時は、ほんの少しだけ遡って………。
男は1度息をついて………カチカチ、と取り出した携帯電話のボタンを操作する。それを耳に当て、しばし抑揚に
欠ける呼び出し音に耳を傾けた後。
『はい、もしもし。』
「………もしもし、私です。」
今回の『依頼人』に、確認の電話を寄越す。
『ああ、どうも。それで、どうなりました?』
「今、送り届けました………。」
『有難うございます。マ太郎は、ただの仕事だと思って行ってるんですよね?』
「はい、そうです。」
『そうですか………ああ、そうだ、あちらの手配も確認できました。とっても頼りになる人達ですね。』
「本当に、例の通りでいいんですよね?」
『はい、ご苦労様でした。お金は、そちらの指示通りに振り込んでおきますから。』
電話の向こう側に居る相手の声に、何度か頷いて。男はやがて、満足げな笑みを浮かべた。
「はい、有難うございます。後で、確認させて頂きます………。」
『あとは、私達の仕事です。それじゃぁ………これで。』
「はい。それでは、失礼します。」
丁寧な応対の後、電話を切り………電話越しにも関わらず無意識のうちに浮かべてしまっていた、営業スマイルと
いう仮面を外し、息を吐いた。
依頼人の顔を、思い出す。まさか………あんな、どう見てもただの女子高生にしか見えない娘が、依頼を持ちかけて
くるとは思わなかった。が………金さえ用意出来る相手なら、専業だろうと副業だろうと全力で要求に応え、相手が
求めるものを用意するのが自分の仕事だ。それ以上でも以下でもない。
正直な話、あの娘の正体はかなり気になるが………余計な詮索はしない、というのも、この世界の常識だ。
「………人の良さそうな面して、大したもんだよ、全く………。」
男は、どこか呆れたような声でそう言って………すぐさま、その場を離れ、報酬の入金を確認しに行った。
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開かれたドアの向こうに立っていたのは………よく見知った、自分の僕、あの看護婦だった。
だが。恐怖に表情を引き攣らせた看護婦の、その背後に控えている人間を見て………命は、愕然とする。
まず、看護婦の背後で、その腕を関節技を決めるように拘束して………もう一方の手で持った拳銃をそのこめかみ
に突きつけている少女。それは、命が身内である倫を除き、あのクラスで1番初めに手中に収めたははずの、その
少女………風浦可符香、その人だった。
そして、その、更に背後。狭いドアからでは、全体を確認することはできないが………それでも、数十人は控えて
いるであろうことが察せられる、褐色の肌を持つ人間の群れ。半ばパニック状態に陥った命には、その正体を知る
術など無かったが………それは、あの簡易物置で暮らしていた、そして、それ以外にもこの町の到る所に身を潜めて
いる、マリアの同胞達だった。
「せ………せん、せ、い………っ!!」
看護婦が、震える声で呟く。その声がスイッチになったかのように、命は我に返り………腕に抱えていたマリアの
身体を放り出して、とっさに、机の上に放置してあった拳銃に手を伸ばす。
だが………命の手がそれに届くよりも先に、地下室に、ピシュン、と気の抜けたような音が響く。サイレンサーに
よって抑えられた銃声の直後………命が掴もうとした拳銃は、弾丸に弾き飛ばされて床に転げ落ちた。
「………ッ………!?」
伸ばした手の先を飛び去った弾丸に………その、驚くほどに精密な軌道に、命は戦慄する。
弾丸を放った可符香は、すぐさまその銃口を硬直している命の頭に向けた。
「お久しぶりです、絶命先生。」
「ッ………貴様………!」
普段通りの明るい声とにこやかな笑顔で、可符香は遅い挨拶を済ませ………そして。
「まぁ!どうしたの、マ太郎!」
命が何か返事をする前に、大袈裟な声と口調で、そう言った。心の底から驚いているような言い方とは、対照的に
………命からしか見えないその顔には、妙に落ち着き払った微笑が、張り付いている。
