に翻弄されている自分を自覚したくなかった。  
 
私が横を向いて黙り込んでいると、  
「そういう強情を張っていると、こうですよ。」  
彼が、私の敏感な部分に指を押し当てた。  
「…っ!!ぁあっ!!」  
思わず、声が漏れてしまう。  
 
「ほら…もう、こんなになってるのに…どうしてそんなに我を張るんですか。」  
そう言いながら、彼は、指をさらに奥に進めた。  
彼の長い指が、私の中で微妙に動く。  
「やぁ…ん…。」  
もどかしい思いに、たまらず体をくねらせると、  
彼がにこりと笑って指を強く私の中にこすりつけた。  
「んん…あ、そこ、あああっ!」  
私は、体をのけぞらせて叫んだ。  
 
彼は私に口付けると囁いた。  
「良い声ですよ…。」  
悔しい、けど、いつも結局こうなってしまう。  
「んっ…はぁ…あ、だめ、ぁあ…っ!」  
今日も、私は、そのまま彼の指の動きに促され、先に昇り詰めてしまった。  
 
息を切らしていると、「智恵…」と彼が小さく呟いて、私の中に入ってきた。  
「…ぁっ。」  
昇り詰めて敏感になったところを突かれ、快感に自分の内部が収縮するのが分かる。  
「いいですよ…智恵、すごく、いい…。」  
彼の、興奮に掠れた声に、耳朶が痺れる。  
 
それでも、必死に声をかみ殺していると、彼がふと動きを止めた。  
「そんなに声を出したくないんだったら、…やめますか?」  
そういいながらも、指を私と彼がつながっている部分に伸ばし、蠢かす。  
 
激しい快感がつま先から頭の先までを駆け抜けた。  
「あ、ぁぁぁぁあああ!」  
もう、私は完全に壊されていた。  
「いや、お願い、やめないで、もっと…!」  
恥も外聞もなく、彼にねだるのを止められない。  
 
彼が熱の篭った目で私を見つめた。  
その視線に、背中に快い刺激が走る。  
 
「そう、そういう智恵の方が、素直で好きですよ…。」  
そう言うと、彼はぐい、と強く私を抉った。  
「――――!!!」  
声にならない歓喜の悲鳴が漏れる。  
 
私は、彼に翻弄され続け、  
どこまでも底のない世界へと落ち込んでいった。  
 
 
翌朝。  
「…せい、智恵先生!」  
 
私は、SC室の椅子の上で飛び上がった。  
机の上からカルテがバサバサと落ちる。  
 
「…どうしたんですか?智恵先生らしくない。」  
目の前にいる少女が、慌ててカルテを拾い集める私を不審そうに眺めた。  
 
「え、ええ、ごめんなさい…ちょっと頭痛がして…。」  
私は必死にごまかした。  
最近、彼と身体を重ねた翌日は、大抵こんな状態だった。  
あのときの、彼の表情、彼の仕草が何度も目の前をちらついて離れない。  
結果、仕事が手に付かなくなってしまうのだ。  
 
少女は、首を傾げたまま私に尋ねた。  
「大丈夫ですか…?私、出直したほうがいいですか?」  
私は、髪を額の真中で分けている几帳面そうな少女に向かって微笑んで見せた。  
「大丈夫よ、木津さん。話してちょうだい。」  
そう言いつつも、私は憂鬱な気分が湧き上がってくるのを感じていた。  
 
彼女の相談内容は想像できた。  
彼女は以前から、担任教師に特別な思いを抱いている。  
彼女だけではない。  
彼のクラスには、他にも彼を追いかけている女生徒は多数いて、  
その子達が入れ替わり立ち代わり、私のところに悩み相談に来る。  
 
彼女達を脅威に感じているわけではない。  
ただ、最近は、彼女達の相談を聞いているうちに、いつのまにか  
私自身が、記憶の中の彼の一挙手一投足を追っていて、  
カウンセリングがおろそかになってしまうことが多いのだ。  
 
―――いけない…私はカウンセラーなのに…。  
 
結局、木津さんの話は半分も頭に残らなかった。  
まあ、彼女自身は、胸の中のもやもやを吐き出したかっただけのようで、  
案外、すっきりした顔で帰っていったのだけれど…。  
 
