19時41分。  
懐から取り出した懐中時計で時間を確認して、望は小さくため息をついた。  
目の前には期末試験の答案が採点済みのものと未採点のものに分かれて山を作っている。  
(これでやっと、半分ってところでしょうかね)  
眼鏡を外し、目頭を指で揉みながら考える。  
 
期末試験も無事終了し、今日は2のへ組の生徒達が交と遊びに  
宿直室を訪れることになっていた。  
自分も職員会議と期末試験の採点がが終わったら合流すると約束していたのだが、  
思ったよりも会議が長引いてしまい、やっと採点を始められたのはもうすっかり  
窓の外が暗くなってから。  
もっとも、職員会議が予定より長引いたのは留年を繰り返している問題学級・2のへ組に  
ついていろいろと話し合われたせいでもあるので望としては何も言えない。  
 
――今年は進級できそうなんですか、って、そんなこと言われましてもねぇ……。  
眼鏡を掛けなおし、盛大に赤い×印が飛び交っている答案を見て、またため息。  
まぁ、確かに自分がしょっちゅう騒ぎをおこして教室を引っ掻き回すせいで  
授業が遅れ気味なことは否定はしない。だが、真面目に授業をやったところで  
生徒達がそれを真面目に聞くとは限らないのだ。授業中にネーム書きをしている少女やら  
趣味の読書に没頭している少年やらが脳裏をよぎって  
ふっと苦笑しながら1つ大きく伸びをする。  
 
だだっ広い職員室の中には現在、望1人だった。  
他の教師は皆期末試験の答案は自宅に持ち帰って採点するらしい。  
が、望がそれをやろうとすると答案を持ち帰る先は勿論宿直室となるわけで。  
交や霧がいるところで生徒達の答案を広げるのはさすがに気が引けるし、集中できない。  
しかも、今頃は生徒達が持ち込んだお菓子だのカードゲームだので  
ミニパーティー会場と化しているはずだ。  
(まあどのみち、この分だと採点が終わるころには  
 皆さんには帰宅してもらわなければいけませんね)  
霧はともかく――いや、本来なら彼女も問題なのだが――他の生徒達があまり  
夜遅くまで校内に残っているのは問題だし、下校するにも危険な時間となる。  
約束を破るのは若干心苦しいものがあるが、まぁ仕方が無い。  
とにかく早く採点を終わらせようと、未採点の答案に目を移し――  
そこで望の動きが、ふと止まる。  
 
風浦 可符香(P.N.)  
 
答案の名前欄に丁寧な字で書かれた、1人の生徒の名前。  
 
『先生、大好きです』  
何の前触れもなく、急に思い出す、真っ直ぐな愛の告白。  
望の表情が、曇る。  
 
風浦可符香は、自分にとって特別な生徒だと、少なくとも望はそう思っていた。  
数週間前、望と彼女はお互いの好意を伝え合い、体を重ねた。  
そこまでは良い。いや、社会的に問題だとかどうとか、そういうのはこの際置いといて。  
ここ数日でやっと『淫乱教師、教え子中学生に猥褻行為』だの  
『女子更衣室を盗撮で現役講師逮捕』だのというニュースが流れても挙動不審にならずに  
落ち着いて行動できるようになった、それもまぁ、良いことだと思う。  
廊下でふとすれ違う時や、授業中に目があった時、可符香がこちらに向けてくれる  
にっこり笑顔が、ただのポジティブ笑顔とは違うものになった――それも  
きっと自惚れではないと思える。  
 
問題は、自分がそれに対して何も応えられていないことなのだ。  
 
未だデートもしていないし、あれ以来口付けもしていない。  
彼女の体に指一本触れていない。  
それどころか、改めて好意を伝えてすらも、いない。  
――赤ペンを机の上に置く。  
 
