可符香の自宅は、一般的な内装をした、ごくごく普通の家だった。
普段の彼女の振る舞いから、実は少々恐ろしいものを想像していたのだが。
ブーツを脱いでおずおずと上がりこむ望に、可符香はすっと二階へ続く階段を指差しながら、
「上がってすぐの所に部屋がありますから、そこのベッドを使ってください。
少し横になった方が、気分も楽になるでしょうから」
そう言うと、そのまま台所へ向おうとする。
「いえ、そこまで気を使っていただかなくても。もうそんなに気分は悪くないですよ」
その背を慌てて呼び止めるように声を上げて、パタパタと手を振って遠慮するが、
振り返った可符香は少しだけ怒ったような表情を作り、ピッと立てた人差し指を望の顔に突きつけた。
「いいえ、まだ少し顔色が悪いです。大人しく言うことを聞いて、横になってて下さい。
すぐに飲み物を持ってきますから。それまでちゃんと安静にしててくださいね?」
「わ、わかりました……、では、お言葉に甘えさせていただきます」
少しだけ強い口調に気圧されて、望は躊躇いがちに頷くしかない。
「はい。素直が一番です」
望が頷くと、可符香は表情を柔らかくして頷き返した。
言われた通り二階へ上がると、彼女の言った通り、上がってすぐの所にドアがあった。
だが、困ったことにドアは二つある。一瞬戸惑うが、もう一方のドアには「WC」と記されたプレートがくっついていた。
ついでだからと、一旦トイレを借りる事にする。
といっても、尿意を覚えたわけでもなく、ただ手を洗うだけなのだが。
自前のハンカチで手を拭きつつトイレを出ると、改めてもう一方のドアの前に立つ。
こっちのドアには何のプレートもついていない。おそらく客間か何かだろう。
一応念のために軽くノックをする。返事はなく、部屋の中からは誰の気配もしない。
一呼吸置いてから、ゆっくりとドアを開いた。
―――扉の先には、客間というには生活観の溢れた空間が広がっていた。
タンスや本棚、所々に置かれた小物類。そして部屋に染み付いた、覚えのある少女の香り。
「――え?」
思わず戸惑いの声が上がる。
疚しい事をしているわけでもないのに、何故か忍び足になりつつ部屋に入る。
キョロキョロと部屋を見回して、
「……もしかして、風浦さんの、自室……ですか、ここ……」
呆然としながら独りごちる。てっきり客間か何かに通されたものと思っていたが。
という事はつまり彼女は、普段自分の使っているベッドを男にすすめた、という事か。
いくら相手が担任教師とはいえ、異性に対してそれはあまりにもどうかと思う。
所在無さげにうろついていた望の足は、迷いに迷ったあげく、シングルベッドの前で止まった。
「……よ、横になんてなれるわけ、ないじゃないですか」
いつも彼女の身体を受け止めているであろうベッドを見下ろしながら、ボソリと毒づく。
只でさえ、さっきから妙な緊張感が身体を支配しているというのに。
その上女性の使っている布団に包まろうものなら、どうにかなってしまいそうだ。
(――って、何を緊張しているんですか。私は…ッ)
慌てて頭を振り、必死に冷静になろうと努める。
あんなものを見せられた後とはいえ、ただ生徒の家にお邪魔しているだけだというのに、何を緊張しているのだろう。
「えぇ、ええ。そうです、彼女はただの生徒さんなんですから。何も気を張ることなんてありませんッ」
自分に言い聞かせるように、あえて声に出しながら、思い切るように彼女のベッドに腰を降ろした。
柔らかく沈み込む感触。それに、ほんの少しだけ安らぎを覚える。
自然と溜息が漏れた。意図して肩の力を抜きながら、まだ納まらない動悸を鎮めようと、胸を押さえる。
深く呼吸を繰り返すと、部屋に漂う少女の香りが、肺を満たしていくようだった。
――その香りの中に混じる、僅かな「女」の匂いを感じて。
女というには幼い面差しの、一生徒に過ぎぬ少女へ向けるにはあまりに間違った感情が、俄かに彼の中で騒ぎ始めた。
「……ッ!」
膝の上で握り締めた拳が、細かく震えているのを自覚する。
気が付かないフリをしていたが、一度昂ぶってしまった男性自身は、
僅かな反応を見せたまま、今だ納まってくれていない。
脳裏を過ぎる、先ほど見た男女のまぐわい。
――その男女の役割を、一瞬、自分と――彼女に重ねようとして、
(―――やめろッ!!)