私は、彼女が帰った後、しばらく両手の中に頭を埋めていた。  
 
―――このままじゃ、私は、ダメになってしまう。  
 
今の私は、全てが彼中心に回ってしまっている。  
生活も、仕事も、何もかも。  
 
こんなにも他人に属してしまったことはなかった。  
私が、私ではなくなってしまったかのような感覚。  
それは、ものすごい恐怖だった。  
 
この間から、ずっと考えていたことを、今、また思い返す。  
 
これ以上、彼と付き合っていたら、私は、自分が保てなくなってしまう。  
自分が自分のままでいるためには…。  
 
―――彼と、離れるしかない―――  
 
私は、決心した。  
 
 
 
 
 
「別れてください。」  
「え…?」  
 
 
 
 
 
別れを告げたときの彼の顔を、私は二度と忘れることはできないだろう。  
「ど…し、て…。」  
言葉を詰まらせながら尋ねる彼から、私は顔をそむけた。  
 
「縁がなかったと思って…あきらめてください…。」  
「智恵先生…!?」  
 
私は、その場から逃げるように彼に背中を向けて立ち去った。  
 
 
翌日、彼は学校を休んだらしい。  
少し心配だったが、その次の日から、彼は普通に学校に来るようになった。  
 
でも、あの日以来、彼が私と言葉を交わすことはなくなった。  
彼は、職員室で私と会っても、私がその場にいないかのように振舞う。  
 
私自身、彼と顔を合わせるのは辛かったので、その方が都合が良かった。  
もちろん、胸の痛みは感じるが、それは、十分予想していたことだ。  
痛みは、時が癒してくれる。  
そして、やがて私には、以前のような、退屈だけど平穏な生活が戻ってくる。  
自分自身を取り戻せる。  
―――――はずだった。  
 
なのに。  
私は、いつまでたっても、不安定なままだった。  
何かが、おかしい。私が考えていたのとは違う要因が交じっている。  
―――何でかしら…きちんと考えて、分析しないと…。  
 
そう思いつつ、今日も私は、ぼんやりと部屋で頬杖をついていた。  
 
と、コンコンとドアがノックされた。  
入ってきた人の顔を見て、一瞬私は、彼かと思って息を飲んだ。  
しかし、それは、彼の兄の命先生だった。  
 
「命先生…?」  
「ちょっと、話したいことがあってね…。」  
命先生は、かつてない、冷ややかな空気を身にまとっていた。  
私は、もしかしてこれが本来の彼の姿なのかもしれない、とふと思った。  
 
命先生は、つかつかと机を回りこみ、私の横に来ると、私を見下ろした。  
 
「君は、望に、いったい、何をしたんだ。」  
「…え…何って…。」  
「奴が、最近飯を食ってないのを知ってるかい?」  
「…!」  
 
そういえば、最近、すこしやせたみたいだとは思っていた。  
しかし、なるべく顔を合わせないようにしていたから…気が付かなかった。  
 
「おかげでこっちは、毎日、嫌がる奴にブドウ糖注射を打つはめだ。」  
「…。」  
黙っていると、命先生が私の両腕を強い力でつかんで立ち上がらせた。  
私は、思わず「痛っ!」と声を上げた。  
 
命先生が、私に顔を寄せ、低い声で囁くように言った。  
「君と私とは、似てるんだよ…同じ人種だ。  
 だから、私に対しては、君が何をしようが、それはかまわない。」  
 
命先生の目が一段と冷ややかさを増すと、ぐい、と私を壁に押し付けた。  
「だが、弟は違う。奴は、未熟者なんでね、私みたいに器用じゃないんだ。  
 ……遊び相手だったら、他の奴を選んでくれないか。」  
 
―――遊ぶだなんて…。  
私は、声もなく必死に首を振るだけだった。  
 
―――そんなんじゃない…そんなつもりなんか、ない。  
遊べるくらいだったら、別れたりはしなかった。  
むしろ、そんな気軽な関係だったら…いつまでも一緒にいられたのに。  
―――こんな、思いはしないですんだのに。  
 
私の目に涙が盛り上がってきた。  
 
命先生は、私の顔を見て、びっくりしたように私の腕を離した。  
私は、その場にしゃがみこみ、両手で腕を抱えうずくまった。  
 
胸がつぶれそうに痛い。  
 
私は、今まで認めたくなくて目をつぶっていたことを認めた。  
本当は、もう、とうに分かっていたのだ。  
 
―――私は、取り返しのつかない過ちを犯してしまった。  
 
自分が保てないからと言って別れたはずだったのに、  
彼と別れた後に残った私は、ただの抜け殻だった。  
保つべき自分なんて、もはや、どこにもなかった。  
 
―――私は、いったい、今まで何を学んで生きてきたんだろう。  
彼と出会ってからというもの、私は、何一つ正しいことをしていない気がする。  
 
うずくまってすすり泣く私を、命先生は、黙って見下ろしていたが、  
やがて、盛大にため息をついた。  
 
「まったく、なんてことだ。  
 君は…もしかして、望以上に、不器用なのかもしれないな…。」  
 
私は、涙に濡れた顔を上げた。  
 
命先生は、あきれたような顔で私を見ると、頭をかいた。  
「やーれやれ…本当に、いい大人が2人揃って何をやってるんだか…。  
 仕方ないな、今回だけは、私が一肌脱いでやるか…。」  
毎晩、奴に注射するのもいい加減面倒だしな、と先生は呟いた。  
 
