確かに、受験の季節はゲン担ぎの季節でもある―――が。  
 
―――いくらなんでも、これはないよなぁ…。  
奈美は、ヒゲを伸ばしすぎた一旧や全身黒尽くめの景を見て、  
ははは、と乾いた笑いを立てた。  
 
なにやら黒いクラゲのようなものを楽しげに振り回す景に  
「景先生は、ゲン担ぎ以前の問題ような気がする…。」  
と呟くと、隣に立っていた望が同意とばかりに頷いた。  
「そうですねぇ…景兄さんの感覚は、我々常人には理解不能ですよ。」  
 
―――常人。  
奈美の耳が、ピクリと動いた。  
今、望は自らを指して「常人」と言わなかったか。  
いつも奈美のことを「普通」「人並み」と馬鹿にする担任が、  
景に対しては、自分を普通の人間だと認めたのである。  
 
―――て、ことは。  
奈美の頭の中で、チャカチャカと論理が組み立てられていく。  
 
―――景先生みたいになれば、先生から「普通」って言われなくてすむんだ!  
どこをどう飛躍したのか、奈美の頭はそういう結論をはじき出した。  
 
奈美は両手をぐっと握り締めると、声を張り上げた。  
「景先生!」  
奈美の呼びかけに、「黒いモノ」を一旧の頭の上に乗せていた景が振り返る。  
 
「景先生、私を景先生の弟子にして下さい!」  
「な…っ!」  
景の前に両手を付く奈美に、望が驚いたように目を見張った。  
 
「ななな何を考えてるんですか、あなた、日塔さん!  
 景兄さんの弟子なんて、人並みなあなたに、務まるはずないでしょう!」  
相変わらずの望の「普通」扱いに、奈美はカチンときた。  
「これは、私と景先生の問題です!先生は黙っててください!」  
 
奈美は必死だった。  
これ以上、望に「普通」扱いされるのはどうしても嫌だった。  
 
いつにない頑なな奈美の態度に、望はむっとした顔で口を閉じると  
景の方を不機嫌そうに見やった。  
「景兄さんも、こんな馬鹿げた話に付き合わないでくださいよ。」  
 
景は、望と奈美のやり取りの間、顎に手を当てて2人を見ていたが  
望の言葉に、ふむ、と楽しげな表情になった。  
「いや、この娘の根性、気に入った。よし、弟子入りを許そう!」  
「あ、ありがとうございます!」  
「ちょ、ちょっと、景兄さん!!」  
 
焦ったような声を出す望を無視して、景は奈美に向き直った。  
「しかし、私の修行は厳しいぞ。  
 芸術を心から理解するためには、全てを投げ打つ覚悟が必要だ。」  
「はいっ!覚悟はできてます!」  
「よろしい、だったら今日から、うちに来なさい。」  
「…へ?」  
「弟子といったら、住み込みが基本だろう?」  
景はそう言ってカラカラと笑った。  
 
望が悲鳴のような声を上げた。  
「兄さん、許されませんよ、若い女性がそんな、住み込みなんて…!」  
「なんだ望。さっきから、やけに絡むな。この娘に気でもあるのか?」  
 
景の言葉に、奈美の心臓がどきんと跳ねた。  
 
しかし、望は、真っ赤な顔で憤然と景に食ってかかった。  
「ば、馬鹿な、そんなはず、あるわけないでしょうがぁぁぁぁあ!!  
 私は、その、ええと、ですから、そう、担任教師としてですねっ!  
 生徒の生活に問題があれば責任を問われる立場にあってですね!!」  
 
―――そんなに、思い切り否定しなくったって…。  
奈美は、がっくりと肩を落とした。  
 
―――結局、先生が心配してるのは、自分の立場だけなんだ…。  
 
奈美は、きり、と唇を噛むと、望に向き直った。  
「―――心配しないで下さい、先生。  
 先生の立場を悪くするようなことはしませんから。」  
 
景が、奈美の後ろに立った。  
「そうそう、大事な弟子だからな、無理はさせんよ。」  
そう言いながら、奈美の両肩に手を置く。  
「――!」  
望の表情が強張った。  
 
