例えば、祝日や開校記念日で休校なのをすっかり忘れたまま登校したとか。  
例えば、台風による暴風雨の中を必死で登校したのに学校に着いてから『今日は休校』と言われたとか。  
例えば、長期休み中の補習を受けるのが自分だけだったとか。  
そんなことでもないとなかなかいる機会なんてないのではないだろうか、無人の教室というのは。  
「ふふっ」  
可符香は机に頬杖をついたまま声を上げて笑った。いつも微笑みを浮かべている彼女だが、今日は  
たとえ自分がこの場で泣き叫んだり、怒鳴り散らしたところで誰にも見られやしないのだ。  
別に泣きたくも怒りたくもないが、そんなことを考えると可笑しくなる。  
2のへ組の教室の中には可符香1人で、他のクラスメイト達ははしかによる学級閉鎖で休みである。  
もっとも、クラスの女子のほとんどは宿直室――つまり、担任である糸色望のところに出向いているはずで、  
まあ、自分の想像通りというか、計画通りというか。  
千里やまといや霧はもちろん、あびるに奈美に真夜に楓、某国のハニトラ娘にまで  
もみくちゃにされているであろう担任教師を想像して、再び笑う。  
きっと今頃、生徒たちのバトルの真っ只中でまた『絶望した!』とでも叫んでいるに違いない。  
本当にいじりがいのある人だ。  
そんなことを考えていると、廊下をぺたぺたと足音が近付いてくるのに気がつく。  
さっき様子を見に来た智恵先生がまたやって来たのだろうか、そう思いながら体をひねって  
入り口のドアを見つめると、足音はこの教室の前で立ち止まり、ガラガラと戸が開けられた。  
「あ――」  
「おや、風浦さん」  
ひょっこりと顔を覗かせたのは、ついさっきまで想像していた担任教師だった。そのまま教室に入ってくると  
後ろ手に戸を閉めながら尋ねてくる。  
「どうしました?学級閉鎖しているんですからこんな所にいなくてもいいんですよ?」  
「知ってますよ。先生こそどうしたんですか?」  
「いえまあ、何と言いますか……宿直室に居づらい雰囲気なんですよね、ちょっと……」  
呟いて大きくため息をつく望。どうやらほぼ彼女の想像通りの状況らしい。ニャマリと微笑んで口元に手を当てる。  
「先生は凄いんですね。はしかにかかった皆の看病をしてあげるなんて素晴らしいじゃないですか。教師の鑑ですよ」  
だが、からかうような可符香の口調に望は半目になって疲れたように肩を落とす。  
「何をおっしゃるんですか。感染源のくせに」  
「感染源?」  
何のことですか?とすっとぼけて見せると、望はごそごそと懐を探って手紙を取り出した。  
ある意味全ての元凶となった、1年生の女子からもらった『好きです』という手紙。  
――もちろん、可符香にはよーく見覚えがある。  
「あら、もらったラブレターを持ち歩いてるなんて、先生見かけによらずロマンチストですね」  
「風浦さん」  
彼は自分の座っている机の正面に立つと、その上にすっと手紙を置いた。  
「これ、貴女が書いたんですよね――って言いますか貴女でしょう、あの下級生」  
 
 
一瞬、教室内を完全な沈黙が支配する。  
可符香は口の両端を吊り上げ、意識して最上級の笑顔を作り上げながら斜め45度に首を傾げて見せた。  
「あら、ばれちゃいました?」  
「まあ、あの時すぐに気付かなかったのは不覚ですけれども」  
「あはは」  
言いながら頭をかく担任教師を見上げ、とりあえず笑い声など上げておく。  
「どこで気付きました?今後の参考に教えて下さい」  
「今後って、止めて下さい」  
悪戯っぽく言うと、望はげんなりと言いながら再び手紙を手に取った。  
「どこでも何も、文章にご丁寧にたぬきのしっぽなんて付けてあるじゃないですか」  
「ポロロッカ星では一般的ですよ、それ」  
「ポロロッカな時点で既に、貴女です」  
「あはは」  
再び笑ってみせると、それに被さるように望のため息。  
「何がしたかったんですか、貴女は」  
「何がって、何ですか?」  
困ったような担任を見上げながら尋ねる。そろそろ首が疲れてきた。先生もずーっと立ちっぱなしではなくて  
座ればいいのに、と思う。  
「わざわざ変装までして、私にラブレターなんて出して。何がしたいのか全く分からないじゃないですか」  
手紙を片手でぴこぴこと振りながら、望。何となくだろうか、その手紙をぼんやりと見つめている。  
「だって」  
すっと顔から力が抜けるのが分かる。手紙を見つめる彼の顔を見つめながら、はっきりと答えた。  
 
「だって、私が私のまま『好きです』って言っても、先生は信じてくれないじゃないですか」  
 
望がこちらに向き直ったのが分かった。でも、もう可符香は手紙を見つめている。  
「……ふうr」  
「それに私がそんなこと言ったら、千里ちゃんとかまといちゃんにいろいろされちゃいますよぉ。  
 先生は大人気でライバルもいっぱいなんですから、オンエアされてないだけでいろいろあるんですよ?」  
彼の言葉を遮って、いつもと変わらない口調で続ける可符香。横目でちらりと教室の入り口を見て  
再びニャマリと笑う。  
「先生だっていつももみくちゃにされてるんだから分かるんじゃないですか?  
 まあ、先生がもみくちゃになってるのは見てて楽しいですけどね」  
改めて望を見ながらあっけらかんと言うと、呆然とこちらを見つめていた望の顔がさっと強張った。  
 