そして。可符香のその言葉を受けて………背後に控えていた人の群れが、ざわめき始める。
「大丈夫!?その人に、何をされたのマ太郎!?」
「マタロウ?」
「………マリア?」
「マリア。」
「マリア………。」
可符香が地下室に踏み込み、通路を空けるように1歩横へ退く。何人もの呟きが重なり連なった音と共に、マリア
と同じ色の肌をした人間達が、踏み込んでくる。男も女も、大人も子供も入り混じって………その数、数十人。
「マリア………ッ!!」
その中から1人、マリアと似た背格好の少女が飛び出す。マリアよりも短い髪をしたその少女は、壁際でぐったり
としているマリアに真っ直ぐに駆け寄って、その顔を覗きこんだ。しかし………眼の前にその少女の顔が現れても、
マリアの瞳は動かない。その視線はただ、どことも知れない空間に、ぼんやりと漂ったままだ。
「おい、勝手に………。」
命が、その少女を制止しようと振り向きかけて………その瞬間、再び弾丸が部屋を横切る。正確に命の頬を掠め、
その肌だけを切り裂いた弾丸は、壁に着弾してコンクリートの欠片を飛び散らせた。
「………勝手に動いちゃ駄目ですよぉ、先生。」
再び硬直した命の顔を、1度、憎悪に満ちた眼で睨みつけて………少女は、力無く弛緩したマリアの身体を抱えて、
人の群れの中へと戻っていった。いくつもの眼が、不安げにその様子を見送って………その後、命に視線が集中
する。その視線を受けて………命は、生まれて初めて、心の底からの恐怖に身震いした。
「マリア………。」
「マリア、泣イテタ。」
「泣イテタ。」
「泣カセタ。」
「マリア、泣カセタ。」
「………アイツ、マリア泣カセタ。」
片言の日本語で、口々にそう呟きながら、人々はじりじりと命に歩み寄る。そして………扉の隣に立つ可符香が、
拳銃の狙いを命の頭に定めたまま、それを煽る。
「………そうです。その男は、皆さんの大切な同胞、関内・マリア・太郎を泣かせた、極悪人です。」
「………泣カセタ。」
「マリア、泣カセタ。」
「同じ運命を背負った仲間を穢し、その心を踏み躙った、悪魔です!そんな男を、皆さんは許せますか!?」
「………アクマ。」
「マリア泣カセタ、アクマ。」
「許サナイ。」
「この国は、皆さんの怒りを代弁してはくれません。裁きを下せるのは、そう、あなた達だけなのです!!」
「許サナイ。」
「アクマ、許サナイ。」
「………殺ス。」
「さぁ、今こそ怒りの拳を振り上げるのです!同胞の心を壊した悪魔に、裁きの鉄槌を!!」
明るい声とは裏腹の、血生臭い内容の可符香の演説は、まるで催眠術のように、人々の中の命への怒りと、仲間を
傷つけられたことへの復讐心を煽っていく。自らの作り上げた、逃げ道の無い地下室の片隅に、命が追い詰められて
いく。床に落ちた拳銃は、既に人の群れに無残に踏み潰され、もはや命にその身を護る術は残されていない。
欲望に忠実でありながらも、その欲望を満たし続ける為に、保身にも余念が無かった………そんな狡猾な性格だから
こそ、命には、眼の前に迫り来る人の群れの危険さが、それこそ死ぬほどよく理解できてしまっていた。
自分が穢し、そして壊した少女の、同胞達。今の彼等の頭の中には………自分の身を護る、という意識など、欠片
も残されてはいない。そこにあるのは………ただただ純粋な、怒りと復讐心のみ。自暴自棄、などという言葉すら
生易しい………それは、完全に怒りに我を忘れた、野獣のような精神状態だった。
しかし………本来の彼等ならば、ここまでの狂乱状態にはならなかったであろう。彼等がこの国で生きていく根底
には、『自分の身は自分で護る』というルールが存在するはずであり、例え同胞が無残に傷つけられ怒りを覚えた
としても………傷つけられたその人が、自分の為の復讐により他の同胞が危険に晒されることを望まないであろう、
という思考に到るはずだからだ。
彼等がここまで、怒りを動力源とする人形のような状態に陥ってしまった原因は、おそらくただ1つ。