奈美は、肩に置かれた手に戸惑いながら、景を振り仰いだ。  
景は奈美に向かって、にっこり笑って見せた。  
その邪気のない笑顔に、我知らず、奈美は頬が熱くなった。  
 
「―――分かりました、いいでしょう。  
 日塔さんがそこまで言うなら私の出る幕はありません。」  
 
いつにない低い声音に、奈美が望に目を戻すと、  
望は、この上なく冷ややかな目で、こちらを見ていた。  
 
「私もこれから職員会議がありますし、色々と忙しい身ですので、  
 これ以上ここで押し問答しているわけにも行きません。  
 ―――失礼します。」  
そう言うと、望はくるりと踵を返して教室を出て行った。  
 
―――先生…なんで…?  
 
奈美は、しばらく望が出て行った教室のドアを見つめていた。  
じわりと目に涙がにじんでくる。  
 
「…先生…私のこと、そんなに信用できないのかな…。」  
呟く奈美の頭を、景がぽんぽんと軽く叩いた。  
 
「気にするな。あいつのヒステリーはいつものことだ。」  
さ、行くぞ、と言いながら先に立って歩き始めた景の後姿に、  
奈美は気を取り直すと、後を追いかけた。  
 
 
 
 
景の家は、雑然としていた。  
日常生活に使う様々な物が散らばっている中に  
描きかけのキャンバスや彫りかけの仏像などが無造作に置いてある。  
 
景は、床に散らばっているものを脇に寄せ、どうにか空間を作ると、  
覚束なげに部屋の中を見回している奈美を振り返った。  
「さて、改めて聞くが、君は私から何を学びたいのかね?」  
 
改めて聞かれ、奈美は口ごもった。  
「いえ…あの…私、いつもいつも普通って言われてて、それが嫌で…。  
 景先生のように普通じゃない人になりたい、って思って…。」  
聞きようによっては随分失礼な話であるが、  
景は特に気分を害した様子もなく、顎をぽりぽりと掻いた。  
「ふむ。普通のどこが嫌なんだ?」  
「え…どこって…。」  
 
奈美は言葉に詰まり、黙考した。  
―――普通、と言われて一番嫌なのは…。  
 
「私…先生に、普通、って言われるのが嫌なんです。  
 先生、いつも私のこと普通だ、人並みだって馬鹿にして…。  
 普通じゃなくなって、先生を見返してやりたいな…って…。」  
 
言いながら景を見上げると、景は、穏やかな笑みを浮かべていた。  
眼鏡の奥の深い色を湛えたその目は、全てを見透かしているようで  
奈美は何となく落ち着かない気持ちになってきた。  
 
「あの…。」  
「望の奴…とんだ意地っ張りの贅沢ものだな…。」  
「え…?今なんて…?」  
 
景は、首を振った。  
「いや、こちらのことだ、気にするな。」  
「はぁ…。」  
 
奈美は、いぶかりながら景から目をそらせた。  
そのとき、奥の壁の黒い染みが目に入った。  
 
その染みの話は、以前、可符香から聞いたことがある。  
 
―――これが、噂の「奥さん」…?  
 
奈美の視線を辿って、景が「ああ」と頷いた。  
「女房の由香だ。気立てのいい奴だから君も気に入ると思うぞ。」  
奈美は景を見上げた。  
景の顔は真面目で、冗談を言っているようには見えなかった。  
 
―――け、景先生みたいになるのは…けっこう大変かも…。  
奈美の背中に、たらりと冷たい汗が伝った。  
 
ふいに、景がチラリと窓の外を見て、苦笑した。  
「この期に及んでまだ踏ん切りがつかないのか…困った奴だ。」  
「は…?」  
奈美は、きょとんと景を見上げた。  
 
景は、笑顔になると、奈美を見下ろした。  
「しかたない、ちょいと背中を押してやる必要があるようだ。  
 …しばらくの間、由香には目をつぶっててもらわんとな。」  
「…え?」  
景は混乱顔の奈美を余所に、染みの浮いた奥の壁に絵を立てかけると、  
奈美の前に立ち、その背中に手を当てた。  
 
