何かの声に押し出されるように、私は部屋の外へ出る。
真っ暗な夜。私の心と同じような闇。
扉に手をかける。ここを空ければ今までの私ともお別れ。
湧き上がる様々な感情。思わずうつむく。空きっぱなしの郵便受けからこぼれている
1枚の葉書。
もう…気にする事も無いのに…。そんな私の目に飛び込む、葉書の中の笑顔。
綺麗な切手。たどたどしい文字。
『元気ですか?マリアは元気です。マリアはいま、島の子供達ににほんごおしえてます。
マリアはいま幸せ。でもみんなといたときのほうがもっと幸せ。みんなに会いたい。」
写真の中のマリアは、あの日よりも随分と大人びていた。だけど、笑顔は皆と楽しく幸せに暮ら
していたあの時のままだった。周りを囲む子供達に負けないくらいの笑顔。
「マリアちゃん…」
真っ暗だった心に一筋の光。暖かい光。呼びかける暗い声。
『あり有りアリあり有r』
「うるさい!!うるさいうるさい!!」
「アリなわけない!!ナシだ!!ナシだ!!」
叫ぶ私の心。一瞬の心の静寂。優しい声。
『…ナシで良いんですよ。』
幻なのか…愛しい人の元気な姿。涙がこぼれる。絶望では無い。希望の涙。
『日塔さんは、普通といわれる事を随分と気にしていました。』
『でも普通に生きるという事は、とても難しい事なのです。』
『色々予想もつかない事に巻き込まれます。」
『…私は心の弱い人間でした。だからその波に逆らえず流されてしまいました。』
『これからは何者にも惑わされずに、強く生きてください。貴方にとって普通である事は何物
にも代え難いものです。』
『担任として、貴方を卒業式まで送り出せなかったのは残念だと思っています。これは私と
貴方の卒業式みたいなものです。随分と遅くなってしまいましたが…。』
「有り難うございます。これから私前を見て先生の分まで歩いて行きます。」
『やっぱりあなたは普通の事を言うんですね。』
「普通って…普通って言うな!!」
にこりと笑い消えていく先生の姿。
「…さよなら…先生…」
先生が私の前から消えた後、私は白いドレスから普段着へと着替えた。
クローゼットの中の鏡に目がいく。ひどく疲れた顔。なんであんな気持ちになったのか、今は
もう理解できない。
「何をやっていたんだ!!どれだけ心配したと…」
携帯には凄い数の着信履歴。怒られて当然だよね。
「それで、明日はどうする?気持ちの整理がつかないなら、今回は取りやめてもいいんだが。」
「もう大丈夫。約束ですから…。」
前を向いていくって約束したんだもの。本当に大丈夫。
「そう。じゃあ明日の朝迎えに行くから。」
…ピピ…ピピ…ピピ…
『おや。もう時間ですね。それでは今日の授業はここまでに…』
あんなに授業は嫌いだったのに、なぜか今日はもっと続けてほしい…。
こんなに楽しい気分で授業を受けるのは初めてなのに…。
…ピピピピ…ピピピピ…ピピピピ…
椅子の下に穴が開き、私は落ちる。落ちる。
…嫌!!もう少しみんなと…
「…夢か。」
あの事件以来、はじめてみんなの夢を見た気がする…
懐かしい。
「みんな元気かな。帰ってきたらみんなに連絡してみようかな。」
どこに行ったかわからない子も多い。でも…大丈夫。きっとわかるよ。
「やだ。そろそろ準備しないと!!」
あの人が来る。今は一番大事なあの人が…。
約束の時間どおりに迎えに来た命さんの車で蔵井沢へ向かう。
「さあ。着いたよ。・・・どうしたの?」
「大きな家だなと思って。」
「望…あいつ生徒さんと一緒に来たと聞いてるんだけど。」
「私、蔵井沢の駅まで来た事しかないんです。」
首をかしげる命さん。
「…普通…列車に乗せられたんです。各駅停車の。」
「駅に着いたらちょうど皆帰る所で…」
「そ…それは…た…たいへ…」
命さんは口を押さえて肩をふるわす。
「我慢しなくても…良いんですよ。」
「ごめ…も…もう無理…」
堪えきれず命さんは笑い出す。
「笑い事じゃないです。帰りも同じので帰ったんですから…」
「も…もう勘弁してk…」
大きな声で笑い続ける命さん。
「おい…こんな所で何をやってんだよ。」
昔聞いた懐かしい声が響く。門の中から丸字に糸巻きを染め上げた紋付き袴の少年。
