「………はい、それでは、今日の授業を終わりにします。皆さん、気をつけて帰るように。」
「「「はーい!!」」」
生徒数わずか3.1人の、小学校のクラスでの授業を終えて。
望は、我先にとランドセルを背負い校庭に飛び出していく子供達を見送ってから、教室を後にした。
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望は今、生まれ故郷も慣れ親しんだ町も遠く離れた、離島に身を置いている。
本島との連絡線は月に2本。住んでいるのは十数世帯。医者は、じきに引退を考えている老人が1人と、その弟子
に当たる望と同じ世代の青年が独り。学校は小学校と中学校が1つずつで、いずれの学年も生徒数は1桁前半か、
もしくはゼロ。港の周りにはある程度の文化的な店が並ぶ商店街があるが、それ以外はほとんど野山と海岸のみ。
観光客も、滅多に来ない。電気、ガスはあるが、電車や信号は無い。電話も島の外へは繋がっておらず、島外への
連絡手段は連絡船で運ばれる手紙のみ。もちろん、携帯やパソコンのメールなど届くはずも無い。島内での移動手段
は、数少ない家庭が所有する自家用車か、本数の少ないバス、そうでなければ自転車か徒歩のみである。
自分の過去を知る者が、ほとんど居ない、自分がかつていた世界からは隔絶された場所。
耐え難い過去から、逃げるように辿り着いたその島で………望は、ひっそりと暮らしていた。
この離島での生活も、もう1年。もともと、他人との接触を好まない望にとって、見知らぬ土地で暮らし始めること
に抵抗は無かったが………この島の住人は望の思っていた以上に、余所者である望にも優しく接してくれた。今では
よく見知った人間達の中で暮らしていたあの頃よりも、社交的になっているかも知れない。都会の世知辛さ、隣人
との関係の希薄さを、望はここに来て改めて実感していた。
と。誰も居ない教室をぼんやりと見渡しながら、考えを巡らせていると。
「………っ………。」
望は………無意識のうちに、1年前の出来事を思い返していた。
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兄が失踪した、という知らせを受けてから、数日。再び自分のもとを訪れた、千里の事件で何度か顔を合わせたこと
のある老齢の刑事が持ってきた、恐るべき続報を聞かされ………望は、自分の耳を疑った。
命の消息を探るために、診療所を捜索していた際に地下室で見つかった、カルテの束。
そこに記されていたのは………近隣の女性を狙って命が行った悪魔の所業、連続婦女暴行事件の詳細な記録であった。
そして………その餌食となった女性達の、リストの中には。望もよく見知った名前が………望のクラスの女生徒達
の名前、怖ろしいことに実の妹である倫をも含む名前とプロフィールが、13名分に渡って書き連ねられていた。
おそらく言葉だけでは信じることが出来ないと思ったのであろう、刑事は、ここだけの話にして欲しい、と一言だけ
前置きした後、そのカルテの中の1枚の写しを望に差し出した。既に筆跡鑑定の済んだそのカルテは、望のクラスの
女生徒に関するものでは無かったが………非道の限りを尽くして1人の女性を自らの下僕に調教する一連の流れが、
淡々と、しかし事細かに記されたそれを見れば………自分の愛する生徒達が、自分の実の兄の手によって、どんな
酷い目に遭わされたのかは、想像に難くなかった。
結局、刑事が望から何か有力な情報を得られることは無かった。命のことに関しては、望は完全に何も知らなかった
し、女生徒達の最近の異変についても、あの特異なクラスを担任し常識の感覚が麻痺した望には、それに気付くこと
は非常に困難なことだった。
全てを知った今になって、冷静に考えてみれば………一部の生徒の出席率の低下、まといが廊下で起こした例の騒動、
交の霧に対する態度の変化など、それらしい兆候はあったが。今となっては、全てが遅すぎる。
刑事は最後に、これからは命を『失踪者』ではなく『逃亡犯』として追うことになる、というようなことを伝えて、
警察へと帰っていった。
その後、望は居ても立ってもいられず………実家の父、大へと電話を寄越した。既に連絡を受けた地元の警察から
事情聴取を受けていた大は、自分の息子が性犯罪者となり、あまつさえ娘がその被害者となってしまったという
余りに衝撃的な事態に、珍しく憔悴した様子だったが………それにも構っている余裕など無く、望は大にある無茶
な注文をした。
