街が燃えている。ひどい匂いのする真っ黒な煙が、あたりを覆いつくしている。  
 
「殺しちゃったんだ、先生のこと」  
「やめて」  
何を言ってるんだろう、この子は。  
「でもお亡くなりになってしまったんでしょう?」  
「知りません…」  
何のことだかわからない。  
「うそつきさんだね。じゃあ、あなたの先生はどこに行ってしまったの?」  
先生は、先生は、  
「いまもどこか、暗い場所にいるのかな」  
そんなはずはない。  
「やめて。違いますよ、先生は…」  
「全てに絶望して、あなたには見えない国に旅立ったのかしら」  
違う、違う、違う!  
「先生は、肉体から離れ銀河の果てへ旅立ったのです」  
「たったお一人で?」  
ひとり? たったひとりで?  
「一人ぼっちじゃありません、たくさんのお友達と一緒です」  
「じゃあ、もう会いにきてはくれないんだ」  
違う。  
「いつでも会えます。私が望めば、いつでも会いにきてくれます」  
 
 
「お久しぶりです、彩園さん」  
平日の午後、とある喫茶店で一組の男女が会話をしていた。といっても、恋の語らいという風には見えない。  
「昔のように、名前では呼んでくれないんですか? 絶命先生」  
「私をその名で…学生時代の話はよしてください。ええと、すず先生」  
 
糸色命医師と彩園すず医師、二人は医学部時代に同期であった。当時は学部トップを争っていた仲である。  
その後、命は総合医療、すずは精神医療の分野に進んだため、卒業してからはほとんど会うことが無かった。  
「話には聞いてましたが、弟さんのことは、その、残念ね」  
つい先日、日本中を騒がせた殺人事件。命の弟はその関係者の一人であった。  
「あいつのことは、無念でないといえば嘘になりますが、仕方がない。あいつ自身の心の弱さゆえです」  
しばし沈黙が流れる。やがて、命から話を切り出した。  
「それで、風浦さんの具合はいかがです?」  
「ふうら? ああ、彼女。見た目は元気ですよ。内面的にはまだ空想の世界にすがっているようですけど」  
数週間前、糸色医師は彩園医師の勤める病院に一人の患者を紹介した。二人はその後の経緯について話し合うために落ち合ったのだ。  
「砂丹の論文は読みました。大変に興味深い」  
すずの勤める病院にはもう一人、この二人の同期の医師がいる。命とは昔からの知り合いで、お互いに「先生」をつけないで呼び合う仲だ。  
「重度の解離性人格障害をわずらっていた二人の患者さんを、6年にもわたる箱庭療法によって社会復帰させたそうですね。大した手腕だ」  
そう言われても、すずはさほど嬉しそうではない。  
「彼らの場合は、本人達の努力がありましたから。それほどうまく行っていないケースの方が多いんです」  
命は席から立ち上がりながら言った。  
「では少し、治療の現場を見せていただいて構いませんか?」  
 
「いやだなあ、地丹くんがストーカーだなんて、そんなことあるわけないですよ」  
明るい声が、教室に響き渡る。  
「じゃあ彼のしてる事は何だって言うのよ」  
「これは、純愛ですよ。よし子先生」  
「女の子のベッドの下に潜むのが純愛か!」  
教室のように見える部屋、そこで数人の男女が騒いでいる。年齢構成はまちまちだ。  
「真実の愛、トゥルーラヴ。愛する人が天に召されたのなら自らも後を追う、それがポロロッカ星の皆さんの純愛なのです」  
「またわけのわからない事を…」  
この会話をしている二人とも、入院患者のような服を着ている。数名の人物は白衣。学校というには、あまりにも妙な光景だ。  
それもそのはず、この部屋は教室ではなく「病室」なのだ。  
 
