そう遠くない場所から雨がえるの鳴き声が聞こえてくる。  
今は車通りも無く、地面を小雨が打つ小さな音の隙間を縫い、その声が耳に届く。  
昼間ではあるものの靄のように広がる雨煙が日差しを遮っているので、見える風景は淡い明かりの中ぼんや  
りと白みがかり、おおよその時刻しか伺う事はできない。  
目の前に見える道路は、向かいのガードレールがようやく輪郭をつかめる程で、湖や河川の岸にでもいるよ  
うな錯覚を覚えた。  
自分の足の先、数歩踏み出した所から歩道を挟んで、小さなバス停の赤い標識が雨に打たれている。  
「……読みかけの文庫本でも持ってくればよかったですね。」  
暇そうに息をつきながら、少し伸びをして先生はベンチに座りなおした。  
木で作られたそのベンチと同じく、小さな待合所を囲う壁と屋根も木造だった。  
やや隙間の多い大味な作りだが、ちょっとした雨や風を凌ぐ役目は十分に果たしている。  
 
ここに腰をおろしてしばらく経つが、自分の他には利用者は居ない。  
この際、ベンチを占有して寝そべっていようかと、冗談まじりの考えが浮かんだ時、ゆっくりと近づいてく  
る足音に気がつき、先生は苦笑を浮かべた。  
──行儀の悪い事はするなと言う事ですかね。  
ちょっと姿勢を直し、真ん中に陣取っていたベンチを端まで移動した。  
足音が待合所の前で止まる。  
「…………ぁ……」  
微かな呼吸のような声に気がつき顔を向けると、レインコートを着て傘をさした少女が佇み自分を見ている  
のが目に入る。  
「…おや、音無さんではないですか。今から、お出かけされるのでしょうか?」  
少し袖の余るレインコートから出した手で、芽留は携帯の画面に文字を打つ。  
『帰るトコなんだよ オメーこそ一人寂しくこんなトコで野宿か?』  
「……私はただ雨宿りしているだけです。傘が壊れてしまいましてね。」  
そう言って畳んで置いてある自分の傘を指して見せる。  
芽留は肩をすくめ、もう一度携帯を操作した。  
『今日はずっと雨だぞ ここに泊まるしかねーな』  
「ええ? それは参りましたね。どうしましょうか……」  
『知らねーよ 野宿決定だな ハゲ』  
ニヤリとした笑いを浮かべ、背を向けるとバス停の標識まで歩み寄り、取り付けてある時刻表を覗き込む。  
貼りついた水滴で見えにくくなっている表面を手のひらで払い、曇っている透明なアクリル板の向こうにう  
っすらと滲む文字に目を凝らしている。  
無意識なのか、傘の柄を片手でゆっくりと回し、肩に担ぐようにさしている黄色い傘が背中でくるくると回った。  
何気なくその姿を見ていた先生は、微笑ましそうな表情を浮かべて芽留の背中に声をかける。  
「…可愛らしいレインコートですね。音無さん。」  
びっくりした様に首だけで振り向くと自分の着ている淡いピンク色のレインコートを見つめ、ちょっとだけ  
頬を赤くして、ぷい、と顔を背けてしまった。  
その右手が忙しく動き、携帯の画面が差し出される。  
『先生の センスの悪さには 負けます』  
「……いえ、嫌味ではなくて、本当に似合っていますよ? 足先も同じ色でお揃いなんですねえ。私は可愛  
いと思いますよ。」  
先生の言葉にさらに顔を赤くしながらも、まんざらでもなさそうな笑みを見えないように浮かべ、ピンクの  
ラバーブーツの足先をもじもじと擦りよせている。  
『オメーが褒めても説得力ねーよ ハゲ』  
素早く文字を打って見せ、ちょっと苦笑している先生の顔は見ずに手元へと携帯を戻す。  
──と、その指先が微妙に狂い、芽留の手から逃げるように滑り落ちてしまう。  
「……ぁ…っ…!?」  
反射的に掴み取ろうと伸ばした手が逆に携帯を弾き飛ばし、勢いのついたそれは空中を飛んでガードレール  
に軽く当たり、その真下にある側溝の中へと落ちて行く。  
 
