望にとって憂鬱なクリスマスも過ぎ去り、正月前のだらけた期間。
宿直室の二人はこたつに包まれていた。
テーブルの上にある蜜柑の皮を霧が剥き、望がそれを食べている。
更に拍車のかかっただめーんずである。
「はい、あーん☆」
「あ、あの、小森さん…」
「あーん☆」
「…あーん」
霧の指から直接、蜜柑の房をいただく望。
甘い時間が漂い始める宿直室。
それに危機感を持ち、蜜柑を飲み込むと共に真面目な顔をする望。
霧の横へ移動し、正座で座る。
望は真剣さを全て掻き集めた瞳で少女を見付める。
初めて会った時のように、髪を掻き分けるると。
つい、きゅんとなってしまう霧。
その精悍な顔立ちに魅せられ、頬に朱色を落とす。
他の何にも意識がいかない。
真摯な態度に対して、霧も正座になってしまう。
顔から手を離し、見つめる望。
見つめ合う二人。
ゆっくりと動き出す口元。
「小森さん…、実は、正月に交の為にも実家に帰る予定があります」
「!?」
霧が驚くのも無理はない。
そんな話、一度も聞かされていないからだ。
その上、望は外出すると言う。
霧に留守を任せるつもりだろうか。
「…そう、なんだ」
寂しそうに目を臥せる霧。
先程までときめいていた瞳を、今は見ることも出来ない。
辛い。
別れの宣告を承けて、身を切り裂かれているかのように。
只、辛いだけ。
「それでですね…、その、小森さんにも付いてきて欲しいのですが…」
「…!?」
「やはり、無理でしょうか…?」
再び驚愕の言葉を耳にする。
臥せた眉を上げ、望の目を見つめる。
何も変わっていない。
冗談など微塵も感じさせない。
本気なのだと実感させる。
そんな、瞳。
「わ、私も…?」
「はい、出来れば一緒に来て頂きたいのです」
悩んだ。
悩みきった。
悩みに悩んだ。
正直、嬉しい。
だけど。
霧は、答えが出しきれない。
外に出る。
それが、あまりに実感できない。
だが、最終的には答えを出さなければいけないのだ。
そして。
霧は、一つの考えに及ぶ。
「あの、せんせぇ…」
「はい?」
「どうして、私も一緒の方がいいの?」
「…」
当然と呼べる疑問だ。
確かに近くに居たいが。
必ずしも隣に居なければならないわけではないはずだ。
霧が普段をどう過ごしているかを知っていれば、それは酷だろう。
霧が質問をぶつけると。
冷や汗をかきながら、わざとらしく目を反らす望。
それだけでなく、顔を赤らめている。
(何だろ…、隠し事、かな?)
「ねぇ、…先生」
立場は一変して逆転。
悩み顔の望。
(やはり、話さないわけにはいきませんよね…。私だけの事ではありませんから
…)
「小森さんもご存知でしょう、糸色家にある見合いの儀を」
「…うん」
「正月に、また企画されたのです」
「えっ…!?それって…」
たっぷり間をおいて。
凍結する思考。
これはまさに、絶望。
――――先生、結婚するの?
言葉が、喉から離れない。
――――私は、どうなるの?
頭の中が、狂い出す。
――――何で、笑ってるの?
もう、何も考えられない。
何を、信じるのか。
分からない。
突然、流れだした。
その身を知る雨が。
頬を伝う。
嗚咽も声も出ない。
単純に、涙の雫が溢れた。
「あ、あの…、小森さん?どうされました?」
何故、泣き出したのか。
全く理由が分からない。
さて、賢明な皆様なら御分かりでしょうが。
この二人の間には、致命的な勘違いがある。
望の真意は、霧と見合いたいと言う事。
霧は、望が誰か別の人と結婚すると考えている。
一体、望はどうするつもりだろうか?
泣き声が、部屋を支配する。
オロオロすることしか出来ない。
「すんすん、すんすん…」
「こ、小森さん…?」
「せんせぇ…、私を捨てて他の人と幸せになるの!?」
「へ…!?」
「死にたくなったら先生に言いなさい、って言ってくれたの信じてたのに!」
「小森さん、落ち着いて下さい…」
「先生の馬鹿!開けないでよ!」
あまりのショックから、意味の分からない事を口走り始める霧。
焦りに焦る望。
どうにも言葉が通じない。
何と説明すればいいのか。
普通に説明すればいいのだが。
霧に釣られて望も落ち着かない。
もはや、見つめあっていた時の空気は欠片も存在しない。
霧は、すっかり後ろを向いてしまった。
未だ、止まない涙の雫。
畳の上に一つずつ染みがついていく。
ぽたぽたと。
その音が、望の胸を締め付けた。
完全に理解したのだ。
霧の考えを。
霧の想いを。
それは、望にとっても哀しく、淋しい。
そんな、想い。
それを、はっきり感じると。
望は感極まって、霧を抱き締めていた。
どうしたら良いのか。
どうすべきかを考える。
口下手の自分が、少し嫌になる。
けど、心に嘘はない。
偽りなく、抱き締めた。
「すみません、小森さん…、言葉足らずでしたようで」
「…すんすん」
「他の女性ではなく…、貴方と見合いたいのです」
「……………?」
「…………」
「……?」
「…」
「えっ!?そ、それって…」
「小森さん…、結婚しましょう…」
回りくどい言い方になり。
在らぬ誤解を受けた。
それもまた、一興。
時が笑い話に変えてくれる。
だから、それまで。
いつまで掛るか分からないが。
寄り添っていたい。
霧もまた、望の真意を知ったのだ。
雨は止まない。
その身を知る雨は。
哀しくても流れ。
嬉しくても流れ。
留まる事を知らない。
全て受け入れた。
少女の気の弱さも。
男の情けなさも。
互いに許したのだ。
「うん…、私も、一緒に行くよ」
「小森、さん」
「結婚するなら、もう違うよ…」
「…霧さん」
「はい」
深く抱き締め合い、息を吐く。
また、息を吸う。
少女の肩を掴み、少しだけ距離をとる。
望は深呼吸をしてから、服の中に手を突っ込んだ。
時代錯誤な和服から小さな箱を取り出す。
青い、いや碧いと言うべきか。
その正方形の箱は、中心から上下に開く仕組みになっている。
「給料が安いので、こんなものしか買えませんでしたが…」
「せんせぇ…、嬉しい」
大きいとは言い難い、的確な表現をするのなら小さい。
慎ましやかな、小振りなダイヤモンド。
それを称えるシルバーリング。
それは絆の印。
それは契りの印。
エンゲージ・リング。
箱から取り出し、その輝きを確かめる。
少女の手を取り、その細さを確かめる。
彼女の為だけに用意した贈り物。
究極の愛の形。
もう何も必要ない。
その愛を確認する行為以外に。
身体以外に必要なものなど有りはしない。
そう、必要ないのだ。
その日を境に、互いの呼び名は変わった。
「霧さん」
「なぁに、…あなた?」
それは、当たり前と呼べる事。