「誰?あなたは誰?」
さっきまで、たくさんの人がいたのに今はこの子と二人。
『ワタシのこと…忘れちゃったんだ…寂しいなあ。』
思い出せない。思い出そうとすると頭が痛くなる。気分が悪くなる。
『ずっと一緒なのに…ひどいじゃないですか。』
前の子が顔を上げる。白目のない黒目だけの顔。…私の顔。
『ワタシは私ですよ。私自身ですよ。』
胃から何かがあがってくる。耐えきれずに嘔吐する。
『嫌だなあ。そんなに怖がらないでくださいよ。避けないでくださいよ。』
『みんな居なくなっちゃいました。』
やめて…
『みんなどこに行っちゃったんでしょう。』
やメテ…
『どうして居なくなっちゃったんでしょう。』
ヤメテ…
『誰のせいなんでしょう。』
お願い…もう…ヤメテ…
『神様って本当に居るんですかねえ』
『神様との約束って…言い聞かせてましたけど…』
『でも…私とワタシの神様は…誰も…救いませんでしたね。』
『それどころか…』
暗転する世界。いつのまにかみんなが私の周りを囲んでいる。
パンッ…まるで風船のようにみんな割れて消えていく…
上からぶら下がってくる…誰…先生…
『ふふふふ…あははははは…』
『みんなを…恐ろしい道へと…誘ってしまいました。」
目の前の私…朽ちていく。溶けていく…。苦しい。気分が悪い。頭が痛い。
『ゴボッ…ごんどば…ばたしじしんですか・・・』
イヤ…誰か…助けて…
『だれも…たすけることは…できないよ…』
『…ければ…事は…できないよ…』
もう言葉は聞き取れない。苦しい。苦しい。胸が痛い。胸が痛い。意識が遠のく………
「この間聞きそびれたあの子の病状を教えてもらおうか。それとお前から俺たち。いや彼女を呼び出したその理由も併せてな。」
あの日、半分気を失ったような状態で、私は風浦さんの居る病院を後にした。
目の前で突然胸を押さえ、彼女は倒れ込んだ。明らかに心だけではない。何か身体にも異常を抱えているのは素人目に見ても明白だ。
「現実世界からの乖離…それが彼女の。」
「それにしては、あの子の様子は。」
「まあ聞け。心が全ての原因なのは間違いない。だが…治療は続けて居るんだが、彼女の心は回復しようとしない。
何かが彼女の心に重荷となっている。それから解放しないと彼女の回復は見込めない。」
「それは弟のことか?」
「うむ。それで間違いないと思うんだが。まだ何かが足りない…。だが悠長にそれを探る時間はないんだ。」
「どういう事だ?」
「心が体に影響を及ぼし始めている。あの病室に入ったばかりの時は、彼女は毎日を楽しく君の弟さん達との思い出と
一緒に過ごしていた。」
「だが数ヶ月前から彼女にある変化が現れた。夜中に泣き始めたんだ。現実に戻り始める傾向かと思っていたんだが、
いかんせん状況が悪すぎる。」
「彼女に聞いてみても、私が泣くわけ無いの繰り返しだ。何を見て泣いているのか解らんが、その事に心が耐えきれな
いのか彼女に発作の症状が現れ始めたんだよ。」
「その頻度も、月に2〜3回だったのが徐々に回数を増やし、今では週に何度か起きるようになってしまった。
お前達が見たのは随分と軽い物だ。あの後彼女はすぐに意識を取り戻して、また一人遊びを始めだした。」
「肌の異常な白さはその為か…それで許された時間は?」
「半年…それでも長いくらいだと思う。」
砂丹先生の声が小さくなる。…半年…また…わたしの…友達が…居なくなってしまう…
「時間が無いな。」
「ああ。そこで相談だ。君の彼女…。」
「日塔です。」
「日塔さんの力を借りたい。無意味かもしれない。徒労に終わるかもしれない。本来なら患者さんの映像など見せて
はいけないんだが、特別に上の許可も得ている。ちょっと見てくれ。」
目の前のテレビに映像が映る。風浦さんが一人映っている。
