なにをするわけでもない。ただ憮然と天井の染みを見つめている。
眼鏡をせずともわかるその茶色い染み。ぽつぽつと、視界の天辺から底辺まで三つ。いや、四つ。血痕が乾いたあとにも、飛び火の焦げあとにも見えた。
「お目覚めですか」
よく通る声だ。誰だろうかと視線だけ向ける。見知った顔がそこにあった。
艶のある髪が、彼女の所作の一々に揺れる。特徴的なつり目は伏せられ、長い睫毛が呼吸に合わせてわずかに震えた。
「あの、ここは……」
「宿直室だよ。先生、突然倒れるから」
可愛らしい柄のブランケットから、遠慮がちに差し出された手が額に触れる。細い五指はやがて遠慮がちに頬を撫で、頚動脈を下へなぞった。ひんやりと冷たい手の感触が心地良い。思わずうっとりと目をつむる。
「まだ、熱っぽいですね」
彼女はこちらを覗き込み、無表情で顔を傾げる。おさげが頬をくすぐり、思わず声が漏れた。しかし彼女は意に介した風もない。物憂げに溜め息をつくと、いつの間にか手にしていた携帯電話でなにやら打ち込み始めた。
『馬鹿は風邪ひかないんじゃねぇのかよハゲ』
ずい、と眼前に押しつけられた画面には実も蓋もない文章。唖然としつつ顔をあげれば、冷ややかな碧眼で一瞥をくれる。背後の窓から差し込む陽光に、色素の薄いブロンドがきらめいた。
「私の国では、風邪を治すときこうするのよ」
唇の動きがストロボ写真のように一瞬一瞬、網膜へと焼きつく。無造作に髪をかきあげると、おもむろにブレザーを脱ぎ捨てた。
まるで若い頃に見たAVのシチュエーションだ。なんという既視感。ちょっとしたノスタルジー。ほろ苦い青春の日々。などなどと、脳内は既に現実逃避への準備を始めている。
そうこうしているうちに彼女は手にしていた同人誌を脇の小机へ置き、ブラウスの釦を勿体ぶって外していく。桃色のブラジャー。収まりきっていないその質量に、慌てて目を背ける。
ぎしりというスプリングの軋む音。背にしたベッドが二人分の重さで沈んだ。
「先生、先生、先生……」
何度となく囁かれる呼び声。押し殺した中にも漂う色香は、押さえかねて洩らす嬌声にも似ていた。とうとう観念して見据えてみれば、顔ばかりか耳まで赤い。熱があるのはどちらなのだろう。
「先生、私……」
袴の帯がするするとほどかれていく。血の気が引いた。身を起こそうにも、なぜだか身体は動かない。ここにきて初めて気付く。両の手両の足に自由がない。仰げば、ベッドの脚に黒く光る合皮の桎梏と両手がつながれている様が見えた。この分では足も同様。
途端、諦念の波に混じり、にわかに下腹部へと血が集中しはじめる。
ことが露見すれば解雇はもちろん前科持ち。家名に泥をぬり、復職の機会も危うい転落人生。まさしく二番底。そんな危機に直面してむしろ活気付く息子を茫然と眺め、次に切なげな目でこちらを粘着質に凝視する教え子を順に見た。絶望したと心底思う。
(もうどうでもいい)
「好きになさい」
緩慢な動きで瞼を閉じた。一拍置いて衣擦れの音。これでも彼女は良いのだろうか。愛がないどころかろくな意思もない。
「先生は寝たままで結構です」
彼女の小さな両手が袴の裡から引き上げる。外気に触れ、一瞬萎縮したのも束の間、暖かく柔らかい口内に収まることですぐさま勃ち直った。
じゅぷり、と派手な音を一つ。包皮に包まれた亀頭を巧みな舌が器用に導き出す。
尿道口をちろちろと舐められ刺激を与えられると、イチモツは見る間に屹立した。昔取った杵柄とばかりに、唾液やカウパーで鈍く光りそそり立つ姿はなにやら雄雄しく逞しい。
