◇ ◆ ◇ ◆
交る。混じる。雑じる。
グチュグチュと、粘膜と粘膜を擦り合わせて。
グロテスクな器官を結合させて、理性を、思考を麻痺させて。
女の喉の奥から、擦れた音が漏れる。それに答えるように、無心で最奥を貫いた。
子を成すという本来の目的を外れ、ただ忘れる為だけに行われる行為。
なんて、不毛なのだろう。なんて、醜いのだろう
――なんて――
―――なんで、こんなことをしているのだろう―――
◆ ◇ ◆ ◇
目を覚ますと、冬にも関わらず大量の寝汗を掻いていた。
「………」
はぁ、と。心底疲れたような溜息が漏れる。
隣で眠っている交を起こさぬように、静かに布団を抜け出そうと身を捩った。
――ぬるりとした、寝汗とは違う感触を下半身に感じて、望は眉間に皺を寄せる。
(……いい歳をして、夢精とは……)
うんざりと心の中で吐き捨てて、のろのろと寝床を抜け出した。
あまりの情けなさに死にたくなりながらも、洗面所で脱いだ下着を洗う。
刺すように冷たい水の感触に、まだ少し寝ぼけていた頭がハッキリした。
夢を見ていた。猥らで、とても不毛な夢。
それはずっと昔の経験を、自らの妄想で捻じ曲げた淫夢。
望とて性欲がないわけではない。このところ処理を怠っていたし、色々と溜まっていたのだろう。
だが、こうして欲を吐き出した後にあるのは、清々しさとは程遠い気だるさと、嫌悪感。
「……あぁ、もう……」
肩を落として二度目の溜息を吐きながら、力任せに下着を絞った。
年明けの浮かれた雰囲気も、少しずつ納まりを見せ始めていた。
冬の夕暮れに沈む街を、ぼんやりと眺めながら歩く。
いつものように教師としての責務を全う――しているようなしていないような、そんな一日を終えて、
いつものように小森に夕飯の買出しを頼まれて、行きつけのスーパーで買物をした。
スーパーでは偶然、大草麻奈美と出くわした。
「最近は野菜が高いですよね」
そんな主婦じみた会話を数回交わして別れ、頼まれた物は全て買って。
後は宿直室に帰るだけである。身を切るような寒さに、切にこたつが恋しくなる。
午後5時をまわると、もう周囲は薄っすらと暗くなり始めていた。
首をすくめながら歩く。帰り道、公園に差し掛かったところで―――
「あ、先生。こんにちわー」
聞き慣れた女生徒の間延びした声が、望の足を止めさせた。
「その声は、風浦さん?」
顔を上げて視界を巡らせると、通り過ぎようとした小さな公園の中に、声の主を見つけた。
入り口の近くに設置されたブランコに腰掛けた可符香は、ヒラヒラと望に手を振っている。
「お買物の帰りですか?」
可符香は白い息を吐きながら、小さく首を傾げて見せた。
長いマフラーに隠れた口元は、きっといつものように半月の形を描いているのだろう。
「ええ。……貴女は何を?」
問いながら、彼女の元まで歩み寄る。近寄ると、寒さで可符香の鼻が少し赤くなっているのがわかった。
「散歩です。今はその帰りで、ちょっと休憩中」
「こんな寒い中、ですか」
望は可符香の全身に視線を走らせた。
大きめのコートに身を包み、マフラーで口元を覆い、手はもこもことした手袋で守られている。
だが、スカートから覗く足は真っ白になっていて、見ているこっちが寒いくらいだ。
「はい。でも、そんなに寒くないですよ。先生が寒がりなだけじゃないんですか?」
なんて言いながら微笑む可符香。この様子を見る限り、本当に寒くないのかもしれない。
けれどよくよく注意して見れば、絶え間なく足をブラつかせているのは、膝の震えを誤魔化す為だというのがわかった。
……まぁ、彼女の妙な行動には慣れっこだし、人の趣味をとやかく言うつもりはない。
――言うつもりはない、が、ちょっと世話を焼くくらいは良いだろう。
望は自分の首に巻いていた長いマフラーを解いた。二つに折ると、丁度膝掛けくらいの大きさになる。
真っ白な彼女の膝にそれを乗せると、可符香は少し意外そうな表情で望を見上げた。
「あら、意外とフェミニストなんですね」
「……普通に『ありがとう』と言えないんですか、貴女は」