大はその名前の通り、警察関係者に対しても絶大な影響力を持っている。その力を生かして………警察から、今回
襲われた自分の女生徒達の記録、命が残したそのカルテの写しを手に入れて欲しい、という注文だ。
大もそれを聞いた直後は、馬鹿なことを言うな、そんなことをして何になる、と拒んだが………余りに真剣な望の
声と、そして、今まで親の七光りにすがることを嫌ってきた望が必死になって自分に頼ってきているという事実が、
やがて大の心を動かした。警察の上層部の人間に口利きをして、秘密裏にその資料の写しを手に入れ、大はそれを
時田に命じて望に届けさせた。
届けられた………正視に堪えないような文章が綴られたそれに、望は、隅から隅まで眼を通した。
襲われた生徒は、倫も含めて13人。うち1名は、記録が途中で途切れていたので、事実関係を捜査中、とのこと
だった。女生徒が全員餌食となったわけではなかったが………正直に言って、何名かがその魔の手から逃れたという
事実も、それ以外の女生徒が全員その毒牙に掛かったという重過ぎる事実の前には、大した慰めにはならなかった。
だが。余りに衝撃的な、信じ難い事実の連続に、精神を病んでしまいそうになりながらも………命が行方を眩ませた
今、加害者である命と被害者である生徒達の間を繋ぐ唯一の存在である自分が全てを知らねばならない、という望
の義務感が、その身体を突き動かした。あるいは、それは………自分が担任したばかりに女生徒達が命に眼を付け
られた、ということに責任を感じているが故の、衝動だったのかも知れない。
とにかく、そうして全ての所業を知り、理解し………それに、心の底から絶望した後。望は………この先、自分が
すべきことを考えた。その答えは、さして長い時間も掛からずに、望の心の中で実を結ぶ。
命に蹂躙された、女生徒達は………自分の、愛すべき教え子達である。ときに振り回され、ときに、生命の危機に
すら追い込まれたことはあったが………それでも自分は、あのクラスの生徒達を愛している。その想いがある以上、
自分が取れる行動は………教師を続け、傷ついた生徒達と向き合い、それを支えることだけだ。
以前の望ならば決して出せなかったであろう、その結論。それを出せたのは………望が、本人も知らず知らずのうち
に、あのクラスの中で自分を変えていったそのおかげなのかも知れない。
絶望の淵から、立ち上がる。望は、その信念を胸に………再び、学校へ戻った。
が、しかし。
世間は、望に対して………未曾有の性犯罪者の実の弟に対して、それほど甘くはなかった。
望が職員室に戻ったときに………そこには既に、どこからか命の弟がこの学校で教師をしているという情報を聞き
つけた、被害者の家族や近隣住民からの抗議の電話が、鳴り響いていた。教職員が総出でその対応に当たっている
のを、呆然と見つめながら………望は、背後に歩み寄っていた誰かに、ぽん、と肩を叩かれた。
振り向いた先に、立っていたのは………校長だった。
校長室に招かれてから、校長が望に告げた言葉は、至極シンプルなものだった。
「さきほど見た通り、君が犯罪者の弟だと知れてから、抗議の電話が鳴り止まない。」
「君のような人材を失うことは我が校にとっても痛手だが、このまま君を抱え込んでいくのは難しい。」
「君の体裁の為にも、ここは1つ、自ら進んで辞職してはくれまいか?」
その、控えめな言葉の裏に隠された大人の本音を、敏感に読み取って。望は………自分がこの学校で我を通すこと
が不可能であることを、理解した。
そして、そのわずか数日後には………体育館を使った記者会見が行われていた。
大勢の記者と何台ものカメラのレンズが見つめる先では、学校の重役達と、被害者である女生徒達の担任であり犯人
の弟である望が並び、望が自ら辞職の意を示したことが告げられた。その日を最後に、この学校の人間ではなくなる
望が涙を流したとき、ここぞとばかりに、膨大な量のフラッシュが焚かれた。
机の上の物を処分して、生徒達に顔も合わせずに学校を去る、その間際。校門でこっそりと望を待ち構えていたの
は………甚六だった。全ての事情を察し、しかし、流石の甚六と言えどももはや収拾のつかない程の事態に陥って
しまったことを嘆きつつ………甚六は望に、1枚のメモを手渡した。
何かあったら、そこに連絡をして欲しい。その言葉と、最後の別れ、そして激励の言葉を告げて………それに、
疲れきったような微笑で応えた望を、甚六はその背中が見えなくなるまで、見送っていた。
