放課後―――  
僕は、ついさっき図書室で借りてきた本を読みながら廊下を歩いていた。  
 
「た、助けてぇぇぇ!!」  
おや?糸色先生の悲鳴が聞こえる。  
またクラスの女子の誰かに追い掛け回されているのだろうか。  
顔を上げると、先生が宿直室から出てきて、大慌てで走り去っていった。  
その後ろを常月さんが追いかけていくのはいつものことで…。  
 
僕は、宿直室の前で足を止め、中を覗いてみる。  
部屋の真ん中で、バットを持った少女が立ちすくんでいた。  
少し落ち込んでいるようで、小さなため息が聞こえてくる。  
 
「三珠さん」  
「!?」  
声を掛けると、三珠さんは体をビクッとさせて、ゆっくりとこちらを振り向いた。  
「何かあったの?今、先生が悲鳴を上げてここから出ていくのを見たんだけど」  
「………」  
聞いてみたものの、部屋の様子を見れば何があったのか大体察しが付く。  
部屋は荒らされ、家具などが所々壊れている。  
証拠過多と言ってしまえばそれまでだが、三珠さんが手に持っているバットで暴れたのは明らかである。  
 
返事が返ってこないので、僕は三珠さんの方に歩み寄ってみる。  
「これ、三珠さんがやったんだよね?」  
三珠さんは何も言わずに、近づいてくる僕を見つめている。  
「どうしてこんな事したの?」  
「………」  
「…もしかして、先生が好きだから…、かな?」  
「―――っ!?」  
 
三珠さんは顔を赤くして下を向いた。  
やっぱり図星だったんだ…。  
まぁ、以前から三珠さんも先生に気があるんじゃないかって思ってたけど。  
 
「…そっか。でも、こんな事してたら先生に避けられちゃうよ?」  
「………」  
「そうだな、こんな話知ってる?―――むかし、ある国に、好きな人にどうしてもいじわるしてしまう一人の少女がいました。その少女は―――」  
 
−中略−  
 
「―――そして、愛する人を亡くしてしまった少女は、彼の後を追うように海に身を投げ、死んでしまいました…。おしまい」  
 
三珠さんは、僕の話す物語を真剣に聞いてくれてたようだけど、  
僕が話し終えると、彼女はかなり深刻そうな顔をして俯いていた。  
実は即興で作った物語だったんだけど、ちょっとやりすぎたかな?  
 
「ごめんね。所詮作り話だから、あまり気にしないでね」  
そう言うと、三珠さんは困ったような顔をして僕を見つめてきた。  
彼女の目が、「どうすればいいの?」と訴えている。  
 
僕は、上のほうに顔を向けて、考えるように「うーん」と唸った。  
 
「んー…、三珠さんは、先生が好きだからいじわるしちゃうんだよね?」  
三珠さんはコクリと頷いた。  
「でも、それじゃあ先生は三珠さんが自分のことを好きだってことが分からないし、もしかしたら自分のことが嫌いなのかと思ってしまうかもしれない」  
「………」  
「だったら、先生にいつもと違った接し方をしてみればいいんじゃないかな?先生って案外単純なところがあるから、優しく接してあげればきっと三珠さんのことが気になると思うんだ」  
「………!」  
三珠さんは、なるほど、といった感じで目を輝かせている。  
 
「どうかな?まあ、僕の言うことなんて当てにならないかもしれないけどね…」  
そう言うと、三珠さんは首を横に振り、ニッコリと微笑んだ。  
「いえいえ、どういたしまし―――っ!?」  
 
突然、腹に鈍い痛みが走る。  
三珠さんの拳が僕の腹部に当てられている。  
これは、証拠過多というよりただの現行犯だ。  
 
―――いや、何故僕が殴られなきゃいけないんだ?何か彼女の癇に障ることでも言っちゃったのかな?  
三珠さんは、腹を抱えてへたり込む僕を見下ろして、ニヤリと笑みを浮かべた後、宿直室から走り去ってしまった。  
 
―――きっと、これが彼女にとっての「ありがとう」だったんだな…。  
僕は蹲りながら、苦笑して近くに落ちている三珠さんのバットを見つめた。  
 
 
 