「そうですかあ。よろめきバッタが出てくるようになったんですねえ。良い季節になってきましたねえ。」
風浦さんが一人でしゃべっている。画面の中で急に目線を振る。
「あら…今日は一人でいらっしゃったんですねえ。どうぞこっちへ来てくださいなあ…」
そう言いながらベッドから立ち上がり、扉の方へ向かおうとする。
急に胸を押さえ倒れる…そこで映像は終わってしまった。
「すまんな。許可が出たのはこの部分だけなんだよ。」
「これは?」
「この映像はな…」
「私達が…お見舞いに来た時の物ですか?」
無言で砂丹先生がうなづく。…やっぱり気づいてくれてたんだ。
「発作の症状が現れ始めた頃から、彼女は人の区別がつかなくなってきた。正しく言うと、遊び相手以外は全て同じ人に見えている様なんだ。」
「私が治療に行っても、毎回毎回自己紹介からのスタートだ。」
「だが、日塔さんへの態度は明らかに私達とは違っていた。」
「悪影響にならないか。彼女のトラウマを今以上に悪くさせないか。ここにいる医師達とも話をした…だがもう時間が無い。
このままでは確実に彼女は…」
それから、私は授業の合間にできるだけ時間を作り風浦さんの元へと足を運んだ。
私が姿を見せると、風浦さんはいつも笑顔で部屋へ招き入れてくれた。
会話は相変わらず噛み合わないが、彼女の笑顔を見ているだけでなんだか幸せな気分になった。
だけど、現実は厳しく彼女を追い立てていた。
「どうだ?」
「うむ。一進一退…というよりも二も三も退の方が大きいのだがな。」
「厳しいか…?」
「ああ。今のままでは…」
最初はベッドに座って私と話をしていた彼女は次第に背もたれを使うようになり、今では体を起こす事も困難なまでに衰弱してしまった。
季節は冬から春になっていた…。
「外へ…行ってみては駄目ですか…?」
私は駄目元で言ってみた。私の目から見ても…
「外の景色を…見せてあげたいんです。」
「今日明日という話ではないが…そうだな。もう…。」
何かあれば全ての責任をとる。砂丹先生の強い後押しで、風浦さんの外出許可は下りた。
彼女の車椅子を押して歩く。外は随分暖かくなってきていた。
私達のずっと後を、砂丹先生と命さんと看護士の人が着いてくる。
私は何も言わず車椅子を押しながら、春の太陽の下を彼女と行った。
目の前をピンクの小さな物が横切る…
「桜…」
いつのまにか、公園にたどり着いていた。
風浦さんが顔を上げて消え入りそうな声で言った。
「わあ…綺麗ですねえ。まるで両翼を広げた天使のようです…。」
そう言うと、車椅子から立ち上がろうとする。私は風浦さんに肩を貸した。
風浦さん…どこか遠くを…何かを見ている。
「これは…桃色ガブリエル…あっちは桃色右大臣…それは桃色若社長…」
「桃色若社長に…ぶら下がっていたので…桃色…係長…」
私の肩を濡らす風浦さんの涙。
「…先生…ごめんなさい…」
そう言うと風浦さんは急に意識を失った。
…嫌…風浦さんなんで急に重くなっちゃったの…。私の周りを先生達が囲む…嫌だ…嫌…
あの桜を見た日から数ヶ月後。
私は空港にいた。南のとある小さな島へ行く為に。
私の前に人が立つ。
「急に連絡をしてきたと思ったら、南の島へ行きたいなんてどういう事ですの!!」
どこにいても目立つ金髪に碧眼の女の子。
「まあまあ。事情を聞くと行かないわけにはいかないでしょ。」
眼鏡を掛けた女の子が、取りなすように喋る。
ピロリパロピリロラ…携帯電話にメールが入る。
「急に言われてもこっちも困るんだよ!!ブス!!たまたま俺も暇だったから良かったものの。」
人の陰に隠れてもじもじしている子からのメール。
遠くからは、「すいません!!すいません!!私のような者が今から楽しみに行く方々の気分を害してしまってすいません!!
