まだおぼつかない足取りで、いつも私の後をついてくる小さな姿。  
振り向いて追い付いてくるのを待つと、そばまで辿り着き、まだ生えそろっていない歯を見せてニッコ  
リと笑いかけてくれる。  
可愛くてしかたなくて、とても愛らしくて、大好きな大好きなこの子。  
ぷくっとした柔らかいその両方のほっぺたに触れて、握りしめる。  
ゆっくりと、左右へ引っ張ると、真っ赤な顔で火がついたように大声を上げて泣き出した。  
手を離すと、私が握っていた部分が赤く染まっている。  
棒立ちのまま空を見上げて泣くこの子の姿に、胸の中が締め付けられるように震え、私は微笑んだ。  
誰かが近づいてくる気配がして、その後は覚えていない。  
 
覚えているのは、それきり、その子に会えなくなった事だけ。  
 
 
サマーキャンプの時に、とても気になっていた男子と一緒の班になれた。  
泣くほど嬉しかった。今思えば、あれが初恋の人なのかもしれない。  
準備の時も、ご飯の時もずっとドキドキして、一緒に過ごす事がうれしくて舞い上がっていた。  
キャンプファイヤーの松明を振りかざして追いかけ回した時は最高だったのに。  
火の粉が飛び散って、あたりに燃え移る中、ずっと彼を追いかけ回していた事……写真にも残ってい  
ないけど、まだ鮮やかに思い出せるほど幸せを感じていた。  
 
その日から、彼は、私を見ると即座に逃げるようになってしまった。  
そして、私の知らないうちに違う学校へ行ってしまったと、教えられる事になる。  
 
 
大好きだった相手はみんないなくなってしまう。  
なぜだか分からなかった。私は、好きだと伝えたかっただけ。  
…言葉に出すのは、いつも恥ずかしくてできないから。どうしても、あがってしまい喋れなくなるから。  
だから行動で、分かってもらおうとしただけ。  
 
時間がたつにつれて、自分が成長するにつれて、ようやく理解できた。  
 
嫌われたんだという事を。  
私の『好き』は、嫌われる事だという事が。嫌がる事をすると嫌われる事が。  
 
大好きだった相手はみんないなくなる。  
私が悪い子だから。  
見た目も、中身も──悪い子だから。悪い事をしたがるから。  
 
そして、この先ずっと、私は『好き』とは言ってもらえないだろう。だれからも。  
 
 
      □   □   □   □  
 
 
日が差しこむ窓際の席は、この時期はとても気持ちがいい。  
そして授業中は気持ちが良すぎて困ってしまう。  
頬杖をつき、見た目はしっかりと目を覚ましているように見えるが、半分とろけかけた意識の中で、  
意味不明の記号をノートに連ねながら、真夜はぼんやりと昔の記憶を手繰っていた。  
 
 
教卓の前では、袴姿の担任教師が黙々として黒板を文字で埋め尽くしている。  
その背中を見るために学校に来ているようなものだと、いまさらながらに思う。  
真夜は、時折、生徒に質問を投げかけられては後ろ向きな答えを返し、教室を微妙な空気で満たし  
てゆく先生を見つめている。  
いつも、その周囲には女性徒の姿が絶えない。  
ハッキリと好意を言動に表わしながら傍に居ようとするクラスメイト達。その影に隠れるようにして、  
 
先生のそばに近寄る。  
言葉に出す事などはとてもできない。油断するとたちまち赤面してしまうような自分をよく知っている。  
 
本当はすぐにでもバットを手に、後ろから飛びかかりたい。  
嫌がる姿を見たい。意地悪な事をしたい。  
昂ぶる気持ちを押さえ、真夜は後ろ手に隠し持った着火マンを一瞬だけ点火させた。  
もちろん、そんな事は出来ないのは気がついている。  
意地悪な自分は嫌われる。  
そしてこの人に嫌われて平気でいられるほど、自分は強くないのだとしたら。  
 
いつも背景の一部となってそこにいる自分を感じる。  
自分が人を好きになる事自体、間違っているような思いに囚われ、心が閉じてしまう。  
このまま、誰かにこの人を取られてしまう時が来ても、何もできないのだろうか。  
 