先生と結ばれるといいね。  
そうなれば、あの人が先生をあきらめるかもしれない。  
そうなれば、あの人は僕と結ばれるかもしれない。  
 
…結ばれるといいな。  
 
 
 
 
放課後の図書室は閑散としている。  
普段は、何人かの生徒が本を読んだりしに来るものだけど、  
今日に限っては僕以外誰もいない。  
 
今まで、こんな状況をこれほどまでに有り難く感じたことはなかった。  
…実を言うと、僕は今、これまでに無いくらい落ち込んでいる。  
 
―――思い出したくない…。僕が最も恐れていたことが現実となってしまった。  
 
事実を知ったのはほんの少し前の事である。  
図書室へ来る途中、宿直室の前を通るとき、中から喘ぎ声が聞こえてきた。  
それも、自分が前から気になっていたあの人の声。  
僕は耳を疑い、音を立てないように恐る恐る中を覗き込んだ。  
 
―――先生と彼女が、体を交え、愛し合っていた。  
 
それから僕は逃げるように宿直室を離れ、ここに辿り着き、現在に至る。  
 
…終わったな。  
せめて、あの時あんなものを見なければここまで気が滅入ることもなかったろうに。  
まぁ、その分諦めが付くんだけど…。  
 
 
暫くの間、薄暗い図書室で本も読まずに顔を伏せていたが、  
ずっとこんなところで落ち込んでても仕方がないと思い、いい加減帰ることにした。  
 
ふらりと立ち上がり、鞄に手をかけ、おぼつかない足取りで図書室を後にする。  
 
抜け殻のように廊下を歩いていると、いつもの習慣で宿直室の前を通る廊下に来てしまっていた。  
 
戻ろうか…。  
いや、さすがにこんなに長く続けてるなんて事もないだろう。  
それに、戻って遠回りする気力すらない。  
僕は、半ば決心したように宿直室へと近づいていった。  
 
―――宿直室の前で、誰かが蹲っている。  
 
僕は、はっとしてその人の元へと駆け寄った。  
 
「やめるんだ、三珠さん!」  
僕が叫ぶと、三珠さんは顔を動かさずに、目だけをこちらに向けた。  
 
三珠さんの手元にはオレンジ色の灯りがともっていて、  
薄暗い廊下で彼女の姿をぼんやりと照らしていた。  
僕は夢中で駆け寄り、三珠さんから火付け具を奪い取った。  
 
「はぁ、はぁ―――っ」  
息も荒く、その場にへたり込む僕を、  
意外にも何の抵抗も見せなかった三珠さんは、ただじっと見つめていた。  
僕は息を整え、三珠さんの顔を見つめ返した。  
 
彼女の目元には、それぞれ一本の筋が輝いている。  
 
「…泣いているの?」  
「………」  
「君も、見ちゃったんだね…」  
「………」  
無言だが、三珠さんは一瞬驚いたような顔を見せた。  
「辛いよね…、僕だってそうさ。さっきまで柄にもなく落ち込んでたよ」  
「………」  
「でも、だからといってあんな事しちゃだめだ。  
後悔しか残らないし、下手したら僕が前に話した物語の二の舞になっちゃうよ」  
「―――っ!」  
 
三珠さんは、突然僕にすがり付き、何かが弾けたように―――、  
それでも声を殺して泣き出した。  
 
僕は少し戸惑ったものの、そのまま彼女の背中に腕を回し、優しく抱きしめた。  
 
静寂の中で、彼女のすすり泣く音だけが微かに聞こえる。  
僕は、胸にすがりつく三珠さんを慰めるように、彼女の髪を優しく撫でた。  
 
 
暫くして、三珠さんが僕の胸から顔を離し、袖で目をゴシゴシと擦った。  
「…落ち着いた?」  
僕は手を緩め、目を赤くしたままの彼女の顔を覗き込み、呟いた。  
三珠さんは顔を背けたまま、小さく頷く。  
「…そっか。良かった」  
僕は心の底からそう思い、自然と笑みを漏らした。  
三珠さんは、それに応えるように精一杯の笑みを返す。  
 