私のような者が南の島へ行ってすいません!!」
「あいかわらずだね。」
髪の長い女の子がつぶやく。
「お客様!!ライターの機内持ち込みは1個でお願いします!!…あの…バットは何のために…?」
「おほほ…久々に会ったというのに、皆さんお変わりのない事で」
「あいかわらずだな。」
随分久しぶりに顔を合わすみんな。
「久藤君にも声を掛けたんだけどね…。」
「なんか編集の仕事をしてて、締め切りが近いから駄目なんだって。担当してる漫画家さんが目を離すと路線を替えちゃって、
ほとんど久藤君がストーリー考えてるらしいよ。」
ちらりと前を見ると、その漫画家さんは久々に会った仲間と話し込んでる。
だけど今回は随分と久藤君に世話になった。私一人では限界があったが、久藤君の人脈で何とかみんなに連絡が取れたのだった。
「しかしまあ。わざわざこっちから会いに行くなんてみんな暇ねえ。しかもそれ以外が無計画だなんて…。
もう少し目的を持って旅をするのが普通じゃなくって?」
自分の事をさしおいていきなり文句を言われたが、まあそれもそうかなあと思ったその時。
「嫌だなあ!!旅の目的がないなんてそんなわけ無いじゃないですか!!」
声のした方を振り向く…
「これは…そう!!思い出探しの旅です!!みんなが置いてきた思い出を探す旅に決まってるじゃないですか!!」
あの春の日…
『…やっと…わかったんですね。』
今日もあの子と私。もう一人の私…。いつものように下を向いたまま…。
『あの時…私は…先生に…ひどいことを言っちゃいましたね。』
『あの時「ナシですよ!!先生!!」って何で言わなかったのか…。何でもっと真剣に止めなかったのか…。』
『まさか先生が本気だなんて気づかなかった。気づいてあげられなかった。』
『あんなに大好きだった先生を自分の言葉で追い詰めてしまった事を許せなかった。…ずっと…自分を責め続けていた。』
『それでも私のせいじゃないって…思いたかった。誰かに私のせいじゃないって言って欲しかった…』
涙があふれる…ポジティブに生きる事をずっと自分への枷として生きてきた。
その為に…真っ先に捨てた物。頬を濡らす涙。
向かいの私が顔を上げる。怖くない…。もの凄く優しい笑顔…。
気がつけば、向かいの子が先生に代わってる…。
「あなたはいつも無理して笑ってるようで、それを見る度になんだか心が痛む思いがしていました。」
「私と居る時に見せてくれた笑顔も…なんだか痛々しくって。本当はもっといい顔で笑えるはずだとずっと思ってました。」
「でも…私もあなたにずっと頼りっぱなしだったのかもしれませんね…。」
「あなたはあの時の事を、自分で責めていたんでしょう。でもあれは私の心の弱さが全ての始まり。あなたの言葉は偶然の
一つに過ぎません。」
「先生…」
「もう…いいでしょう。そうやって、私の事を無理に思いださなくてもいいですよ。あなたにそうやってつらい思いをして
まで記憶されるのは…私も本当につらいです。」
「自然体で…良いと思いますよ…。」
もう一人の私も姿を見せた。
『自分が助けなければ…自分を助ける事はできないよ…』
「そう言う事です。もう責めるのはおやめなさい。私は…私自身であの道を選んだのです…。」
何も言えず私は泣きじゃくる。今まで泣かなかった分をいっぺんに取り返すくらい泣いた。
「それでは…お別れです。あなたの事は決して忘れませんよ。」
嫌…行かないで…
「駄目です!!そういうわけにはいきません!!。」
聞いた事のない厳しい先生の声に私は身を竦める。
「今までのように呼ばれても出てくる事はできませんが…これからも…ずっと…あなたの事を…」
先生の姿が薄くなっていく…行かないでって言いたい…でもそれは先生の本意ではない。
「ありがとう…先生…私も…先生の事を…」
「それで、彼女の病状はどうなったんだ?」
「劇的と言っても良いほどの回復だよ。ポジティブなところは全く変わっていないが、前のように人の心に入り込もう
