一人でいる事にはもう慣れっこだった。
静まり返った空間が自分の居場所だと決めている。
だから騒がしい事には、まだ慣れない。
いつもの時間のいつもの見慣れた風景だった。
放課後の宿直室。日が落ちて、ちょっと古くなった電灯の下、ちゃぶ台でくつろぐ先生。
脈絡も無しに揃って現われたクラスメイト達が訪ねてきて、よってたかって先生を連れ出して行く。
──包帯で縛られ、スコップやらバットやらで取り巻かれる先生の姿は、ほとんど罪人だった。
がやがやと楽しそうに喋りながら皆は部屋を出て行く。
ドアを閉める際、いつも先生の背中に張り付いている少女………まといが、チラリと振り返る。
明らかに霧に向かってニヤリと口端を歪めた笑みを送り、勝ち誇ったような表情を浮かべて廊下へと消えた。
「ただいま………あれ? 何だこれ?」
宿直室のドアを開けて入ってきたのは交だった。
入ってすぐ、足元に落ちていた雑誌を拾い上げ、不思議そうな声を上げる。
そのページの幾つかが重なって折れている様子から、道端にでも投げ捨ててあったような印象を受けた。
「これ、霧ねーちゃんの?」
「……違うよ。」
一拍置き、背を向けて畳の上に寝転んだ姿勢の霧が返事を返した。
振り向きもせずに、どこかなげやりな返事を返した霧に、交は一瞬だけ首をかしげながらも、雑誌を持って部屋
に上がる。
とさり、と、ちゃぶ台の上に雑誌を置く音がした。
「なあ、霧ねーちゃん。今日は、エアコンより窓開けた方が気持ちいいぞ。」
言いながらリモコンを手にした交は電源を切り、部屋の窓を開け放った。
冷房で冷やされた部屋に入ってくる外気は、最初はぬるいだけだったが、空気が次第に入れ替わってゆくにつれ、
僅かに湿り気を帯びて草の香りを運んでくる夜気が、心地よく体を包み込んでくる。
交が網戸を閉め直している。──金属を引っ掻くような音がした。
校庭から聞こえてくる虫の音は、あまり涼やかとは言えないクサキリの声が聞こえてくる。
蝉にも似た、低くて長いその声を聞いていると、少しだけ汗ばむような、蒸した夜の匂いがするようだった。
「もうすぐ花火始まるってさ。…ここからも少しは見えるよな?」
窓枠に手をかけて、交は外の闇を覗き込んでいる。
「花火大会…? 交くんは、みんなと行かなかったの?」
「だって、叔父さん達と行くと、たいていロクな目にあわねーんだもん! …眠いって言って帰ってきた。」
霧はゆっくりと起き上がりながら小さく笑う。
「……そうだね。子供はもうすぐ寝る時間だもんね。」
「コドモ扱いすんなよ!」
振り向きざまに交が叫ぶと、その語尾を追うように遠くの空から弾けるような音と光が届いた。
「あ! 始まった!」
言うなり窓に取り付き、夜空に広がる火花に目を輝かせる。
霧は微笑ましそうにその後姿を見ていたが、やがてスッと立ち上がると、手を伸ばして照明の紐を数回引く。
すぐに部屋の中は暗闇に包まれた。
「霧ねーちゃん? 何してんだよ?」
「…この方が良く見えるよ。──ほら。」
続けざまに花火が上がり沢山の火花を散らす。
その光が窓から部屋の中へと入り、二人の顔の上に落ちて白く姿を浮かび上がらせる。
「ほんとだ! すげー!」
鼻先を網戸に触れるくらいに近づけて、交は目を輝かせていた。
開け放たれた窓から部屋の中へと、ほんの少し火薬の香りが風に乗って漂ってきていた。
霧は、花火のはぜる音を聞きながら、それに夢中になっている交の後ろ姿を見つめていたが、おもむろにゆっく
りと交の近くへ寄って行く。
「…交くん。……大人扱いがいいの?」
「な…!? なんだよ急に! コドモ扱いすんなって言ってるだけだろ?」
一瞬だけ振り向いて怒った顔をして見せ、すぐにまた花火の方へと向き直る。
霧はクスリと笑みを浮かべると、交の横に並んで一緒に花火を眺めた。
「交くんさ…… アイドルの写真集集めてたよね?」
「……!? 集めてたっていうか、あれは別に──!」