「あ……!」  
先生の上げた声とほぼ同時に小さな水音が溝の中から聞こえた。  
芽留は素早く駆け寄り側溝の中を覗き込み、一瞬躊躇った後、屈みこんで溝に溜まった水の中へと手を差し  
入れる。  
すぐにその手が引き上げられた。……指で挟んで持ち上げた携帯は汚れてこそいなかったが、すでにモニタ  
ーの光は消えボタンの隙間からは水滴が滴り落ちている。  
「…………ぁぅぅ……」  
泣きそうな顔で口をギュッと横一文字にして、濡れた携帯を差し出しながらよたよたと先生の方へと近づく。  
助けを求めるような芽留の顔に腰を浮かした先生は、歩み寄ってきた芽留から携帯を受け取って確かめるよ  
うに幾つかのボタンを押してみる。  
だが、いくら押しても水が少し染み出してくるだけで、その機械は何の反応も示さない。  
「…壊れてしまったようですね。」  
「……ぅぅ…………」  
がっくりと肩を落とした芽留の背中に軽く手を当てて屋根の下へ入るように勧めながら、先生はチラリと空  
を見上げた。  
広がる乳灰色の雲から落ちる雨は、少し強くなってきていた。  
 
 
木造の屋根の上に取り付けられたトタン板に雨粒が当たる軽い音が続いている。  
三方を壁で囲ったベンチは三、四人が座れる程の幅のもので、片端に先生が座りその隣に人一人分をあけて  
芽留、そして反対の端に脱いだ雨具が置かれていた。  
先ほどバタついた時に水が入ってしまったらしく、足元にラバーブーツを揃えて脱いでおり、湿った靴下は  
ポーチに入れている。  
折り曲げた膝を両腕で抱え、素足の指先を少しベンチの板からはみ出させて、縮こまるようにうつむいて座  
っていた。  
元々小柄な体がさらに小さくなってしまった印象を受けながら、ジッと顔を伏せている芽留の横顔を先生は  
ぼんやり見ている。  
ふと、芽留の視線が横に向けられ、自分の方を見ている先生と目が合ってしまう。  
驚いたように目を見開いて、一瞬で顔を赤く染めるとすぐに反対側にそむけてしまった。  
困ったように少し口元に笑いを浮かべ、先生はかける言葉を探すように視線を宙に泳がせた。  
「…音無さんは、どちらにお出かけされていたのですか?」  
かけられた声に振り向き、芽留は反射的に右手を持ち上げようとして携帯を持っていない事を思い出し、そ  
の動きが固まる。  
「……ぁ………ぅ…」  
おろおろと周りを見回しながら、何も持っていない右手を所存無げに漂わせている。  
「──あ…っと。そうでした。」  
芽留の様子を見た先生は口元に手をやると一瞬考えて、すぐに口を開く。  
「お買い物にでも行ってらっしゃったのですか?」  
うろたえていた芽留の動きが止まり、ちょっと間を置いて軽く首を左右に振ってみせる。  
「…では、お友達と遊びに?」  
もう一度首が横に振られた。  
「……じゃあ、学校に用事があったのですかね?」  
その問いに、芽留はちょっと小首をかしげて考えるような仕草をしてみせ、今度は縦に首を振った。  
 
どうしても会話が途切れてしまい、またも沈黙が訪れた。  
先生は何か話題が無いかと考えを廻らせていたが、外を降る雨が視界に入り、そっと口を開く。  
 
「音無さんは、雨はお好きでしょうか?」  
脈絡の無い一言に芽留はキョトンとした顔をしてみせる。  
ちょっと頬を掻いて見せながら、先生は雨と芽留とを交互に見て言葉を続ける。  
「いえ、私は中々、雨の日というものが好きなのですよ。ほら、こう、何となく閉じ込められるような感じ  
がしませんかね? ……まあ、変かも知れませんが私は結構好きでして。」  
やや戸惑いながら外の雨と先生の顔を見比べ、照れたような表情の赤い顔で小さくコクリと一つうなずき、  
少し間を置いてコクコクと何度も大きくうなずいて見せた。  
そのまま顔をそらし、再び縮こまった姿勢のままジッとしてしまう。  
──あまり話しかけない方が良いかもしれませんね。  
芽留の様子を見てそう判断すると、ゆっくりと視線を正面に戻し、雨に打たれる歩道へと向ける。  
雨音がまた強くなってきた。  
 
