昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。 ――不明
とにかく、些細な理由で絶望する。
Xbox360の光学音声出力端子が設計上の理由でプラグの固定が不安定だと気付いた時には首を吊ろうとしたし、携帯電話のアドレス帳にロックをかけたら着信/発信履歴が相手の名前でなく数字の羅列になるというクソみたいな仕様に直面してはセイウチのケツに頭を突っ込んで死にたくなる。誓ってもいい。マロニエの木に対してですら、この教師は全き絶望を感じるに違いないのだ。
まぁ、霧にとっては彼のそうした部分もまんざら厭ではない。
いつか本当に電車を止めてしまいそうな危うい雰囲気はどこか母性本能に訴えかけるところがあったし、望が家を焼け出されて一緒に暮らすようになってからは彼の意外なだらしなさが見出されて、それがまた一層霧の心に響くのだった。それくらいでクラッとキてしまうあたりは世間知らずもいい所だが、彼女にそれを言うのは酷というものだろう――なんたって元引きこもりの不登校、現不下校かつ公認座敷童子というロイヤルストレートフラッシュな乙女である。おまけにライナス・ヴァンペルト顔負けの毛布好きとくる。
もちろんロイヤルストレートフラッシュだからといって、同じ学校で(これがまた広い空間であることを彼女は認識できていない)寝起きする仲なのだから、いつか憧れの先生と心が通じちゃったりなんかして、そのまま身を覆う毛布を剥ぎ取られて、ついでにその下までという妄想をしないわけではない――が、望は絶望するのに忙しかったし、霧はそもそも何もせず待つことに関してはプロである。
そんなわけで、傍目には男女(学校をそう呼ぶのなら)一つ屋根の下というあまりにもアレな状況に置かれながら、絶望先生と霧は毎日をのんべんくらりと過ごしていくのであった。霧の密かな恋心が表に出る事もなく、それに望が気付くこともなく。
そんなある日だった。
その日何があったのか、霧は訊ねなかった。
望が絶望する理由はなんでもゴザレの多岐に亘るし、だいいち彼に至っては絶望する事それ自体が半ば目的化してしまっているので、訊ねるだけ無駄というものだった。ただ、とにかく絶望している――それが分かれば充分である。
「……絶望した」
宿直室にやってきてからというもの、望は霧が用意した夕食にも手を付けず、ただそう呟くだけだった。いつものように感嘆符が語尾に付かない、覇気のない口調であった。
「『E.G.F.』が出ないことに絶望した」
何の事だか分からないので、霧には返事のしようもない。ただ愛用の毛布にすっぽり包まった格好で膝を抱えながら、首を寝違えたんじゃないかと思える具合に傾けて、長年のひきこもり生活の末に生気の失せた目でじっと望を見つめるのみである。
「もう先生死にます。死ぬ事にします」
同情を惹きたいのか、望は繰り返しそう言った。この男に関して言えば、この言葉の重みなど無いに等しい。子供の言う「家出してやる!」と同じ程度のブラッフに過ぎないが、それだけに何かしら反応を示してやらないと後々手のつけられない事になる。
「……死ぬんですか」
霧はぽつりと呟いた。
「割れたガラス窓の上に跨って、腰ゆらゆら動かしたあとで窓から飛び降りるんですか」
「私はンロィデ・クンラフか何かですか!」
むきになって反論する望。こうやって言葉を返してくるなら、今回の自殺願望も未遂に終わる可能性が高い。彼の感情を御し得たことに対して、霧は昏い満足感を覚えた。
が、今回の絶望先生はどこかハイクオリティだった。
「……まぁ、そういうリアルな死に様とか考えさせられるとアレなんで、今日は」
そして、高らかに宣言するように、言った。
「プチ臨死体験をします!」
・La petite mort (仏)
仏語で“小さな死”を意味し、転じて性的絶頂を示す隠語。英語の娯楽小説などで婉曲的に使われる。
