後ろから自分を抱え込む腕は強靭で、僅かな身動きもままならない。  
ヒヤリとしたナイフの感触に、背中に冷たい汗が伝った。  
 
―――しまった…油断、しました…。  
声を出そうにも、喉に舌が張り付いてしまったかのようだった。  
 
と、急に望を羽交い絞めにしていた腕の力が緩み、  
後ろからのんびりとした声が聞こえてきた。  
「糸色先生、そんなにのほほんと歩いていては、危ないですなぁ。」  
望が振り向くと、そこにはにこやかに微笑む甚六の姿があった。  
 
望は、口をぱくぽくさせて甚六を見た。  
まだ、声を出すことができなかった。  
 
甚六は、そんな望を見て、ふっと笑った。  
「やはり、あなたが来ましたか…。」  
 
「あ、あ、あの…甚六先生。」  
やっと声がでるようになった望が甚六を指差した。  
「あ、あな、あなたは…。」  
 
甚六は、ふと左右に鋭い目を配ると、望の背に手をかけた。  
「こんなところで立ち話もなんですな…中に入りましょう。」  
 
保健室に足を踏み入れた望は、目の前の光景に唖然とした。  
屈強なテロリストが3人、意識を失ってベッドの足に縛り付けられていたのだ。  
「…いったい、何があったんです?」  
 
望の質問に、甚六は口を開きかけ、途中で口をつぐむと、  
何かを考えるように髭の男を見下ろし、そして、望を見た。  
「…?」  
きょとんとしている望に、甚六は、首を振ると言った。  
「いや…別に、特に何があったわけでは…。」  
 
望は何か釈然としないものを感じたが、それよりも気にかかることがある。  
「それで、智恵先生は…皆は、無事なんですか?」  
甚六は、今度は、力強くうなずいた。  
「ええ、皆、無事です。今頃、全員、用具室にいるはずです。」  
「では、先生は、なぜこんなところに…。」  
 
望の質問を、甚六は遮った。  
「糸色先生。あなたは、私に武器を渡すためにいらしたんでしょう。」  
「あ。」  
望は、慌ててミリタリーパンツから9ミリとマガジン、そして  
残りの煙幕弾と催涙弾を取り出し、甚六に手渡した。  
 
甚六は、手馴れた様子で9ミリを手の中でまわすと、安全装置を確認した。  
そして、無造作にマガジンを胸のポケットに放り込む。  
 
「良かった…。こいつらの武器は、図体が大きいばかりで、  
 私には、どうも使い勝手が悪いんですわ。」  
甚六は、床の上の、テロリスト達の機関銃やライフルを軽く蹴った。  
 
望は、呆然と甚六を見ていた。  
「甚六先生、あなたは…いったい、何者なんですか。」  
普段の甚六とは、姿勢や顔つき、言葉遣いまで微妙に変わってしまっている。  
 
甚六は、望の問いを聞いていないかのように、催涙弾を1つ取り出した。  
「先生、防護マスクは持っていますな?」  
「え?あ、はい、先生と私の分を。」  
望は、腰のベルトにつるしてあった防護マスクを外した。  
 
「それでは、今から私が言うことを良く聞いてください。」  
甚六に、鋭い目で見つめられ、望は緊張した。  
 
「さっき見たところ、奴らの主力は、玄関ロビーに溜まっとります。  
 私は、外から玄関に回りますので、あなたは、  
 廊下突き当りを左に曲がって、ロビーの吹き抜けの真上に出てください。」  
「で、でも、途中でテロリストがいたら…。」  
「このフロアには、当分、奴らは来ませんよ。」  
「え…?」  
 
いぶかる望を無視して、甚六は続けた。  
「まあ、いいから、聞いてください。  
 この部屋を出てからきっかり3分後。  
 この催涙弾をロビーに向かって投げ込んでください。  
 使い方は、分かりますかな?」  
「は、はい、何とか…。」  
甚六は、望に催涙弾を手渡しながら、満足そうに頷いた。  
 
「その後は、あなたは、とりあえずどこかに逃げてください。  
校内は銃撃戦になりますから、決してうろつかないように。」  
「しかし、逃げるといっても…どこへ。」  
「教室でも、どこでもいいですわ。  
 どうにかして、公安の特殊部隊突入まで身を潜めていてください。  
煙幕弾も1つ渡しておきますので、必要があったら使ってください。」  
 