―――まだ辛いだろうに…。君は、なんて強いんだろう。  
僕も、落ち込んでばっかりはいられないな。  
 
「…さっ、帰ろうか」  
僕は立ち上がって、三珠さんに手を差し伸べた。  
彼女は少し迷った後小さく頷き、静かに僕の手をとり、立ち上がる。  
 
 
僕達は、決して癒えない心の傷を抱えたまま、宿直室を後にした。  
 
 
翌日―――  
僕は憂鬱な気持ちを抱えたまま、校門をくぐった。  
結局昨日は一睡もできなかったな…。  
 
とぼとぼと歩いていると、突然背中をポンと叩かれる。  
 
「おはよっ、久藤君」  
…今一番会いたくなかった人に出会ってしまった。  
「…おはよう、可符香ちゃん」  
「あれー、久藤君朝から元気ないね」  
可符香ちゃんが心配そうに僕の顔を覗き込む。  
僕の元気がない原因は君なんだけどね…。  
「ちょっと寝不足で…、昨日遅くまで本を読んでたから」  
適当にごまかすと、彼女は笑顔で「そうなんだー」と答えた。  
 
―――さぁ、もういいでしょ?早く僕を解放してくれ。  
 
しかし、何を思ってか、可符香ちゃんは僕の隣を歩いていく。  
…何ですかこの状況は?僕に生き地獄を味わえと?  
可符香ちゃんはそんな僕の心情とは裏腹に、楽しそうに鼻歌なんか歌っている。  
もういいや。煮るなり焼くなり好きにしてくれ。  
 
 
「久藤君、昨日宿直室の前で真夜ちゃんと抱き合ってたよね?」  
「へ?」  
可符香ちゃんの突拍子もない言葉に、僕はつい気の抜けた返事をしてしまった。  
 
…  
……  
………えーと、もしかして見られてた?  
 
「久藤君も隅におけないね〜」  
可符香ちゃんが満面の笑みを浮かべている。  
 
「ちょ、あれは違うって!なんというか、場の流れで…」  
「大丈夫、誰かに言いふらしたりしないから!」  
僕が必死で言い訳を考えていると、可符香ちゃんは人差し指を立ててそう告げ、  
近くを通りかかった木津さんたちのほうへ行ってしまった。  
 
 
…ま、いいか。誤解は後で解くことにしよう。  
今更誤解を解いたところでどうにかなるわけもないしね。  
 
―――はぁ、朝から疲れるな…。  
 
 
−教室−  
 
「なぁ久藤〜、聞いてくれよ。また加賀さん、俺の選んだTシャツ受け取ってくれなかったんだ…」  
「ふーん」  
やっと席に着いて落ち着いたというのに、今度は木野が恋愛相談を持ちかけてきた。  
…僕に安息の時は来ないのだろうか。  
 
「―――絶対似合うと思うのに…。はっ!そうか、きっと加賀さんは恥ずかしがってたんだ!そうに違いない!」  
はいはい、そうですね。解決してよかったじゃないか。  
僕もコイツくらいお気楽な考えができればな…。  
 
「そうと分かれば早速…、っておい!久藤、後ろ…」  
―――ん?後ろ…?  
 
ゴスッ!  
 
…痛い。今度はなんだよ…?  
 
振り向くと、三珠さんが背を向け、自分の席へと走っていくのが見えた。  
どうやら、鞄で殴られたようだ。  
 
「…おい、久藤。お前、三珠さんになんかしたのか?」  
「いや、別に…」  
 
可符香ちゃんがこっちを見てニヤニヤしてるのは気にしないで…、  
 
三珠さん、何とか立ち直ってきたみたいだな。  
僕を殴ったのは、心を少しでも安定させるためだろう。  
 
 
君がそうすることで心を保てるなら、僕もそれを受け止めるよ。  
僕達は、同じ心の傷を抱えた者同士なのだから。  
 
 
ヒュルルル…  
ゴン!  
 
 
………ごめん、やっぱり体が持たないかもしれないや。  
 

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