思わず霧は目を見開いて、体も固まったようになった。つまりいつもの姿勢と何ら変わりないのだが、望が口にした台詞は彼女の思考までをも一時停止せしめた。
「そ、それって、先生……」
言葉を選ぶだけで顔が赤くなった。
「その、そ……その、えっちな事……?」
「或る意味、アレも死の感覚に近いものがあるかもしれませんね。スリルというか、あの無意識の感じとか」
霧が赤面しているのを知ってか知らずか、望はさらっとそんな事を言う。特に悪びれた様子もないのは、あまりに「死」という側面に固執しすぎて、彼のいうところの「プチ臨死体験」の本質を捉えそこねている節がある。
やけに冷静な望とは対照的に、霧の頭の中は混乱を極めていた――そんな中、ある事実が閃いた――そういえば、憧れの先生の持つ「心中リスト」、あの中でトップにランクインしているのは自分の名前ではなかったか。
「そういうわけで小森さん、」
言葉尻を泳がせながら、両手を毛布の掛かった霧の肩に「ぽん」と乗せる。
そして、それだけ見れば何の邪気も無い、家庭訪問の際に霧が見たあのステキな笑顔を浮かべて、望は言った。
「一緒に死んでくれますか」
誘い文句と呼ぶにはあまりも物騒な、それは信じ難い申し出であった。
※
そんな風に心中を(性的な意味で)申し出る男も考え物だったが、それを受け入れる方はもうどうかしているとしか思えない。しかし霧に限って言えば、何しろ元引きこもりの不登校、おまけに現不下校かつ公認座敷童子であったから、もしかしたら本当に正気の埒外であったのかもしれない。
とにかく、望が肩に手を乗せたまま顔を近づけた時、霧は拒むような素振りも見せなかった。
はじめて触れた憧れの先生の唇は、思ったよりもよりも乾いて荒れてはいたが、温かくてえもいわれぬ安堵を感じさせた。
「ん……」
「……ああ、すいません」
思わず漏れた霧の吐息に、望は何を思ったのか唇を離して、そんな短い謝罪の言葉を陳べた。
「眼鏡が当たって邪魔ですよね。いや、『鼻が邪魔にならないかしら』なんてのは昔何かで読みましたが、まさか眼鏡なんて思いもよりませんでしたから」
そう弁解するように言いながら、望はそそくさと眼鏡を外すと、蔓を折り畳んでどこか適当なところへ置いた。眼鏡を外した彼の眼は――あるいは霧の思い込みだったかもしれないが――いつもより魅惑的な光を湛えているように見えた。
「じゃ、もう一度仕切り直しということで、お願いできますか」
「え? あ、はい」
何しろ『小さな死』の体験が至上目的なのだから、望の行為に臨む態度は常人のそれを逸脱して冷静だった。一方、唐突な申し出を半ば押し流されるように受けた霧にしてみれば、ただ従容として受け入れる他ない。
「っふ……んっ」
再び交わした口付けは、ただ唇を重ねるだけでは終わらなかった。互いに唇が合わさったと見るや、望はそれを微かに押し広げ、その隙間から舌を差し入れてきたのだ。
「……!?」
想像もしなかった感触に霧の体は一瞬だけ強張ったが、すぐにそれを受け入れた。
望の舌は口内をゆるりと一巡し、緊張に固まった霧の舌を優しく突付いて、ぴちゃぴちゃと粘り気を帯びた音を彼女の頭の中に響かせながら蠢いていた。霧自身も、ごく稀に唇が離れる瞬間を狙って息を吸いながら、必死に望の舌の動きを追おうとした。
そんな深い口付けが続いたのはどれほどの間だったであろうか――気付けば互いに唇を離していて、霧はまるでCoD4で瀕死のダメージを受けたかのように息を喘がせて、望はといえば変わらず冷静な微笑を浮かべて彼女を見つめていた。
「じゃ、小森さんにも気持ちよくなってもらうとしますか」
「えっ! あ、先生ちょっと、」
霧の言葉も聞かずに、望はさっさと彼女の体を覆う毛布をそっと払い除けた。時節柄、その下は下着のみである。長年の引きこもり生活のせいで真っ白な肌が、望に晒される。
「ちょ、ちょっと待ってください! ……だって、一緒に“死ぬ”んなら、一緒に気持ちよくならないといけないんじゃ……だったら私から先生にも、」
