エピローグ  
               ・・・・  
 
「先生、真面目に授業してください」  
日塔奈美は手を上げて立ち上がりながら言う。五月一日の一時限目の国語の授業。  
2-へ担任教師、糸色望は、五月病が五月だけではなく、一年中社会を蝕んでいるのがどうたらこうたらと言い出すと、  
あげくの果てに慣れた手つきで鞄からするするとロープを引っ張り出し、  
さっさと教室で首を吊ってしまったのだ。  
「私達には卒業まで教育を受ける権利があります。勝手に死ぬことは許されません。訴えますよ!」  
木村カエラが独特の鼻にかかった、甲高い声で叫ぶ。  
もちろん女子高生としてはとんでもない発言だが周囲の生徒には慣れたもので、  
当然といった顔で様子を眺めたり、机の上に問題集を広げたり、  
携帯ゲーム機をこっそり鞄から取り出したり、Gペンとトーンを出して同人誌の校正を始めたりと  
それぞれ気ままに時間をやり過ごす。  
「絶望した!自分の命さえ自由にならない社会に絶望した!!」  
「あーあ、また始まった…」  
奈美はあきれた顔をして口をはさむのを諦めて、音無芽留は『死ぬならさっさと死ね糞教師』とメールを送り、  
関内マリア太郎は首を吊っている望に飛びつき、ぶらさがる。  
二倍の体重が掛かったロープは、強烈に望の首を絞めつけるが、二秒ほどでぷつんと千切れてしまう。  
マリアは器用にバランスを取って着地したが、望は目をくるくると回しながらどすんと落っこちる。  
「先生、大丈夫カ?」  
屈託なく笑いながらマリアは望に声をかける。  
「げ、げほ……っだ、大丈夫なわけないでしょう!ほんとに死んだらどうするんですか!」  
望はほとんどお決まりの台詞を叫んでから、  
すぐにはっと気づいて頬を赤く染め、こほんと咳を一つはさんだと思うと  
自習です、とそそくさに告げて、逃げるように職員室へ踵を返す。  
が、教室の扉に手をかけた瞬間、望の袖をがっちりとつかむ者が一人。  
「勝手に授業を終了するのは許されません、きっちり最後まで授業してください」  
 
木津千里は、にっこりと笑いながら死にたがりの担任教師を力ずくで教壇まで引きずり戻す。  
 
               ・・・・  
 
 
               ・・・・  
 
 
 
木津千里は考える。  
 
 
――――――― −−-   
あれ、私何をしているんだろう…  
目をつむってるんだから、寝てたのかな…  
ここはどこ?鳥の鳴き声がする、朝…  
目を瞑っているのにまぶしい、カーテンがあいているの?  
何がなんだか分からない、とりあえず起きなきゃ…  
――――――― −−-   
 
 
まどろむ意識の中私は目覚めて、体を起こす。  
そして見たことのない部屋が目に飛び込んできた。  
木目がそのまま表面に出ていて、出来てからだいぶ経っているような古ぼかしい濃い茶色の壁。  
ロッジという言葉がぴったりの簡素な作り、木の丸太を利用したテーブルといすが真ん中にあって、  
今私の寝ているベッドは正方形の部屋の、丁度隅に置かれているようだ。  
長方形のベッドの長い辺が面している壁に40cm四方の窓がついていて、ブラインドは上げられている。  
思わず窓の外を見ると、そこは…なんともいえないけれど、とにかく山の中なのか、  
木々が鬱蒼と茂っていた。ただ日光は入ってきているので、おそらくこの部屋に日照が入る程度だけは  
伐採しておかれているのかもしれない。  
 
 
知らない場所で突然目覚めた私は、パニックに陥っても当然なはずなのに、  
なぜか冷静なままだった。  
夢の中ではどんな不思議なことがあっても、それが当然で、昔から当たり前にそうだったみたいな  
気がすることがよくあるけれど、その感じに似ている…  
ヘンなのは分かるけれど、なんとなくこの状況を冷静に見ることが出来る。  
 
 
私は木津千里で、朝起きたら知らないロッジらしき小屋の中。  
どうしてここにやってきたのかも覚えていない。  
そういえば、昨日何をしたのか、どこで眠りについたのかも分からない。  
もしかしたら自分の意思でここまできたのかもしれない。  
私の中の情報はそれだけだった。  
 
部屋は綺麗に片付いていて、私の制服がハンガーにかけられて壁につるされている。  
私は寝巻き姿の自分を、小屋備え付けらしい鏡で確認した。  
これは…家で使っていた、私のパジャマだ。  
すると誰かが、私が寝ている、もしくは私を寝かせてしまった隙に、  
一気によっこらせっと運んできたのか。  
でもそれならせめて昨日、私が寝るまでのことくらい、私は覚えていても良さそうなのに。  
 
 
 
ああ、まどろっこしいわね…  
 
 
私は学校に毎日行っていた。そこに揺るぎはない。  
糸色先生はじめみんなのこともはっきり覚えているし、どんなことをしていたのかも思い出せる。  
先生のことを何度か埋めたり、きっちり責任をとってくださいと迫ったり、  
最低文化的な文化祭の準備をしたり…  
…どれを今思い返しても、輝いていて、楽しかった日々。  
でもそれらは私の頭の中で全く整理されていなくて、どの記憶が最近のことなのか、  
昔のことなのか、区別がつかない。みんな遥か遠くで霞んでしまっている。  
数ある日々の記憶の中で、どれが昨日の私なのかが分からない。  
 
私はたぶん、昨日という付箋紙のついた、真新しいはずの記憶の欠片を  
見つけることが出来ないのだ。  
一つのピースを失ったパズルを、いつまでも完成させることはできないのに似ている。  
 
               ・・・・  
 

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