その後数日は、ストレスで胃が捻じ切れてしまうのではないかと思うような日々が続いた。
当然の如く、自宅への抗議の電話は鳴り止まず、望はやがて電話線を引き抜いてしまった。まるで望自身を犯罪者
扱いするかのような落書きと張り紙に埋め尽くされた玄関の前には連日何人もの記者や野次馬が押し寄せ、乱暴に
ドアを叩き続けた。外へ出れば何をされるか解かったものではないので、雨戸まで締め切った部屋の中で、冷蔵庫
に残っていた食料を消費しながら何もせずに時間をやり過ごす、ニートのような日々が続く。
時折ニュースをかけると、自分がそうして引き篭もっている家の玄関が映し出された。また、学校や実家にも報道陣
が押し寄せていて、上空から撮影しているらしいその映像を見ると、校門や実家の玄関も、この部屋ほどではないが
酷い有様になっているらしいことが窺えた。ある日望はニュースで、被害に遭った自分の生徒達の実名や顔写真、
それと望が眼を通したあの資料がインターネットで流出してしまったことを知った。彼女等の今後の人生を想い、
望はまた、暗い部屋で独り絶望していた。
部屋から1歩も外に出ず、パソコンにも触らない望には知る由も無かったが、無責任な週刊誌やインターネット上
の大きな掲示板では、好き勝手な言葉が書き連ねられ続けていた。中には、望が手引きして自分のクラスの女生徒
達を実の兄に襲わせたのではないか、という事実無根の憶測まで飛び交う始末だった。
やがて、同じ建物の住人からの苦情が殺到し、業を煮やした大家から立ち退きを命じられ………記者会見から数日後、
事件発覚から数えておよそ1週間後、望は、まるで夜逃げをするように、慣れ親しんだ部屋を後にした。
少しでも人目を避けようと、怪しげな業者に頼んで深夜に作業を行ったにも関わらず、望は数人の記者に囲まれて
しまった。が、運び出す荷物が少なかったことも幸いにし、その他の記者たちが大挙して押し寄せる前に、望は
その場を離れることができた。もちろん追手もあったが………その業者もその道のプロらしく、小回りの利かない
トラックで、軽々とその追手を煙に撒いてしまった。
その後、最低限必要な物だけを残して全ての財産を売り払い、当面の資金を確保して。望は、ビジネスホテルを
渡り歩きながら数日を過ごす。
そしてやがて………ここ数日の地獄のような生活で忘れかけてしまっていた、甚六のメモの存在を、思い出した。
財布の底に仕舞いこんでいたそれに記されていた連絡先に、望は電話を入れた。甚六の名前を出すと、その人間
は何かを考え込むような唸り声の後、数秒間押し黙り………その後、落ち合う時間と場所だけを告げて、一方的
に電話を切った。
何も解からぬまま、望は指定された日時に、指定された場所へ訪れた。そこで待っていたのは、甚六と同じくらい
の世代らしい、男だった。
挨拶もそこそこに、男はしばし、望に学校での甚六の様子を尋ねたり、どういう経緯でこんなことになっている
のかを尋ねたりと、いくつかの質問を続けて………そして。
突然、何の前触れも無く。
望に………あの決断を、迫ったのだった。
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今までの、全ての繋がりを捨てて………新たな土地で、教師と言う仕事を続ける覚悟はあるのか。
あの日、男は………今現在、望が勤めている小学校、そしてそれに程近い中学校、その両方の校長を兼任する男は、
初対面の望に向かってそんな質問をした。
望は、ほんの少しの間、その言葉を理解できていないかのように硬直したが………すぐに男の意図を察し、そして、
自分がどうすべきかを考えて………短い沈黙の後、迷いの無い声で、はい、と答えた。あの学校で、いや、自分を
知る人間が居るあらゆる場所で教師を続けることが不可能になった今、それでも最後までこの職を全うするには、
それ以外の選択肢は無いように思えた。それは、あるいは望の自己満足であり、なんの贖罪にもならないのかも
知れなかったが………望に、それ以外の道を思いつくことは出来なかった。
解答の直後には、急かすように最後の別れを告げる相手への電話を掛けさせられた。あれこれ考えた末、結局別れ
を告げた相手は実家の家族だけになってしまった。
そうして。望は生まれた土地を離れ、遠く海を越えた孤島に移り住み、ひっそりと生きていくことを決意した。
………が。それから数日後………島へ旅立つ、運命の日。島への連絡線を待つ、人気の少ない桟橋で。
「ああ、やっと見つけましたよ、先生!」