僅かに苦い表情を作りながら、隣のブランコに腰掛ける。
ふと、どこぞの恩着せ少女の事を思い出して苦笑した。これでは、彼女とそう変らない。
「じゃあ、ありがとうございます」
「じゃあ、とか言わないで下さい。もやっとします」
可符香の口から漏れた余計な接続詞に、更に表情を苦々しいものにしながらも、
これが彼女なりの照れ隠しに違いない、と、自分に言い聞かせておいた。
膝に掛けられた、さっきまで望の巻いていたマフラーを見つめる可符香。
と。せっかくの膝掛けを彼女は取り払い、代わりに両肩を覆うように羽織る。
その様子をキョトンと見守っていると、可符香はすぅっと目を細めて見せた。
「先生、何か音が聞こえませんか?」
――カシャン。
小さく鎖を鳴らしながら立ち上がる可符香。純粋無垢をよそおった悪戯っぽい瞳が、望を映す。
「音?」
彼女の瞳に過ぎる邪な色に気付かず、小首を傾げて聞き返す。
「えぇ。何だか、女性の声みたいな」
言われて耳を済ませてみれば、
―――ァ……あ、ん……ぅ、アァ―――
細い風の音に雑じり、小さく、苦しげな女性の声が聞こえた気がした。
その声がどこからするのか、よくよく耳を澄ませて、出所を探る。
望はゆっくりと、公園の隅に設置された公衆トイレに視線を移した。
可符香も望の視線を追うように、そこを見る。声は、中から聞こえるようだ。
望は急いたように立ち上がり――公園の出口へ向かった。
「見に行かないんですか」
「……お腹の調子でも悪いんでしょう。邪魔してはいけませんよ」
意外そうな可符香の声を背中に受けながら、何食わぬ顔で歩み去ろうとするのだが、
するんぱし。
「だったら尚の事、ほうってはおけませんよね」
着物の袖を掴まれて、足を止められてしまった。
露骨に嫌そうな顔で振り返る望とは裏腹に、可符香の瞳は悪戯っぽく笑みの形を描いている。
「人助けですよ、先生」
「可符香さん、貴女――」
うんざりと、溜息を吐くように思わず言ってしまいそうになった言葉を、寸での所で飲み込んだ。
――貴女、あの中で、何が行われてるのか、知ってるんでしょう?
きっと彼女は、それを自分に見せ付けてからかうつもりだ。
けれど証拠はない。それに、言ってしまえば逆に彼女に問い返されるだろう。
どうしたものかと思案していると、可符香は有無を言わさず望を公衆トイレに引きずっていく。
「ま、待って下さいってば!
公園のトイレは色々とまずいフラグのスポットとして有名なんですよッ!?」
「大丈夫、どこにもつなぎを着た良い男なんていませんから。
それに、例えいらっしゃったとしても、良い経験になるじゃないですかぁ」
「誰の事を言ってるんですか! それに、そんなテクニックは要りませーん!」
何とか言い訳を並べて退散しようとするも、よくわからない会話の流れで有耶無耶になってしまう。
結局、トイレの前まで来てしまった。声はもう、大分ハッキリと聞き取れてしまう。
――…は、あぅ……ん、ぁあ…!……――
女の声に混じって、男の荒い息遣い。
「大分苦しそうです」
可符香はここにきて、まだ何も気付いていない風をよそおっている。
そのまま何食わぬ顔で、トイレの中に入っていった。
裾を握られたままだったので、望も引きずられる形で中に入る事になる。
見たくない。帰りたい。
けれど、何が行われているのか確認しない事には、可符香は帰してくれないのだろう。
望は小さく溜息を吐いて、もう無駄な足掻きはせず、諦める事にした。
二人とも、打ち合わせでもしたかのように息を潜めて、隅に隠れながら、
女子トイレと男子トイレを交互に見て、声のする、男子トイレの方をそっと覗き込む。
――予想通りというか、なんというか。そこには、絡み合う男女の姿があった。
双方着衣を乱れさせ、荒い息遣いで、無心に互いを弄りあっている。
個室内ですればいいものを、スリルでも求めたのか、二人はわざわざ個室の外で行為を行っていた。
壁に手を付いて、男に尻を突き出して、肉の棒に穿たれながら身悶える女。
