―――春、それは希望の季節。  
草花が悦ばしげに芽を吹く季節。  
そして、この季節には、様々な想いもまた、芽吹き、形を作っていく…。  
 
 
ぶぁっ  
 
一陣の風に、望がマフラーを巻いた首をすくませた。  
暦の上では春分の日を過ぎても、ここ蔵井沢では、まだ風は冷たい。  
望の隣で、倫はふふ、と笑った。  
「まさに、春は名のみの風の寒さや…ですわね。」  
 
2人は、屋敷の裏にある小さな山に登っているところだった。  
 
望は、マフラーの間から白い息を吐き出しながら倫を見た。  
「ああ、その歌好きですね。知ってますか、倫?  
この歌は、信州人の春を待ちわびる心を歌ったものなんですよ。」  
「知ってます…お兄様ったら、何だか、もう先生みたいな口調。」  
「…いいじゃないですか。あと10日もすれば、私は正真正銘の教師なんですから。」  
くすくすと笑う倫に、望は拗ねたように口を尖らせた。  
 
望はこの春、教師として、東京の高校に赴任することが決まった。  
今日が、望が蔵井沢で過ごす最後の日となる。  
離れで荷造りに勤しんでいた望に、  
中学校から帰ってきた倫が、裏山に登ろうと声をかけたのだった。  
 
その後、登り坂がだんだんと厳しくなり、2人は無言になった。  
しばらく歩き、ようやく街を見下ろせる高台に着いた。  
息をきらしながら、2人で、目の前に広がる景色を見下ろす。  
冷たい風が、2人のほてった頬を心地よくなでた。  
 
「思ったよりも、狭かったんですね…この街。」  
ぽつんと呟く望を、倫は見上げた。  
望は、目を細めて、懐かしげに眼下の街を眺めていた。  
「子供の頃は、随分広いように感じましたけど…。」  
 
街を見下ろす望の表情を見て、倫は胸がざわめくのを感じた。  
望の表情は、もはや、この街を生活の場としてではなく  
思い出の場所として見ている人のそれだった。  
 
倫は、急に兄を遠くに感じて、思わず、望の着物の袖をつかんだ。  
 
望が驚いたように倫を見下ろすと、倫の顔を見て困ったように笑った。  
「まったく…お前は相変わらず甘ったれですね。何を心配してるんですか。  
 ここから東京なんて、新幹線でほんの1時間ですよ。」  
「…。」  
「景兄さんだって命兄さんだって東京にいるんですから。  
 倫もちょくちょく遊びに来なさい。」  
 
倫は、うつむいて首を振った。  
違う。  
上の兄達が上京したときは、こんな不安な気持ちにはならなかった。  
 
理解できない感情が自分の中に生まれているような気がした。  
そして、それを見極めることが、どこか怖いような―――。  
 
倫は、それ以上、考えてはいけないような気がして、  
慌てて望から手を離すと、望に背を向けて歩き出した。  
 
しばらく、倫は望から離れたところをうろうろと歩き回っていたが、  
ふと、足元に、黄色い可憐な花が顔を出しているのに気がつき  
かがみこむと、そっと小さなその花弁に積もった雪を払った。  
 
後ろから、雪を踏みしめる音が近づいた。  
「福寿草ですか…やはり、もう春なんですね。」  
 
倫は、望を振り仰いだ。  
「ねえ、お兄様。早春賦の心…東京の人には、理解できるのでしょうか。」  
「どうでしょう。確かに、東京の春は早いですからね…。  
 先日行ったときには、もう桜がちらほら咲いてましたよ。」  
「…。」  
 
倫は、再び福寿草を見ながら、ぼんやりと考えていた。  
 
望と倫は、子供の頃、この季節になると春の訪れを待ちきれず、  
雪の中を駆け回っては福寿草や雪割草を探したものだ。  
そして、雪の中に小さくも鮮やかな色合いを見つけては、歓声を上げた。  
 
しかし、来年からは、倫が雪の中にささやかな春を見つけているその頃、  
望は、満開の桜の下を歩いているのだ。  
 
東京では、色々な人との出会いもあるだろう。  
自分の知らない人達で埋まっていく、兄の新しい生活。  
そのうち、自分以外の誰かが、桜の下、望の隣を歩くようになるのだろうか。  
 
倫は、ふいに心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。  
 
「…倫?」  
急に胸を押さえてうつむいた妹に、望が心配そうな声をかけた。  
 
しかし、倫は、望に答えることができなかった。  
胸の激しい動悸に、息が浅くなる。  
 
目の前の、真っ白な雪の中の福寿草の黄色が、目に痛かった。  
ふいに、倫の頭の中に、先ほどの歌の歌詞の続きがよぎった。  
 
―――春と聞かねば知らでありしを   
聞けばせかるる胸の思いを いかにせよとのこの頃か―――  
 
―――春だ、と聞かなければ、知らないままですんだのに。  
―――なのに、私は聞いてしまった、春の声を。  
―――ああ、この逸る思いを、いったいどうすればいいのだろうか。  
 
胸の動悸が治まらない。  
倫は、今、突然、さっきから胸に渦まく不安の正体をはっきりと覚った。  
―――これは単に兄を慕う妹の寂しさなどではなかった。  
 
倫は、聞いてしまったのだ。  
―――望を、兄以上の存在として想う、自分の心の声を。  
 
「倫…大丈夫ですか?」  
望の呼びかけにも応えず、倫は、両手を握り締めた。  
 
どうして、気付いてしまったのだろう。  
気づかなければ知らないままですんだのに。  
しかも、兄が故郷を離れようとする、こんなときになって。  
 
望に背を向けて押し黙ってしまった倫を、望はしばらく心配そうに見ていたが、  
やがて、優しい声で呼びかけた。  
「…倫。」  
倫の肩が跳ねた。  
 
「倫。私は、いなくなるわけじゃないんですよ。」  
「…。」  
「さっきも言ったように、東京とここは近いんです。  
 それに、私の家はここなんですから。いつだってここに帰って来ます。」  
「…。」  
「だから…明日お前にかける言葉は、『いってきます』です。」  
 
倫は、振り向いた。  
望は、優しく微笑んで倫を見ている。  
しかし、その目は、あくまでも妹を慈しむ、兄の目だった。  
 
―――この逸る思いをどうすればいいのだろう。  
 
倫は、固く目をつぶった。  
この想いを、兄妹の情だと思い込むほどに、倫は子供ではなかった。  
しかし、この想いをなかったことにできるほどに、大人でもなかった。  
倫には、この想いを、ありのままに受け取ることしかできなかった。  
 
この胸の想いを明らかにすれば、望は倫から離れていってしまうだろう。  
否定することもできないけれど、打ち明けることもできない、  
きっと、これは、一生報われることのない、辛く切ない想い。  
 
―――それでも、否定できないなら…私は、この想いに耐えていくしかない…。  
 
様々な思いを飲み込んで、倫は、ようやく目を開けた。  
そして、望に向かって笑って見せた。  
 
「…はい。いってらっしゃいまし、お兄様。」  
 
―――こうして、この春、倫は1つ大人になった―――。  
 
 
 

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