けほ、けほ。  
私は、小さく咳きをしながら、体温計の表示を見た。  
―――38。9℃  
どうやら、性質の悪い風邪をひいてしまったみたいだ。  
 
「霧ねーちゃん、クスリ飲めよ!」  
「そうだね…。」  
涙目の交君に、私は布団の中から曖昧にうなずいた。  
実は、さっき市販の薬は飲んだんだけど、全然効き目がない。  
 
そのとき、目の端に、コートを羽織る先生の姿がよぎった。  
 
「何だよ、叔父さん、霧ねーちゃんが病気なのに、出かけるのかよ!」  
交君の抗議に、先生はブーツの紐を結びながら、冷静な声で答えた。  
「大人には色々やることがあるんですよ。  
 風邪なんて、薬飲んで安静にしてれば治りますから。」  
それだけ言うと、先生は、宿直室の扉を開けて出て行った。  
 
「何だよ、叔父さんの鬼!人でなし!」  
私は、交君の悔しそうな声を聞きながら、  
天井をぼんやりと見上げていた。  
 
そっか…先生は、大人だもんね。  
風邪くらいで、いちいち大騒ぎしてられないよね。  
でも…。  
 
―――少しくらい、心配して欲しかったな…。  
 
私は、ため息をつくと、目を閉じた。  
 
 
 
 
ふと、喉が渇いて目が覚めた。  
熱がさっきよりも上がっているような気がする。  
 
気が付くと、部屋の中は薄暗くなっていた。  
交君が、私の布団の横で丸くなって寝ている。  
 
―――風邪引いちゃうよ…。  
 
何とか起き上がろうとしたけど、眩暈がして起きられない。  
と、扉が開く音がした。  
「小森さん、起きてたんですか。」  
「せん、せ…。」  
お帰りなさい、と言おうとしたけど、声が出なかった。  
 
先生は、口を開けたまま声の出ない私を見て、片眉を上げた。  
何か袋を手に持っている。  
 
そのまま部屋を横切ると、先生は、  
「交、こんなところで寝るんじゃありません。  
 お前まで風邪を引いたらどうするんですか。」  
寝ている交君を足で軽く蹴って、台所に向かった。  
 
「ん…何だよ、叔父さん、帰って来たのかよ…。」  
寝ぼけ眼で交君が起き上がると、私を見た。  
「霧ねーちゃん、具合はどう!?」  
「ん…。」  
私は、ぜーぜー言いながらも、何とか微笑んで見せた。  
交君の顔が心配そうに歪む。  
「ホントに、クスリ飲まなくても大丈夫なのかよ!!」  
 
そこに。  
「はい、小森さん。  
外出ついでに薬を買ってきましたから、飲みなさい。」  
先生が、湯気のたったコップを差し出した。  
「…?」  
その中に入っているのは、どろりと濁った液体。  
 
―――へえ、最近は、こんな風邪薬も売ってるんだ…。  
 
私は、先生からコップを受け取ると、中身を飲み乾した。  
すごく苦かったけど、喉が渇いていたから、一気に飲んだ。  
 
「少し、眠りなさい。タイムラグで薬も効いてきますから。」  
先生が、私からコップを受け取りながら言った。  
「うん…。」  
実際に、何だか眠くなってきた。  
私は、さっきよりも居心地の良い眠りに落ちていった。  
 
 
 
目が覚めると、朝だった。  
熱も、悪寒もすっかり体から去って、爽快な気分だ。  
 
私は起き上がると伸びをした。  
「霧ねーちゃん!良くなったのか?」  
交君が飛びつくようにしてやってきた。  
「うん、もう大丈夫。すっかり治ったよ。」  
私は、笑顔で答えた。  
交君は、ほっとしたように胸をなでおろす仕草をした。  
 
―――ホントに、心配かけてごめんね…。  
 
私は、心の中で交君に謝りながら、先生の姿を探した。  
交君が、そんな私を見て眉をしかめた。  
「望の奴なら、授業に行ったぞ。ホント、あいつ冷たいよな!」  
「そう…。」  
 
―――教師だもの、仕方ないよね…。  
 
そう自分に言い聞かせながら、何となく寂しいと思ってしまうのを  
どうしようもなかった。  
 
 
 
それから1週間ほど経ったある日。  
私は、宿直室の扉を開けようとして、中から聞こえてくる声に手を止めた。  
 
「先週はまいったよ。休診日に呼び出されたかと思ったら、  
 いきなり、『風邪に良く効く処方箋を出せ!!』だからな。」  
 
―――これは…命先生の声…?  
 
「お手数おかけしましたね、兄さん。」  
「まあ、甥っ子のためだからな。で、交の風邪は良くなったのか?」  
「…おかげさまで…。」  
「それは良かった。あれは最近開発された新薬だからな、良く効いたろう。」  
 
―――交君の…風邪?  
この間、はしかにはかかったけど、風邪なんて引いてないよ…?  
 
「しかし、お前も意外に面倒見が良いんだな。  
 交のために、あんなに血相変えて……少し見直したぞ。」  
「…。」  
 
私は、宿直室の扉の前で、立ち尽くしていた。  
心臓の音がドキドキ言っているのが聞こえる。  
 
命先生の医院の休診日は、確か木曜日。  
―――先週の木曜日に、風邪を引いていたのは…。  
 
私は、思わず口に手を当てた。  
 
そのとき、後ろから声がかかった。  
「霧ねーちゃん?そんなところに突っ立ってどうしたんだ?」  
振り向くと、交君が首を傾げてこちらを見ていた。  
 
私は、とっさに交君の手を取ると、宿直室から離れて歩き始めた。  
 
―――今、交君が入っていったら、先生が気まずい思いをしちゃうもの。  
 
「き、霧ねーちゃん?」  
交君が赤い顔をして私を見上げた。  
 
「交君、用具室で一緒にネットゲームしよう?」  
私は、交君に笑いかけた。  
交君の顔が、さらに真っ赤になる。  
 
「べ、別に遊んでやらないこともないけどさ…。  
 何だよ、霧ねーちゃん、何だかずいぶんご機嫌だな。」  
「そうかな?」  
私は、にこにこしながら廊下を歩いていた。  
 
あのときは、分からなかった先生の優しさ。  
寂しい思いもしたけど、こうやって、タイムラグで知るのも、  
けっこういいものかもしれない。  
 
―――先生、大好きだよ…。  
 
私は、心の中でそっと呟いた。  
 
 
 

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