その女に覆いかぶさり、捲り上げた服から覗く乳房を揉みしだきながら、猿のように腰を振る男。
随分と熱中しているようで、二人は望と可符香の存在に気付くどころか、ただただ盛り上がっていくばかりだった。
(……やっぱり……)
苦々しく胸中で呟く。
そもそも夏ならともかく、この寒い中、わざわざ何故外でしようなどと思ったのだろう。
いや、冬だからこそ互いの体温を求めたのか。
年明けで、気分が浮かれていたのもあるかもしれない。秘め始め、といったところだろうか。
だがどっちにしろ、もう少し周囲に気を配っていただきたいものである。
「……わー」
小さな小さな声が、可符香の唇から漏れた。
その声は、とても淫猥な行為を覗いているとは思えないほど気の抜けたものだった。
「良かったです。体調が悪いんじゃないみたいですよ。むしろ絶好調のようです」
「……それは良かったですね……」
このごに及んでまだそんな事を言っているのか。
望はもう、力なく項垂れるしかなかった。
――男女の行為はまだ続いている。というか、どうやら2回戦目に入ったようだ。
絡む。混じる。ねっとりと、ただただ深く繋がる二人。
その表情に知性など欠片もなく、無心で快感を貪りあう。
そこに人間らしさなど見当たらない。これでは猿と変らないではないか。
暑苦しい息遣いが、こちらまで漂ってくるようだ。
男の出したモノの臭いだろうか、生臭い空気が喉にへばり付くようで、望は思わず呼吸を止めた。
薄汚れたタイルに、どちらのものともつかぬ体液が染みを作っていく。
粘ついた音が、結合された性器の間から絶え間なく鳴っている。
――吐き気がした。見ているこっちの理性まで剥ぎ取っていくような光景に。
気分が悪い。もう、見ていたくない。だが、確かに不快だと感じているのにも関わらず、
望の下半身は、交尾の臭いにあてられたかのように、反応を見せていた。
「……ぅ――ッ!」
それに気付いた瞬間、望は気配を消す事も忘れて踵を返した。
その急な動きに驚いたのか、可符香は握っていた望の着物の裾を放してしまう。
「あ、先生っ」
背後で呼び止める小さな声が聞こえたが、望は立ち止まらない。
トイレを飛び出し、そのまま公園を出ても、しばらく彼の足は止まらなかった。
――走っている間も、脳裏からずっと、淫猥な光景が離れない。
さっき見た光景が、今朝見た淫夢と混ざり合う。
もはやそれは性交とは呼べない程の、ただただグロテスクな男女の融合だった。
冷めた意識が言う。何を今更、そんな幼い嫌悪感に振り回されているのかと。
若い頃は、散々自分だってああいう事をしてきた。むしろ率先して行っていたと言っていい。
誘ってくる女は片っ端から抱いた。柔らかな身体にむしゃぶりついて、食い荒らすように犯した。
けれど、どんなに行為に没頭しても、嫌悪感を拭えなかった。
「交尾は汚い」なんて、そんな綺麗事を、いい歳になっても捨てきれないでいる。
そんな自分の幼さを嫌うように、他人の身体を求めた。自分は大人なんだと言い聞かせるように。
酷い時期は男女問わず交わった。けれど、抱いても抱かれても、結局不快感は拭えなかった。
――いつからか、性的なこと全てに虚しさを覚えた。結局、この嫌悪感から逃れる術はないのか、と。
それがわかると、とたんに諦めと虚脱感がこの身を支配した。
女の誘いも断るようになり、性的なこと全てから遠ざかるようになった。
性欲処理なんて独りで出来るのだし、わざわざ苦しみながらまぐわう必要もない。
幼くてもいい。自分は――やはり、性交が怖いのだ。
なのに。
あんな間近で行為を見せ付けられて。
「――……ぁ、が……ッ」
せり上がってくる嘔吐感が、望の足を止めていた。
身体をくの字に折り、咄嗟に両手で口元を覆う。そのまま、ズルズルとその場にへたり込んだ。
喉元までせり上がった胃の中のモノを必死で飲み下す。ツン、と、鼻と目の奥に痛みが走った。
――震える望の背に、そっと小さな掌が触れた。
瞳に涙を溜めて振り返ると、そこには、いつの間に追いついてきたのか、可符香の姿があった。