「…交くんは見てるだけだったけど、大人は、ああいう本を見て何するのか………知ってる?」
交の表情がキョトンとした物になる。
霧はその耳にゆっくりと唇を近づけると、手のひらで自分の口元を覆い、交だけに聞こえるような声で口を動か
し始める。
交の表情が、最初、驚いたものから困惑へと変わり、最後には少し不快そうに眉を寄せていた。
「…………な事するんだよ。」
「…なんか汚い気がするよ。霧ねえちゃん、俺をだまそうとしてないか?」
見上げる目線で向けられた疑いのまなざしに、霧は少し苦笑を浮かべた。
「そっか… まだ分かんないよね?」
「な… なんだよ! コドモ扱い──」
「あのね…… ホントはね。一人でするものじゃなくって。──女の人と…」
再び交の耳たぶに口を寄せて、囁くように語り掛ける。
少し間を置いて、霧の言葉を聞いていた交の顔が真っ赤に染まってゆく。
「…………なるんだよ。…わかるかな?」
一通り話し終えたのか、耳元から離れる。
うす暗がりの中では判らないほどだったが、霧の白い頬にもほんのりと赤みが浮かんでいた。
交はやや引きつったような赤い顔のまま、首を左右に振ってみせる。
「……冗談なんだろ?」
「ホントだよ? 交くんも大きくなったら、する事なんだよ…。」
そこまで言って、顔を窓の方に向けたまま瞼を少し閉じ、横目使いで交の方へ視線を送る。
「…きっと、モテモテだろうなぁ……」
小さく溜息をつきながら、霧は、残念そうな声色で呟いてみせた。
信じられないという表情のまま額に汗をにじませ、交は泳ぐように定まらない視線をゆらゆらと遠くの空に向け
ている。
しばし、静寂に包まれた部屋の中、虫の声に混じり、花火の連続した破裂音が響いていた。
「ねえ、交くん……」
ゆらっ と霧が動き、交の背中側にまわってそっと肩に手を置いた。
「………!?」
膝立ちになり、自分の顔を交の肩の位置まで持ってくる。
低い声の囁きがその唇から漏れ出して交の耳をくすぐるように震わす。
「──いま、オトナ扱いしてあげよっか?」
交の背中を電流の様な物が駆け抜け、まるで金縛りにかかったように動けなくなってしまう。
一瞬で体温が上がり、額には玉のような汗が噴き出してきた。
「………だ……まだ…、ムリなんだろ!?」
動けない交の背中に、霧が体をぴたりと寄せる。
その両脇の下からするりと腕を通し、喉笛へと指先が触れた。
ひんやりとした少女の手の感触が、交の顎の下へ当てられる。
自分のかかと辺りに、霧の足が当たっている事が分かる。
ジャージをはいていない剥き出しな太腿の、うっすらと汗ばんだ肌の感触が伝わってきた。
霧が腕に力を込め、柔らかい少女の体がさらに密着し、交の肩の上に霧の顔が寄せられた。
長く垂れた黒髪が交を包み込むように周りに広がる。
「き……きりねーちゃ……」
かすれた声で交が口を開くと、自分を羽交い絞めの状態にしているその両手がすすっと頬に触れてきた。
霧が喉の奥で微かに笑い声を立てた音が聞こえる。
耳元で、熱い吐息交じりの声がした。
「たべちゃうぞ……。」
ぷすん、と、どこからか音が聞こえた気がして、交の頭上に一瞬だけ湯気が浮かんだように見えた。
小さな体から力が抜け、そのまま崩れ落ちそうになったのか、霧の両腕にずっしりと体重がかかる。
「──あ! 交くん……!?」
慌てて倒れないように腕で体を抱え、そこで初めて、のぼせて熱を発している交の体温に気がついた。
「…やりすぎちゃったな……」
バツが悪そうな顔で呟きながら覗き込んだ交の顔は、ゆでだこの様に赤くなり完全に目を回してしまっていた。
「知恵熱……ですかねぇ…?」
額に保冷シートを貼られて布団に寝かされた交を見て、先生は首を捻りながらつぶやいた。
気を失ったままの交は時折苦しそうに呼吸を荒げている。
「……オトナになんか……ならないよ…」
「はい? ……寝言ですか?」