「──ひゃう!?」  
突然小さく悲鳴を上げて、芽留がベンチの上を横っ飛びに先生へとしがみついてきた。  
驚いた先生が振り向くと芽留は涙目で小さく震えながらしきりにうなじのあたりを擦っている。  
何かあるのかと、細いうなじを覗き込んでみるが特に何も見当たらず先生は首をかしげた。  
「どうされました?」  
その言葉を言い終わらないうちに、雨の粒が木の板を叩く軽い音が聞こえてくる。  
目をやると、今まで芽留が座っていたベンチの席に、天井から滴る雨つゆがすでに小さく水溜りをつくろう  
としていた。  
「……これはどうも、雨漏りしている様子ですねえ。」  
「…………ぅぅ…」  
ちょっと恨めしそうに落ちてくる水滴を睨みつけながら首筋の水を手で拭き取ると、自分が今しゃがみ込ん  
でいる位置を見つめて、そろっと先生の顔を伺うように見上げる。  
その背中側では量を増してきた雨水が止まる事無く滴っている。  
「あ、そこにはもう座れませんからねぇ。音無さんここに座って下さい。先生は立っていますから。」  
芽留に笑いかけると腰を浮かした先生だったが、立ち上がろうとした所で服の裾を引っぱられ、その動作を  
止める。  
「音無さん?」  
芽留はうつむいたまま首をぶんぶんと左右に振って、片手で先生の着物の袖を掴んだまま、さらに、くいっ  
と引っ張り寄せる。  
困った顔で先生は口元に笑いを浮かべた。  
「えーと……座っていろ、って事でしょう…か?」  
うなずきはしなかったが、芽留はもう一度服を引っ張った。  
 
先生は浮かしかけた腰を再びベンチにおろした。  
雨漏りは次第に勢いを増しているため、なるべくそれを避けて座ろうとすると、どうしても二人はぴったり  
とくっつく形でベンチに並ぶ事になる。  
芽留は先程とは体勢を変え、足を投げ出す形で座りなおし、両手を膝の上に乗せてもじもじとしていた。  
 
寄り添うように隣に居る芽留に、話しかける事も動く事もためらわれる気がしてしまい、いつの間にか息を  
殺して微動だにせず座っている事に気が付いて、先生は少し体勢を変えようと小さく身じろぎをする。  
芽留が大きく体をビクつかせて、がばっ、と先生の顔を見上げた。  
小動物のように体を小さく震わせて、低い視点から伺うようにこちらを見上げている。  
「あー、いや…… ちょっと姿勢を変えようとしただけでして。」  
やや焦りながら説明する先生の顔を見て、少しほっとしたように息をついて、また、うつむいてしまう。  
気まずそうにも見える表情の横顔と、ほんのりと赤い耳たぶを斜め上から眺めていると、先生の中にふと悪  
戯心が湧きあがってきた。  
肘を少し曲げて、わざと芽留の腕に触れてみせる。  
予想通りに背中をびくっと震わせて、芽留はチラリと見上げてくる。  
 
調子にのってそっと脚を動かして、膝で芽留の脚に触れる。  
小さく口の中で声を上げ、芽留は足をすばやく畳み再び膝を抱えた。  
そして、びくびくしながら、少し涙で潤んだ瞳で先生の顔を伺い見ている。  
 
先生は、今度は芽留から見えるように手を上げて頭の上へとかざした。  
芽留は思わず首をすくめて目を閉じる。  
ふわりと、大きな手のひらが頭に触れる感触がした。 
「…………?」  
「そんなに警戒しなくても、変なことはしませんよ……?」  
先生は苦笑交じりの声でそう言いながら、芽留の頭を撫でているようだった。  
みるみるうちに首や耳まで真っ赤になって、芽留はカクカクと肩を震わせている。  
「……ぁ…ぁ……ぅ…!」  
「…これでは落ち着きませんか?」  
困った表情で自分に微笑む先生を上目使いに見上げ、即座に視線を地面に向けた。  
 
と、何かを思いついたような表情になり、先生のむなぐらに掴みかかるようにして飛びつき、懐へと手を伸ばす。  
「ちょ、ちょっと!? 音無さん!?」  
さすがに驚いて芽留の肩を掴んで引き離すと、芽留の手の中に自分の携帯電話がある事に気がついた。  
「あ……?」  
やや旧型の携帯を両手で掴み、生き返ったような表情に変わった芽留は素晴らしい速さで文面を入力して行く。  
『さっきから 人が黙っていりゃ セクハラか!? チカンか!?』  
『オレは子供か!? 落ち着くわけねーだろが!!』  
『この大正ロマンマニアの 心中フェチハゲ!』  
一気に書き連ねた文句を突き付けると、ちょっと一息ついたようで、ニヤリと口元に笑みを浮かべて先生を  
見上げる。  
肩をすくめながら、先生は苦笑を浮かべた。  
「…安心しましたよ。やっぱりこの方が音無さんらしいですよね。」  
「…………っ!」  
顔を赤らめて眉を逆立て、芽留は再び携帯を操作してゆく。  
『キモイんだよ バカ! 何がオレらしいとか シネ!』  
その画面を見せ、次の文句を打とうとした所で、ふと、芽留は少し真剣な面持ちで文字を打ち込む。  
『なあ オマエに色々気を使われるくらい オレは危なげなのかよ?』  
『もしかして チビだからって ナメてんのか?』  
「いえ、そういう訳では…… そんなに、私、気を使っていますか?」  
芽留は首をかしげる先生に、少し怒ったように口を曲げる。  
『オイ まさか まだ ひいきしてんじゃねーだろーな?』  
「え……?」  
一瞬ぽかんとした顔を浮かべ、すぐに心当たりを思い出したのか、ちょっと視線をそらして自嘲的な笑みを  
浮かべた。  
「──ああ、なるほど…」  
その様子にムッと顔をしかめて、芽留は指をボタンの上に走らせようとし、不意に道路の方から重いエンジ  
ン音が響いてきた事に気がつき顔を向ける。  
 
