待ち合わせの場所にはその姿は見つけられなかった。  
来られなくなったのだろうか? 不安な考えが一瞬だけ頭をよぎり、だがすぐに別の可能性を思い出した。  
彼女のトレードマークとも言える、まとめた短いポニーテール。  
今日だけはそれを目印にする事はできないのだった。  
苦笑を浮かべながら、駅前の雑踏の中にその姿をもう一度捜す。  
程無くして見付けた彼女は、公演予定のポスターが並ぶ掲示板に背を預けるように立っていた。  
長い耳当てを垂らしたウインターニットを目深に被り、下ろした髪は襟首を隠すように帽子の裾からこぼれ  
出している。  
灰色のマフラーで口元を覆い、誰とも視線を合わすまいとするかのように、目を伏せじっと佇んでいた。  
 
うっかりと、いつものように名前を呼ぼうと口を開きかけ、慌てて出かけた声を飲みこむ。  
何事も無かったように装ってゆっくりとその前に進み出た。  
すると、気配に気がついた彼女が少し顔を上げる。  
 
だれだろう?  
そんな考えを携えた表情で、数秒の間こちらを凝視していたその瞳にすぐに輝くような光が宿る。  
彼女は少しはにかんだ表情で肩をすくめてみせた。  
 
―――どなたですか? ・・・と、顔に出ていましたよ。  
 
そう言いたげに困った表情を作って見せ、人差し指で眼鏡のズレを直そうとして、今日は眼鏡をかけてい  
ない事を思い出し、あ、と口を丸くして照れ笑いを浮かべた。  
コンタクトのおかげで視界は普段と変わらないためか、つい癖がでてしまう。  
不自然にならない程度に整えた髪型と、落ち着いた色合いのランチコートとジーンズ姿。これではすぐに  
は誰なのか分からなくても無理はない。  
互いに相手の顔を見つめ、お互い様だったということに気がついて二人は吹き出して笑った。  
 
ごく自然に手を取り合い、ゆっくりと歩きながら距離を縮め、手を繋いだまま腕を絡めた。  
 
変装と呼ぶには少々お粗末な二人の姿は、知り合いにでも会ったらすぐに気がつかれてしまう程だろう。  
そして気分転換だと誤魔化すには簡単ではない姿。  
――もう少し分かりにくい格好にするべきでしたかね?  
冗談で言おうとして、すぐに口をつぐんだ。  
まだ戻る事も出来ると。・・・自分たちの姿は、互いにそんな事を教え合っているように感じられる。  
すべての言動に意味を感じて考えに落ちてしまう自分を叱咤するように、彼女には分からないように軽く頬  
を叩き、そこで考える事をやめて、絡めた指に少し強く力を込めた。  
――分かっていますよ、分かっています。  
強く握り返してくる細い指を感じながら、何度も胸の内で繰り返した。  
 
 
暗くなってくる空。それに反して灯り出す公園の街灯。  
海を臨めるこの場所は、週末には寄り添う恋人同士で一杯になる。  
自分たちも見た目はそんなカップルの一組。・・・すくなくともそう見えているだろう。  
何度も確認するように周囲を盗み見て歩く。  
街灯の照らす光からは逃れるように暗がりを選び、身を隠すようにして明かりをさけ、お互いの顔も見ず  
に、どこか逃げ場がないかと探しているかのようだった。  
                                                               _  
公園の外れ、切れかけて時折点滅する薄暗い街灯の下に二人は寄り添い、しばし見つめあう。  
その体が小刻みに震えているのは寒さのせいだけではないだろう。  
ずっと触れたくてたまらなかったその頬を包み込むように両手で触れる。  
まだ幼さのある丸い瞳は時折ゾクリとするほどの大人びた光を宿す時があることを、自分は知っている。  
少し尻下がりのはっきりとした愛らしい眉を撫でると、まるでそれが合図だとでも言うように彼女は目を閉  
じた。  
躊躇する必要など無いはずなのに、いつもこの時間を待ち侘びて過ごしていたというのに、なぜだかため  
らいが生まれて心が止まってしまう。  
 
空白の時間が流れ、やがて寂しそうな微笑みを浮かべた彼女が目を開く。  
すこしだけ泣きそうな表情を浮かべて、すぐに肩に両手を回して背伸びをし二人の顔の距離を縮めた。  
そして唇を重ね合う。  
その瞬間に一瞬だけ戸惑いを見せた彼女の心の中には何がよぎったのだろうか。  
熱っぽい口付けを受けながら目を閉じ、あえて心は鈍く、そこに感じた痛みは忘れようとした。  
 
 
まるで隠れようとするかのように深く被った帽子に手を触れ、ゆっくりと取り去ろうとすると、少し怯えた表  
情を浮かべて一瞬だけ周囲をうかがうように視線を泳がせた。  
――大丈夫ですよ。そう笑いかけ、弾力のあるニットを脱がせると収めていた髪が、夜風の中へと広がり  
その頬へと絡み付いた。  
髪を撫でるように手櫛を通しながら軽く振れるだけの口付けを落とす。  
背中を抱き寄せ、再び長く唇を触れ合わせた。  
 