「なんというか、不思議な光景だな」  
隣の準備室からマジックミラー越しに、二人の男性が教室を覗いている。  
「たあいもない学生ごっこと思うかい? でも、その『ごっこ』が大切なんだ」  
「患者の空想を、妄想と否定せずにむしろ促進してやる。それが箱庭療法の鍵、だったな」  
色白で長身の命と、色黒で同じく長身の砂丹、二人の医師は少し身をかがめて狭い窓を覗き込んでいる。  
「しかし、この短期間でずいぶん自分を取り戻したものだな。昔と変わらない」  
「ああ、彼女の適応力には驚くよ。ここに『転校』してきて10日ぐらいしか経っていないが、すっかり患者さんたちの人気者だ」  
命は感心したように聞いている。  
「こういうのは、よくあることなのか?」  
「いや、彼女には他人を引き付ける不思議な才能があるみたいだ。しかし、今の状態はまだ表面上のものだね」  
冷静な表情で言う砂丹。命の眉がぴくりと動く。  
「表面上か。すず先生もそう言っていたな」  
「ほんの二週間前まで、あの子は自分の中の空想上の人物としか会話できなかったんだ。そうやすやすと完治はしない」  
砂丹は、そう言うと窓から離れた。大の男が顔をそばに寄せ合うなんて、あまり気持ちのいいものではないらしい。  
「今はこうやって、仮の日常生活に慣れていってもらっている段階だ。なんと言っても、彼女の最大のトラウマはまだ・・・」  
そこまで言って、砂丹はちらりと命の顔色を伺った。  
「どうした」  
「いや、お前が知らないならいい」  
 
このとき、お互いの会話に気をとられていて、二人は気がつかなかった。  
風浦可符香、と呼ばれている少女がマジックミラーのあるほうを振り向き、にやりと笑ったことに。  
 
 
「地丹くんのお母さんって、すごく美人だよねー」  
授業の間の休み時間、という設定の自由会話時間に、可符香はある男性患者に話しかけた。  
「何言ってるんだよ、あんなクソババアのこと」  
そういわれた男は、いきり立って反論した。  
坪内地丹、17歳の少年、という設定の患者だ。もっとも、彼がここに来てからすでに何年も過ぎているので、実際の年齢は20代半ばなのだが。  
「お母さんのこと、そういう風に言うものじゃないと思うよ」  
急に真剣な表情になった可符香にそう言われ、地丹は少し臆した。  
「ねえ地丹くん、本当はどう思っているの、お母さんのこと」  
「はあ?」  
そのまま二人は話し込み始めた。  
本当の学校ならとっくに授業が始まっている時間だが、ここでの授業は形式的なもので、実際は自由会話時間の方が長い。  
 
「視察は済みましたか、糸色先生」  
準備室に、すず医師が入ってきた。  
「視察だなんてそんな。確かに、ここの治療方法には興味が沸きますけどね」  
「確か、もう俺の論文は読んだんだったな」  
三人の医師は、教室の観察を中断して、この病棟独特の治療方法について話し合い始めた。  
「ここの患者さん達は、本当に自分が学生だと信じ込んでいるのか?」  
命が砂丹に尋ねる。  
「個人差はあるが、おおむねはそうだ。われわれがセッティングした仮の自分、いわば人格のカバーに没入している」  
少し考え込んでから、命は言った。  
「こういう言い方は悪いが、洗脳されている状態、ということか」  
そう聞いた砂丹は少し顔をしかめた。すずが会話に割って入る。  
「使用しているテクニックは同じです。まずはここでの設定に定着してもらって、その上で少しずつ葛藤を与えていくんです」  
「葛藤?」  
「ああ。現実の社会で生きるということは、冷水と熱湯を交互に浴びるようなものだ、体が弱ければ風邪を引く。  
 だからここでは、人間関係をぬるま湯の温度に管理して、少しずつ温度差をつけて行くんだ」  
 
