元旦、午後7時。宿直室のこたつに潜り込んで緑茶をすすりながら、生徒達からの年賀状に目を通す。
『謹賀新年。 今年はきっちり進級したいと思います。本年も宜しくお願いします。』
『明けましておめでとうございます、今年も先生のお側で素敵な一年を過ごさせて下さい』
『あけオメ、ことヨロ』
『迎春 今年もよろしくお願いします(これはネズミのしっぽ拓です)』
「おめでたいんですかね、新年なんて」十人十色のそれらを見ながら、思わずぽつりと呟いた。
暦の上で年が明けたからと言って、何をそんなにお祭り騒ぎをする必要があるのか分からない。
昨日と何が違うと言うわけでもないだろうに。特別祝うようなことなど何もないではないか。
そんなことを、お正月くらいは本家へ連れて行くからと交を迎えにきた倫に
ぼやいたら『お兄様、そのお年で中二病ですか』と馬鹿にされた。とかくこの世は住みにくい。
まあ、霧もお正月くらいはという智恵と望の説得によって珍しく家に帰っているし交もいない、
一人きりで過ごせるという意味では非常に貴重な夜ではある。
(だからと言って、やることがあるわけでもないんですけどね)
読み終わった年賀状を輪ゴムで束ねながら、ぼんやりと思った。
休み中に片付けなければいけない仕事もこのまま進めば十分余裕を持って終わらせられそうだし、
大掃除も年末に――千里が――やってしまった。倫がおせちを置いて行ったから夕食の支度をする必要もない。
いよいよ暇になっていっそのこと勝手に図書室を開けて何か本を持ってきてしまおうか、等と考える。
――と。
コンコン、と弱々しいノックに気付いて、顔を向ける。生徒の誰かが遊びに来たかと思って
「どうぞ、開いてますよ」
と声をかけたが、戸が開けられる様子はない。首を傾げながら腰を浮かせたところで恐る恐る、といった様子
でほんの少しだけ戸が開き――そこから覗いた予想外の顔に思わず間抜けな声が出た。
「……加賀さん?」
「あああ、すみません!新年早々私なんかがお邪魔してしまってすみません!」
入り口から一歩も中に入らぬまま謝り倒す生徒――加賀愛にとりあえずこちらから近寄っていくことにする。
「いえ、別にそれは構いませんが……何か御用ですか?」
「いえそんな、御用と言うほどのことでもないんです。これをお渡ししたかっただけなんです、
遅くなってしまって本当にすみません!」
ひたすらに謝りながら愛が望に差し出したのは、先程まで読んでいたのと同じような一通の年賀状だった。
元旦、午後2時半。自宅に届いた年賀状の中に、自分が担任に宛てたものが混じっているのを見付けて
愛は目の前が真っ暗になるかと思うほどの衝撃を受けた。
よく見ると番地を間違えて書いてしまっているその葉書には『住所不明』のスタンプがでかでかと捺されている。
寒空の下あるはずのない番地を探し回ったであろう郵便局員に心の中で謝りまくった後、
『お正月なのに葉書しか買わない地味な客ですみません』と謝罪しながらコンビニで年賀葉書を購入。
何とかきちんと年賀状を書き直したはいいものの、今これをポストに投函しても担任の手元に届くのは
明日以降になってしまう。愛の脳裏に『絶望した!元旦に生徒から年賀状すらこない
教師人生に絶望した!!』と叫びながらロープを首にかける担任教師の姿が浮かんで――
「どこまで心が弱いんですか、私は」
「そ、そうですよね。私なんかが勝手に先生のお気持ちを想像して先走ってしまってすみません!」
思わず入れた突っ込みに対する謝罪を半ば聞き流しつつ、望は受け取った年賀状を片手に
少し思案してから入り口の戸を大きく開く。
「とりあえず立ち話もなんですから、中へお入りなさい」
「いっ、いえそんな、お気遣い頂いてご迷惑をおかけするわけには!」
「迷惑じゃありません。外は寒かったでしょう、せめて少しでも暖まってから帰らないと、
お正月からいきなり風邪で寝込む羽目になりますよ」
「わ、私なんかの体調にまで気を遣わせてしまってすみません!でも私なんかがいたら
交君と先生ののんびりとした団欒のお邪魔に……」
「ああ、交は今日はいないんですよ」
本家に帰っていまして、と続けると、愛の口からひっ、と引きつったような声が漏れた。
「そ……それでは私は先生が一人くつろいで過ごしていた優雅な時間のお邪魔を!?