今は彼等の背後で、事の成り行きを見守っている………風浦可符香。彼女による扇動………いや、洗脳である。
「(私は………私は、何を仕出かした?)」
命が、自問する。
「(………私は、一体………。)」
その、答えが出る前に。
「(なんという、悪魔に………手を、出してしまったんだ!?)」
命の身体………無数の手足が、襲い掛かった。
その後数分に渡って、鈍い音と命の叫び声が、混ざり合って部屋中に響き渡る。
そんな、思わず耳を塞ぎたくなるような騒ぎの中でもよく通る声で、可符香は言葉を続ける。
「命を奪っては、いけません!死によって………その魂を、この世界から解放させてはいけません!」
人々はその声に反応しなかったが………その言葉は確実にその頭に染み込み、延々と続くかに見えた人々による暴力
にいくらかの歯止めを掛けていった。
「私なら………その悪魔に、もっと、死ぬよりも辛い償いを課すことが出来ます!」
その言葉に………ものの数分で、もはや立ち上がることすら出来ない程痛めつけられた命への暴行が、止む。
「ツグナイ?」
「ツグナイ………。」
「そうです、償いです!その悪魔の背負った罪は、死などという生易しい審判で贖えるものではありません!」
中には、可符香の言葉の意味を理解できない者も居たが………可符香の言葉には、どこか、言葉の壁を越えて人々
の心を操る、ある種の魔力が備わっていた。命を襲う手足の動きが、徐々に、緩慢になっていく。
無残な姿で、血を流しつつ床に横たわりながら………命は、その声が次に何を告げるのかを恐れ、震えていた。
やがて、しん、と凪いだように静まり返った部屋の中で。
「………もう、いいですよ。入ってください。」
可符香の声だけが、やけに大きく響く。
「駄目ですよ、先生………そんな、都合の良い夢を見ちゃ。」
その声を合図にして。
「こんな凶悪な性犯罪者が、何のお咎めも無しなんて………そんなこと、あるはずないじゃないですか………。」
黒ずくめにサングラスという、いかにもな出で立ちの男達が、部屋に踏み込んだ。
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「………時間を掛ければ掛ける程、足がつく危険は増しますが。」
「すいません。でも………最期に少し、お話したいんです。なんなら、別料金も払いますか?」
「………いえ、初めの契約は護ります。事務所に、拘束しておきますので………なるべく、早いうちに。」
「解かりました。それじゃぁ、お願いします。」
ボロ雑巾のようになった命を、乱暴に地下室から引き摺り出した男達は、鮮やかな手際でそれをただの荷物のよう
にカモフラージュし、糸色医院の裏口から運び出した。黒塗りの車にそれを積み込み、代表者らしい男が可符香と
二言三言会話をして………やがて、車は走り去る。
「………それじゃぁ、皆さんも、今日はこれで。」
「………………。」
「あとの処分は、私に任せてください。皆さんは………マ太郎の傍に、居てあげてください。」
「………マリア………。」
「あの悪魔の行く末は、必ず………皆さんにも、マ太郎にも、知らせますから。」
大挙して押し寄せたマリアの同胞達も、可符香のその言葉にあっさりと納得し、まるで少しでも目立たぬよう気を
遣っているかのように、それぞれバラバラの方向へと歩き出した。まるで、さきほどまでの地下室の惨状が嘘のよう
に、糸色医院はいつも通りの寂れた静けさを取り戻していた。
そして。可符香と共に残された………最後の、1人。
「………さて。」
「ひ、っ………!?」
命の右腕として、この悪行に加担してきた彼女は、可符香の声にビクリと身を強張らせた。まるで、異形の怪物を
見るような眼で、泣きそうな顔で、人の良さそうな笑みを浮かべる可符香の顔を見つめる。
「やだなぁ、そんなに怖がらないでくださいよぉ。」
「………っ………?」
「解かってますよ。あなたも、先生に酷いことされたんでしょう?」