望は、甚六を見ると、青い顔をして頷いた。  
 
 
 
 
甚六と望は、2人、保健室を出ると、ドアの前に並んだ。  
甚六が腕時計を見る。  
望も、ストップウォッチモードにした腕時計のボタンに手をかけた。  
 
「それでは、今から180秒後。頼みましたぞ。」  
「…はい。」  
「では…3、2、1、GO!」  
 
甚六と望は、逆の方向に向かって走り始めた。  
 
望は、走りながら甚六を振り返ったが、すでにその姿はなかった。  
 
―――は、速い…。  
 
廊下の突き当りを曲がり、そこからは慎重に歩き始める。  
すぐに、玄関ロビーの吹き抜けの真上まできた。  
 
―――ホントに、誰もいなかったですね…。  
 
望は、不思議に思いながら階下を覗き込んだが、  
テロリストの若者達の姿が眼に入り、慌てて体を起こした。  
 
と、彼らの話し声が、ロビーの吹き抜けに反響し、  
階上にいる望の耳にも聞こえてきた。  
 
「しっかしまあ、あの女先生、えらい色っぽかったな。」  
「ホントだぜぇ、ボスは、いつもおいしいところ持って行くんだからな。」  
「どうせ、最後には殺っちまうんだから、その前に、  
俺らも味見をさせてもらえばよかったよな。」  
「あー、お前、気付くの遅えよ。もう、今頃はホトケになってらぁ。」  
 
下卑た笑い声があがった。  
一方、階上で身を潜めていた望の顔は、蒼白になっていた。  
 
―――な、んだ…?今の、会話は…!?  
 
頭の中に、今聞いた話が切れ切れに蘇る。  
 
―――女先生  
―――最後には殺っちまうんだから  
―――俺らも味見を  
―――もう、今頃はホトケに  
 
望は、へなへなと膝を付くと、吹き抜けの手すりを握り締めた。  
―――…智恵…!!  
 
何も考えられない状態で、ただ、手すりを握っていると、  
再び階下から声が聞こえてきた。  
「しっかし退屈だなあ。今何時だ?」  
「あー、っと。」  
 
その言葉に、望ははっと我に返った。  
慌てて腕時計を見る。  
ストップウォッチは171秒を差していた。  
 
急いで催涙弾を取り出すと、教えられた手順どおりピンに手をかける。  
 
―――5、4、3、2、…今だ!  
 
望は、憎しみを込めて、催涙弾を階下の若者の頭めがけて投げつけた。  
 
ガシュ!  
鈍い音がして、若者が倒れた。  
次の瞬間、催涙ガスが、ロビーに充満した。  
 
「げほ、げほげほ、な、なんだ…!」  
「ぐ、襲撃、か!?がはっ!」  
パニックになったテロリスト達の声が聞こえてくる。  
 
 
*   *   *   *   *   *   *   *  
 
 
玄関脇にたどり着いた甚六は、防護マスクを素早く装着すると、  
催涙弾の直撃を頭に受けて倒れた若者に目をやった。  
 
「あの人も、意外と無茶するねぇ…。」  
小さく呟くと、甚六は、9ミリを手に物陰から飛び出した。  
 
 
*   *   *   *   *   *   *   *  
 
 
階下で、銃撃戦が始まった音がした。  
望は、立ち昇ってくる催涙ガスに、慌てて後ろに下がると防護マスクをつけた。  
そこで、肩で息をしながら、先ほど聞いた会話を反芻する。  
 
―――甚六先生は、智恵は、無事だと言っていた…。  
―――でも、甚六先生は、いつ、体育館を離れたんだ?  
―――その後に、「ボス」とやらが智恵を連れ出したとしたら…。  
 
さっき保健室で倒れていた髭の男が、その「ボス」であることなど、  
望は、知るよしもなかった。  
 
膨れ上がった不安に、望は、耐え切れなくなった。  
 
―――体育館に行けば、全てが分かる!  
 