「交君…?随分大きくなっちゃって。」
「姉ちゃん…久しぶり。あいかわらず普通っぽいな。」
見た目は随分大きくなったが、小生意気なところは相変わらず。
「あらあら。誰かと思えばお兄様ではないですか。門の前で何を…」
もう一人の懐かしい声…高校生の時よりも更に大人っぽくなった倫ちゃん。
「日塔さん…お兄様から今日は来られないかもと。ささ、どうぞ中へ。」
法要が始まるまでの間、私は少し大人びた交君と今までの色々な話をした。
交君は本来なら先生が継ぐはずだった、木目糸売の権利と糸色家次代当主を引き継いだ。
「仕方がなかったんだよ。最初から女性に継ぐ権利はないし、命と景はとっくの昔に権利を放棄してた。
父さんは未だにどこにいるかわからないし、糸色の血を引く男は僕しか居なかったんだ。」
「あいつは色んな物を残して逝っちゃった。木目糸売と当主の権利みたいな物だけでなく、
色んな人の色んな思いを残したままなんだよ。」
「僕だってそうだよ。子供扱いするなってずっと言ってたけど、誰がこんな形で子供扱い
を止めろなんて言ったんだよ。あの時のままだったら、僕はずっとずっと子供扱いで良か
ったのに…」
交君は俯いたまま肩を震わす。私は交君の肩を抱く。
「交様。法要の準備が整いました。」
「わかった。…そろそろ行きましょうか。先ほどの事は二人の秘密にしておいてください。」
先ほどまでの子供のような表情から、糸色家次代当主としての顔に変わる。
…この子も…色んな思いを残して生きてきたんだ…
「驚いたでしょう。あれが我が家の法要ですから…」
法要後母屋と別にある茶室の中で、お茶を点てながら倫ちゃんが言った。
…確かに普通の法要とは違っていた。簡単に言えば、暴露大会。
先生の子供の頃の恥ずかしい話。情けない話。やんちゃなときの話。
私の知らなかった先生がどんどんとみんなに暴露されていった。
『お兄様ったら!!恥ずかしい!!』
『あいつ…なにやってたんだよ。』
『望坊ちゃんはここぞという時にいつもつまずいていたのです。』
私も話を振られ、高校時代の話をいくつか披露した。
先生のお父様は黙って頷き、お母様はずっと笑っていた。
「ああやって…笑っていれば…亡くなった人の事を悪くいう人はいませんし、
ずっと良い思い出ばっかりが残っていくのです…。それが糸色流の法要なのです。」
「さ…どうぞ。」
抹茶の良い香りが、狭い茶室に漂う。時折響く鹿威しの音が心地良い。
床の間にはかすみ草と桜の生け花。
「お兄様の好きだった花です。かすみ草を見ては儚げなところが私と同じですなんて言ってたのに、
皆さんと会ってからは桜も好きになったようで。」
二人で黙って生け花を見つめる。
「…ふう。なんだかしんみりとしてしまいました。糸色家の家風にしんみりという言葉は似合わないのですが。ところで…」
倫ちゃんが何か言いかけたその時
「二人ともここに居たのか。」
「あら、お兄様。女性だけの空間に入り込むだなんて無粋ですわよ。
まあ、よろしいですわ。お兄様にも関係のある話です。そこにお座りください。」
「突然ですが、お兄様は奈美さんの事をどうお思いなのです?」
「いや。もちろん…その…」
照れなのか、はっきりと言わず口ごもるその隙に倫ちゃんが私に話を振る。
「それでは奈美さんの方は?」
「え!!私!!…もちろん一番大切な人です。」
倫ちゃんは決まったと言わんばかりの表情に変わり、話を途中で切られ呆然とする命さんの方を見ながら
「ほほほ!!お兄様ったらかっこわるい!!女性にこんな事を先に言わせるだなんて、
どこまでかっこわるいのかしら!!」
「おまえが私の話を途中で遮ったのではないか!!」
「嫌だ嫌だ!!こんな無粋な兄を持つと!!」
…変わってない。根本的には全くこの子も変わっていない。
苦笑いする私の方を向き、真剣な顔で倫ちゃんは私に言った。
「奈美さん。こんな兄ですがどうかよろしくお願いしますね。」
参列客は帰ってしまった。あの二人も東京へ帰ってしまった。
この広い家に残るのは、使用人達とお父様・お母様・交と私だけ。
忙しい身のお父様とお母様はまた明日には仕事で旅立ってしまう。