「え?え?え?…えええええ!?」  
ふわりと視界が反転して、気が付いたら奈美は床に押し倒されていた。  
 
「け、景先生!?何!?何ですか!!??」  
奈美は、半分パニックになっていた。  
「私の弟子になりたいんだろう?  
 だったら、まず意思の疎通を図るためにも親密にならないと。」  
景は奈美を見下ろして、にこやかに語りかけた。  
 
―――い、いや、大丈夫、そんな親密さはいらないから!!  
奈美は叫ぼうとしたが、景の顔が目の前に迫ってきたため、  
喉元で言葉が止まってしまった。  
 
唇に口付けられるのかと思ったが、景は額に軽く唇を寄せただけだった。  
それだけなのに、景の顎鬚が奈美の頬や鼻をなぞるその感覚に、  
奈美の背にぞくりとした痺れが走った。  
 
景の大きな手が奈美の頬をそっとなでる。  
その気持ちよさに、奈美は思わず目を閉じた。  
慈しむようなその手の動きに、  
全てを委ねてしまってもいいような気にもなってくる。  
 
奈美の頬に添えられていた手が離れると、  
その指先がすっと頤から喉、鎖骨へと移動して行った。  
「ん…っ!」  
思わず口から声が漏れ、奈美は赤くなった。  
 
「ほぉ…随分と敏感なようだな。  
 よろしい、鋭敏な感性は、芸術家への第一歩だぞ。」  
そう言いながら、景の指が襟にかかった。  
奈美は一瞬緊張したが、景の指はスカーフの歪みを直しただけで、  
再び鎖骨から頬へと辿って、奈美の耳の内側を軽くなぞった。  
 
その触れるか触れないかの感触に肌が粟立ってくる。  
触られているのは、いずれもどうということもない場所のはずなのに、  
どうしてか、さっきから震えが止まらない。  
 
―――駄目…私が好きなのは先生なのに…駄目って言わなきゃ…。  
これだけで既に潤み始めている自分を感じ、奈美は必死に自分で言い聞かせた。  
 
 
 
 
と、そのとき。  
 
 
 
 
―――ゴツン  
鈍い音がして、奈美の上にいる景が「痛っ!!」と悲鳴を上げた。  
 
―――え?  
奈美が目を上げると、血相を変えた望が、手に仏像を抱えて立っていた。  
 
「な、な、何をやっているんですか、景兄さん、あなたは!!  
 恥を知りなさい、恥を!!!」  
「お前…未完成の作品を手荒に扱うなよ…。」  
痛そうに頭をさすりながら、景は奈美から体を起こし、望を見上げた。  
 
そして、悪戯そうな表情で胡坐をかくと、乱れた髪をかき上げる。  
「お前こそ、何でこんなところにいるんだ?」  
「…っ、たまたま通りかかっただけですよ!」  
「ふーん。今日は職員会議があったんじゃなかったのか?」  
景は、にやにやしながら望を見上げていた。  
 
望がカッと赤くなった。  
「は、早めに終わったんですよっ!」  
「ほ〜ぉ、でも、確か忙しいんだろう?  
 何の用事で通りかかったか知らないが、早く帰ったらどうだ?」  
 
相変わらずにやにや笑いを崩さない景に、望が大声を出した。  
「そうは行くもんですか!  
 景兄さん、今、日塔さんに何をしようとしていたんですか!」  
「何って…お前にどうこう言われるようなこっちゃない。  
 お前が邪魔しなければ、いい感じだったんだがなぁ…。」  
小指で耳をほじりながら嘯く景に、望の顔色が変わった。  
 
奈美は、床に寝転がった姿勢で固まったまま、  
さっきから呆然と2人のやりとりを見ていた。  
何が起きたのか、いまいち把握し切れていない。  
 
―――だいたい、何で先生がここに!?  
 