「はは……。何を言ってるんですか小森さん」
望はそんな乾いた失笑を漏らして見せると、これまたわざとらしく視線を逸らして言う。
「男なんて挿れて1分もしたら絶頂ですよ」
返す言葉もない。
男性の生理など知る由も無い霧にとっては、なおさら無理な話である。
「こと『プチ臨死体験』に関しては、女性の方が達しにくいと聞きますから」
そう言って、望は霧の長い髪をそっと手で除けて肩を剥き出しにする。そして思いがけないほど白い首筋に唇をそっと落として、肩へと滑らせた。
「やんっ……」
「だから、ここは先生に任せてください」
遠くで響いて聴こえる望の声を聞きながら、霧はどうして首にキスされたくらいでこんな気持ちになってしまうのだろうと、ぼんやりと考えていた。自分で触ったってどうということのない部位なのに、先生の唇が触れただけで、くすぐったいような、切ないような感触に全身が焦がれるような刺激が走る。それだけでも身体に収まりきらないほどの快感だというのに……これより先に進んだら、自分はどうなってしまうのだろう? そんな事を、霧はふと考えた。
それを知って知らずか、望の両手は霧の両肩から移動して、肌着の肩紐をずらしにかかっていた。
「あっ……先生……」
霧が何か言おうとしたものの、三度覆い被さってきた唇によってその言葉も封じられた。ミルクを舐める仔猫のようにお互いの舌を探り合っていると、すぐに望の掌があらわになった胸にそっと触れる感触が伝わってきた。
想像していたよりも大きく、温かな掌だった。それがまるで子供の頭を撫でるような優しさで控えめな乳房の表面を撫でて、時折指が桜色に染まった先端を刺激する。その感覚に思わず口付けた唇を離してしまうと、望は少し困ったような笑顔を浮かべながら、開いている方の手で霧の髪を手で梳いた。
「厭じゃないですか?」
霧は必死に首を振る。髪を撫でていた手はいつの間にか下に降りてきて、背中の上を触れるか触れないかというくらいに指を滑らせたり、ウエストの形を確かめるかのように動いたり、白磁のような腹部を愛おしむようにさすってきたりする。しかもその間にも、もう一方の手による胸への責めは止むことはなく、唇や頬、額には時折口付けが落とされる。望の行為は霧を高みに導こうとするあまりのものだろうが、それは確実に功を成していた。霧は快感の奔流に翻弄される意識の中で、自分の下腹部が内側から狂おしく疼くのをはっきりと感じた。
望の手が遂に下着の中にまで届いたのは、まさしくその時だった。
「……あぅ……っ!」
薄い下着を押し除けて、望の手は霧の下腹部を撫でまわしていた。既に熱を帯びて、かすかな湿り気を持ったその向こうに目指すものを求めながら、彼の指は下へ下へと動いてゆく。仮にも『人を愛する資格講座』免許皆伝のフィンガーテクニックである。
「ぁぅ……先生……っ……!」
「小森さん……気持ちいいですか?」
頷くことしか出来ない。既に望の指は綻びた桃色の筋を開いて、温かく濡れたその奥へと中指を滑り込ませている。自分でも触れたことの無い場所を情け容赦なく指で責められながら、霧は自分が限界に――先生の言う所の『小さな死』を迎えつつあることを頭のどこか片隅で感じ取った。どこまでも上り詰めてゆくような恍惚感と、同時に何物も及ばぬところに放り出されてしまいそうな不安が、同時に胸を焦がす。
「せんせぇ……っ……!」
望の身体にしがみ付きながら、霧は迫り来る快感の波に抗おうと構えた。そうする内にも望の指は、女子高生の一番敏感な部分を刺激しながら、確実に追い詰めてゆく――
そう思われた矢先だった。
「…………?」
あと少しというところで、望の指が動きを止めた。目をぎゅっと硬く閉じて『プチ臨死体験』を待ち構えていた霧は、恐る恐ると言った具合で瞼を開き、そしてニコニコと笑っている望の顔を認めた。
「……先生言いましたよね、心中って。逝く時は一緒ですよ?」