銃撃戦の間は身を潜めていろ、と言った甚六の忠告は、  
望の頭からきれいさっぱり消えていた。  
 
望は、身を翻すと、階下へ降りる階段に向かって走っていった。  
 
 
*   *   *   *   *   *   *   *  
 
 
用具室にいた智恵達は、遠くから聞こえてきた銃弾に、一斉に腰を浮かせた。  
 
「はじまりましたね、先生。」  
防護マスクをきっちり装着した千里が、智恵の方を振り向いた。  
その手には、スコップが握られている。  
 
千里は、智恵が用具室に帰ってきたとき、その格好を見て、  
きり、と唇を噛み締めると、涙目で抱きついてきた。  
それ以来、千里は戦闘モードに入っているようだ。  
 
智恵は、緊張した顔で頷いた。  
「皆、準備はいいわね。」  
 
「…いつでも大丈夫だ。  
 あのチキンなお兄様が頑張っているのに、負けてられるか。」  
倫が、用具室にあった竹刀を片手に答える。  
他の少女達も、皆、防護マスクをつけて、頷いた。  
 
外からテロリスト達の怒鳴り声が聞こえる。  
「何があったんだ!?」  
「襲撃か!?」  
 
用具室に足音が近づいてきた。  
「うろたえるな!こちらには人質がいるんだ!!」  
扉の取っ手がガチャリと動いた。  
体を固くする智恵に、催涙弾を手にした晴美がニャマリと笑った。  
「大丈夫、先生、まかせてくださいよ。」  
 
テロリスト達が扉を開けた瞬間、晴美が驚異的な投擲力で  
催涙弾を投げつけた。  
「ぬがのぉ!」  
「ぎゃっ!」  
それは、素晴らしいコントロールで、先頭の若者にヒットした。  
「やったね!」  
催涙ガスが当たり一面に広がる。  
晴美は続いて煙幕弾を投げ、穴のあいた壁をテロリストの目から隠した。  
 
テロリスト達が苦しさに咳き込んでいる中、倫がすっと前に出た。  
そのまま流れるような動作でテロリストの後頭部を竹刀で打ち据える。  
 
倒れたテロリストから、真夜がすかさずナイフを奪うと、  
もう1人のテロリストの尻にぷすりと突き刺した。  
尻を刺されたテロリストは叫び声を上げ、悶絶しながら倒れた。  
 
「うなぁ!」  
残る1人は、千里がスコップであっという間に片付けた。  
 
―――す、すごいわ…この子達…。  
智恵は一瞬、状況を忘れて少女達を見ていたが、はっと我に返ると叫んだ。  
「さあ、新手が来る前に逃げるわよ!!」  
 
一人ひとり、用具室の壁の穴から外に出る。  
智恵は、サバイバル能力に長けているマリアに先導を頼んだ。  
 
「関内さん、お願いね。隠れる場所のあるところまで皆を連れて行って!」  
「オッケー、そんなの簡単だヨ。」  
マリアは、にぱっと笑って穴に消えていった。  
 
「急いで…でも、気をつけて!」  
愛、芽留、奈美、麻菜実、霧、まとい、と戦闘能力の低そうな子から  
どんどん外に出していく。  
 
カエレとあびるが穴の中に消えたとき、  
煙幕の向こうから再び足音が聞こえてきた。  
 
倫と千里が立ち上がり、真夜も両手にナイフを持って構える。  
晴美が催涙弾を取り出すと叫んだ。  
「さあ、もういっちょう!」  
 
先ほどと同じ要領で新手を片付けると、真夜と晴美が穴に飛び込んだ。  
倫が後に続き、千里が穴に手をかけて振り返った。  
「智恵先生は!?」  
「後からすぐに行くから、先に行って!」  
 
千里は、一瞬ためらうような仕草をしたが、  
「早く行きなさい!」  
智恵の厳しい声に、長い髪を翻して穴に消えた。  
 
千里が消えた穴を、智恵は見つめた。  
自分が、一緒に行くわけにはいかない。  
 
穴をこのままにしておいては、後から来たテロリスト達に、  
少女達がどこへ消えたかすぐに分かってしまう。  
 
智恵は、跳び箱を引きずると、穴の前に移動させた。  
その横に体育マットを立てかけ、壊れた壁の痕跡を完全に隠した。  
 
そして、自分もどこかに隠れようとしたとき、後ろに足音がした。  
「―――動くな!」  
振り返ると、こちらに銃口を向けた若い男が1人、立っていた。  
 
男は、床に倒れている仲間達と、空っぽの用具室を見て  
驚愕の表情を浮かべていた。  
 
「何があったんだ…!女!他の人質はどこに逃げた!!」  
 
智恵は、恐怖でパニックになりかけながらも  
視線が壁の穴の方に向きそうになるのを必死で抑えた。  
 
―――ここで、何とか時間稼ぎをしないと…!  
 