遠く水平線を眺めていた望は………背後から自分を呼んだその声に、思わず、我が耳を疑い。
振り返ったその先で、自分に向けて手を振っていた少女の姿を見て、今度は、我が眼を疑った。
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望は今、島に唯一の下宿で暮らしている。下宿と言っても、2階建てのその建物は1階が大家一家の住居になって
おり、下宿者が借りられる部屋は2人分である。それでも、島に滅多に人が訪れなくなってからは、数少ないその
部屋も大家一家の物置として使われていた。望が入居することになったとき、大家一家は、まるで新しい家族が
増えたように喜んで、望を迎えてくれた。以来、ときに食卓に招かれたり、休日には子供達の遊び相手をしたりと、
親しい関係が続いている。
そんな下宿の、望の部屋。ある日の、夜。
「………ふぅ。こんな所ですかね。」
望は部屋で独り、明日の授業の為の教材の準備を終え、ふぅ、と息を吐いた。
ぐ、と伸びをするようにして立ち上がり、部屋の隅に置かれた本棚に歩み寄る。そこには、連絡線に乗ってやって
来た、あるいは中学校の図書館を訪れて借りてきた、この島では数少ない文学作品が収められていた。昔から愛読
していた本は、家具やらなにやらと一緒にまとめて処分してしまったので、今は手元に1冊も残っていない。その
ことに関しては、望は今でも時折、ほんの少しだけ後悔してしまうことがあった。
色褪せた畳の上、ほとんど万年床と化している薄い布団の上に腰を降ろし、白けた色のちゃぶ台に本を広げる。
窓から部屋を抜ける夜風が、心地良く髪を揺らしていく。
………と。望が、そうして読書の時間に入ろうとした、そのとき。
『コン、コン』
「ん?」
部屋のふすまが、外側からノックされた。
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1年前。望が連絡線を待っていた桟橋に、突如として姿を現したのは………風浦可符香、その人だった。
「ふッ………風浦さん!?」
可符香の登場に、望は当然の如く心の底から驚き、海の彼方まで響くような叫び声でその名前を呼んだ。
「やだなぁ、そんなに驚かないでくださいよ。」
「ちょっと、あなた何やってるんですか!?なんで、こんな所に………というか、なんで私がここだと!?」
「私はただ、ちょっといろんな人に尋ねながら追ってきただけですよ。」
何でもないことのように、可符香はそう言ってのけたが………2人が居るその場所は、直線距離でこそ都会から
それほど離れてはいないが、近くに駅も無く、主要道路とは高い山を隔てている僻地であり、あの町から来ようと
すれば丸1日潰れてしまうような場所だった。
望はしばし、何も言えずに呆然と立ち尽くす。その眼の前で、可符香は、望と同じ教室に居たときと変わらない、
屈託の無い微笑を浮かべる。
「聞きましたよ。先生、どこか遠くの島に行くんですね。」
そう尋ねた、可符香の言葉に………望は、自分の胸が締め付けられるような錯覚を覚えた。
「………先生、は止めてください。私は………もう、あなたの先生ではないんです。」
「何言ってるんですか、先生は、いつまでも私の先生ですよ。」
「………っ………。」
太陽のような笑顔で、そう言う。その表情が、今の望には………直視できない程に眩しかった。
そして。結局、先ほどの可符香の言葉には答えず。
「………風浦さん、あなた………どうして、こんな所に来たんですか?」
望が何気なく放った、至極当然のその疑問に対して。
「やだなぁ、先生ったら。」
可符香が、さも当然のように返した言葉に………望は今度こそ、完全に言葉を失った。
「好きな人に会いにいくのに、特別な理由なんて必要ありませんよぉ。」
「………〜〜〜ッ!!」
余りにも真っ直ぐで、無邪気で………全てを捨てる決意をした今の望にとっては、突き刺さるように鋭い言葉。
もはや、家族以外で自分のことを省みて人間など居ない、と思っていたこの世界に………こんなにも素直に、自分
を求めてくれる人が居る。その事実に、望の決意が揺らぎそうになる。
「あ………あなたはまたそうやって、人の心の隙間に入り込もうとする!そうはいきませんよ!」
その迷いを悟られぬよう、望は心を鬼にして、可符香を拒絶する素振りを見せた。
………すると。
「………隙間、ですか。」
「………はい?」
望の予想に反して………可符香は、どこか憂いを帯びたような表情を浮かべて、そう呟いた。