訝しげに眉を寄せて立ち上がった先生は、戸棚の方へと向かい、引き出を開けて中を探り始めた。
「解熱剤………どこかにありませんでしたかね……」
ひとり言を言いながら、あちこちの引き出しを開けて探し回っているようだった。
霧は少し落ち込んだ表情でちゃぶ台の片側に座り、先生と交を交互に見つめていた。
そして、その卓を挟み、向かい側にはまといが同じく座って先生の姿を見ている。
──彼女は、先生と花火や祭りを楽しんできたのだろう。
そんな霧の思考が伝わった訳ではないのだろうが、不意にまといが霧の方を向いてみせた。
「先生と一緒に花火見れて、楽しかったわ。──残念だったね。」
一瞬、ムッとした顔を浮かべた霧だったが、すぐに真顔に戻って言葉を返す。
「…ここからも見えたよ。──そうそう。先生のユカタ、似合ってるでしょ? 私があつらえたやつ。」
霧の言葉に、今度はまといが鼻白む。
「…知ってる? 先生って、金魚すくいが意外と上手なの。」
「……先生って、寝てるときに片手で枕を掴む癖があるよね。」
「…! 先生、私に風船ヨーヨーを釣ってくれたわよ。」
「……夕食のブリ大根、美味しいって言ってたな。」
お互いに卓の上で視線をぶつけたまま、続けざまに言葉のやり取りをする。
言葉が途切れ、二人少し口元を引きつらせて睨み合う。
「………フン!」
小さく鼻を鳴らして、まといはそっぽを向いてしまった。
霧も少し不機嫌そうに視線を外す。
「…解熱剤は切らしているようです。ちょっと保健室から拝借してきますね。」
背後のやり取りには気がついていないらしく、先生は霧達に声をかけると宿直室を出て行こうとする。
まといは素早く立ち上がり、先生の後に続こうとして……突然、振り返り、霧の顔面に何かを押し付ける。
「わっ…!?」
何の気無しに先生を見ていた霧はその行動を予測できずに、顔に当てられた妙に弾力のある冷たい感触に声
を上げた。
「──それで頭でも冷やしていれば?」
言い捨てる様に告げて、まといは背を向ける。
思わず手で掴み、ぐにゃりとした感触に顔をしかめてしまうが、良く見るとそれは水を入れた風船にゴム紐を括
りつけたヨーヨーだった。
「…ヤケを起こすのもいい加減にしないと、まわりが迷惑だからね……!」
振り向きもせずにそう言って、まといは手早くブーツに足を通す。
霧は手の中にある水風船に視線を落とした。
涼しげな水色と白の流水のような模様に、金魚が泳ぐ絵が描かれている。
「…ねえ。」
気がつくと霧の口が無意識に動いて、まといに声を掛けていた。
チラリと顔を向けたまといに、特に話す言葉が見当たらず、焦って手元に目を落として水風船を見つめてしまう。
「…何よ?」
少し眉を寄せて尋ねるまといに霧はゆっくりと顔を上げる。
「……これ、もう、ぬるいよ。」
「知らないわよ……!」
不機嫌な声を返したまといは身を翻し、さっさと先生を追って部屋を出て行ってしまった。
急に静かになった部屋の中、不規則に寝息を立てている交に近寄ると、寝顔を見つめながらそっと隣に横になった。
少しずれたタオルケットを掛けなおしてやりながら、自分も仰向けになって天井を眺める。
ひょいっと、水風船を氷嚢に似せて額に乗せてみると、ひんやりとした感触が伝わってきた。
熱を出して寝ている気分を思い出して、少し笑った。
「せんせい…… まだかな…?」
騒がしい事が嫌で、一人篭って過ごす様になったはず。
それがいつの間にか、先生が帰ってくるのを心待ちにするようになった。
先生たちと過ごす事が当たり前になった毎日を送るうちに、静かな時間が落ち着かなくなってきている自分を感じる。
騒がしい事には慣れなかった自分が、喧騒から一人取り残される事に、慣れない気持ちを抱きはじめている。
霧は笑顔で目を閉じた。
交のタオルケットを半分もらってそっと上半身に被る。
窓から入ってくる微かな花火の残り香と、低い虫の声を聞くうちに、いつしかまどろみを覚え静かに寝息を立て始めていた。