そのとき、その場に不似合いな明るい声が後ろから響いた。  
「やだなぁ、逃げるだなんて。これは、神隠しですよ。」  
 
 
 
*   *   *   *   *   *   *   *  
 
 
 
校舎の中は、混乱を極めていた。  
甚六が、絶妙のタイミングで繰り出す煙幕や催涙ガス、そして銃弾に  
テロリスト達は、パニックになり、とうとう、互いに銃撃を始めていた。  
 
「馬鹿ですか、こいつらは…。」  
望は呆れながら、銃弾をかいくぐって走っていた。  
 
「智恵…。」  
走りながら、望は、呟いた。  
 
―――もう、今頃はホトケになってらぁ。  
 
先ほどのテロリスト達の会話が頭から離れない。  
不安が望を圧倒していた。  
 
―――まさか…まさか、智恵…!  
 
ふと、交から聞いた智恵からの伝言が、望の胸に蘇る。  
 
―――愛してる、と伝えて…。  
 
「…っ」  
望は歯を食いしばった。  
 
―――冗談じゃ、ありません。  
    そんな言葉、人づてになんか聞きたくないんですよ。  
    …どうして、そんなことが分からないんですか!  
 
さっきから、流れ弾が、腕や頬を掠めていく。  
そのたびに、焼け付くような痛みを感じたが、全く気にならなかった。  
 
 
 
―――愛している、と。  
もう一度、彼女の口から聞きたかった。  
 
―――愛している、と。  
もう一度、自分の口から伝えたかった。  
 
 
 
硝煙の中、智恵の顔を思い浮かべ、望は必死に走り続けた。  
 
 
 
*   *   *   *   *   *   *   *  
 
 
 
智恵は、用具室の扉の影から現れた可符香を、呆然と見つめていた。  
「風浦さん…あなた、どうして…。」  
 
穴から出て行ったものだとばかり思っていた。  
 
しかし、可符香は智恵の驚きを全く意に介していないように、  
テロリストの男に向かって歩み寄ると、にっこりと明るく微笑んだ。  
 
男は一瞬、毒気を抜かれたような顔をしたが、次の瞬間、  
はっとしたように顎を引くと叫んだ。  
 
「な、何を馬鹿なことを言ってやがる!  
 神隠しだなんて、ふざけると承知しないぜ!」  
そういって銃口を可符香に向けた。  
 
智恵は息を飲んだが、可符香に動じた様子はない。  
可符香は、相変わらずの笑顔で男に向かって指を振った。  
「ふざけてなんかいません。神隠しは本当にあるんです。  
 神は、どこにでもおられるのですよ!」  
 
そう言うと、可符香は、両手を劇的に空に向かって差し伸べた。  
「小さい頃は神様がいて、不思議に夢をかなえてくれたじゃありませんか!  
 ほら、耳をすませば!  
 目に写る全てのことはメッセージなのです!」  
 
微妙に荒○由○とジ○リが入り混じっているような可符香の演説に、  
しかし何故か、男は影響され始めているようだった。  
 
「さあ、銃を捨て、心のカーテンを開いて、優しさに包まれましょう!」  
 
男の銃口がだんだん下がってきている。  
 
―――他の子もすごかったけど…この子は、格が違うわ…。  
 
以前、望から聞いていた、可符香の人の心の隙間につけこむ能力に  
智恵はただ唖然とするしかなかった。  
 
「そうすれば、きっと…」  
 
そのとき。  
 
ドゴォ!!!  
 