 
気がついた時には放課後になっていた。  
先生は今日も、女の子たちに追いかけられ、まとわりつかれながら放課後を過ごしていた。  
でも、先生は決して誰にも心を開かない。それが僅かに安心感を与えてくれている。  
宿直室で、ほとんど一緒に暮らしているような子もいるから… そうでなかったら、毎日、気が気では  
ないだろう。  
 
自分も放課後を一緒に過ごせたら──  
こたつに入って、ひざの上に乗って後ろから抱っこしてもらいながら、みかんを食べて……  
 
思わず想像を膨らませ、ぼーっとしてしまった真夜は、気がつけば先生達はどこかに行ってしまった  
事に気がついた。  
 
慌てて、宿直室に行ってみようと思い、着火マンを握り締めて駆け出し──  
いくらも走らないうちに、徐々に足取りが鈍り、やがて立ち止まった。  
 
──以前の自分なら、迷う事なく先生を殴り倒して火を放って、積極的に自分を見せに行ったのに。  
 
真夜は、細い指で着火マンを折れそうなくらいに、強く握り締める。  
嫌われるのは嫌だ。せめて、嫌われたくない。  
だから、意地悪は、ガマンする。  
 
一番聞きたくない一言を、先生の口から聞く事になってしまう。それなら、このまま一人で帰ってしま  
ったほうがいい。  
 
大きな瞳から、ぽろっと涙がこぼれた。  
それはただの寂しさからか、弱気な自分への苛立ちなのか。  
真夜は、ゆっくりと振り返り、とぼとぼと歩きながら校舎をあとにした。  
 
 
           
いつもの道と、いつもの商店街。  
スイッチを切ったように思考を止めた頭には、視界から入ってくる風景も記憶に留まらずただ流れて  
いるだけだった。  
足を交互に動かして、毎日の習慣となったいつもの帰り道を歩いてゆく。  
 
ふと。真夜は歩みを止めた。  
自分でも不思議に思ったのか、辺りの様子を伺うと、足元の方から、細い──例えば壊れたリコーダ  
ーから抜ける空気のような鳴き声が聞こえた。  
足先に目をやると、そこには、一匹の犬が真夜に背を向けて佇んでいる。  
真夜に尾を向けながらも、首を捻ってこちらを振り返り、どことなく人間臭さの滲み出る、しょぼくれた  
表情を見せていた。  
真夜と犬の目が合う。  
鋭いその眼差しで見つめられても逃げ出そうとはせずに、もう一度鼻を鳴らした。  
 
その側にしゃがみこみ、道端に転がっていた棒切れを拾い上げると、真っ直ぐに狙いを定めて、犬  
の尻尾の下にあるアスタリスク模様に突き刺した。  
 
後ろから、通りすがりらしいスーツ姿の女性が、持っていたバッグを落とした音がした。  
それには取り合わず、真夜はぐいぐいと棒切れを押し込み続け、やがて満足したのか手を離す。  
尻尾が二本になったかの様にも見えるその犬は、痛がる訳でもなく、ジッと真夜を見つめていた。  
 
──可愛いと意地悪したくなる。…意地悪な私は、嫌われる。…痛くすると嫌われる。  
 
傍目には無表情に見える真夜の瞳の奥。深く沈み込んだ葛藤が、何度も繰り返された。  
 
やがて、その何処か不景気な顔の犬は、短く鼻を鳴らすと、真夜に甘える訳でもなく飄々とした足取  
りで路地を曲がり、消えていった。  
曲がり角で、一瞬だけ、二本の尻尾を振ったように、真夜には見えた。  
 
「あ…あの… あなた、何を……?」  
スーツ姿の女性が、少々引きつりながら真夜に話しかけてくる。  
真夜は、傍らに投げ出したカバンを手に取り、立ち上がろうとして──  
落とした時に留め金が外れていたのか、フタが開いてしまい、バラバラと中身が散らばってしまう。  
灰色のアスファルト上に散らばったのは、愛用の着火マン始め、ハサミや包丁などの品々。  
女性は短く悲鳴を上げて、青ざめた顔で後ずさりし、  
「ひゃ……ひゃくとうばん……!?」  
そう言い残し、踵を返すと逃げるようにその場から走り去ってしまった。  
 
 
一人残された真夜は、散らばった物を拾い集めながら、妙に印象に残った今日の犬の顔と、今の女  
性の言葉を、頭の中で反芻していた。  
 
みんな、自分からは逃げて行く。──でも、違う時もあった。  
 
目つきが悪くて勘違いされた事。…クラスメイトに。 …先生に。  
今でも、勘違いされたまま……… いや、勘違いなのだろうか?  
 