「うふふ、だめですよぉ。ちゃんと洗わないと病気になっちゃいますよ」
皮の間の汚れまですっかり絡め取ると、満足げに喉を鳴らして嚥下する。あどけない声で、子供をあやすような口ぶりが囁く。
二十歳にも届かない未成年を相手に、今まさしく自らの恥部を晒しているのだという事実を改めて認識し、羞恥心で気が狂いそうになった。
懊悩する自分など二の次で、今度は精嚢をやわやわと口に含む。
舌の上で転がしたかと思えば、ぎゅっとすぼめて圧力を加えるなど、高校生の性技とはにわかに信じられないものばかりだ。
本当に十七歳か?いや、留年が二度だから十九歳か。しかしそれにしてもこの技巧は一体どこで。
「お絶望なさいましたか、お兄様」
耳に馴染んだ声にはっと目を開けた。が、すぐさままた閉じる。
(大丈夫だ、何も見なければ)
全体、何が大丈夫なのだろうか。自分でも理解しきれぬまま、先とは異なり固く固く、目を閉ざした。世界は四方八方真っ暗闇。明日からの自分がまさしくそうだと自嘲した。
露見しようがしまいが、自分のような小心者には犯した禁忌が多すぎる、重すぎる。ここから開放されたらすぐにでも樹海へ、富士の樹海へ。
飛び飛びの思考を繰り広げる内向世界とは裏腹に、身体は蹂躙の下にある。
執拗に精嚢をいたぶる舌とは別に、右手は絶え間なく肉棒をしごく。指の腹に力を入れ、弱と強を交互に入れ替える絶妙な加減にカウパーはとめどない。
「くっ……」
「さぁ先生!きっちりたまった分を出してください。」
やけに覇気のある声だった。そしてその直後、ずぶずぶと根元までのみ込まれていく。
すぼめた口内からの圧迫感。加えて一定の速度を保つ上下運動に、あろうことか数秒ともたずに暴発してしまった。
「っぐ、んぐ……ん。私、きっちり全部飲みますから……」
恍惚とした声音に続いて荒い息遣いと舐めとる音が耳に届く。
絶望した。この手が自由であれば間違いなく塞いでいた。なんという失態なのだろう。教え子相手に絶頂してしまうとは!
絶望した、ああ絶望した!
夢ならば覚めろと切実に願う。夢でなければ、今度は本気で首を吊らねばならない。ただでさえ恥の多い人生に罪まで背負ってどうするのだ。
自分ばかりか親兄弟一族郎党七代末まで恥を遺して後ろ指を指されるなど、到底耐えられない仕打ち。
死のう、今こそ死のう。
死――。
「おい、おい望。起きろよ」
不機嫌な子供の声。はたと目を覚ませば見慣れた天井。眼鏡を掛けずともわかる茶色の染みは、一つ、二つ。いや三つ。
おそるおそる辺りを見回す。何の変哲もない宿直室。かわいげのない甥が仁王立ちで構える背後に、ジャージ姿の小森霧が見える。
炊き立ての白米と、味噌と葱の良い匂いが鼻腔をくすぐった。
「あ、先生。おはよう」
振り返り、にこりと笑う霧に内心胸を撫で下ろす。
(夢、だったのか……)
そういえば、と見下ろす。夢の中ではベッドで寝ていたが、今半身を起こしているのは昨日霧が干してくれたばかりの布団だった。
「あ、そうだ。今日の朝飯なんだっけ」
自分を構う様子が全くみられない叔父に愛想を尽かしたのだろう。それ以上は目もくれず、交は霧のもとへと踵を返す。
「今日はね、お味噌汁と……」
姉弟のようだ、と二人を横目に思いつつ、掛け布団をそっとめくる。
「うっ」
案の定の惨事に、これから二人の目をいかに盗み処理を済ませるか。早朝から頭を痛め必死で考える。
(絶望した!あまりにも情けない下半身に絶望した!)