「ふぁっ……あぁ……ああぁっ――」
その白い肌が、あまりに柔らかくて滑らかだから
「あぁ、んっ、はぁ……せん、せぃ……」
その甘い声が、あまりに愛しげに自分を呼ぶから
「せんせい、もぅ、や、ああぁぁっ――」
その体の熱が、あまりに心地よくて離れがたいから
だから――
「……風浦、さん……」
貴女の全てを、持っていきたいと、そう思った――
目覚めは、深い水の中から浮かび上がるような、そんな感覚に似ていた。うっすらと目を開け、眼鏡がないせいで
ぼやけたままの視界で、昨夜己の腕にかき抱いたまま眠ってしまった少女の姿を探す。
「先生、起きちゃいました?」
声は、自分から少し離れたところから聞こえた。
「まだ夜中ですよ、ゆっくり眠ってていいですよ」
布団のぎりぎり端でうつ伏せになっている可符香が、そう話しかけてくる。眠ってしまった時と
同じように裸のままで、窓から射し込む月明かりで何かを読んでいるようだった。
「……夜中、ですか」
呟きながら、寝返りをうって可符香の方へと体を向ける。少女は再び手元の本へと視線を落としながら
「そうですよ。ちゃんと寝ないと明日大変ですよ。先生、もう徹夜が辛い年でしょう?」
「……まあ、そうなんですけどね」
呻きながら僅かに体を少女に寄せる。明かりもつけずに一体何を読んでいるのかが気になった。
枕元を手探りして眼鏡を探しながら目を凝らすと、その本が非常に見慣れたものだと気付く。
「ちょちょちょちょ、貴女何を読んでいるんですかあぁ!!」
「ああ、これですか」
思わず布団を跳ね除け上半身を起こしながら叫べば、悪びれも無くあっけらかんとした返事。
その手の中から半ばひったくるようにしてその本を奪い取る。
心中簿。通称『ですのうと』。
「お手洗に行こうと思ったんですよ、そうしたらこの暗さでしょう?先生の鞄につまづいちゃって。
それで飛び出ちゃったものを戻さなきゃなって思ったら、こんなものが」
「こんなものがじゃありません!何を熟読してるんですか!!」
恥ずかしい。確かに今まで恥の多い生涯を送ってきたが、これはその中でもトップクラスに恥ずかしい。
勝手に荷物を漁られた怒りよりも恥ずかしさが勝って大声をあげるが、可符香は少しばかり小首を傾げて
両手を胸の前で組み、どこか夢見るような声で応える。
「だって、名前からして何だか読んだら神様が見えそうじゃないですか」
「その神は見えないほうが幸せなんです!!」
大体、この少女にそんなもの見えたら危ない、色んな意味で。ある意味本気で『新世界の神』になりかねない。
いや、むしろ神そのものになって後ろでいろいろ手を回すほうが似合ってそうだ。
林檎片手に空を飛びつつ『人間って面白いですね!』などとのたまう可符香を一瞬で想像してしまって
あまりの似合いっぷりに軽く絶望しながらため息をつく。
と。
「それ、私の名前が書いてありませんでしたね」
何気ない風を装って呟かれた可符香の言葉に、望は動きを止めた。
胸の前で組まれた両手も夢見るようなポジティブな声音もそのままに、
表情だけは逆光でよく見えず。
「私の名前、ちゃんと書いて下さい。『死んだらどーする』なんて言うくらいですから
あんまり心配じゃないですけど、もし先生が来世へと旅立つときが来るんだったら――」
――その時は私、一緒がいいです。
よく見えないのに、その瞳が真っ直ぐにこちらを見つめていることだけは
何故かはっきりと分かった。
究極ノ愛……ソレハ心中スルコトデス!
いつか自分が言った言葉が、耳鳴りのように頭に響く。
その残響を追い出すようにかぶりを振って、俯いた。少女の視線から逃れるように。
「先生?」
不思議そうにこちらに声をかけてくる可符香に、喉の奥から無理矢理
搾り出すような、弱々しい声で応える。
「……入れませんよ、風浦さんの名前なんて……」
「どうしてですかぁ?」
尋ねてくる声は相変わらず明るくて、どこまでも自分と異なると思い知らされる。
俯けば、嫌でも視界に入ってくる、自分の手に抱えられた心中簿。
――嗚呼。
ゆるゆると、望は可符香に顔を向けた。
「……太宰治は、知っていますか?」
「はい。この間授業でやったじゃないですか。『斜陽』を書いた人ですよね?」
望自身が行った現国の授業を思い出しながら答える可符香。
「彼は、その生涯でたびたび自殺未遂騒動を起こしています。それから……心中、未遂も」
答えを聞いているのかいないのか、うつろな目で少女の顔を見つめながら
望はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「共に海へと身を投げた女性は、死にました――彼1人が、助かったのです」
話しながら、望の脳裏にはある光景がくっきりと描かれていた。
初冬の冷たく、暗い海。
真っ直ぐな笑顔のまま、何も臆することなく自分の手を握り締める少女。
『先生、ずっと一緒ですよ』
そんな無邪気な約束すら、彼女は口にするかも知れない。どんな結末も疑うことなく。
2人はそのまま、地を蹴って黒々とした水面にその体を踊らせ――
――自分は、兄の病院で静かに目を覚まし、そして、出会うのだ。
「私は――私は、貴女を――」
微笑をたたえたまま冷たくなった、愛する少女と。
「嫌だなぁ、私が先生を残して死んじゃうわけないじゃないですか」
朗らかに笑うと、可符香は膝で望ににじりよった。立ち膝になって
腕を伸ばし、望の頭をそっと胸元に抱き寄せる。
「先生が心配しなくても、神様は全部見ていらっしゃいますよ。私がこんなに
先生を好きなことも、先生が私を好きでいてくれてることも。それなのに私達を引き裂くようなこと、
神様がするわけないじゃないですか」
神様、ですか。そうぽつりと呟いた無感動な声に、はいと明るい声が返って来る。
「来世でも、そのまた来世でも、ずうっと私と先生は一緒ですよ。間違いありません」
風浦さん、と、口の中だけで呟く。うつろな目のまま、可符香に抱き寄せられたままで。
――貴女は、未だ神様なんて信じているのですか。
そんなもの、この世のどこにいると言うのです。絶望だらけのこの世の、一体どこに。
いいでしょう、百歩譲って、神様とやらの存在を認めてあげようじゃありませんか。
神様が、どこまでも真っ直ぐな貴女と、どこまでもひねくれた私を、一緒に連れて行くと
お思いですか?貴女には貴女の、私には私の相応しい場所があの世にも来世にも
用意されるに決まっているじゃありませんか。どう転んだって、私と貴女が
ずうっと一緒にだなんて――不可能なんですよ、風浦さん。
それでも。
「先生」
向けられた微笑が、あまりに優しいものだったから。
「ずっと」
抱き寄せられた体が、あまりに暖かだったから。
「一緒ですよ」
囁かれた言葉が、あまりに切実だったから――
貴女の全てを、持って逝きたいと――
泣きたくなるほどに、そう、思った。