ああ、すみませんすみません!新年早々空気が読めてなくてすみません!!」
「……ですから、邪魔じゃありませんってば」
軽く肩を落としながら、手で室内を示す。
「私も退屈してたんですよ。何もない部屋ですが、こたつで暖まるくらいはできますから」
望の言葉に、愛は青ざめた顔でおどおどしながら室内と望を交互に見ていたが、やがて何度も何度も
頭を下げながらおずおずと足を踏み入れた。
台所から自分用と来客用のと2つ湯呑みを持ってくると、コートも脱がないままこたつに遠慮がちに入って
辺りをおどおどと見回していた愛が血相を変えた。
「わ、私なんかが先生にお茶を煎れさせてしまって!」
「ああ、気にしないで下さい。私のお代わりのついでですから」
半分本音でそう言いながら愛の前に湯呑みを置き、向かい合うように腰を下ろす。
「それにしても、年賀状一枚のためにわざわざ学校へ来るなんて、貴女も何と言いますか、まめですねぇ」
呟きながら、先程愛から受け取ったばかりの年賀状を改めて手に取った。
人柄が表れているとでも言うのか、線の細い、綺麗だがどこか頼りない印象を受ける文字。
『謹賀新年 今年もよろしくお願いします』というごく普通の文章に、ネズミのイラスト。
――特に、どうしても今日中に渡さなければいけないものには見えない。
年賀状なんて3日以降に届くのも珍しいことではないでしょうに、と考えていると
愛がこちらの顔色を伺うようにしながら口を開く。
「……先生が年賀状を下さったのに、私の年賀状が届かなかったら
お正月からいきなり無視されたような不快な思いをさせてしまいますから……」
はあ、と曖昧に頷いて年賀状をこたつの上に置き、代わりに湯呑みを手に取りながら
「ここまで来て下さった貴女の前で言うのも何ですが、先生、お正月が特別な日だとは思えないのですよ。
年賀状だって、書かなくていいやなどと思われていたのならともかく、そういった事情で元旦に届かなかっただけなら
特に根に持たなければいけないことではありませんし」
そう言って緑茶を口に含むと、愛は困ったように視線をさ迷わせた。
「あ、あの」
おずおずと口を開く彼女に目で先を促すと、両手をぱっと上げて何かから身を守るようにしながら
「わ、私なんかがこんなことを言ってすみません。でも、あの、何て言うのか、
そんなに難しく考えるようなことでもない気がするんですけど……」
「難しく……考えてますかね?」
首を傾げると、望の視線から逃れようとでもするかのように細かく座りなおしながら再びおずおずと話し出す。
「私は、先生から元旦に年賀状が来たら嬉しいですし、来なかったら……ちょっと寂しいです、から」
生意気を言ってすみません、と消え入りそうな声で呟いて俯いてしまった少女を見つめ
頭の中で今言われたことを繰り返し――なるほど、と納得する。
「確かに、そうかも知れませんね」
自分だって、この少女からの年賀状が届かないよりは、届いたほうが、嬉しい。
例え、それが特別なものに見えない、ごく普通の年賀状だったとしても。
――それが、この少女が自分を喜ばせるために、わざわざ持ってきてくれたとなれば、尚更。
「有難うございます、加賀さん」
にこりと微笑んで本心からのお礼を口にした――途端、少女の顔が、歪んだ。
困ったように、あるいは怒ったように眉を寄せ、頬を真っ赤に染めて、焦ったように口をぱくぱくさせる。
「加賀さん?」
きょとんと尋ねる望の前でばっと勢いよく立ち上がり、先程とはうってかわって真っ直ぐにこちらを見つめながら
「べ、別に先生のために持って来てあげたんじゃないんだからね!!」
と叫ぶと、そのまま脱兎のごとく宿直室から飛び出してしまった。
「――は?え?ええ?」
すぐには事態が飲み込めず、一瞬硬直した望が我に返った時には、既に時遅し。
「ちょ、ちょっと!加賀さんっ!!」
慌てて後を追おうとするが、飛び出した廊下には少女の影も形も、もう無い。
――恐るべし、加害妄想。
「……私のためじゃないって、じゃあ誰のために持って来たんですか……」
疲れたように呟いてため息を1つつくと、のろのろとこたつに戻る。
結局手が付けられることの無かった湯呑みを見て、思わず苦笑が漏れた。
新年早々、何とも疲れる――ですが、悪くない来客でしたね。
そんなことを思って、置き土産の年賀状を見つめながら来客用の湯呑みを手に取る。
『謹賀新年 今年もよろしくお願いします』という、ごく普通の文章。
その下には、並んで仲良く寄り添うネズミのイラスト。
そう言えばせっかく会ったと言うのに、新年の挨拶もしていないじゃないですか。
まあ、お正月なんて特別なことでも何でもないと思いますけど。
「今年も、宜しく――お願いしますよ」
先程の真っ赤になった少女の顔を思い出して微笑みながら、こっそり1人そう呟いて
ゆっくりゆっくり、彼女のために用意した緑茶を口に含んだ。