外で大きな爆音がはじけ、体育館が揺れた。  
それに、激しい銃撃の音が続く。  
 
どうやら、公安の特殊部隊が突入を始めたらしい。  
 
その衝撃に。  
ぼんやりとしていたテロリストの目が、正気に戻った。  
 
 
* * * * * * * *  
 
 
校内にいた甚六は、その爆音に、舌打ちをした。  
「馬鹿、山田!!まだ早い…っ!」  
 
甚六は、廊下の影から現れたテロリストの肩に銃弾を撃ち込みながら、  
倒したテロリストの数を頭で反芻した。  
 
―――まだ、相当数の敵が残っているはずだ。  
彼女達が、自力でそうたくさんの人数を倒せるはずもなし…。  
 
「この突入で、奴らが、自暴自棄になる前に…。」  
 
―――急がねば…!!  
 
甚六は、9ミリに新しいマガジンを装填すると、  
前方の慌てふためくテロリスト達の人影に向かって突進した。  
 
 
* * * * * * * *  
 
 
やっと校舎の裏口にたどり着いた望は、爆音に頭を上げた。  
「公安が、もう…!?」  
 
爆音は、玄関の方から聞こえてきた。  
慌てたテロリスト達がこちらに流れてきたらどうするのか。  
 
校舎の中では、いまだ銃撃の音が聞こえている。  
 
―――このタイミングで…人質は、大丈夫なんですか!?  
 
もう、体育館は目と鼻の先にあった。  
望は、肩で息をしながら、体育館に目をやった。  
 
校舎内の喧騒とは裏腹に、体育館は妙に静まり返っていた。  
それを見て、望の不安は膨らんだ。  
 
―――智恵…!  
 
望は、校舎を飛び出すと、体育館に向かって一気に走った。  
 
 
* * * * * * * *  
 
 
「こいつ…人をおちょくりやがって。」  
正気に戻った男の銃口が、可符香の胸に押し付けられた。  
さすがに、可符香の顔色が変わる。  
 
男の指が引き金にかかった。  
 
「!!」  
智恵は、とっさに男に体当たりした。  
「うゎっ!」  
全く予想していなかったのか、男は、用具室まで吹っ飛ばされた。  
 
「智恵先生!!」  
可符香が驚いたように智恵を振り返る。  
 
智恵は必死に外から用具室の扉を閉めると、体で扉を押さえた。  
 
「何しやがる!このアマ!開けろ!!」  
 
男が、中からバンバンと扉を叩いた。  
そのたびに、扉がぐらぐらと揺れる。  
力負けして、扉が打ち破られるのは時間の問題だった。  
 
「先生、私も…!」  
駆け寄ってきた可符香を、智恵は、キッと睨んだ。  
「ここはいいから!風浦さん!早く逃げなさい!」  
「でも、智恵先生!」  
可符香が懇願するような目で智恵を見る。  
 
「無駄死には駄目!!行きなさい!」  
どうせ、2人で押さえても長くは持ちこたえられない。  
智恵は、必死の思いで可符香を見た。  
 
「―――分かりました。」  
可符香が、ふいに表情を改めると頷いた。  
その目が、きらりと光る。  
 
「絶対に味方を連れてくるから!それまで、持ちこたえて、先生!」  
そう叫ぶと、可符香は、体育館の入口から姿を消した。  
 
ホッと可符香の後ろ姿を見送った瞬間。  
 
バン!  
 
扉が中から開き、智恵は吹き飛ばされた。  
 
「このアマ…舐めたマネしてくれやがって…。」  
怒りに目を血走らせた男が、銃を構えて智恵の前に立ちはだかった。  
 
 
 
*   *   *   *   *   *   *   *  
 
 
 
望は、体育館の前で、見慣れた髪留めの少女を見つけ、驚いた。  
「風浦さん!」  
 
可符香は、弾かれたように振り向いた。  
そして、望の姿を認めると必死の形相で駆け寄ってきた。  
 
望は、そんな表情の可符香を見るのは初めてだった。  
 
「先生!!智恵先生が―――!!」  
可符香が望にしがみついて体育館を指差す。  
「智恵先生が、殺されちゃう!!」  
 
「―――!!」  
望は、目を見張った。  
 
―――…智恵……生きてた―――!!  
 