「え………ぁ、っ………?」
「1番悪いのは、絶命先生です。あなたまでどうこうしようなんて、私、思ってませんよ!」
可符香のその言葉に、看護婦は、まるで絶望の淵から救済されたような表情を浮かべた。浮かんでいた涙が、まるで
眩しい光を見つめるように細められた眼の下で、つ、と流れ落ちる。
………が。
「ただし。」
それに続いた声の持つ、圧倒的な迫力に………看護婦はまた、ビクリ、と身を震わせる。
再び硬直した看護婦に歩み寄り………それまでの笑顔が嘘のような、まるで、底の見えない沼の様に濁った色で鈍く
光る瞳でその顔を見つめつつ、可符香が付け加える。
「あなたが………2度と私の眼の前に、姿を現さなければ、ですけどね。」
「………ぇ、っ………。」
可符香の言葉に、看護婦が、ぽかん、と口を開ける。
「そうすれば、これ以上あなたを責めるつもりはありません。すぐに、どこか遠くへ出て行ってください。」
「ぇ………あ、っ………?」
「さもないと………もしも私が、次に、あなたのことを見かけたら………。」
「………ッ………!」
「あなた………もしかして、絶命先生よりも、私の友達よりも、ず〜っと酷い目に遭っちゃうかも知れませんよ?」
その言葉と、声に………看護婦は、直感する。
この娘は………気が、狂っている。この娘なら、本当に、自分をどんな目に遭わせるか、解からない。
「ひ、ぃ、ぁ………っ………!!?」
看護婦は、生まれて初めての恐怖に戦慄しながらも………ガクガクと何度も、その首を縦に振った。
それを見て、可符香は満足げに微笑み………そして、それ以上は何も言わずに背を向け、歩き去った。
独りその場に残された看護婦は………やがて緊張の糸が切れたように、ぺたん、とその場にへたり込んだ。
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数日後。余り治安の良くない街の、とある事務所の一室。
ごく普通の生活を送る、表社会に生きる一般人なら、一生縁の無いはずのその場所で。
「………凄いニュースになってますよ、先生の診療所。」
可符香は………診療所に押しかけた黒ずくめの男達によって椅子に括り付けられた命と、向き合っていた。
「突如として失踪した、町の開業医の先生。警察が、その診療所を調べてみたら………。」
「………………。」
「近隣の女性を狙った、婦女暴行事件を記録した資料がどっさり、ですもんね。」
「………っ………。」
「今や、『失踪者』じゃなくて『逃亡者』扱いですよ。有名人ですね!」
命が、どろりとした視線を可符香に向ける。長い間風呂に入らず、髭も剃っていないその姿は、一見すると公園で
野営している人間のようにも見えたが………しかし、汚れてはいるが肌の血色は良く、痩せ細ったりやつれている
ような様子も無い。声も、しっかりしている。
「それで、どうですか?ここでの、生活は。」
可符香のその質問に………命は、ようやく反応を示した。
「………ああ………健康管理だけは、マトモにやって貰ってるよ。栄養的には申し分の無い食事も出るしね。」
「そうですか、それは良かった。ちゃんと、頼んだ甲斐がありました。」
「………君が、どんなつもりかは知らないがね。あとはそうだな、強いて言えば………死ぬほど、退屈だ。」
「大丈夫ですよぉ。それも………今日限り、ですからね。」
皮肉たっぷりの命の言葉に、可符香が含みのある言葉を返す。そんなやり取りが、しばし続いて。
「で………今日は、どういうつもりだ………?」
命が、その問いを可符香に投げ掛けた。
可符香は、うーん、とわざとらしく空中を見つめて考え込むような仕草を見せてから、それに答える。
「まぁ………最期の挨拶、ってところですかね。」
「………最期の、か。」
「ええ。それと………せっかくお別れなので、いろんな、タネ明かしも兼ねて。」
付け加えられた言葉に、命の眉がぴくりと動く。
「………先生、私のしたことで、何か気になってることとかありませんか?」
