夕刻。宿直室の前に立ったまま、加賀愛は硬直してしまっていた。  
 彼女は可符香にとあるものを“先生の落し物”として届けるように、頼まれてやってきていた。  
 いわゆる”しょうゆの入ったお魚”を。  
 愛はおそるおそる、迷惑にならないかと不安になりつつ、しばし悩み、立ち止まっていた。  
 しかし、このままではかえって迷惑が掛かると思い、愛は意を決してノックをした。  
「先生、あの、落し物を……」  
「か、加賀さんですか!? ちょ、ちょっと待ってくださいよ、いいですね! 」  
 えらく焦った声色で、糸色望は返答した。  
 ――しまった! 愛は青ざめた。現に、先生は明らかに困惑している。  
 きっと先生は、わたしがすぐに落し物を届けなかったせいで、とても切迫した危機に陥っているに違いない。  
 この“しょうゆの入ったお魚”がなくて、どう困るのか。――そこまで考える余裕は、加害妄想の暴走する愛にはなかった。  
 刹那、少女は扉を開け放った。  
「んなっ! 」  
「きゃ! 」  
 糸色望は全裸だった。湯上りのようだ。眼鏡もなければ、服もなく、ぽかぽかと湯気が立っている。  
 突然の来襲に、混乱する望にできたことは、せいぜい手で隠すことぐらいだった。  
 胸を。  
「か、加賀さん、これはその! ちょうど湯上りで! 」  
「せ、先生、その、優先順位が……」  
「はっ! 」  
 慌てて、望は絶棒も隠した。すぐに望は物陰に隠れた。  
 加賀はあまりの出来事、そして罪悪感に恥ずかしくなり、一瞬で赤面しきってしまった。  
「ど、どうしたんですか加賀さん、いきなり」  
「おと、落し物を届けに来たんです! すみません、こんな時にやってきてしまって」  
「い、いえ、お気になさらないでください。で、落し物とは? 」  
「これです。風浦さんに頼まれたんです。遅くなって本当にすみません! 」  
 
 こたつの上に、置かれる魚。  
「ああ、これは非常時に用いるための墨汁入れですね。醤油ではありませんよ。とっさに遺書を書きたいときに使うんです。  
 先生、何度か物を大切にしなきゃな、と思うことがあって、そのときに結局、この程度しか使える再利用を思いつかなかったのですよ。  
 まあ、無くても困るものではないのですが、わざわざ届けて下さって、ありがとうございます」  
「い、いえそんな…」  
 相変わらずの先生の言動に戸惑いつつ、どこか、愛は安堵を覚える。よかった、いつもの調子だ、と。  
「それにしてもすみません、先生。急ぎの用ではなかったんですね」  
「いえ、お気になさらず。しかし、これは気まずいですね。穴があったら入りたいものです」  
 穴があったら、入りたい。  
 穴。墓穴。墓穴に入りたい。遺書。――自殺。わたしが全裸を見たばっかりに、自殺。  
 瞬間、愛の加害妄想スイッチが入った。わたしも全裸の自分を晒さねば、と。  
「せせせ先生! 」  
「へ? 」  
 先生の目前に踊り出ると、愛は顔を赤らめつつ、そっとセーラー服を赤い戒めをゆるめた。  
「見てください、先生」  
 愛はたどたどしい手先で制服を脱ぎ去り、純白のブラジャーに包まれた奥ゆかしい胸元を晒した。  
 スカートも脱ぎ去って、青と白のしま模様のショーツを見せる。あまりの恥ずかしさに、内股になってしまっているあたりがいじらしい。  
 あまりのことに、望は絶句していた。  
 あの人徳の高い彼女が、いきなりこのようなあられもない姿になれば、驚きもする。  
 愛はブラジャーのホックに手を掛けつつ、羞恥心から顔を俯けて――。小さく震えるような声で。  
「すみません、貧相な女体ですみません。こんな私なんかが一糸纏わぬ姿になってすみません」  
 そう自分に言い聞かせるように呟きつつ、パンツにも手を掛けた。  
 ――全裸になり、愛は小刻みに震えていた。  
 望は、その美しさに息を呑んだ。  
 彼女は愛らしさは、その身ひとつの成すものではない。彼女の弱く繊細な心が、たまらなくいとしく感じられてならないのだ。  
 そんな彼女を喰らいたくて、望の心奥底で何かがうずく。  
 獣たちが潜むことを、彼女は感づいていて、だから不安で怯えているのだ。  
 それでも彼女は身を隠そうともせず、己を捧げようとしている。空腹の虎に我が身を捧ぐかのように。  
 