てっきり、彼女と、そのクラスメイト達と同じ教室に居た頃のように、彼女のペースに巻き込まれてしまうのでは
ないか、と思っていた望は、それまでにほとんど見たことが無いような可符香の表情を眼にして、固まった。
「何も………心に隙間を持ってるのなんて、先生だけじゃ、ないんですよ?」
そう言ったとき、可符香の顔にはまた笑顔が戻っていたが………それはどこか儚げで、望の顔を上目遣いに見上げ
ながら語るその声は、微かに震えているように聞こえた。
「………風浦、さん?」
「私………気付いちゃったんです。先生が、居なくなってから。」
「………………。」
「私の中で、先生がどれほど大きな存在だったのか。先生のことを………どれだけ、想ってたのか。」
「っ!!」
「先生が居なくなって、気付いたら………私の心は、スポンジみたいにスカスカのくしゃくしゃになってました。」
可符香は、あくまでも明るい声でそう語ろうとするが………どうしても、声の震えを抑えることができない。やがて
その声は、喉の奥に詰まったように途切れがちになり、遂に………可符香が、その顔を伏せる。
「先生こそ、ずるいです。気付かないうちに、私の心の隙間に入り込んで、どんどん私の心を虜にしていって。」
「………風浦さん、私はそんな………。」
望が困惑した表情を浮かべているのに気付き、可符香はハッと我に返った。
「あ………ご、ごめんなさい。急に来て、何言ってるんでしょうね私ったら。あはは………。」
おそらく、望も初めて見る………喜び以外の感情を溢れさせる、可符香の姿。それまでは、どこか人間離れした
精神を持つ少女であると、自分との間に無意識のうちに線引きをしていた少女が、自分と、他の少女達と何一つ
変わらない少女であることを、初めて思い知り………望の胸の内に、可符香への愛しさが、こみ上げてくる。
「………こんなときに、こんなこと言うのは………卑怯だって、解かってます。」
可符香の口から、また、震える声が発せられる。
「………………。」
「けど………先生。お願いです、お願いですから………。」
可符香が、すがるような瞳で、再び望の顔を見上げる。その目尻には………今にも零れんばかりの、大粒の涙が、
湛えられていた。
「私も………連れて行ってください。私の心の隙間から、出て行かないでください。」
「………風浦さん………。」
「私なんかじゃ、お役に立てないかも知れませんけど………先生の心の隙間を埋める為なら、何だってします。」
「………………。」
「だから………だから、私を………追いて、行かないでください………!」
涙ながらに伝えられた………どこまでも真っ直ぐな、愛の告白。
「………っ………。」
言葉も無く立ち尽くす望の腰に手を回し、可符香は、その薄い胸板に顔を埋めた。じんわりと、暖かいものが着物
の胸に染み渡っていく。
望は、無言で………震えながら自分を抱き締める少女の背中に、腕を回した。
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ノックされたふすまが、開かれる。その向こうに居たのは………エプロン姿の、可符香だった。
「望さん、ご飯出来ましたよ。」
「おや………もう、そんな時間でしたか。」
1年間ですっかり呼ばれ慣れたその名前で呼ばれ、望は持ち上げかけた栞を再びページの間に戻した。
「今夜は、大家さんの特製カレーです。私も頑張って手伝いました!」
「ほう、良いですね。少ししたら行きます、可符香は先に降りていてください。」
望もまた、呼び慣れたその名前で可符香を呼ぶ。はぁい、と機嫌の良さそうな声で返事をして、可符香はとんとん
と軽い足取りで階段を下っていった。
「………………。」
望が、1度窓の外で輝く月を、見上げる。
それは………あの町で見た月よりも、少しだけ、余計に輝いているような気がした。
「………行きますか。」
そう独り言を言って、望が立ち上がる。蛍光灯からぶら下がった紐を引くと、部屋の明かりが消える。
この上なく平和な時間が、そこには流れていた。
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島の外………かつて2人が暮らしていた世界で、望と可符香は、『行方知れずの失踪者』となっている。
全てを置き去りにして来たかつての世界からは隔絶された、この、小さな世界で。
全ての真実は………可符香の心の奥底、封印された闇の中で、永遠に沈み続けるのだろう。
(完)