二人で逢う時、時間も場所も限られていると言うのに、ほとんど言葉を交わした事はない。  
長い抱擁とキスを繰り返して短い時間はあっという間に過ぎていく。  
この欠陥だらけの関係はいつもここまでで止まり、先へは進もうとはしないまま、ただ時間だけが過ぎ去っ  
ていく。  
「私・・・・・・遅くなっても、大丈夫ですから・・・」  
自分の胸に顔をうずめた彼女がぽつりと言葉に出した。  
何気ない口調に一瞬思考が遅れ、胸の中へと強く響きわたる。  
愛しそうに抱え込んだ彼女の頭に頬を付け、ゆっくりと首を横に振ってみせた。  
 
夜が来る前、夜が深くなる前までの時間だけ。そう決めていた事は二人ともよく承知している。  
日の無い時間は想像以上に特別だから。そう、互いに言い聞かせていた。  
昼の光の下では言えなかった事も、聞けなかった事も、心の中を曝け出し受け入れてしまう。  
狂ってしまう、と。この人と共に過ごす夜は、自分を狂わせてしまう、と。  
そして夜は必ず終わってしまう。  
きっと、そこに在った物を抱えて元の場所に戻るなんて事は、もう出来ない。  
 
 
――もし、今日で、世界が滅びてしまうとしたら。  
独白するようなその呟きを耳にして、彼女は顔を上げた。  
いつも見せる困ったような笑顔は、今は泣いているようにしか見えない。  
次の言葉を促すようなその視線に、目を閉じ、少し乱暴に首を振る。その場しのぎの言葉を吐くくらいなら  
、何も言わないほうがいい。そう思い、唇を噛み締める。  
 
「わたしも、同じ事を考えていました・・・・・・」  
小首をかしげて、自分を見上げながら少女のように笑ってみせる。瞳からこぼれそうになっている雫が点  
滅する街灯の光を受けて瞬いた。  
「ずっとこの時間が繰り返せばいいのにって・・・・・・ 明日なんか来なければいいのに・・・ って。」  
耐え兼ねたようにうつむいた彼女の瞳から落ちた雫が、石畳の上に小さく染みて広がる。  
「そんな――夢みたいな事・・・・・・ 子供みたいに・・・・・・何度も・・・・・・」  
答える言葉など何も見つからず、ただ、自分の服を握りしめ、震わせているその肩をそっと抱き寄せた。  
 
                    _  
目の前には海が望める公園。  
街灯の光に寄せられるように集まり、二人だけの語らいをしている恋人たち。  
その間を寄り添って歩く自分たちも、単なる恋人達の一組にすぎないのだろう。――この場所なら。  
 
「だれもが・・・・・・ずっとこの幸せな時が続くようにと、そう信じて・・・願って、いますよね・・・」  
不意にそう呟いて立ち止まり、こちらを見上げる。・・・何とか笑おうとしているような辛そうな表情だった。  
 
「・・・わたしは ・・・私達は、何を願えばいいのでしょう?」  
じっと自分を見つめる瞳は吸い込まれるほどに透き通っていた。  
「どう願えばいいのでしょう・・・・・・ 何を・・・祈れば・・・・・・」  
唇が震え、瞳の中に影が差してゆく。  
「・・・・・・何に祈れば・・・・・祝福されるのでしょう・・・  わたし・・・祈れません・・・・・・自分たちの幸せな  
んて・・・・・・!」  
 
肩に乗せた重しに潰されるように崩れて行く体を受け止め、これまでに無いほどに強く抱きしめた。  
唇をきつく結んで漏れそうになる嗚咽を必死で耐えている。その耳元を覆うように自分の手の平を添え、  
そっと口を近づけ微かな声で囁くような声を出した。  
「――好きですよ、麻菜実。・・・待ち遠しくて、姿を想う度いつも恋しくて、気が狂いそうになる程・・・ 好き  
です。」  
驚きと、戸惑いと、嬉しさと、悲しさと。次々と変わって見せた表情に、彼女の中を通りすぎた強い感情の  
波を感じ取れた。  
夢中でその唇を奪うと、その喉の奥から一度だけ低い嗚咽を漏らし、彼女は重ねた唇を外して相手の耳  
に振れるほどの間近に口を寄せた。  
途切れ途切れにしか聞き取れないほど微かな、震えた声を漏らす。  
 
「好き・・・大好き・・・・・・ いつか、ダメになってしまっても・・・・・・ 終わってしまっても・・・・・・ 逢えなくな  
っても、好きだから・・・ 望・・・」  
人目をはばかるように、かすれるような細い声で言ってくれた彼女の体を優しく抱きしめ、空を仰いだ。  
 
 
――ひとつだけ祈れる事があるとしたら。  
この想いが実らないように・・・・・・と。 それだけなのでしょうか・・・  
 
自分のその考えに、苦笑いさえ浮かべる余裕もなかった。今はただ胸が痛い。耳に残った彼女の言葉が  
首筋に痺れるような疼きを残していた。  
 
――幸せくらい、祈らせて下さい。・・・せめて、彼女の分だけでも・・・・・・  
 
時間はこのまま過ぎ去り、また、待ち遠しい1週間の日々が始まる。  
とても幸せで、とても苦しい毎日が、また繰り返すのだろう。  
 
 

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