地丹と可符香は、まだ何かを話している。  
「ねーよ。その発想はねー」  
「そうかな? アリ、じゃないかな」  
「へ?」  
「いつまでも振り向いてくれない人より、いつもそばにいてくれる人のほうが大切だよ」  
先ほどまで激昂していた地丹だが、可符香の話を聞いているうちに、だんだんと目が虚ろになっていく。  
「何でも言うことを聞いてくれる、優しいお母さんなんでしょ」  
「だからって、そういう対象にはならねーよ」  
「私は、アリだと思うよ」  
あり、という言葉を聴いた瞬間、地丹の体がびくんと引きつった。  
「あり?」  
「アリだよ、アリアリ」  
「アリ…アリかもな!」  
そう言うと地丹は、奇声を上げながら教室を飛び出していった。  
彼の後ろ姿を、可符香は微笑みながら眺めていた。  
 
「この部屋はすでに、われわれ天才塾のざくざく団が乗っ取った!」  
地丹と入れ違いになるようにして、三人ほどの男性が教室へ乱入してきた。  
「ざくざく団?」  
可符香が聞き返す。  
「さよう、我々はありとあらゆる物をざくざくし、人々を恐怖のズンドコへ叩き落すのだ」  
妙な名乗りをあげる彼らも、当然ながらここの患者たちだ。さすがは精神病院というべきか。  
ほかの患者たちはこの様子を呆れた顔で眺めている。可符香だけは楽しそうだ。  
「まあ、なんてことを。道行く女性の髪をハサミでざくざく切ったり、子猫を生きたままざくざくして画像をネットで公開するだなんて!」  
そう言われて、彼らのリーダーらしき男は少しあわてた。  
「い、いや可符香ちゃん。我々、そこまで本格的なざくざくはちょっと」  
別の男が叫ぶ。  
「我々は、未開封のポテトチップスをざくざく押しつぶしたり、期限が過ぎていないタイムカプセルを、ざくざく掘り返してやったりするのだ」  
 
「これも、治療の一環なんですか? 砂丹先生」  
男達の乱入に気がついて、別室からこのやり取りを眺めていた命も、これには呆れている。  
「ま、まあそういうことだね。彼らには、少し特殊なカバーを設定していて」  
すずがくすりと笑う。  
「そろそろ出番じゃありませんか、若先生」  
砂丹は、なぜかギクリとした。  
「命、これでだいたい、うちの治療方針はわかっただろう。今日はもう帰れ、お前も忙しいはずだ」  
「別に、俺の所はさほど忙しくないが。どうした急に」  
砂丹はぎこちない笑みを浮かべている。すずはなぜか楽しそうだ。  
「山田さんは、今日は夜勤ですよ」  
それを聞いて、砂丹は頬をひくつかせながら準備室を出て行った。  
 
「まてい、ざくざく団。貴様らは俺が相手だ!」  
教室では、妙なポーズをとった砂丹が叫んでいる。あい変わらず、頬が引きつっているが。  
「どういう治療行為なんですか、これは」  
命は開いた口がふさがらない。  
「見てのとおり、ヒーローごっこですよ。若先生と別の看護士が交代で、正義の味方役をしているんです」  
「はあ」  
命は、まだ納得できかねるという顔をしている。  
「あの患者さんたちは、いろいろ事情があって、幼い頃に友達と十分に遊べなかった人たちなんです」  
「幼児期における対人学習の欠損。重犯罪の犯人などに多いと聞きますが」  
すずは軽くうなずいた。  
「誰にでも、暴力的な感情はあります。でも、何らかの代償行為によってそれを発散できるのが普通。  
 この精神的テクニックは、多くの場合、子供の頃の遊びによって身につくものなのですが、そのステップを逃して大人になってしまう人もいます」  
そう説明されて、命はやや納得した。  
「なるほど、そうして精神をわずらってしまった患者さんに、再び『ごっこ遊び』の機会を与えようというんですね、この試みで」  
 