寸での所で、その光景を振り払った。
頭を抱えて、身体を丸めて、力いっぱい目を瞑る。
どんな淫夢でも、卑猥な妄想でも、それが名も知らぬ女ならばまだ、罪悪感にも耐えられる。
けれど彼女だけは、彼女にだけは、そんな感情を抱いてはならない。
そんな自分への嫌悪感に、とても耐えられない。
――あんな恥も理性もない、獣のように乱れた彼女の姿なんて、見たくない。
見たくないというのに、気を抜けば――女としての彼女を求めようとしている、この身体。
今まで、女生徒に対してこんな思いを抱く事なんてなかった。
きっと他人の情事なんて見せられた直後だから、見境がなくなっているのだろう。
結局、どんなにそういった行為を嫌悪しようと、この身は雄でしかないということか。
「……絶望した……」
「何にですか?」
頭上から降る、軽い声音。
「ぅひゃアあッ!?」
まさかの不意打ちに、思わず情けない悲鳴を上げながら盛大に仰け反ってしまった。
彼女は両手に湯気の立つマグカップを持って、こちらを見下ろしていた。
コートは脱いだらしく、今は黒いタートルネックのセーターに、短いスカートという出で立ちだ。
「い、いいいいいえッ、そのッ。い、居たんですか」
「ちゃんとノックしましたよ」
否応にも声が裏返る。そんな望の様子など気にしていないように、笑顔で片方のマグカップを差し出す可符香。
「どうぞ。インスタントですけど」
鼻腔を擽る甘い香り。礼を言いつつ受け取りながら中身を覗き込む。
「…ココアですか」
「疲れてる時は甘いもの、です。嫌いですか?」
「いいえ。ありがたいです」
両手で包み込むようにカップを持って、中身を一口啜る。カラカラに乾いた喉を湿らせるには丁度良かった。
望の隣に自然な動作で腰掛けながら、可符香はふと思い出したように口を開く。
「あ、飲み物用意するついでに、交君と霧ちゃんに連絡しておきました」
「あぁ、すみません。そんなことまで」
「いえいえ。私が引きとめたんですから、このくらい当たり前ですよぉ」
そう答えながら、自分の分を飲み始める可符香。どうやら中身は望と同じもののようだ。
くぴ、と小さく彼女の喉が鳴る。その様子を、湯気で曇った眼鏡越しに見つめながら、
「それで、二人は何て言ってました? やっぱり怒ってましたか?」
恐る恐るそう問うと、彼女は笑顔で頭を振りながら答える。
「大丈夫です。先生の体調が悪くて、今日は帰れそうにないって伝えたら、ちゃんと納得してくれました」
「そうですか。それは良かっ―――」
安堵したように頷く――その寸前で。
「……風浦さん」
聞き逃してはならない違和感に、頬に一筋の汗が流れた。
「ん?」
くぴ。もう一度、喉が鳴る音。
キョトンとした目でココアを飲んでいる可符香を、水滴の付いた眼鏡越しに見つめて、
「二人に、なんと伝えたか、もう一度言ってくれます?」
平静を装いつつ、着物の袖で眼鏡を拭きながら、再度聞いてみた。
「先生は体調が悪くて、今日は帰れませんって」
「……えーっと、それは、つまり?」
「だから。先生は、今日は私の家にお泊りです」
――長い沈黙が降りる。
時折、くぴ、と、可符香が喉を鳴らす音だけが場を満たして―――
「……はぁぁぁぁぁぁぁ……」
その静寂を破ったのは、深く長い、心底力の抜けた望の溜息だった。
「なんですか、そのリアクション」
やや不満気な可符香に、パタパタと片手を振りながら、望は力の抜けた声で答えた。
「いいえ。なんか、自分が馬鹿らしく思えただけです」
そう言う望の顔からは、先ほどまでの緊張が薄れていた。
あぁ、つまりこの少女は、こちらの事を「雄」としてなど、微塵も見ていないのだ。
気の抜けた表情で可符香の顔を一瞥すると、彼女はリスを思わせる仕草で小首を傾げて見せた。
その顔に、「雌」を思わせる要素など微塵もない。
ふっと苦笑が漏れる。可符香はよりいっそう訝しげな顔をして、望を見つめた。
「気の抜けた顔ですね」
「生まれつきです」
答える声からは、もう完全に力が抜けている。望は吐息を一つ吐き、天井を仰いだ。
「それじゃあお言葉に甘えて、一晩お世話になりましょうか」
「どうぞどうぞ。自分の家と思って下さってかまいませんよ」
そこまでリラックスはさすがに出来そうもないが、それでも大分自然に振舞えるようにはなった。
ようやく可符香の自宅の雰囲気に馴染んだのだろうか。それとも、彼女の気の抜けっぷりが伝染したのだろうか。
緊張が薄れると、とたんに眠気を感じて、望は欠伸をかみ殺した。
明日のことは明日に考えることにして、とりあえず早々に休ませて貰おうと、口を開く。
「で、私はどこで眠ればいいんです?