彼女ぐらいの年頃ならば、曲がりなりにも恋人となった男性にいろいろと  
求めるものもあるでしょうに。  
いや、確かに時折キラーパスに近いものは感じますけど、それに表立って応えるわけにも  
いかないんですけれども、あまりに余所余所しくなってませんかね、最近の私。  
せめて2人でプライベートで会う時間を作るぐらいしないと、風浦さんだって  
寂しがるかも知れませんし、そうでなくたってある意味体から始まった  
お付き合いなんですから、ちゃんとフォローしてあげないと不安だって――  
 
違う。  
口の中だけで小さく呟く。  
 
寂しくなっているのは、私だ。  
不安になっているのも、私だ。  
それをいかにも彼女のためのように言い訳するなど、相変わらず偽善者ですね、私は。  
両手で頭を抱える。  
だって、そうじゃないですか。あれっきり何もしてあげられてないなんて、まるで――  
 
(ヤリ逃げじゃ、ないですか……)  
 
頭の中に浮かんだ表現に、望は苦虫を噛み潰したような表情になった。  
そういうつもりで彼女を抱いたわけでは、決して無い。いい加減な気持ちや  
アリアリと流されるような気持ちもこれっぽっちも無かったと断言できる。  
だが、そういう評価が下っても仕方がない行動しか取れていないということも、  
情けないことに事実だった。  
 
 
情けない、本当に、情けない――  
 
「絶望した!」  
「何にですか?」  
「うぉわあぁあ!?」  
決め台詞に間髪入れずに入った合いの手に、驚きの声を上げながら立ち上がる。  
どこかで『主人公、かっこ悪い!』と高らかに笑う妹の声が  
聞こえたような気がするが、振り向いた先に立っていたのは――  
「風浦、さん……あ、貴女、何時の間に!?」  
「嫌だなぁ、今普通に職員室の入り口から入ってきたじゃないですか」  
言いながら望の隣の席の椅子を勝手に持ち出して腰掛ける可符香。  
ひょいと答案を覗き込んで「あ、私のですね」などとあっけらかんと言っていたりする。  
「まだ未返却どころか、未採点の答案を見るのは感心しませんよ。  
 他の皆さんの答案もあるわけですから」  
慌てて注意すると、はいと素直な返事の後でまだ立ったままの望を  
下から興味深そうに見上げてくる。  
「それで、先生何に絶望してたんですか?うちのクラスの平均点ですか?」  
「いえ、そういうわけでは……って、貴女もさりげなく絶望的な発言をしてくれますね」  
確かにそちらもなかなかに絶望的であるが、あの会議の後ではある意味笑えない。  
だからと言って素直に『貴女とのことで悩んでました』とも言えない。  
大したことではありませんよ、などとごにょごにょ呟きながら椅子に腰掛け、  
さりげなく机の上の答案を可符香から遠ざけながら話しかける。  
「それで、何か――」  
御用ですか、と言いかけた望の手元に、そっとビニール袋に入った煎餅が数枚置かれた。  
「差し入れです。先生が来る頃には多分何もなくなっちゃってますから」  
「ああ……ありがとうございます」  
にっこりと微笑む少女に、ほんの少しだけ望の頬に朱が差した。  
嬉しさと照れ臭さを誤魔化すように無意味に赤ペンを弄びながら呟く。  
「何だか、申し訳ないですね。これだけのためにわざわざ」  
「嫌だなぁ、気にしないで下さい。お煎餅渡すためだけに来たんじゃないんですから」  
ににこにこ笑いながら答えると、可符香はくるりと椅子ごと望に向き直った。  
「先生が、私に会えなくて寂しがってるんじゃないかと思いまして」  
 
――頬の朱が、一気に広がったような気がした。  
 
「あれ、ひょっとして正解ですかぁ?」  
くすくす笑いながら悪戯っぽく尋ねてくる目の前の少女から慌てて  
顔を背けて、着物の袖で顔を隠す。  
「な、何をおっしゃるんですか」  
「じゃあ、袖どけて下さい。顔見せて下さい」  
「拒否します、断固拒否します!」  
「白状しましょうよぉ先生、カツ丼ありますよ」  
「あれって自腹なんですよ!そもそもこの場にあるわけないでしょーが!」  
「顔、見せて下さい。先生」  
 