「君は、本心は、望と別れたいと思ってないんだろう?」  
私は、命先生から目をそらせると、小さく頷いた。  
「だったら、望にそう言って、やり直せばいいだけの話じゃないか。」  
こんな簡単なことがあるか、と命先生は腰に手を当てた。  
 
「そんな…私のしたことは、許してもらえるようなことでは…。」  
命先生の目がすっと細められた。  
「だったら、許してもらえるまで、謝るんだ。  
 土下座でも何でもして、謝ればいいじゃないか。」  
「…。」  
「君が謝るのが苦手なのは分かる…私もそうだからな。  
 しかし…君が、本当に望のことを想っているのであれば…。」  
「…。」  
「頭でいろいろ考える前に、自分の気持ちを伝えてみろ。」  
 
―――まだ、やり直せる…?  
命先生の言葉に、私の胸に、小さな希望の灯がともった。  
 
 
 
「さ、どうぞ…散らかってるけどね。」  
私は、糸色医院の、命先生の診療室に通された。  
 
「あいつは、最近、毎晩この時間にうちの医院に来ることになってる。  
 それだけは、ほとんど脅して納得させたからな。」  
私はハンカチを握りしめて、命先生の顔を見た。  
命先生は、私の顔を見返して、小さく笑った。  
「そんな顔をするな。君らしくない。」  
 
と、診療室の外から、医院の扉が開く音がした。  
「…来たみたいだな。とりあえず、そこの影にでも隠れててくれ。」  
私は、命先生に言われたとおりに、ついたての後ろに回りこんだ。  
 
「よしよし、今日もよく来たな。私はちょっと用事があるから、  
 先に診療室で待っててくれ。」  
「用事…?この時間に私が来ることは分かってるはずでしょうに。」  
表で、不機嫌そうに命先生と話す彼の声が聞こえる。  
 
ガチャリと音がして、彼が部屋に入ってきた。  
後ろ手にドアを閉め、ため息をつくと患者用の椅子に腰掛ける。  
 
心臓がどきどきする。  
彼は、私と話をしてくるだろうか…。  
 
「糸色先生…。」  
私は、意を決して、ついたての後ろから歩み出た。  
 
「―――!!」  
私を見た彼の表情が、たちまちのうちに硬化する。  
その彼の表情を見ただけで、私は、自分の中の勇気が挫けるのを感じた。  
 
「智恵…。」  
彼の声は、ほとんど囁きのようだった。  
次の瞬間、彼は、踵を返し、私に背中を向けた。  
そして、診療室のドアノブに手を伸ばす。  
 
―――ああ、やっぱり…。  
分かっていたこととは言え、絶望感に目の前が暗くなった。  
 
しかし、ドアは、開かなかった。  
「!?」  
彼が、焦ったようにガチャガチャとドアノブを回す。  
小さく舌打ちをすると、バンバンとドアを叩き始めた。  
「兄さん!いったい何のつもりですか!!ドアを開けてください!」  
 
外から、のんびりとした命先生の声が聞こえてきた。  
「しばらくしたら開けてやるから、それまでは、そこにいろ。  
 ―――お前ら、もっと話し合いが必要だ。」  
 
「―――!!」  
バ ン !!  
彼は、苛立たしげに、両手の拳で診療室のドアを思い切り叩いた。  
その音に、私は思わず身体をすくめた。  
 
彼は、しばらくドアに両拳を当てたままの姿勢で静止していたが、  
やがて、ゆっくりとこちらを振り向いた。  
 
「そこまで言うんだったら、話をしましょうか…。  
 もっとも、私とあなたの間に、これ以上話すことがあるとは思えませんが。」  
彼の目は、さっきの命先生よりもさらに冷たい色をしていた。  
 