 望はそっと、彼女を抱き寄せて、御髪を撫でつけた。  
「加賀さん、加害妄想が過ぎてますよ。あれしきのことで絶望して死のうなどとは思いませんよ。  
 さあ、服を着なさい」  
「けど、先生だったら…」  
 なにをされても良い。  
 そう思っている自分が、愛の心のどこかに居た。  
「まあ、たしかに普通の人はともかく、我ながら厄介な相手。不安になるのも仕方ないかもしれません。  
 わたしの人徳のなさゆえに、あなたに無理な心労を強いるのですね。これは反省しなければなりません」  
「そんな、ただ、先生が死なないでいてくれたら……」  
「この命、だれかに惜しまれるほどであっては、死にたがりのわたしには毒ですね。  
 あなたの心を奪いたくなって、いつ死のうとするか分からなくなるやもしれません」  
「先生……」  
「あまり期待をもたせないでください。素直におっしゃればいいんですよ、先生のこと、あなたは好きでも何でもないでしょう? 」  
「あ……」  
 愛は俯いた。本当に、そうだろうか。わたしは何の好意も持っていないのに、こんな姿をさらしたのだろうか。  
 本当は、彼のことを手に入れたくて、素直になれなくて、加害妄想にかこつけて、こんなことを。  
 正直に、自分に素直になるとしたら、わたしは、何というべきなのか。  
 ――きっと迷惑に決まっている。きっと、彼のことを傷つけるから――。  
 眼鏡が宙を舞う。気づいたとき愛は、平手打ちを見舞っていた。ジンジンと手が痛かった。  
「あなたのことなんて! 好きでも何でもないんだからね! 」  
 手をさすりながら、愛は精一杯の声で叫んだ。目じりには涙が浮かんでいた。  
 望は無言のまま眼鏡を拾うと、風呂場の方にゆっくりと歩いていった。  
「湯冷めしてしまいました。わたしが上がるまでのうちに、お帰りなさい」  
 シャワーの音が聞こえる。  
 愛は服を着替えると、逃げるように立ち去った。  
「意外と痛いものですね、ああみえて」  
 望はぽつりと呟いた。  
 
 
 おまけ  
 
 後日。宿直室の夕飯には、なぜか五名も集まっていた。  
 望、交、小森、まとい、それに愛までなぜか居た。ちなみに今夜はお刺身とカニ雑炊である。  
「すみません、私なんかが夕飯をごちそうになって」  
「いえいえ、食事は人が多い方がおいしいというじゃないですか。構いませんよ」  
 ぎこちなく、しかしどこか打ち解けた感じのする二人に、小森とまといは内心ちょっとだけ焼いていた。  
(なんでわたしが先生のために作った夕飯を、こんな見知らぬ子に…! )  
(先生、例の一件、わたし見てたんですからね…)  
 と、交がふとあることに気づく。  
「醤油がないぞ」  
「あ、ホント」  
「醤油ならありますよー」  
 風浦可符香は忽然と現れた。あの”しょうゆの入ったお魚”を手にして。  
「でも一人分しかないんですよ、先生いかがですか? 」  
「い、いえ、それは…」  
 墨汁、と言いかけたところで可符香にアツアツのカニ雑炊を食わされる。見事な口封じだ。  
「醤油、今から買ってきますから。とりあえず先生の分だけ、受け皿に注いで置きますね。それじゃあ」  
 そういって、可符香は去っていった。  
 残るは醤油の注がれた皿、ひとつ。  
「わたしが先生に食べさせてあげる! 」  
 とっさ、霧は箸を伸ばした。ライバルに先を越されるよう、俊敏に。  
 しかし醤油の正体を知っている愛とまといは、青ざめるしかなかった。  
「ずるいぞ、そいつばっかり」  
 何も知らぬ交は、望のことをうらやましがっている。  
 そうして刺身をたっぷりとわさび入りの醤油につけ、霧は嫌がる先生の口に、刺身を――。  
「はい、あーん」  
「あーん」  
 望ではない。交がぱくりと横取りしていったのだ。  
「……にがっ! からっ! 」  
 のたうち回る、交。  
 
 翌朝、交は新たなトラウマに怯えていた。  
「刺身こわいよ刺身こわいよ」  
「わさびは大人の味だもんね、そのうち分かる日が来るよ」  
 風浦可符香は今日も明るく、一人で微笑んでいる。  
 

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