空を見上げると、燃えるような夕焼けの色が照り返して、街が赤く染まっている。  
炎に包まれているような街の風景に真夜は思い出した。  
 
初めて先生を炎で追い立てた時の事──  先生に初めて意地悪した時の事を思い出す。  
あの時先生は────  
 
真夜はすっくと立ちあがり、今来た道を振り返る。  
そして、一瞬だけ湧きあがった躊躇いを振り払い、学校へと駆け出した。  
 
──それは、ただの憶測でしかない。賭けに近いような、単なる思い付きだった。  
自分の考えが間違っていなければ……   
真夜は後ろ向きになりそうな考えを払うように激しく頭を振り、今はただ走る事に集中した。  
 
     
先生の姿は校庭にあった。  
また、いつもの悪い癖が出たのだろう。校庭の隅に植えてある木の枝にロープを掛け、輪の形に作  
ったその端を両手に取り、じっと見つめている。  
その背中を目掛けて、真夜は一直線に駆け寄って行く。  
取り出したバットの柄をしっかりと握り絞め、カバンを投げ捨てながら大きく息を吸い込んだ。  
先生の背後でブレーキをかけて踏ん張った脚を軸にし、全身の力を、振りかぶったバットに乗せた。  
 
カーン!!  
 
以外なほど乾いた音が出て、先生の細い体は一瞬宙に浮き、縦の方向に一回転して、うつ伏せに地  
面へと倒れこんだ。  
その後頭部には、大きなタンコブが膨れ上がる。  
本来なら笑顔が浮かぶほどに、胸が高鳴るはずだが、今はまだ、不安から来る緊張が真夜の鼓動  
を激しくさせているようだった。  
 
いくらも待たずに、先生は がば! と顔を上げた。  
真夜の姿を視界の中に認め、一瞬、何かを叫ぼうとしてすぐにそれを止める。  
ちょっと落ち着いた仕草で土を払って立ちあがり、どこと無く皮肉さを漂わせた普段の表情を見せる。  
「…犯人な訳がありません。」  
 
──間違っていなかった。  
真夜の中で、何かが弾けた。  
 
「こんな見たままの悪い子がいるわけありません! そして証拠が揃いすぎです!」  
腕を組み、独白するように空を見上げて、──少し格好つけたつもりなのだろうか、真夜に背を向け  
た。  
 
──間違っていなかった。この人の事。  
 
間髪をいれず、その隙だらけの背中に真夜のバットが振るわれる。  
再び地面に転がった先生は、バットを手にして立ち尽くす真夜を見上げて口を開く。  
「ははは……! わかっていますとも! 三珠さんが犯人な訳が無いです。」  
 
──この人を好きで間違ってなかった。  
 
「…古今東西、様々なミステリー物を見てきた私は騙されませんよ!」  
なおも何やら呟いている先生を尻目に、真夜は木に垂れ下がっているロープの端を手に取る。  
「え……?」  
ニヤリと先生に笑いかけ、ロープの輪を先生の首に引っ掛けた。  
しゅるしゅると、枝を滑車代わりにして引っ張ると、張り詰めたロープが先生の首を隙間無く締める。  
「ちょ…!?」  
一瞬だったが、必死の形相でもがいてみせる先生の目が、笑みの形を浮かべた事を、真夜は確か  
に捉えた。  
そして思い切りロープを引っ張る。  
 
「死んだらどうする!!」  
勢い良く吊り上げられながら叫んだお決まりの台詞が、真夜にはやけに楽しそうに聞こえた。  
 
 
 

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