「てやあ!」  
砂丹が男たちに向かって掌底を繰り出す、ふりをする。ぐわっと叫んで男達は吹き飛ばされた。それがこの遊びのルールだ。  
すぐそばでちょこんと座って、成り行きを見守っていた可符香の膝に、吹き飛ばされた患者の頭が軽くぶつかった。  
「あ、ごめん、可符香ちゃん」  
可符香はにっこり笑って首を横に振る。それを見て、男は少ししまりのない表情になる。  
「大変だね、いつも怪人役で」  
「え、いや。それは仕方がないよ、我々のルールだし」  
そう聞いて、同情したような顔になる可符香。  
「たまには、ヒーロー役をやらせてもらえないの」  
男は、少し悲しそうにして言った。  
「その役は、いつも砂丹くんに取られてしまうんだ」  
「いつも?」  
男はうんうんとうなづいた。  
「そんなの不公平だよ、絶対に」  
意外なことを言われて、何度かまばたきをした。  
「やってみたら、ヒーロー。きっとカッコいいよ」  
「でも、我々の、ルール…」  
じっと可符香に見つめられ、男は表情がうつろになっている。  
「だったら戦隊モノなんてどうかな。みんなと一緒に悪をやっつけるんだよ。ね」  
 
 
この日の夜、砂丹は溜まった事務的書類の整理に追われていた。  
命に対して、自分達の考案した治療法の説明、および釈明をしているうちに、今日の予定をだいぶロスしてしまったのだ。  
そんな彼の居室に、訪問者があった。  
「お忙しいところすみません、若先生」  
訪れたのは、一人の女性看護士であった。  
「ああ、坪内さん。申し訳ありませんが、手短にお願いします」  
何があったのか、そう言われた看護士の表情は、だいぶ暗い。  
「突然で申し訳ないのですが、しばらく、地丹くんの担当から外して頂けませんか」  
意外な申し出に、砂丹の手が止まった。  
このベテラン看護士には、もう何年も地丹の母親役をしてもらっている。彼女も、地丹の事を実の息子のように思っているはずなのに。  
「何かあったのですか、彼と」  
「あの子、急に抱きついてきたんです」  
わずかに震えながらそう言った。  
「それは、単にスキンシップを求めていたのでは」  
坪内看護士はゆっくりと首を振った。  
「いえ、あの子の態度には明らかに、その、性欲が感じられました」  
まさか。にわかには信じられなかった。  
「今まで何年もかけて、あの子と本当の親子のような関係を築いてきたはずなのに…そんな目で、見られていたなんて」  
ついに泣き出してしまった。  
無理もない。彼女は、地丹が退院できたら養子に迎えようとまで考えていたのだ。しかし女性として見られてしまっているのでは、とても母親役は務まらない。  
「わかりました。次の担当が決まるまで、彼の対応は俺がします」  
いちおう、箱庭の中で砂丹は地丹の弟ということになっている。名前が一文字共通しているので、戯れに決めた設定なのだが。  
 
「本当にすいません、では失礼します」  
看護士はがっくりとうなだれて退室していった。そして、砂丹もこの件についてはだいぶ衝撃を受けていた。  
地丹はプロジェクトの初期から箱庭に参加していた患者だ、彼の性格傾向は知り尽くしていたはずだった。  
ここ数年、地丹は坪内看護士に対して「依存心の高い息子」として接しており、人間関係は安定していた。  
母親に対して、内心は異性として感じていたとしても、そのような感情を抑制する理性の方がはるかに優勢であるはずなのに。  
ごく最近、ここ数日程度のうちに、彼の心境に急激な変化があったとしか考えられない。  
その期間に、彼の身の回りにあった唯一の変化といえば。  
「風浦可符香?」  
彼女と接したことが、地丹の精神に何らかの悪影響を与えたのだろうか。  
 