この期に及んで、未だに上辺だけは純粋無垢な少女のように装う可符香の態度に、苦笑してから………命は、じ、
としばらくの間足元を見つめて………可符香の言葉に、答えた。
「1番、解せないことと言えば………私が、こうして生かされていることか。」
「さて、どういう意味ですか?」
「ここまで来て、とぼけるなよ。まず………どうして、私を始末する気になったんだ?」
どこまでもストレートに、真正面から投げ付けられる、命の問い。それを受け続けるうちに………可符香の被った
仮面も、徐々に剥がれ落ちていく。その表情に、どこか狂気染みた………あの日、命が初めて可符香を犯し、その
純潔を奪った後に見た、あの気配が浮かび始める。
「………1番の理由は、やっぱり、先生の………あなたじゃない、私の大好きな、先生の為です。」
「望の………か?」
「先生………倫ちゃんにも、酷いことしたんですよね?実の、妹なのに。」
「………ああ。あれは、君達のクラスの中で動いてくれる、優秀な手駒になると思ってね。」
「それですよ。そんなに簡単に、身内に手を出せる人です………私の先生だって、いつ牙を剥かれるか。」
「………危険因子は、取り除いておこうと?」
「ええ。先生が、あなたにとっての邪魔者になったとしたら………あなたは、必ず先生を消そうとしますから。」
確信に満ちた声で、可符香はそう語った。普通なら、勝手にそんなことを決め付けられれば憤慨してもおかしく
ない所なのだが………可符香のその話が、怖ろしいほどに真実を言い当てているだけに、命は反論できず、ただ
苦笑いを浮かべ続けるだけだった。
「………まぁ、今の話は間違っちゃいないな。いやはや、大した行動力だよ。」
「ふふふ………有難うございます。」
「しかし、だ。それならば、やはり………どうしても、この状況が解せないんだよ。」
この状況においてもなお、まるで自分と相手が対等な立場に立っているような態度で、命は続ける。
「そう思ったのなら、しかも、こうして裏社会の人間を操れるなら………何故、私をすぐに殺さない?」
「………ですからそれは、あなたに死ぬよりも辛い苦しみを………。」
「その理由を、聞いているんだ。合理的に考えれば、一刻も早く存在そのものを抹消するべきだろう?」
「………へぇ、そういう手もありましたねぇ………。」
「生き永らえさせておくことにメリットは無い。それに………難民の群れを引き連れてきたりするか、普通?」
「さぁ、私、奈美ちゃんじゃないからよく解かりません。」
「早く、ミンチにして魚の餌にでもすれば良いだろう?何故、そうしない?」
やがて、対等どころかまるで立場が逆転してしまったかのように、命ばかりが饒舌になっていく。
「それをせず、こんな非合理的な真似をする理由など………1つしか、考えられない。」
「へぇ、そうですか。それって、何でしょう?」
「恨みだよ。平静を装ってはいるが、君は………危険を冒してでも私に復讐をしたがる程、私を恨んでいる。」
その言葉に、今度は可符香の眉が、ぴくりと動いた。命が………そんな圧倒的に弱い立場にあるとは思えない顔で、
にい、と笑ってみせる。
「………本当は………私に処女を奪われたのが、悔しかったんじゃないか?」
「………何言ってるんです?あのとき、言ったじゃないですかぁ、身体なんて所詮は仮初の………。」
「ほら、恨んでいること自体は否定しないだろう?ならば、それ以外に私が君に恨まれる原因などあるか?」
「私は、ただ………あなたに傷つけられた友達の、仇討ちをしたかっただけですよ。」
「それは、無いよ。断言できる。それなら………あれだけの被害者が出る前に、手は打てたはずだ。」
可符香の反論が、止む。
「しかし、君は待った。私が、君が言う『望に近づく邪魔者達』を、全て穢し尽くすまで、だ。」
「………っ………。」
「そんな人間が、仇討ちだと?はは………こりゃぁ、傑作だ。」
嘲るような、命の声に………今までは、ほんの一瞬狂気が見え隠れする以外はいたって平然としていた可符香から、