なんなら、毛布一枚貸してもらえれば、そこらへんに転がって寝ますけど」
「病人にそんな事させるわけないじゃないですか。ちゃーんと、布団で寝てもらいますよぉ」
見た所独り暮らしのようだが、どうやらちゃんと来客用の布団は用意してあるらしい。
感心しながら、改めて問い返す。
「それじゃ、私の寝床は?」
「やだなぁ。何をお惚け言ってるんですかぁ」
可符香はニコニコと笑顔で、ポンポンと自分が座っているベッドを叩いて見せた。
「ここに決まってるじゃないですか」
「へ?」
キョトンと目を丸くする望。
――それはつまり、このベッドを使え、という事なのだろうか。
「いや、さすがにそれはちょっと。貴女が寝る場所が無くなっちゃうじゃないですか」
まさか家人を差し置いて、自分がベッドで高い鼾などかけるわけもない。
慌てたように首を振る望に、可符香は――ほんの少し人の悪い笑みを向けた。
「大丈夫です。私もここで寝ますから」
「…………は?」
……どういう意味だろうか、それは。
考えるより先に、本能が理解することを拒否したのか、素っ頓狂な声を上げて固まる望。
そんな望を尻目に、可符香は口元に手を当ててニャマリと微笑みながら、
「一緒に寝ましょ、先生」
そんな事を、平然と口にした。
あまりにストレート過ぎる言葉に、固まっていた思考は否応にも動き出す。
「な、なに、ななななぬ……ッ、何を言って……!!」
呂律が回らない。ようやく解けたはずの緊張がまた、身体を支配していくのがわかった。
ダラダラと冷や汗を流しつつ、ブンブンと左右に頭を振って、必死に混乱する頭を静めようと努める。
「あ、ああああ貴女は、何を言ってるのか分かってるんですか!?」
無意識に座る位置を調整して、ジリジリと可符香から距離を取りながら叫ぶ望。
可符香は笑顔のままで、小さなテーブルの上にマグカップを置いて、
「何を慌ててるんですか? 先生」
ベッドの上に両手をつき、望の顔を覗き込むように距離を詰めてくる。
ギシリと軋むスプリングの音が、彼女の質量を意識させて――妙に、呼吸が苦しくなった。
細い両腕に押されて、ささやかな胸の膨らみが強調されている。
慌てて視線を横に逸らすが、女としての彼女を意識してしまってはもう遅い。
「だ、だから……一応、私も異性なんですから、少しは警戒していただかないと……」
「あれ。もしかして先生、わからないんですか?」
「何が――」
逸らした視線の先に、可符香の笑顔が回り込むようにアップで映る。
気が付けば、もう呼吸が触れるまでに距離を詰められていた。
息を呑みながら咄嗟に体を仰け反らせる。その拍子に、マグカップが手から滑り落ちそうになった。
「おっと」
その寸前。可符香の両手が包み込むように、望の掌越しにマグカップを支える。
コトリ、と。すっかり力の抜けた望の手からカップを奪って、自分の置いたカップの隣に並べる可符香。
「あ、す、すみません……」
思わず謝ってしまう。いや、そんな場合ではないのだが。
「先生」
改めて、といった感じで、可符香は仰け反った望の顔を覗き込んでくる。
体が後ろに倒れそうになって、咄嗟に両手を後ろについた。ベッドが僅かに軋む。
けれど可符香は近寄るのをやめない。それどころか、何のためらいもなく望の膝に片手を置いて、
「さわりっこしましょ、先生」
「さ、さわりっこ……って」
膝に置かれた掌の感触が生々しく感じられて、思わずゴクリと唾を飲む。
――さすがにもう、彼女が自分を男として見ていないなんて、思えなかった。
その瞳に色欲など感じられない。けれど、彼女の言動は男を誘うそれとしか思えない。
「あ、貴女は……そういうつもりで、私を……家に?」