「逝く」の綴りが間違っているとか、そういう問題はこの際どうでもよろしい。
「先生……」
「どうです? 逝けそうですか?」
だから「逝く」の綴り以下略。
「……うんっ」
快感に蕩けたような目が細められて、霧は望の問いに、そう小さく頷いた。
※
肋の浮き出るほどに貧相な望の身体だったが、どうしてなかなか立派だった。
「死」という側面ばかりを思い浮かべて交情という行為それ自体に思いが至っていない節がある彼でも、やはり人並みに固くは出来るらしい。普段は頼りないダメ教師の、そこだけは人に誇れそうな部分だった。
「……多分そんな大きくないと思うんですけど、痛かったら言って下さいね」
言うもんか、と霧は思った。
「痛いばっかりで気持ちよくなって貰えないと、心中になりませんから」
「……うん」
そう返す霧の言葉はどこか上の空で、頭の中は既に満たされない焦燥感で一杯だった。ついさっきまで身体を内から刺激していた指でも届かない、身体の最奥とでも呼ぶべき部分に、火の燻るようなちりちりとした感触が疼いている。耳掻き以外に内耳の痒みを御し得ないように、この昂ぶりもまた望の絶棒(笑)以外では鎮められない――なぜだか、霧はそんな事を思った。
「行きますよ……」
「……っ」
お互いのそこが触れ合って、ねっとりと湿った肉の感触が同時に二人を襲う。それだけでもかつてない程の刺激なのに、最適な位置を探ろうとして、望は何度かそれを擦りつけさえした。
「先生ぇ……早くぅ……っ」
「すいません……焦らしてるつもりはないんですが、なかなか……っ」
そして、何かに導かれるようにして、唐突に望は霧の中へとゆっくり埋め込まれた。
「ぅ……んっ」
身体の中にかつてな質量が入り込んでくるのを感じて、続いて襲いくる快感に――もしかしたら痛みに備えるように、霧が目を閉じて、口をきっと結んだ。望はその豊かな黒髪を撫でながら、なるべく彼女を傷つけないような具合に腰を押し進めていった。
人生の中で最も長いと思える一瞬の後――望は息を詰めるようにして言った。
「入り、ましたよ……小森さん……」
「……ぅん」
うっすらと開いた霧の瞳は涙で曇っていたが、その表情はいつもの咲き誇る蘭のように晴れやかなそれだった。
「……あは……先生のが入ってる……私のに」
「痛くないですか?」
「うん……これで一緒だね、先生」
そう言って、霧は望の身体に腕を回して、ぎゅっと抱き締めた。それはまるで幼子と母親との抱擁のような安らぎに満ちていて、それだけ見れば教師と教え子の関係などといった後ろめたいものは何もないようにさえ思われた。
「……もうだいじょうぶ。動いてもいいよ、先生」
「わかりました。ゆっくり行きますよ……」
そう言いながら、望はゆっくりと腰を引いていった。突き込まれる時の刺激も強烈だったが、引き抜かれる時のそれも負けず劣らず鮮烈だった。二人の体液で濡れたように光る絶棒(笑)がその先端が見えるまで抜き出されると、それは再び霧の体内へ押し戻された。
「んっ……」
突き入れられる時の湿った音と頭の中に響くような快感は、再び霧の身体を支配して『小さな死』に導こうとしていた。望の動きはなにも『人を愛する資格講座』で習得したような高度なものではなく、むしろ快感を求めてがむしゃらに腰を打ち付ける慣れない少年のそれに近かったが、その飽くなき激しさが彼女の劣情に火を注いでいた。
「先生……せんせぇっ……」
「小森さん……」
互いに呼び合いながら、どちらからともなく唇を重ねる。上と下とで繋がりながら、二人の『プチ臨死体験』は佳境へと入ろうとしていた。
「やだ、先生……なんか変なの……変なのっ!」
何度腰を突き入れた頃だろうか、霧がかつてないほど大きな快感の波に、思わずそんな言葉を口にした。
「大丈夫ですよ……全然怖くないですから、変になっちゃってください」
そう答える望の腰の動きも、次第にスピードを速めてゆく。霧の白い下腹部には、望が中に入っていることを示す微かな膨らみがぐりぐりと蠢いている。