―――この人に、こんなに冷たい目ができるなんて知らなかった。  
私の記憶にある彼は、いつも、優しい目で微笑んでいたはずなのに。  
 
「…ごめん、なさい。」  
私は、彼に頭を下げた。  
 
彼は、私から目をそらせた。  
「別に、謝ってなんかもらわなくても、いいですよ…。  
 私は、もう、あなたに振り回されるのはこりごりです。  
 ―――いったい、私を何だと思ってるんですか。」  
   
視線と同じように、冷たい言葉。私は、唇を噛んだ。  
やはり、許してもらおうなんて考えは、どだい甘かったんだ。  
いったい、どうすれば良いのだろう…。  
 
そのとき、命先生の言葉が胸に蘇った。  
―――頭でいろいろ考える前に、自分の気持ちを伝えてみろ―――  
 
そうだ…せめて、自分の気持ちを…彼にきちんと伝えよう。  
そして、それを、彼が受け入れてくれなければ…仕方のないことだ。  
 
私は、息を吸い込んだ。  
「いと…、……望。」  
彼の肩がぴくりと動いた。  
 
「私、あなたを……愛してる。」  
彼が、顔をこちらに向けて私を見た。  
その目には、先ほどと違って、小さなためらいが見えた。  
 
「今まで、こんな感情、誰にも感じたことなんか、なかった。  
 …だから、分からなかったし、怖かったの…この感情が。  
 何よりも、こんなにも他人に囚われてしまっている自分が、怖かった。」  
彼の目が揺れていた。  
 
「このままじゃ、自分が自分でなくなってしまうような気がして…。  
 だから、あなたと離れようと思った…あなたの気持ちなんか何も考えずに。」  
私は自嘲気味に笑った。  
「でも、離れたからって、どうにもなるものじゃないのね…。  
 ―――私が、馬鹿だったの…。ごめんなさい。」  
 
離れたからといって、この感情を止めることはできなかった。  
あなたは、もう私の一部になってしまっていた。  
―――あなたなしでは、私は、もはや、存在することさえできない…。  
 
彼は、何も言わなかった。  
私は、ため息をつくと、小さく笑った。  
仕方ない。  
命先生はああ言ったけれど、取り返しのつかないことだってあるのだ。  
 
私は、彼に向かって微笑んだ。  
「…聞いてくれて、ありがとう。これで、すっきりしたわ。」  
 
そういうと、彼の横をすり抜けてドアに向かった。  
命先生を呼ぶためにドアをノックしようと手を上げると、  
横から、その手をつかまれた。  
 
驚いて振り向くと、彼が、真剣な目で私を見ていた。  
「…望?」  
 
彼は、しばらくそのまま私を見つめていたが、ゆっくりと息を押し出した。  
「智恵…あなたは…私が今まで会った中で、一番の大馬鹿者ですね…。」  
「…。」  
「馬鹿なだけじゃなく、薄情で、自分勝手で…ひどい人です。」  
 
私は、うなだれた。  
 
と、彼が私を引き寄せ、その胸に抱きしめた。  
「なのに…どうして、私はこんなにもあなたが好きなんでしょう…!」  
「―――!!」  
 
私は、何が起きたか理解できないまま、固まっていた。  
 
彼は体を離すと、私の頬に手を添えて、私を仰向かせた。  
「ホントに……私も大概、馬鹿ですけどね…。」  
そう言うと、彼は、まだ呆然としている私に、口付けた。  
 
久しぶりに受ける彼からの口付けは、  
かさかさに乾いていた私の心を、一気に潤すようだった。  
 
彼の口付けはだんだんと深くなり、私を抱きしめる手にも力が篭る。  
ようやく彼が唇を離したときは、私も彼も息を切らしていた。  
 
お互い、熱のこもった目で相手の顔を見つめる。  
次の瞬間、私達は、診療室のベッドの上に転がっていた。  
 
もどかしげに相手の服を脱がせていく。  
外にいる命先生のことなど、そのときは全く頭になかった。  
 
彼の体を見て、私は、彼が随分やせてしまったことに愕然とした。  
自分が彼に対して与えた仕打ちに、胸がずきりと痛む。  
 
と、彼が私を抱きしめながら呟いた。  
「智恵…やせましたね…。」  
え、と自分の体を見下ろした。  
そういえば、自分では気がつかなかったけれど、最近、余り食欲がなかった。  
 
「どうやら、私達は一緒にいないと、栄養的にもよろしくないようですよ。」  
彼が、くすりと笑うと私を見て、柔らかく口付けてきた。  
その余りの甘さに、おいしい…と、思わず心の中で頷いていた。  
 