もしかしたら、あの男女の行為を見せ付けたのも、自分をその気にさせるためだったのだろうか。
もしそうだとしても、何のために。何故。
「まぁ、半分はそうです」
「もう半分は?」
「あのままじゃ先生、帰り道で倒れちゃいそうだったから」
心配してくれたのは、本当のようだ。
吐き気に震える背に置かれた優しい手の感触と、今、膝の上に置かれた掌の感触が同じである事に、ほんの少しだけ――傷ついた。
「……風浦さん」
滾る一部分とは裏腹に、俄かに悲しくなってくる。
弱々しく、可符香の両肩に手を置いて、そっとその小さな身体を引き剥がしながら、
「やめてください、本当に――貴女とだけは、嫌なんです」
その言葉がどれだけ残酷か知りつつも、ゆっくりとそう言った。
―――嫌悪ではない。むしろ、彼女の事は気に入っている。
個性豊かな生徒たちの中でも、妙に彼女の存在が気になっていた。
春、卯月。
桜の舞う日に出会った時から、心に刺さるこの感情は――もしかしたら、恋なのかもしれなかった。
けれど、だからこそ。
無邪気に笑うその瞳が、情欲に染まるのを見たくない。
鈴の音のような愛らしい声が、男を求めて喘ぐのを聞きたくない。
その細い身体を、今まで交じり合った女と同じように扱いたくなかった。
「貴女も、わかってくれたんじゃないんですか。私が、そういうの……駄目だって」
男女のまぐわいから逃げ出した姿を見て、彼女は全て察してくれたものと思っていたのだが。
「うーん」
可符香は、明確な拒絶の言葉を身に受けても、まったく気にしていないようだった。
両肩に置かれた手を交互に見やり、そっと、その手に頬を寄せてくる。
「先生は、そういうのが怖いんですよね」
「やっぱり、わかってるんじゃないですか」
手の甲に触れる柔らかな頬の感触にドギマギしつつも、不満気に答える。
望が手を離そうとする気配を察すると、可符香はそっと彼の両手を掴み、自らの両手で包み込んだ。
「でも私、さわりっこしよう、としか言ってないですよ」
ぎゅっ、と、包み込む両手に力を込める可符香。
「そ、それでも困るんですっ」
「こうしているのも、怖いですか?」
包み込んだ両手を胸元に寄せて、上目遣いに見つめてくる。
その両目は恐いほどに迷いなく、望を求めていた。
けれどそれは明らかに、今まで望の身体を求めてきた女たちのそれとは、違う。
何が違うのだろう。それが知りたくて、どうしても目を逸らすことができない。
「優しく頭を撫でられるのは嫌いですか。
誰かにぎゅっとしてもらう時の、くすぐったい気持ちは怖いですか?」
染み入るような声音に呼応するように、昔感じた体温を思い出す。
それは今まで抱いてきた女たちとの経験ではなく――幼い頃、近しい人と触れ合った、懐かしい体温。
「そ、れは……嫌いじゃ、ありません」
「ですよね」
その返事に、可符香は満足気に微笑むと、そっと望の手を解放する。
「――あ――」
途端。胸が、少しだけ痛んだ。さっきまで感じなかった空気の冷たさを感じる。
望が小さく声を上げたのを確認すると、可符香はまた望の両手を握り締めた。
「やっぱり、先生は寂しがりやさんです」
――それでようやく、何故胸が痛んだのか気が付いた。
羞恥に耳まで真っ赤にしつつ、否定もできずに固まる望。
「さわりっこするのが恐いなんて人、居るわけないじゃないですか」
ベッドを僅かに軋ませて、可符香が身を乗り出してくる。
もう身を退くことはしなかった。そのまま、無抵抗に抱きしめられる。
まるで母にあやされるような感覚に、何故だか少しだけ泣きそうになった。
彼女の背に手を回す。少しだけ力を込めて抱きしめ返し、鼻先をより強く胸元に埋めた。
瞳を閉じて、満たされていく感覚に酔いしれる。――だが、まだ、物足りない。