「…日塔さん…。」  
望が景を睨みつけたままで、奈美に呼びかけた。  
望は、部屋に入ってきてから一度も奈美の方を見ようとしない。  
 
「は、はい!?」  
奈美は慌てて、倒れた際に乱れた制服のスカートを整えると、  
床の上に起き上がった。  
 
「今のことは、あなたも同意の上でのことですか…?」  
望の質問に、奈美は一瞬口ごもった。  
 
同意の上かと言われれば、それは違う。  
しかし、では嫌だったのかと言われればそうでもなく、  
奈美は、そんな自分の感情をうまく言い表せなかった。  
 
奈美の沈黙に、望の顔から徐々に血の気が引いていく。  
 
―――先生…?  
 
そのとき、背後からくつくつと笑い声が聞こえてきて、奈美は振り返った。  
景が、腹を抱え、さもおかしそうに笑っていた。  
「望…望、お前は昔から本っ当に分かりやすい奴だな。」  
「…。」  
望はと見ると、思い切り顔をしかめ、不機嫌そうに顔を背けている。  
 
景が笑いを含んだ声で望に呼びかけた。  
「望、お前、いい加減そろそろ素直になれ。」  
望は、顔を背けたまま答えない。  
 
―――先生達、何の話をしているの…?  
奈美は首を傾げた。  
 
「言えるときに、言うべきことは言うもんだ……さもないと、後悔するぞ。」  
ふいに、低くなった景の声に、奈美は再び景を振り返った。  
景は、立ち上がろうと床に手をついて下を向いていたため、  
その表情は見えなかった。  
 
望を見ると、望も驚いたような顔で景を見ていた。  
 
景は立ち上がると、顔を上げ、2人を見てニカっと笑った。  
「―――ま、あとはお前次第だ…良く考えるんだな、望。」  
そう言うと、鼻歌を歌いながら部屋から出て行った。  
 
 
 
「…。」  
主のいなくなった部屋に沈黙が落ちた。  
 
奈美が、おそるおそる口を開いた。  
「あの…先生…?」  
望はうつむいたまま立ちすくんでいた。  
 
奈美は、一応礼を言うべきなのだろうかと考え、立ち上がりながら  
「さっきは…。」  
と言い掛けると、望が顔を上げた。  
「もう、いいです…。」  
「え…。」  
 
望は、顔を上げて奈美を見た。  
「景兄さんの言うとおりですね…意地を張ってやきもきさせられるのは  
 もうこりごりです。」  
「え?何?意味が分からな…。」  
 
望は、ゆっくりと奈美に歩み寄ると、奈美の顔を覗き込んだ。  
至近距離で見つめられて、奈美はどぎまぎした。  
「あ、の…?」  
「日塔さん。」  
「は、はい?」  
「あなたが好きです。」  
 
 
 
「は?」  
 
 
 
思わず間抜けな声が出た。  
望が、少し不安そうな顔になった。  
「あなたが好きだと言ったのです、日塔さん。」  
 
―――アナタガ好キデス。  
 
ようやく望の言葉の意味が頭に浸透したとたん、  
奈美の頭に血が一気に昇った。  
膝の力が抜けてその場に崩れそうになる。  
 
望が慌てて奈美を支えた。  
「だ、大丈夫ですか、日塔さん!?」  
 
「……あんまり、大丈夫じゃ、ない…。」  
奈美の答えに、望の肩が、がくりと落ちた。  
「…そうですよね…私なんかに好かれても、迷惑ですよね……。」  
情けない顔でぶつぶつと呟く望に、奈美はぎゅっと抱きついた。  
 
「大丈夫じゃないから…もっとしっかり抱きしめてよ、先生…!」  
「…!」  
 
望は奈美の言葉を聞いて固まった。  
「…ひとう、さん…。」  
次の瞬間、奈美は望の腕の中に抱きしめられていた。  
 
望は、奈美の髪に顔を埋めると、ほーーっと深い息をついた。  
「景兄さんにあそこまで押してもらわなければ言えないなんて  
 たいがい自分でも情けないと思いますけど…。  
 私は、日塔さん、あなたがずっと前から好きでした。」  
 