「すず先生、大切なお話があるんです」  
砂丹が訪問を受けていたのと同じ頃、すずも一人の看護士に声をかけられていた。  
「なあに、しえさん」  
しえ、と呼ばれたのは、20台後半ぐらいの女性看護士だ。彼女と苗字がかぶる職員が複数いるので、いつも名前の方で呼ばれている。  
「急な話になってしまいますけど、私、近いうちにここを辞めようと思うんです」  
そう言われても、すずはいつものように、まったく動じない態度だった。  
「本当に急な話ね。突然切り出されても、困るのだけど」  
しえは、新米の頃から箱庭に参加していた看護士で、今では若手のリーダー的な立場にいる。彼女の代わりの人材は、そう簡単に見つからない。  
「わたし、気がついてしまったんです。もう限界だって」  
「詳しく聞かせてもらえる?」  
しばらく迷ったあと、しえはこう切り出した。  
「思い出したんです、羽美ちゃんがいた頃のこと」  
しえは、以前に担当していた患者の名前をあげた。  
その患者は数年前にここから退院して、今ではよき伴侶を得ている。しえが辞めると言い出す原因には、なりそうもないのだが。  
「羽美ちゃんはいつでも、わたしの親友であろうとしてくれました。でもそのたびに、わたしは迷惑がった」  
すずはなだめるように言った。  
「現実の世界では、いくら友情を得ようとしても叶わないことだってある。彼女が自立するためには、その葛藤を克服する必要があったのよ」  
「理屈ではわかっています。でも」  
軽く息を呑んで、しえは続けた。  
「この職場にいる限り、わたしは嘘をつき続けないといけない。以前から迷ってはいたんですが、もう限界です」  
すずも軽くため息をついた。  
「あなたがそう決めてしまったのなら、わたしに止める権利はないわね」  
「本当に、すみません」  
今日まで張り切って働いてくれていたのに、この心境の変化はなんだろう。すずは疑問に思った。  
「最後にひとつだけ。どうして急に昔のことなんて思い出したの。何かきっかけがあった?」  
そう言われて、しえははっとなった。  
「患者さんに言われたんです、わたしは嘘つきだって。それがなぜだか、すごく、すごく心に響いてしまって」  
「あなたの今の担当は、可符香さんね」  
しえはうなずいた。その後何度か謝罪の言葉を繰り返した後、ナースステーションに戻って行った。  
 
入院してすぐに驚異の回復を見せた少女、どの患者からも慕われる人気者。ここでの名前は、風浦可符香。  
砂丹は、彼女が回復したのは自分の理論が正しかったからだと悦に入っているようだが、すずはそれほど楽観できなかった。  
 
 
「えーい」  
あまり気合の入っていない掛け声をあげながら、女性看護士は回し蹴りを放つ、ふりをした。  
これで悪役達は派手に吹き飛ばされる、はずだった。  
しかし。  
「あいたっ」  
怪人役の患者が、いつものように避けてくれなかったせいで、蹴り足を軽くくじいてしまった。  
「ふふ、今の我々に、お前の技など通じん」  
どういうつもり? 看護士は混乱した。  
そもそも、就寝時間が過ぎてからヒーローごっこを始めるなんて聞いていない。  
なぜこんなシナリオにしたのか、あとで若先生に問いただしておかないと。  
「今日は我々が主役だ。行くぞ、悪の女幹部」  
そういうと、男は看護士の腕を強引につかんだ。そして力任せに壁際へ追い詰めていく。  
「え、やだ、やめてください」  
このときになって初めて、これが普段の「遊び」とはまったく違うことに気がついた。  
いつもは子供のように、ごっこ遊びに没入しているはずの患者達だが、いまは年相応のぎらぎらした目で彼女を見ている。  
「ちょっと、誰か、誰か」  
助けを求めている最中に、手で口をふさがれた。  
(ありえない、こんな事態)  
混乱と恐怖で、身動きさえ取れなかった。  
 
「どうなってるんですか今日は。先輩、山田先輩、早くいつもみたいに…」  
助けを呼ぶ声を聞きつけたのか、別の看護士が現れた。その彼女も、目の前の光景に絶句する。  
山田、と呼ばれた看護士は、なんとか口をふさぐ手を振り払った。  
「いいから早くみんな呼んで、泊さん」  
山田さんを取り囲んでいた患者達の一部が、もうひとりの若い看護士のほうへ近寄っていく。  
「あの、でも。あれ?」  
どこからか、がしゃんと言う音がした。誰かが、椅子か何かをガラスにたたきつけたらしい。複数の患者のわめく声が聞こえる。  
異常事態が起きているのはここだけではないようだ。  
 