「先生、もっと触りたくないですか?」
「え」
「物足りないんじゃないんですかぁ?」
「な、何をおっしゃっているのやら」
ぎこちなく視線を逸らすも、触れ合った部分は否応にも熱を持ち、お互いの体温を感じさせる。
―――きっと自分は、彼女を求めているのだろう。情けないほどに。
けれど、今までにないこの感情はなんだろう。ただ性欲を満たすだけでは足りない。もっと深く、根の深い場所にある欲求。
「好きなように、触ってみてもいいですよ」
覗き込んでくる丸い瞳。まるで誘うように瞬きをして、じっと望の瞳を見つめている。
「す、好きなように、ですか」
擦れた声で答えながら、おずぽずと手を伸ばす。触れた頬は柔らかく、僅かに紅潮していた。
頬から顎にかけて指を滑らせる。きめ細やかな肌の感触を楽しむように。
――むにゅ。
「ふぇ」
軽くつまんでみた。
妙な声を上げて目を細める可符香。――そのまま、ちょっと引っ張ってみる。
「うにー」「うぅ〜」
二人して気の抜けた声を上げる。しばらくして、堪能したのかようやっと手を離す望。
散々うにうにされた頬を撫でながら、不満気に呟く可符香。
「んー……、好きなようにとは言いましたけど、ちょっとどうかと思います。痛いです」
「――っふ、あはは」
堪らず笑みが零れた。色気もなければ意味もない、子供のような触れ合いを望んだ自分が可笑しかった。
「先生、失礼です」
「い、いえいえ。貴女の顔が可笑しかったんじゃないですよ」
怒らせてしまったかと思い、機嫌を取るようにもう一度頬を撫ぜる。
自然と、視線が唇に向く。きゅっと引き結ばれた、小さな桃色の唇が愛らしい。
「――好きに、触っていいんです、よね」
咄嗟に、そんな言葉が口をついていた。引き結ばれた唇が解け、小さく赤い舌が覗く。
「キス、したいですか」
「………」
少しだけ考えるように、彼女の唇を見つめた。
――口づけてしまえば、もう、さわりっこでは済まされないだろう。
今更ではある。けれど、これ以上進むべきか、僅かに迷った。
「私は、したいです。
先生のこと好きですから」
―――彼女の唇の動きが、鮮明に頭に焼きついた。
視線を瞳に移す。そこにあるのは、深く深く、真っ直ぐに迷いなく、望を求める二つの光。
ここまできてようやく、彼女と今までの女たちの違いを、理解した。
彼女は男でも雄でもなく、ただ一人「望」を求めているのだと。
「………」
言葉が出ない。何か答えなければならないのに、気持ちが胸につかえて、外に出てくれない。
あまり長い台詞を喋っては、情けなく声が裏返りそうだったので、
「――私もです。私も……好き、です」
不器用に、そんな短い台詞でしか、答えられなかった。
それでも可符香は嬉しそうに微笑んでくれた。幸せそうに両の目が細められる。
伸ばされた彼女の両手が、すっと望の眼鏡を奪い去った。不明瞭になった視界で、彼女の存在だけがクリアに映る。
くっ、と彼女の方から首を伸ばしてくる。
柔らかな髪を撫でるように手を回して、身体ごとかき抱くように引き寄せた。
お互いの吐息が絡まる。
少し乾いた自分の唇が、彼女の柔らかなそれを傷つけてしまわないかが気になった。
けれど一度触れ合ってしまえば、そんな心配も掻き消える。ただ、その感触に夢中になった。
息苦しさに可符香が僅かに唇を開けば、すぐさま舌を滑り込ませる。
「……んぅ」
小さな呻き声。それが息苦しさからくるのか、戸惑いからくるのかわからなかった。
僅かな水音。粘膜同士の触れ合い。不慣れながらも応えようとする、小さな彼女の舌の温かさ。
「――――」
涙が出るほど、愛おしかった。
きっと、自分が長いこと望んできたのは―――この感情なのだろうと、そう思った。