彼が、私の下肢に手を伸ばしてきた。  
いつものように、私の胸に顔を埋めたりする余裕もないらしい。  
私自身も、一刻も早く彼を体で感じたくて、おかしくなりそうだった。  
 
彼の指が、私の中を掻き分けてくる。  
くちゅ、という水音が響き、私は思わず声を上げた。  
「ぁあ、ああっ!」  
彼が、驚いたように指を止めると、嬉しそうに微笑んだ。  
「今日は、また、随分素直なんですね…。」  
私は、彼を潤んだ目で見上げた。  
「もう、これからは意地を張ったりしない…素直になることに決めたの。」  
 
彼は、目を瞬くと、くすくすと笑い出した。  
「…それはどうですかね…きっと、これからも私達、意地を張り合って、  
 たくさん喧嘩するような気がするんですけど。」  
「それはそうかもしれないけど…でも、すぐに仲直りするわ。」  
私は、彼の目を覗き込んだ。  
 
彼は、私を愛おしそうに見下ろすと、頷いた。  
「そうですね…愛してますよ、智恵。」  
「私も…望。」  
 
「あなたの声をもっと聞きたいのはやまやまですが…兄さんがいますからね。」  
そう言うと、彼は私の口を唇で塞いだ。  
そして、私達は、唇を合わせたまま、体を重ねた。  
 
「ん…っ、あぁ、んん…!」  
「く…ぁあ…!」  
お互いの唇の隙間から、堪え切れない声が漏れる。  
 
彼が私の中ではちきれんばかりになっているのが感じられる。  
そして、私の体がそれに歓喜しているのも。  
 
気が狂いそうな程に互いを求め合い、むさぼり合って、  
私達は最後、同時に昇り詰めた。  
 
 
全てが終わった跡、私は、久しぶりの彼の腕の中で  
幸福でとろけそうな気分を味わいながら、うとうとしていた。  
 
「ねえ、智恵…。」  
そのとき、彼が、ふと口を開いた。  
 
「あなたが、今までの自分でいられないという、さっきの話…。  
 その代わりに、新しいあなたを見つければいいんじゃないですか?  
 どんなあなただろうと、それは、あなたに違いないんですから。」  
私は、思わず彼を見上げた。  
彼は、明るい目をして私に微笑みかけていた。  
 
「…なんだか、糸色先生じゃないみたい…。」  
私が呟くと、彼は照れたように笑った。  
「あなたを失わないためだったら、私だって前向きになります。  
 私だって、少しずつですが、変わってきているんですよ。」  
「…!」  
 
―――ああ、そうか…。  
 
人が出会い、愛し合って、お互いを生まれ変わらせていく。  
人を愛すると言うのは、つまりは、そういうことなのだ。  
そして、それは、なんとも素晴らしいことではないか。  
 
―――私は、いったい、何を恐れていたんだろう…。  
 
私は、嬉しくなって、彼の胸に顔を埋めた。  
彼の匂いに包まれ、私は、確実に自分が変わっていっているのを感じていた。  
 
 
*   *   *   *   *   *   *   *  
 
 
その頃、医院の待合室では。  
 
「…まったく、あいつら…人の診療室で何やってるんだか…。  
 これじゃ、いつまでたっても帰れないじゃないか…。」  
 
ベンチに座り、医院の鍵を指で回しながら、ぼやいている命がいた。  
 
 
 
 
 
翌朝の糸色医院。  
 
看護師が明るい顔で命に挨拶をした。  
「おはようございます、先生。」  
対する命は、余り覇気がなかった。  
「ああ…おはよう。」  
 
「先生どうしたんですか、なんか目が赤いですけど…。」  
「いや、ちょっとした寝不足で…。」  
(結局、あいつら明け方まで帰りゃしないんだから)  
「あらまぁ…。」  
と言いつつ、手早く診療室の掃除を始めた看護師は、突然、動きを止めた。  
「ん?どうした?」  
看護師は、この上なく不機嫌な顔で診察室のベッドを睨んでいた。  
 
「先生…なんで、ベッドのシーツが外れてるんですか…。」  
「え、ああ、これは…。」  
「私、昨日、きれいに整えて帰りましたよ…。」  
「だから、これは…。」  
「しかもベッドの横に、レースのついた、ハンカチが落ちてます。」  
「あ?なんだ、彼女、忘れていったのか?」  
「…先生!!」  
「は、はい?」  
「不潔です!!先生、聖なる職場で…最低ですーーー!!」  
「え?えええええーーー!?」  
 
誤解がとけるまで、命はしばらく、看護師に口をきいてもらえなかったらしい。  
 
 

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