という様子もない。もう少し慎重に観察する必要があると思うが、問題なければ退院という事にもなるかもしれんな。」
「まあ、長い間の発作で随分と体は弱っているが、それは少し入院して治療すればすぐに良くなるだろう。」
「そうか。良かったよ…。弟にも良い報告ができそうだ。」
「なあ…糸色…」
「なんだ?」
「お前…神様って信じるか?」
「何を突然…」
「俺はずっと神様なんて信じてなかった。だけど…今回ばかりは神様の存在を少し信じてみたくなったよ。」
「偶然が必然を呼んだ。たまたまお前が彼女を連れてきた。誰が前に立とうがあの時まで彼女は一度たりともあの小さな窓を
見る事は無かった。それがあの時だけはなぜか外にいた日塔さんに気づいた…。おまえ気づいてるか?あの窓から
外なんてほとんど見えないようになってるんだよ。」
「…弟がそうさせたのかもしれんな…」
「お互い馬鹿な事を言ってるな。」
「全くだ。」
「しかし。あの患者には色々な事を教えられたよ。」
そう言って小さな窓から二人の医師が中を覗く。
「…さん。」
「はい?今までみたいに風浦さんとか可符香ちゃんでいいんですよ。その名前で呼ばれるのは、まだ恥ずかしいですよ。」
あの時の事を思い出していた。まだ退院して間もないが、風浦さんはすっかり元気になっていた。
「千里も…本当に馬鹿な事をしたよね…どうして私に相談してくれなかったのかって…ずっと親友だと思ってたのに。
私に何も言ってくれないままあんな事を…」
「ごめん…私…許せない。だって…あんな事がなければ…先生だって…ずっと…一緒に…」
「無理に許す事は無いと思いますよ。そんなに人の心は単純なものではないですよ。」
みんなが声の方向を振り向く。その子は一瞬びくっと身を竦めたが、静かに言い聞かせるように話を続ける。
「罪は罪です…法的に罪を償っても彼女は好奇の目にさらされる日々を送ってしまう事になります。」
「それは世間が彼女に架した罪への償い。それは一生掛けても償えるものではないかもしれない。
でも…彼女が罪の重みに苦しんでいる時…だれかが彼女に手をさしのべる…それで良いじゃないですか。」
「私達かもしれない。私達の知らない誰かかもしれない…。自分の心が罪を許せないなら、今すぐには無理でも時が経てば…」
「でも…私その時…千里にどういう顔して会えばいいか…どういっていえばいいか解らないよ。」
「その時は…。」
「言葉なんかいらないと思いますよ。私と芽留ちゃんのように、黙ってじっと目を見れば気持ちは伝わるものですよ。」
風浦さんが芽留ちゃんの顔を見ながらにっこりと笑う。何故か芽留ちゃんはブンブン頭を横に振っている。
「そうだね。忘れる事や許す事は簡単にできないけど…何かの時には手をさしのべる事ができるようになる日が来ると思うよ。」
ピーンポーンパーンポーン
『…行きの飛行機はまもなく搭乗準備に入ります。』
「さあ時間よ!!どうせあんた達は外国の言葉なんてあんまり喋られないんでしょう。私から離れて迷子になっても知らないわよ!!」
ピロリパロピリロラ
「お前3ヶ月くらいしか外国居なかったくせに。お前の居た国の常識で引っ張り回されたり、お前の言葉頼りにしてたら
無事に着くものも着かなくなるんだよ!!ボケ!!」
「なによ!!あんた!!訴えるわよ!!」
「でたでた。さあ行くわよ!!自分探しの旅とやらに!!」
「いや…思い出探しの旅だから…」
「すいません。すいません。私ごときが窓側の席ですいません!!」
「お客様!!ライターの火をつけたりしないでください!!」
「なんか騒がしいね。無事に私達帰ってこられるかな…」
私は横で立ってる笑顔の風浦さんに声をかける。
「いいじゃないですか!!みんな楽しそうで!!」
「あいかわらずポジティブな考えだね…」
「そりゃあもう。約束しましたから…」
「砂丹先生と…?」
「…な・い・しょ…です!!」
自然体の私で…頑張りますよ…糸色先生。
私も自分自身の罪を忘れる事や許す事はできないかもしれない。
…でも…時が経てば…きっと…