「ああ…… ようやくバスが来たようですね。」  
先生のつぶやきと共に、バスは排気音を鳴らしながら停車して乗車口の扉を開く。  
芽留は焦って、必死に文字の入力を終わらせようとしていると、その目の前に自分のラバーシューズが差し  
出された。  
よく見ると先生がシューズの端を掴んで芽留に差し出している。  
思わず受け取ると、先生は芽留の手から自分の携帯を抜き取り、そのまま懐に入れてしまった。  
「…………ぁ!?」  
慌てて手を伸ばそうとした所で、先生の両腕が伸びて芽留は抱え上げられてしまう。  
「!!!」  
あまりの事に思わず硬直して言葉を失った芽留を抱えたまま、片手の指先でレインコートと傘を掴むと、先  
生は軽い足取りでバスの乗車口へ向かった。  
 
なすがまま、バスのタラップに降ろされた芽留は、雨具を手渡す先生の顔を物言いたげに見上げた。  
「では、気をつけて。風邪などひかないようになさって下さいね?」  
「…………ぅ…」  
芽留は不服そうにプイと横を向いて、ぺたぺたと裸足のまま奥の座席へと向かってしまう。  
            
最後尾の座席に座り、外で見送る先生の姿を窓から横目で見下ろす。  
笑顔で軽く手を振る先生に、舌でも出してやろうかと考えたが、結局、そちらには見向きもしないままバス  
は発進し、すぐにバス停の姿は雨の中に消えていった。  
 
 
屋根の下から顔だけを覗かせ、去ってゆくバスを見送ると、一向に止む気配のない雨空を一瞥して待合所の  
中へと戻る。  
ふと、思い出したように懐を探り携帯を取り出すと、その画面には先ほど入力したままの芽留の言葉が残っ  
ていた。  
『ひいきじゃ うれ しくねーんだ よハゲ 』  
慌てて打った事を表すように、改行もままならない文を見て、先生は軽く息を吐き出して微笑みを浮かべ、  
そのままメール画面を開いてゆっくりと文字を打ち込んでゆく。  
送り先を確認し、送信ボタンを押したところである事に気がつき先生は顔を上げた。  
「あ……。壊れてしまっているのでしたね……」  
肩をすくめちょっと考えた様子だったが、短い溜息をついて携帯を懐にしまうと、ベンチに腰を下ろそうと  
して体の向きを変える。  
「冷たっ!?」  
ちょうど背筋の位置に垂れ落ち、背中に入ってきた雨漏りの水に驚いて飛び上がると、そんな自分に照れる  
ように苦笑を浮かべた。  
 
 
芽留は不規則に揺れるバスの座席に座り、機嫌の悪そうな顔で、まだ水気の切れない携帯を片手でいじって  
いた。  
もう本体の中から水が漏れ出してくる事は無いが、ボタンを押すとやはりどこか濡れた感触がある。  
長い溜息をついて、何気なく手首で振ってみた時、  
『ひいきでは ないですよ』  
画面に白い明かりが浮き上がり、文字列の影が並んだ。  
「──!?」  
思わず目を見開いて、さっと携帯を近づけて画面を凝視するが、光が入ったのは一瞬だけだったのだろう。  
改めて見直した時には画面は暗く沈黙し、自分の驚いている顔がぼんやりと映っているだけだった。  
上下に振ったり、あれこれ操作をしてみるがそれきり何の反応もない。  
 
肩を落として、暗い画面を見ていた芽留だったが、やがて口元に笑みが浮かび、頬に赤みが差してくる。  
微笑んだまま窓に顔を向けた。  
降り続く雨の湿気でガラスは曇り、外に張り付いている水滴しか見えない。  
そっと指を伸ばすとガラス面に触れ、何かを指でなぞり入れようとして、直ぐに止めた。  
ちょっと恥ずかしそうに俯き加減の顔になり、やがて勢い良くガラスに指を走らせる。  
『 ハ ゲ 』  
白く曇ったガラスの上に書き終えた文字を見て、ニヤリと笑う。  
芽留は顔を赤らめ、てのひらをガラスにあてて急いでその文字を消した。  
 
 
 

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