――――――――――今日もまた、夢を見た。――――――――――――  
 
誰もいない、殺風景な薄暗い部屋の中、  
彼は壁に寄りかかって、座っていた。  
ただ、目の前にある壁を見つめているだけしかできない。  
外からは子供たちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。  
自分もその中に入りたかった。  
こんなところでじっと座っているのは嫌だった。  
1人でいるのが寂しかった。  
外の子供たちと一緒に遊びたかった。  
だが、そんなことはできなかった。  
 
なぜなら、彼は人形だったからだ  
人形というものは手足を動かすことができない、  
人形というものは言葉を発することができない。  
しかし、人形は意思をもたないのだから、それは苦にならないはずだ。  
だが、その人形には、おぼろげながらも、意思が存在した。  
そう、人形はもともと、人間だったのである。  
自分でもいつそうなったのか、わからない、  
気がついた時には  
人としての意識をとどめたまま、体は人形になっていたのだ。  
人形になってしまった彼は誰にも気づかれることなく、  
忘れ去られ、薄暗い部屋で、子供たちの声を聞くだけ  
なぜ、こんなことになってしまったのかも、わからずに、  
自分の身におこった不幸を嘆いて、泣きたくても、涙を流すことすらできずにいた  
寂しくて、悲しくて、苦しくて、辛くてどうしようもなかった。  
だが、彼は、薄暗い部屋の中で、誰かが、自分に気付いてくれるのを待つしかなかった。  
自分を孤独のふちから救ってくれる存在を  
自分を人間に戻してくれる存在を、  
ひたすら、待ち続けながら、そこで孤独に耐え続けるしかなかった。  
 
 
夢はそのまま、何の意味もなく終わった。今日で5日目だった。  
今日の夢も昨日までと何も変わらないままだった。  
その夢はおぼろげでありながら、とてもリアルで、とても架空のものとは思えなかった。  
自分は第3者として、人形を外から見ているのか、それとも、自分自身が人形になったのか  
それすら曖昧であったが、この人形の夢は現実世界の誰かの心象を表している気がしてならなかった。  
誰かが私の夢を通して、自分の孤独を訴えているのではないか・・・・・・・・・  
2日、3日・・・と日数が増えれば増えるほど、そんな直感が強くなっていった。  
 
そして、夢を見始めてから、5日目、土曜の朝になって、望はようやく、それが誰なのか、気づいた。  
どうして、今のいままで、気づかなかったのかと、自分の頭の悪さを呪うくらい、身近な存在だった。  
望が目を覚ました直後に、真っ先に目に飛び込んできた光景。  
窓際に座って、外の木にとまるスズメを眺めている少年の寂しそうな背中・・・・・・・  
この宿直室にて、自分と寝食をともにしてきた少年  
 
糸色交・・・・・・・・・・自らの甥  
両親が行方不明になった薄幸の少年  
何かあっても、すぐそばで親が見守ってくれる、何か良いことをしたり、頑張っていることがあれば、褒めてもらえる、  
悪いことをしたら、叱ってくれる、一緒に遊んでくれる、悲しいことがあったら慰めてくれる、  
・・・・・・・・・・そんな当たり前の環境に身をおくことができない少年。  
 
この子は、今、大切な時期にあるというのに、身内である私はこれまで、この子のために何をしてきたのだろう?・・・・・・  
望は自分の、今までの交に対する態度を猛烈に後悔した。  
幸運なことに、小森霧を始めとする、自分のクラスの生徒たちが相手をしてくれるため、そんなに寂しい思いはせずに生活できていた。  
しかし、いくら周りを温かい少年、少女に囲まれていても、やはり両親がいないというのは、幼年期の少年の心に大きな穴を残すだろう・・・・・  
 
それに加え、自分は、この子に、同年代の子供と遊ぶ機会すら、今まで与えてこなかった。幼稚園にいれることすら考えなかった。  
遊び盛りのこの時期に、誰彼構わず知り合った仲間と時間を忘れて、日が暮れるまで、  
屋外で遊び回ることは後の人生において、これ以上ないくらい幸せな思い出になるだろう  
今、遊ばなかったら、いつ遊ぶんだというこの時期に、気を許せる仲間と思いっきり遊ぶことができない・・・・・・  
いや、そもそも、その楽しささえ、この子は知らないのだ。  
それは、どんなに切ないことだろう。  
 
それだけではない・・・・・・・・・自分が交に対して、今までしてきたことなど、本当に何もなかった。  
料理を作ってやることもせず、遊びに連れていってやることも、せいぜい夏休みに市民プールに連れて行くらいの待遇しかしてこなかった  
交と遊んでやることも、話かけることもあまりなかった。いつも自分のことしか頭になく、  
目の前で寂しい思いをしているこの子の心中をその立場にたって、真剣に考ようとしたことなどなかった。  
自分は温かい両親のもとで、何1つ不自由なく育てられた。いつも甘えたいときに甘えられる両親がすぐそこにいた。  
それなのに、こんなに心が弱く育ってしまった。  
しかし、この少年は幼くして、両親と離ればなれになり、見知らぬ土地で暮らしていても、  
決して弱音をはかず、強く生きようとしていた・・・・・・・・  
 