内線電話と携帯電話が同時に鳴っている音で、砂丹は目を覚ました。終わりきらない仕事をしているうちに、眠り込んでしまったらしい。  
どちらに先に出ようか、同時は無理だし。などと考えていると、非常ベルまで鳴り出した。  
眠気がいっぺんに吹き飛ぶ。病棟で何か緊急事態が起きているのは間違いない。  
部屋を駆け出しながら、携帯の発信者を確認する。「泊 亜留美」、箱庭病棟の若手看護士だ。  
「若先生、大変です、あの、きゃあ」  
ここで突然に通話が途切れた。これでは、何か大変なことが起きているとしかわからない。とにかく行ってみないと。  
 
エレベータを待つのももどかしく、階段を駆け下りている途中、聞き覚えのある声が彼の耳を捉えた。  
「…いのです。開放の日は間近に迫っています。わたし達の何年もの苦難は、今日この日のためにあったのです」  
一階の中庭に、何人もの患者達が集まっている。ひとりの周りに輪になって、その話を聞いている。  
「わたし達は、常に心無い迫害を受けてきました。その末にたどり着いたここも、決して真の楽園ではありません」  
患者達に向かって、危険極まりない演説をしている少女。間違いなく、可符香だ。  
「偽りの仮面をかぶせられ、偽りの生活を強いられてきました、しかしそれは今夜で終わりを告げるのです」  
砂丹は、目の前が真っ暗になる気分だった。明らかに彼女は、この病棟のシステムそのものを崩壊させようとしている。  
「何をしている!」  
中一階の階段の窓から、中庭に飛び降りる。これ以上、この演説を続けさせるわけにはいかない。  
「戦士達よ、捕らえなさい。あの者が悪の手先です」  
患者達がいっせいに砂丹を見る。その瞳には、まったく精気が感じられなかった。  
「今こそ、わたし達を縛り付ける偽りの街を、破壊する時なのです」  
 
そう言うと可符香は、人ごみをすり抜けて病棟の中へ駆け出していった。残された患者達は、ゆっくりと砂丹を取り囲む。  
どうする。砂丹は混乱する頭でなんとか考えをまとめはじめた。  
格闘には自信がある、この人数なら一人でも対処は可能だ。  
それよりも、可符香の最後の一言が気になる。偽りの、街。彼女が向かった先は、間違いなく「あの場所」だ。  
 
この箱庭の「箱庭」たるゆえん、それがこの部屋にある。  
部屋の中央には大きなデスクが置かれ、そこに所狭しと、家屋や商店のミニチュアが並べられている。  
患者達は、自宅や教室以外の外へ出かけたくなったときにここへ来て、自分が空想の世界で訪れた場所を、ミニチュアで表現した。  
この小さな建物の一つ一つには、歴代の患者達の創作した物語がこめられているのだ。  
 
「Happy birthday to you…」  
嬉しそうにお誕生日の歌を歌いながら、何度かライターを擦る。彼女は、昔ながらのライターの扱いにはあまり慣れていないらしい。  
「Happy birthday, dear…」  
やっと火がついた。基本的に紙と発泡スチロールでできているミニチュアは、容易に燃え広がりだす。  
ぱきりと音を立てて、「ようこそ、とらうま町へ」と書かれたゲートが倒れた。ぐずぐずに溶解した発泡スチロールが、その上を覆い隠していく。  
小高い丘の上に配置された教会、そこに飾られていた少年と少女の人形がぐらりと傾き、炎の海へ落ちていった。  
ここに集う者達の作り上げた街、とらうま町は、いま炎上していた。  
 
遠くから誰の物とも知れない悲鳴が聞こえる中、可符香は恍惚とした表情で炎を眺めていた。  
煙の影響なのか、それともほかの理由か、涙を流しながら。  
「あーあ。みんな、みーんなうっかりさんなんだから」  
 