明らかな、激しい感情のオーラが漏れ出し始める。
「少々、狂ってはいるが………君も所詮は、愛する男に純潔を捧げることを夢見た、純情な乙女だったわけだ。」
空気がざわめくような錯覚に陥る。しかしそれが、眼の前の少女が心を乱していることを示しているのだと思うと
………自分の言葉が、少なからず可符香を動揺させているのだと思うと、もはや救いようの無い状況に追い込まれ
ながらも、命は心のどこかで、胸のすくような気分を感じた。
「この勝負に、私は負けた。最終的には、こうして完膚なきまでに、君に叩き潰される結果になった。」
「………………。」
「が、どうやら………あの日の私は、君の鋼鉄のような精神に、一矢報いてくれたようだな。」
挑発的な態度で、命は続ける。その言葉を浴びせられながら、可符香はしばしの間眼を閉じ、呼吸を整えるように
深く息をして………数秒の後にはもう、ここに来たときと同じような、普通の人間には決して見破ることの出来ない
笑顔の仮面を身に着けていた。
「ごめんなさい、先生。私ったら気が抜けて、余計なこと言っちゃったみたいです。」
爽やかな笑顔でそう言って、可符香は椅子から立ち上がる。その顔を、命の一対の瞳が見つめる。
そして。
「それじゃぁ、今日でお別れです。今まで本当に………。」
「そうだ、それと1つ、面白い話を聞いた。」
可符香の最後の挨拶を遮って、命は、なおも言葉を続ける。
「なにやらインターネットで、今回の事件のことが、いろいろと問題になっているようだね。」
「………へぇ、そうなんですか?」
「なんでも………私が狩った『13名』の生徒の顔写真と実名、彼女等に関する資料が流出したそうじゃないか。」
「まぁ、大変ですね。」
「可哀想にな………顔と名前、受けた屈辱を晒された女生徒達は、もう今まで通りの日常には戻れないだろう。」
「それはお気の毒に………けど大丈夫、きっと、その人達も立ち直ってくれますよ。」
どこか抑揚に欠ける声で、会話は続く。
「………私でも、そこまでしようとは思わないよ。君も大概、外道だな。」
「………さぁ?何のことだか、私にはさっぱり。」
最後に、そんな言葉を残して。
「話が済んだなら、これで失礼しますね。それじゃぁ………。」
可符香は、ドアに歩み寄って………。
「さようなら………絶命先生。」
振り返らずにそれだけ言い残して、命の眼の前から、姿を消した。
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黒ずくめの男達に、今日まで命を拘束してくれた礼を言って、可符香は事務所を後にしようとした………その、去り
際に。男達の中の1人が、可符香に1枚のメモを手渡す。可符香は、その場でそれに目を通し、それを手渡した男
に微笑んでから………それを、細かく破り、近くにあった灰皿に捨てた。完全に消えていなかった煙草の火が、メモ
の端に燃え移る。
「追加の分は、私は要りません。皆さんで好きにしてください。」
「は?いや、しかしこれは相手の厚意で………。」
「私は、私の目的さえ達成できれば………『あれ』が少しでも長く地獄で苦しんでくれれば、それでいいんです。」
「………はぁ………。」
困惑する男に、可符香はそんな言葉とは裏腹な、場違いなほど爽やかな笑顔を見せて。
「それじゃぁ、後のことはよろしくお願いしますね。」
そうして………今度こそ、その事務所を後にした。
たった今破り捨てられ、灰皿の中で黒くなっていくメモには………この事務所の人間を介して可符香と通じている
某国の人間からのメッセージが綴られていた。
おそらくこの国の大半の人間が読めないであろうその文章には、その人間がこの事務所で実際に命の姿を見たこと
と、そして………非常に供給の少ない、『健康な若いの男』と言う実験用モルモットを、非常に優れた健康状態で
提供してくれたことへの感謝の辞、それに対する追加の報酬についての伝言が、記されていた。
(完………?)