可符香の手が、そっと着物の袖を握る。  
 
「せっかく先生に会いに来たんですから」  
 
ゆっくりと、望は袖を下ろした。  
何時の間にか立ち上がっていた可符香が、一歩、二歩、望に近付く。  
そのまま、すがりつくように椅子に座ったままの望の肩口に顔を埋める。  
 
――そう、ですよね。  
 
そっと、その華奢な体に腕を回して抱き締める。  
 
 
――私が寂しくなっているのに、貴女が寂しくないわけ、ないじゃないですか。  
 
 
「顔、見てないじゃないですか」  
「いいんです、心の目で見てるんですから」  
心の目ですか、と苦笑して、宥めるようにそっと頭を撫でてやる。  
少しの間、穏やかな時間が流れる。  
「……風浦さん」  
「なん、ですか?」  
 
会いに来てくれて、ありがとうございました。  
寂しい思いをさせて、申し訳ありません。  
 
言いたいことは山ほどあるのだが、とりあえず望の口から出た言葉は――  
 
「冬休みになったら、何処かへ遊びに行きましょうか」  
「遊びに、ですか?」  
「ええ、年の瀬で色々と忙しいでしょうが、一日位なら時間を作れると思いますし」  
そう言うと、ゆっくりと可符香が体を離し、望の顔を覗き込みながら  
ぴっと人差し指を立ててみせる。  
「先生、質問があります」  
「ええ、何でしょう」  
まず、と前置きをしながら小さく首を傾げて、少女が言った。  
「それって、私と先生と2人でっていう意味ですか?」  
「……さすがに私もそこまで野暮ではありませんよ」  
「遊びに行くって、何処へですか?」  
「何処でもいいですよ。時期が時期ですからどこも混んでいると思いますけどね」  
望の返答にふむふむと頷いていた可符香が、続いてぴっともう一本指を立てた。  
これでVサイン。  
瞳に、悪戯っぽい輝きが灯る。  
ポジティブ笑顔が、どこか小悪魔的なものに一瞬で変化した。  
 
「それって、お泊りですか?」  
 
お泊り。  
 
「なななな、何を言い出すんですか貴女は!」  
再び顔を真っ赤にしながら叫ぶ望にくるりと背を向けて、くすくすと笑う。  
「私、もう戻りますね。お手洗に行くって言って出て来たので、  
 あんまり遅いと何か言われちゃうかも知れませんし」  
そう言うと、顔だけで望を振り返る。心なしか彼女の頬も  
少しだけ赤くなっているように見えた。  
「先生、採点頑張って下さいね。それと」  
 
 
――楽しみにしてます。  
 
 
ぱたぱたと、弾むように軽い足音が遠ざかっていく。  
頬の熱を持て余したように大きく息をつき、ずれてもいない眼鏡を直す。  
「全く、何がお泊りですか……」  
動揺を隠すようにぶつぶつと呟きながら机に向き直り、再び答案を広げた。  
大体、すぐにああやって人で遊ぶのが彼女の悪い癖です。  
まあ、そういうところも可愛い部分ではあるんですが……それにしたって  
お泊りだなんて、女子高生が軽々しく男性に対して使う言葉ではないでしょうが。  
意味が分からなくて使っているわけではないでしょうに。  
いくらそういう関係になったとは言え、幾ら何でも当然のように  
一晩一緒に過ごすと言うのは……。  
……一晩……ずっと……一緒に……。  
 
 
「――絶望した!誘惑に負けそうな意思の弱さに絶望した!!」  
職員室から聞こえてきた叫び声に、廊下を歩いていた可符香はくすくすと笑い出し――  
 
「嫌だなぁ。せっかくの初デートの日に、帰してあげるわけないじゃないですか」  
 
そんなどこまでも楽しそうな呟きを、こっそりと漏らした。  
 
 

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