そのとき、こつこつと足音をさせて、ひとりの女性が部屋に入って来た。  
「あ、すずちゃん。どうしたの、早く避難しないと」  
「消防車はあとで呼ぶわ。それより、あなたとお話がしたいの」  
優しい口調で話しかけるすず。しかしその表情は険しかった。  
「こんな時に?」  
「こんなときだから、ね」  
すずは何かを決意したような瞳で、目の前にいる患者を見つめた。  
 
「可符香ちゃんって、ちょっと前までは別の学校にいたんだよね」  
可符香の頬が、ぴくりと引きつった。  
「そうだっけ。なんだかもう忘れちゃった」  
「嘘。あれだけ大騒ぎになったじゃない」  
そういわれて、可符香は何か言い返そうとしたが、すずは話を続けた。  
「あなたの担任だった先生って、すごくかっこいいね。けっこう好みかも」  
「やだなあ、先生はそんなんじゃ…」  
しまった、という表情になる。  
「隠さなくたっていいよ。わたし知ってるから、全部」  
可符香は怯え、一歩だけあとづさった。間髪をいれず、すずは二歩距離を詰める。  
「ずいぶん仲がよかったんでしょう? あなたたち」  
今にも泣き出しそうな、あるいは笑い出しそうな不思議な表情になる可符香。  
「私と、先生は、あの桜の舞い散る日に…」  
 
「殺しちゃったんだ、先生のこと」  
 
 
砂丹とすずの勤める病院で、ぼや騒ぎがあったというニュースは命のところへも届いた。  
あわてて病院へ電話すると、だいぶ長い時間待たされて、ようやく砂丹が出た。  
火事の件について詰問すると、しばらくの沈黙ののち、砂丹はこう答えた。  
「お前はとんでもない患者を紹介してくれたな」  
言葉とは裏腹に、さほど怒っているようには聞こえない。  
「え、どういう意味だ」  
「いや、今回の件は俺の落ち度だ。お前に責任がないことはわかっている。だが」  
思わせぶりな態度に、少しイライラする。  
「電話では無理だ。できればこっちに来てくれ」  
 
病院そのものに、さほどの被害はなかったようだ。一部の外壁がブルーシートに覆われている程度。  
しかし、院内の雰囲気がまったく違うことに気がついた。  
昨日訪れたときには、まるで精神病院とは思えないほどの和気あいあいとした雰囲気があったが、今日はなぜか殺伐としている。  
「風浦さんに別状はないのか」  
そう問いただすと、砂丹の表情はますます険しくなった。  
「怒るな、といっても無理だろうな。だが、こちらにも事情があったことを理解してくれ」  
 
院内の、特別に奥まったところにある病室の前。中からは、先日と同じように可符香の明るい声が聞こえる。しかし。  
「そうですか、ポロロッカ星の14年に一度の夏は終わってしまったのですね。でも安心してください、夏が終わればまた春が来ます」  
可符香はまた、空想の世界の友達と会話を楽しんでいた。  
 
「どうなっている!」  
これで怒るなという方がどうかしている。  
あの子は、おそらく弟が特別に大切にしていた生徒だ。彼女を救うことがせめてもの供養になると考え、信頼する友人の治療に賭けたのだ。  
その結果がこれとは。  
「見てのとおりだ。ここに来る前と同じ、我々には見えない宇宙人と交信している」  
「ふざけるな」  
命は精一杯の怒りをこめてにらみつけた。しかし、砂丹はそれに動じる様子もない。  
「弟さんから、彼女について何か聞いていなかったか。たとえば、他人の心をたやすく操る力があるとか」  
馬鹿なことを、と言いかけたが、かつて弟に言われたことを思い出した。  
(兄さんも気をつけてください。風浦さんは、人の心の隙間に入り込むのが恐ろしいほどうまいのです。  
私も何度そそのかされそうになったことか。とにかく、あの子のいうことは話半分に聞いておくように)  
考えこんだ命を見て、砂丹は言葉を続けた。  
「心当たりがあるようだな。彼女には、他人の願望を感じ取り、それを自分の思うがままの方向に誘導する、神がかったセンスがあるようだ。  
 あれで正気でさえいてくれたら、一流のカウンセラーになれただろう」  
「それが本当だとして、あの子の今の惨状とどう関係がある」  
砂丹は深くため息をついた。  
 