少し申し訳無さそうな表情で、望の背中を擦っている。
その掌の感触に、少しずつだが落ち着きを取り戻し、望は深く深呼吸をした。
「……ありがとう、ございます……」
まだ僅かに弱々しい声音だが、話せるようになっただけでも大分回復しているのだろう。
「……はい」
答えながら微笑を浮かべる可符香。だが、その笑みはいつもの人形じみたものではない。
罪悪感からだろうか。少し気弱そうな笑みが珍しくて、望は意外そうに眉を上げた。
「そんな顔しないで下さいよ」
確かに度の過ぎた悪戯ではあった。さっきまで、可符香への不満が胸中を渦巻いていた。
けれどこうもしおらしく凹まれては、こっちの調子が狂ってしまう。
「うん……はい、ごめんなさい」
しょんぼら、と肩を落とす可符香。望は立ち上がりながら、困ったように視線を彷徨わせた。
――以前この表情を浮かべた時は完全に演技だったが、今回ばかりは、可符香も本気で反省していた。
軽い冗談のつもりだったのだ。彼女の予定では、あの後赤い顔で慌てる望をからかう予定だった。
彼が性的なことが苦手というのは知っていた。だからこその悪戯だったのだが…。
まさかここまで嫌がるなんて思わなかった。
笑えるオチがないと、それは悪戯でも冗談でもなく、ただの嫌がらせになってしまう。
最初から嫌がらせのつもりで仕掛けたことならいざ知らず、
面白おかしく落とそうと画策していたというのに、こんなオチでは気分が悪い。
悪戯が失敗したこと。人の心を掴むのを得意としていた自分が、望の心を読み違えたこと。
そして思った以上に望を傷つけたこと。その全てが、可符香を落ち込ませていた。
「ま、まぁ悪ノリが過ぎたということで。今度から気をつけてもらえれば、と」
取り繕うように手を振りながらフォローすると、可符香は少しだけ笑みを柔らかくした。
「―――先生。まだ顔色悪いから、うちで休んでいってください。
ほら、申し合わせたかのように、私のお家のまん前です」
すぐ隣に建つ一戸建てを指差しながら提案する可符香。
そこでようやく、自分が闇雲に走り回っていたことを知った。
周囲を見渡すと、あまり見慣れない風景が広がっている。
無我夢中だった所為で、学校側とは別の方向へ全力疾走してしまっていたようだ。
「うぅん……、お気持ちは嬉しいのですが、夕飯の買物を―――」
と。そこで、自分が手ぶらだということに気付いた。
ハッとして自分の両手を見るが、そこに確かにあったはずの買物袋はない。
公園に置き忘れたのか、と、青ざめる望の目の前に、
「はい、先生コレ、忘れ物」
すっと差し出されたのは、失くしたはずの買物袋だった。
「公園に置いたままだったんですよ」
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
慌てて頭を下げる望に、可符香はニッコリと笑い返して、
「それじゃ、入りましょうか」
望に買物袋を手渡すと、何食わぬ顔で玄関の扉を開けた。
「あ、ちょ、私は―――」
「ん?」
肩越しに振り向く可符香。望がついてくると、信じて疑わない様子だ。
そのあまりに迷いない態度に、断り辛くなってしまう。
きっと彼女も、望を気遣って申し出てくれたのだろうし、それを無下にするのも躊躇われた。
それに、と。改めて周囲を見渡す。
街灯の明かりはあるものの、夜の帳の下りようとしている見慣れぬ町並みの中、真っ直ぐ帰宅できる自信がなかった。
出来れば可符香に道を教えてもらいたいのだが、誘いを断った上に送ってくれ、というのは相当気が引ける。
「どうしたんですか? 先生」
「……いえ。その……」
しばし考えた末、
「―――お、お邪魔します」
結局望は、ペコリと頭を下げた。
小森と交には、遅くなると電話を入れておこう。
二人には在り合せのもので夕食をとって貰うことになるが、仕方がない。
可符香は頭を下げる望に、満足気に頷いて、
「はい。いらっしゃいませ、糸色先生」
誘うように、玄関の扉を大きく開いた。