「ふう。」
一人で居ると、またお兄様の事を思い出してしまう。
いつからだろう。兄として慕っていたはずなのに。いつのまにか…
でも私達は兄と妹。この思いは決して表に出してはいけない。気づかれてもいけない。
いずれはお兄様にも大事な人ができ、私も良き伴侶に出会いいずれはこの家から離れる。
それまでの私の中だけの思い…。その時まではと思い、お兄様の学校へと転入もした。
だけど…
「ひどいですわ。お兄様。急に居なくなってしまうなんて…心の整理もできないじゃありませんか…
本当に…ひどい人です。」
涙が頬を伝う。拭き取る事もせず私はじっと外を見る。綺麗な月。お兄様と一緒に見た月…
「お嬢様。お茶が入りました。」
部屋に時田を招き入れお茶を受け取りそっと口をつける。
時田が横でじっと月を見ている。
「どうしたの?」
「いえ。望坊ちゃんの事を思い出していたのです。坊ちゃんは、あの様に頼りなく見えましたが生まれついて
人の心を引きつける力を持ったお方でした。」
「…」
「暗闇でもぽつんと明るく光る。自然とその光を目印に人が集まる。ですが決して自分から前に出ようとしない。
…まるであの月のようなお方でした。」
「そうでしたわね。」
その言葉を最後に二人で黙って月を見つめる。
お兄様…これからも私達を見守っていてくださいな。
先生の法要が終わって、数ヶ月。
私達は再び風浦さんの元を訪れることとなった。
私から命さんにお願いしたことだけど…何故か命さんは乗り気ではない。
随分と渋られたが、私は何とか説得をし風浦さんの様子を見に行くこととなった。
以前と違う病院。前よりも随分と厳重な雰囲気が漂っている。
以前の病院でも見た名前の病室へと案内される。
命さんと一緒に、大学同期の砂丹という名前の先生が一緒という条件で、風浦さんのお見舞いは許可された。
小さな窓から中を覗く。私の目には風浦さんの姿は前と同じに見える。
だけど何かが違う。よく見ると目は最後に見た時よりも虚ろに見える。なにより大きく違うのは肌の色。
高校時代の霧ちゃんよりももっともっと白い肌になっている。長い入院のせいだけとは思えないような肌の色。
私の後で命さんはいつもの冷静さを失い、砂丹先生を問い詰める。
「おい。どういう事だ。あきらかにあの時よりも悪くなってるじゃないか。しかもあの肌の色はなんだ。
心の症状だけではなくなってるじゃないか。…まさか…お前本気で復讐なんて馬鹿なことを…」
そう命さんが問い詰めようとした瞬間、砂丹先生は命さんの胸倉を掴み後の壁に押しつける。
「俺を見くびるな!!そんな自分の感情のみで、患者に手を下すようなそんな医者だと、
お前は俺のことを思っているのか!!」
どういう事?あの時って?復讐って?患者に手を下すって?
「どういう事ですか?素人目に見ても風浦さんの様子はおかしいです!!何があったんですか!!」
守秘義務という事で詳細は語られなかったが、以前の病院で風浦さんは何か問題を起こしてしまったらしい。
それもあの事件と絡めると、無関係な第三者からの格好の餌食となってしまうほどの事だったらしい。
「随分と揉み消すのに苦労をしたよ。公になることは彼女の治療の邪魔にはなっても、
有益なことなど何一つ無いからね。」
「復讐というのは…」
「ああ…それか…選んだ言葉が悪かったが、彼女の…あえて『狂気』と言わせてもらうが、
それを封じ込め無事に外の世界に返すこと。それが私の彼女に対する復讐なんだよ…」
私は少し安心をし、小さな窓から中を覗く。
風浦さんと目が会ったような気がする。彼女の虚ろな目に一瞬光が射したような気がした。
私に向かって笑顔で何か言ってるように見える。私のこと解るのかしら…。
だが、その思いも…目の前で胸を押さえ床に倒れ込む風浦さん。
「風浦さん!!」私の口から飛び出す絶叫。顔色を変え病室に飛び込む砂丹先生。
ばたばたと駆け込む看護士さん達。
「すまない!!今日はこのまま帰ってくれ!!またこちらから連絡する!!」
私の目の前が暗くなる。足下がぐにゃぐにゃするような気がする…。
どうしたの風浦さん…どうなっちゃったの…。