「お前にだから話すが、昨日うちの患者たちが暴動を起こした」  
命が驚きに目を見開く。  
「それを扇動したのは彼女だ。たった一週間かそこらで、彼女は患者達の暴力的衝動を見抜き、いっせいに刺激することに成功した」  
突然そんなことを言い出されても、にわかには信じがたい。  
「まったく自信をなくすよ。俺達が何年もかけて信じ込ませてきた人格のカバーより、彼女の些細な『そそのかし』の方が、はるかに強制力が高いのだから」  
「なぜ、そんなことを」  
砂丹はつまらない嘘をつく人間ではない。可符香に何か特別な力があるというのは、本当のことなのだろう。  
しかし、「できる」と「する」の間には大きな差がある。彼女がそんな恐ろしいことをたくらんだ動機がわからない。  
「おそらく、自分が絶望しているのに、他人が幸福であるということ自体が許せなかったんだろう」  
絶望。弟の死がそれほどつらかったということか。  
「すず先生が彼女を止めてくれなかったら、この騒ぎがおおやけのものになっていたかもしれない」  
命の背筋に、嫌な予感がよぎった。  
「止めた? どうやって」  
「方法は簡単さ。彼女の最大のトラウマを、思い出させた。お前の弟さんをそそのかして、自殺させたことをな」  
「ばかな!」  
命は、またしても大声で叫んでしまった。  
しかし、すぐそばの病室にいる可符香はまったく反応しなかった。相変わらず一人遊びを続けている。  
「もちろん、本気で死なせるつもりはなかったのだろう。ただ、心の弱った人間に対して、自分の言葉がどれほどの強制力を持つのか、自覚していなかった」  
命は、ただ呆然とするしかなかった。砂丹も、もはや命の目を正視することができず、床を向いて話し続けている。  
「案の定、罪の意識に耐えかねた彼女は、再び妄想の世界に逃げ込んだ。魂だけになって、いつでも自分のところへ遊びに来てくれる宇宙人、という妄想に」  
 
「すず先生はどこにいる」  
そう言われると、砂丹はちらりと命の方を向いた。  
(泣いている?)  
いつも飄々としてマイペースなこの男が、人前で涙を見せるとは。  
「すずは、辞職した。『ヒポクラテスの誓い』を破った自分に、もはや医師の資格はないと言って」  
古代ギリシャ時代の伝説的名医、ヒポクラテス。彼は弟子達にこう誓わせたという。  
「『医師が患者に毒薬を与えてはならない』だったな」  
精神科医が、自分の患者を意図的に発狂させるなど、あってはならないことだ。  
すずの医師としての倫理観は、それを許さなかったのだろう。  
 
「こんな言い方はしたくないが、彼女はある種のモンスターだ。野に放つべきではない」  
砂丹のあまりの言いように、命は反論をしようと思ったが、言葉が出なかった。  
「こうして他人と接触させず、妄想の世界に閉じ込めておく分には無害だ」  
ぎりっと歯を食いしばってから、命は言った。  
「一生か。こんな隔離病棟に、まだ成人にもならない少女を一生閉じ込めておくつもりか」  
砂丹ははっきりと命の目を見た。もう涙は流れていない。  
「俺は、彼女の狂気に対して復讐する」  
「復讐だと?」  
何を考えている。手荒な事をしようというのなら、止めなくては。  
「これから何年、何十年かけてでも彼女を治療し、正気に戻す。彼女が、自分の意思で『風浦可符香』の名前を捨て、社会に復帰できた時、この復讐は完了する」  
 
「…あら先生、生肉花の海鮮掻き揚げはお口に合わなかったのですね。でしたら暗黒妖精の活け作りなどはどうでしょう?」  
薄暗い部屋でいつまでも、可符香は自分にしか見えない先生と遊んでいた。  
 
 

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