安堵と歓喜に胸が満たされた、次の瞬間、  
彼女が、たった今、死の危険にさらされている、  
という恐怖が再び望をわしづかみにした。  
 
「…っ!」  
望は、可符香を振り切るようにして、体育館の入口に向かった。  
 
 
 
*   *   *   *   *   *   *   *  
 
 
 
智恵は、体育館の床に座り込み、目の前の銃口を見つめていた。  
 
やるべきことをやった今、不思議と、  
さっきまで感じていた恐怖は、跡形もなく消え去っていた。  
 
ただ、今この瞬間、自分の命が消えようとしている事実を  
静かな気持ちで受け止めていた。  
 
男は、智恵に狙いを定めると、引き金に置いた指に力を込めた。  
「ぶっ殺してやる…。」  
 
智恵は目をつぶった。  
 
―――さよなら…望…。  
もう一度だけ、あなたに会いたかった…。  
 
そのとき。  
背後から、まさに、今、一番聞きたいと思っていた人の声が響いた。  
 
「―――智恵!!!」  
 
―――まさか。  
 
自分の願望が作り出した幻聴かと思い、智恵は、半信半疑で振り向いた。  
智恵の目が大きく見開かれる。  
 
体育館の入口に、息を切らした望が立っていた。  
 
「望…!!」  
 
テロリストの男が、はっとしたように銃口を望に向けた。  
 
智恵が、絶叫した。  
「だめ、望!」  
 
タ―――ン!  
 
乾いた銃声が、体育館の天井にこだました。  
 
 
 
*   *   *   *   *   *   *   *  
 
 
 
作戦本部のテント内で、命がはっと顔を上げた。  
 
「どうした?」  
景が命の様子に気がついて声をかける。  
命は、考え込むように片手を口に当てると、無言で立ち上がった。  
 
「おい、命。」  
「…いや、別に…何でもない。」  
命は首を振ると、テントの帳を開けて外に出て行った。  
 
作戦本部は学校を見渡せる高台に設置されている。  
そこから見える校舎からは、公安の突入によるものか、煙が上がっていた。  
 
命は、それを見ながら両手の拳を強く握り締めた。  
景はテントの入口に立って、しばらく黙って命を見ていたが  
やがて、静かに命に歩み寄った。  
 
景が隣に立っても、命は、強張った表情で校舎を見たまま、  
景の方を見ようとしない。  
 
景は、ちらりと校舎を見ると、命の背中を叩いた。  
「公安が突入したってことは、終わりが近いってことだ。」  
「…。」  
命は、ゆっくりと校舎から目を離し、景を見上げた。  
しかし、その瞳には、どこか動揺したような色が見える。  
 
景は、命の表情を見て一瞬眉をひそめたが、  
おどけた顔で笑って見せた。  
「何を情けない顔をしている。じきに望も倫も帰ってくるさ。」  
 
「そうだね…。」  
景の言葉に、命は笑おうとしたようであったが、  
唇の端を、不恰好に引き攣らせただけに終わった。  
 
「…っ。」  
命は、何かを払いのけるように、目を閉じて頭を振ると、  
「……そう……帰って、くる……きっと。」  
独り言のようにそう呟いて、踵を返した。  
 
景は命を振り向いた。  
「おい命、どこへ行くんだ?」  
「…あいつが帰ってきたら、きっと怪我をしてるだろうから…。  
治療の、準備を、しておかないと…。」  
命の声は段々小さくなり、最後の方は風に流され消えていった。  
 
「おお、だったら、私の秘伝の薬も用意して置けよ!」  
景は明るい声で呼びかけたが、命は返事をしなかった。  
 
景は、とぼとぼとテントに戻っていく命を見て、小さく息を吐いた。  
 
望が抜け穴の隠し扉の中に消えてから、命はずっと、  
何かに憑かれたように、黙々と治療器具をいじっていた。  
とうに、治療の準備は完璧なはずだった。  
 
―――命の奴は、昔から心配性だったからな…。  
    まぁ、何かやっていた方が気が紛れるだろう…。  
 
景は、命から目を離し、校舎を振り返った。  
背後からの強い風に、景の長い髪が乱れる。  
 
景は、目にかかる髪を乱暴に振り払うと、  
望の姿を見透かそうとでもするように、  
煙を上げている校舎に向かって、強い視線を向けた。  
 
―――望。必ず、無事で、倫を連れて帰って来いよ…!  
 
風に吹かれながら、景は、いつまでも校舎を睨みつけていた。  
 
 
 
*   *   *   *   *   *   *   *  
 
 
 
 

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