奈美は、言葉で答える替わりに、望に回した腕に力を込めた。  
口を開いたら、泣いてしまいそうだった。  
 
「日塔さん…。」  
望が、奈美の頬にそっと手を添えて、奈美を上向かせた。  
 
―――あ…。  
 
望の唇が、奈美の唇に重なった。  
奈美の頭は真っ白になった。  
 
「ん…。」  
だんだんと深くなる口付けに、奈美は立っているだけで必死だった。  
「ふ…ぁ…!」  
ついに、奈美の口から押さえきれない声が漏れる。  
と、急に、望が顔を上げた。  
 
「…先生…?」  
奈美は、少し息を切らしながら望を見た。  
 
望は、照れたように奈美を見た。  
「いえ…このままだと、自分が止められなくなりそうで…。」  
「え…。」  
奈美は思わず赤くなった。  
 
奈美はそのまましばらくうつむいていたが、やがて顔を上げた。  
「……いいよ、先生だったら…私…。」  
「―――!」  
頬を赤らめて囁く奈美を、望は、一瞬熱い目で見つめたが、  
残念そうに首を振って奈美から体を離した。  
 
「いえ…ここではやめておきましょう。」  
「え…どうして…?」  
肩透かしを食らい少し不満げに見上げる奈美に、望は口を尖らせた。  
「…だって…嫌ですよ。  
 さっき景兄さんがあなたを押し倒した場所で、なんて…。」  
「…は?」  
 
奈美はきょとんとした顔をすると、次の瞬間笑い出した。  
「せ、先生…子供みたい…!」  
「そうは言いますけどね!」  
いいかけて、ふと望は口をつぐんだ。  
 
「…先生?」  
「…あの…さっきのあれは…結局、同意の上じゃなかったんですよね…?」  
おずおずと尋ねる望に、奈美は慌てて答えた。  
「な、そんなわけないじゃないですか!  
 あのときは、余りのことに呆然としてただけですよ!  
 そ、それに、景先生だって、別にそんなヘンなことしてないですよ!!」  
 
安心したような望の顔を見ながら、奈美は、  
先ほど景に押し倒されたとき、一瞬でもこのまま身を委ねてもいいと  
思ってしまったことは、絶対に内緒にしておこうと思った。  
 
「それと…弟子入りはどうするんですか?」  
望の声に、奈美は顔を上げた。  
望は首をかしげて奈美を見ていた。  
 
奈美は、先ほど自分が景に言った言葉を思い返していた。  
 
―――先生に普通って言われるのが嫌なんです。  
 
奈美は首を振った。  
「いいんです…もう、弟子入りはしなくても。」  
 
普通が嫌だったのは、あなたの「特別」になりたかったから。  
だから、もう、修行は必要ない。  
 
望は不可解だというように、しばらく奈美を見ていたが、  
「いずれにしても、ここは出ましょう。  
 景兄さんが戻ってきたら、死ぬほどからかわれるに決まってます。」  
そう言って奈美の手を取った。  
「ん、そうだね…。」  
 
望に手を引かれて、部屋を出て行こうとしたとき、  
奈美は、ふと、絵が立てかけられた奥の壁を振り返った。  
 
―――言えるときに、言うべきことは言うもんだ。  
先ほどの景の言葉が胸に蘇る。  
 
―――…景先生には…言えずに終わった想いがあるんだろうか。  
 
立ち止まった奈美を、望が心配そうに振り返った。  
「日塔さん、どうかしましたか?」  
奈美は首を振った。  
「…ううん、なんでもない…。」  
 
景に、過去、何があったかは知らない。  
しかし、景はきっと、後悔はしていないのだろう。  
奈美は、深い色を湛えた、穏やかな景の目を思い出していた。  
 
―――私も…。  
奈美が望を見上げると、望が、柔らかい笑みを浮かべて見返した。  
 
―――そう、後悔だけはしたくない。  
 
ほんの一瞬だけだったけど、自分は景の弟子だったのだから。  
 
―――だから私も、精一杯正直に、この恋を生きていこう。  
 
「先生…大好き。」  
奈美は、望に向かってにこりと微笑むと、握った手に力を込めた。  
 
 

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