「あああっ!やっぱり貴女、私で遊んでいるんですね!」  
「嫌だなぁ、先生で遊べるわけないじゃないですか。これは単なる暇潰しですよ」  
「余計悪いです!絶望した!こんなところにも用意されていた二段底に絶望したあーっ!!」  
仰け反って叫ぶ彼――の手首に、しゅるるるるっ!とすさまじい速さで何かが巻きついた。  
「ひっ!?」  
「あら」  
引き攣ったような声と呑気な声が綺麗にハモる2のへ教室。その室内を、入り口のところから覗き込む女子――数名。  
「先生、つかまえた」  
望の手首に巻きつけた包帯の片方をしっかりと握り締めたまま、嬉しそうに言うあびるに  
望が青ざめた顔を向ける。  
「ええと……どうして私がここにいると……?」  
「それぐらい分かりますよ、先生の叫び声、廊下まではっきり聞こえますもん」  
あっさり答える奈美の横でうんうんと頷く真夜。何に使うのか(大体想像はつくが)金属バットをしっかり握り締めている。  
「さ、先生、戻りましょう。まだ私達のはしか、治ってないんですから」  
望の背後にぴたりとつきながら、まとい。一足早く望近くのポジションを確保した彼女と他の女子の間で  
バチバチと火花が散る。着物の袂の中できらりと銀色の刃が光ったように見えた。  
「そうですよ先生!きっちり療養しないと治るはしかも治りません!早く行きますよ!」  
高らかに宣言して、『E:きっちりすこっふ゜』状態の千里がぐいっと包帯に拘束された方とは反対の腕を掴んだ。  
あびると千里、2人に強引に引っ張られて望がよろける。  
「わ、分かりました!分かりましたから自分で歩けますよ!」  
「先生、はしかの看病頑張って下さいね」  
にこにこ笑いながら手を振ると、彼が恨みがましい目でこちらを見た。が、ここで堂々とネタばらしする気はないらしい。  
彼なりに自分を庇おうというつもりだろうかと思うと微笑ましい。そんな心配をしなくても  
ばれたらばれたで、その場を切り抜ける手段などいくらでも持っていると言うのに。  
「可符香さんはどうして教室にいるの?」  
千里が望の腕を引っ張りながら尋ねてきたので、とりあえず何時も通りの笑顔を浮かべて両手を組む。  
「毎日決まった時間にここから呼びかけを行わないといけないんだよ。途中で交信をやめちゃったら  
 宇宙人が不審がって接近を諦めてしまうかもしれないもの」  
「……あ、そう。」  
怪訝そうに眉をひそめながらも、一応は納得したらしい。他の女子は最初からこちらに興味がないらしく  
完全にスルーだ。彼女たちの中では自分は『安牌』なのだろう。  
「先生、早く宿直室に帰ってテールスープでも食べて、体を温めましょう」  
「体を温めるんでしたら、私と体を寄せ合うのが一番宜しいかと思います、先生」  
「どうでもいいからとりあえず帰ってコタツに入りましょうよー、寒いんですよ」  
『……普通』  
「わざわざハモらせてまで普通って言うなぁ!」  
「皆様、大和撫子たるもの殿方の前ではしたなくお騒ぎになってはいけません」  
「ああもう、分かりましたから。帰ればいいんでしょう帰れば……」  
 
きゃあきゃあと大騒ぎをしながら、一団が教室から出て行くのを「お大事に〜」などと言いながら  
手を振って見送る。最後に千里がひょい、と入り口から顔を覗かせた。  
「可符香さんも早く帰った方がいいわ。学級閉鎖のときはきっちり自宅で休むのが一番よ。」  
「うん、ありがと、千里ちゃん」  
自分はきっちり自宅で休もうとはしないという辺りが微妙に矛盾しているとは思うものの、こちらを  
気遣ってくれる言葉は温かい。  
ひらひらと手を振ってから長い髪をなびかせて千里が行ってしまうと、再び教室には可符香1人となった。  
「ふふっ」  
あの調子ではまだまだ一騒ぎも二騒ぎもありそうだ。ああ、面白そう。  
自分は何をするべきか――そう考えてすぐに結論を出すと、よしっと呟きながら立ち上がる。  
 
「先生、駄目ですね。手紙を読まないと気付かないなんて」  
今日ははしかで学級閉鎖。生徒が教師を好きになってしまう、とってもありがちなはしか。  
でも先生だって、『時々手料理を分けてくれるお隣りさんを好きになる』っていう  
ラヴコメ漫画では鉄板クラスのはしかにかかってるじゃないですか。  
さあ、冷蔵庫の中には何があったっけ?ジャガイモはこの間一袋まとめて買ったし、ニンジンもあったはず。  
お肉を買って肉じゃがにでもしようかな。  
――手料理片手に宿直室を訪問する、元隣りの女子大生。ああ、今からクラスメイト達の反応が楽しみで堪らない。  
――先生は、どんな顔で女子大生を迎えてくれるんだろう?  
「待っててくださいね、先生」  
彼の慌てつつも嬉しそうな、自分だけが知っている、けれども決して『風浦可符香』には見られない表情を思い浮かべて。  
教室から飛び出しながら、誰も見ていないと言うのに泣くでも怒るでもなく、可符香は口の両端だけを吊り上げて――笑った。  
 
 
嫌だなぁ、これは単なる暇潰しですよ。  
先生が、自分が誰を好きになったのか気付くまでの、長い――永い、暇潰しですよ。  
 

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