「先生ぇ……ぎゅってして……っ」
「……これで、いいですか……っく!!」
霧の身体に腕を回して、腰をより一層深く押し込んだその瞬間、望は遂に限界を迎えた。
抑えていたものが一気に溢れて、自分を包む温かみの中に迸り出た。その死にも喩えられる恍惚の瞬間、彼は腰の動きを留めず、より深いところで自らを解き放とうとして下腹部が霧のそこと触れ合うまで腰を押し付けていた。
そして、望が達してから数秒の後に、
「……あ、あぅ……ぅっ……」
自分の身体の中心を熱い奔流が貫くのを感じた霧も、快楽の果てに『小さな死』を迎えた。白く柔らかい喉をまるで獲物が肉食獣に対してそうするように晒しながら、喉の奥から掠れた叫び声を上げて――そして、望と霧は申し合わせたように、同時に体中の力を抜いて荒い息を吐いた。
「はぁっ、はぁ……先生……?」
霧は自らの身体の上に覆い被さった心地よい重みにようやく気付いて、望にそう声を掛けた。だが返事はなく、ただひたすら荒い呼吸を繰り返す、彼女の「先生」の姿がそこにあった。
「……先生」
霧は再び小さく望を呼ぶと、自分の肩に顔を埋めた彼の頬に、軽く音を立てて口付けをした。
Post coitum omne animal triste est. ――不明
『性行為の後、全ての動物は哀しくなる』という格言がある。
古くから生き残った格言というものには大抵、いくらかの真実味が備わっているものであり、それは昭和八十年代を迎えた今であっても変わらなかった。望は今、霧と背中合わせに膝を抱えて座りながら、絶賛絶望中である。
いくら『小さな死』だの、その法悦の果てに新たな世界が見えるなどと言ったところで、性的絶頂などは所詮12秒間しか続かない邯鄲の夢に過ぎない。たった数瞬だけ死の世界を体験したところで、再び戻ってくるのは紛うことなき現実世界であり、しかも行為の後というのは色々と厄介な問題が付き纏う――殊に、それが教師と教え子という関係ならば尚更だった。
「……絶望した」
顔の上半分を影にしながら、望はそう呟いた。
「先生?」
「もうダメですよ。『女性徒と淫行で逮捕』とか、一面記事を飾るに決まってます。しかもホテルならいざ知らず、学校の宿直室。きっと金がなくて性欲だけ有り余ってる、全身下半身みたいな鬼畜だと思われるんですよ! ああ!」
もちろん、霧はいつもの「絶望先生」の姿にさしたる反応も見せず、ただ体の奥で鈍く疼く痛みをぼんやりと意識していた。望が昇り詰めた瞬間に放ったものが、今も中に残っているような感覚がある。幸せに感触があるとしたら、それはきっとこんな感じだろう。何故だか分からないがそんなことを思った。
「今度こそ本当に死にそうです、先生」
そう言って、腕で抱え込んだ両膝の間に顔を埋める望。よく見れば上半身裸の下半身トランクスというセクハラ極まりない格好だが、そんな事を気にする余裕もないのかもしれない。
そんな情けない姿を肩越しに振り返りながら、霧はゆっくりと溜息を吐くと、そっと頭を逸らした。後頭部が思いのほか広い望の肩にやさしく当たって、そこから単なる温かさ以上の何かが伝わってくる気がする。
「ねえ先生、」
霧の呼びかけに、ようやく望は頭だけで振り向いた。
「また死にたくなったら、私に言ってくださいね」
「……っえ」
「手伝いますから」
そう言うと、霧はいつもの姿からは想像もできない軽い身のこなしで立ち上がると、毛布の端をはためかせながら宿直室の入り口へと歩いていった。ドアを抜ける前に一度振り返ると、相変わらず痩せた身体にトランクス一枚だけをへばりつかせた先生が、驚いたような顔をして霧を見つめていた。その姿は、天災に遭って家財道具全てをスッ飛ばされた被災者を思い出させた。
「じゃあ、おやすみなさい。……先生」
あとには人気の絶えた校舎の廊下をひたひたと歩き去ってゆく足音が聞こえて、それもすぐに聴こえなくなった。