――――――――――――この子には、決して、私のような心の歪んだ、弱い人間になってほしくない  
 
 
今まで、何もしてこなかったことへの償いをしなければ・・・・・・・・・・  
今までのつれない仕打ちの対する、ぬぐいきれない罪悪感が望の決断を早めた。  
躊躇している時間なんてない、時間は待ってくれない。すぐにでも行動を起こさないと、この子の心の穴は広がっていく一方だ。  
 
 
望は、朝食中に交に切り出した。  
 
「交。今日、水族館に行きませんか?」  
 
望の急な切り出しに、交は味噌汁を噴出しそうになった。  
 
「ぶっ・・・・・・・・・・いっ・・・・いきなり何言い出すんだよ?・・・・」  
「せっかくの休みなんです。たまにはいいじゃないですか!・・・・・。」  
「フツー、そういうことって、前の日に言うもんだろ?」  
「ちょっとした気まぐれですよ・・・・・お前も素直に喜びなさい。  
私と一緒なのが嫌なら、クラスのみなさんも呼びますよ・・・・・というか、  
私と交が出掛けると知ったら、『先生だけじゃ心配よ』といって  
何も言わなくても、いつもの面子が集まるでしょうがね・・・・・・・・」  
 
「偉そうに言えることか?」  
 
交の突っこみは流し、望は目を細め、落ち着いた声で、声をかける。  
「水族館、行きたいでしょう?・・・・・・交。」  
 
「う・・・・・・・・・うんっ・・・そりゃ、行きたいさ・・・・」  
 
「いいじゃない、交君、行っておいでよ、水族館。先生がせっかく、連れて行ってくれるんだから・・・・・」  
傍らで一緒に朝食を食べていた霧も交を促してくれた。  
「霧ねーちゃんもそう言ってくれるなら・・・・・よし、わかった、行くよ。」  
「それじゃあ、食べ終わって、仕度をしたら、さっそく出発しましょう。  
すいませんが、小森さん・・・・・なるべく、早めに帰ってきますんで、今日はおるすばんをよろしくお願いします。」  
「うんっ・・・・・じゃあ、3人で仲良く、楽しんできてね!」  
(えっ・・・・・・・・3人?)  
 
「私もいますよ、先生。」  
「つ・・・・・・・常月さんっ・・・・・・居たんですか?」  
「ええ、ずっと」  
 
霧とまといは視線があうと、少し、敵対意識を散らしながらも軽く会釈をした。  
「・・・・・・・・・・・・・・っっ」  
望は心を痛めた。1人、宿直室で引きこもるこの少女にとって、交は唯一の話相手なのだ、  
交を連れ出すというのは、この少女を孤独にするということ。  
 
(すいません。小森さん、あなたの籠もりぐせもきっと、私が直してみせます。  
そして、いつか交と常月さんと4人で外へ出掛けられるようにしましょう。)  
望は心の中で強く誓った。  
 
「それでは、行って来ます。小森さん。」  
「行ってきます。霧ねーちゃん」  
「行ってきます。」  
望と交とまといは荷物の仕度を済ませ、宿直室を退出した。  
 
 
これから目指す水族館は都内にあり、以前、課外授業でも行ったことのある場所だった。  
3人は電車で目的地へと向かった。  
 
「望・・・・・・・どーいう風の吹き回しだ・・・・・・・?」  
「は・・・・・・・・・・・・・・・っ」  
交はいぶかしげに聞いてくる。  
「いっつも、何事にも消極的なお前が急に、水族館に連れて行ってくれるなんて」  
「気になりますか?・・・・・・・・・」  
望は笑顔で交に返す。  
「気になるよ。俺はお前がどーいう人間か、今まで見てきたからな・・・・。急にこんな  
ことしだすなんて、また誰かに、何か吹き込まれたんだろ。」  
交は『お前の人間性は見透かしてるんだぜ』とでも言いたげな、表情で望に突っかかる。  
 
「ははっ・・・・・・これはまた厳しい意見で・・・・・・・・  
そうですね、あえて言うなら、ちょっと、ここ数日間、ある夢を見たんですよ・・・・・・・」  
「夢・・・・・・・・・・・?」  
「はいっ・・・・・・・・・・とても悲しい夢をね・・・・・・・・・」  
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」  
交は望の今まで、見せたことがないような、物悲しさをふくんだ大人の表情に、しばらく見惚れていた。  
 
電車は目的地に到着した。3人は徒歩で水族館へ向かった。  
「そう言えば、交は以前、カブト虫を飼ってましたね?・・・・あれはどうしたんですか?」  
「ああ・・・・・・・死んじゃったよ・・・・・・・・・校庭に墓をつくって、埋めたよ。」  
「それは残念ですね・・・・・・。悲しかったでしょう。」  
「まあな・・・・・・・・でもペットを飼うって大変だよな・・・・・・。その生き物の命を預かるんだから・・・・・  
生半可な気持ちじゃ、ペットがかわいそうだ・・・・・」  
望はその言葉に衝撃を受けた。  
「交・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」  
 
(・・・・・・・・・・・この子はどこまで、大人びているんだろう・・・・・・・・)  
まだ、小学校にも入っていないうちから、生き物を飼うということがどういうことなのか、理解しているなんて・・・・・・・  
 
「いい子ですね。お前は・・・・・・・・・・・・・・・・・」  
望は交の頭を軽く撫でた。  
「なんだよ、今さら・・・・・・・・・・・あびるねえちゃんの受け売りだよ。これ・・・・・・・」  
 
望はその言葉にはっとして聞き返した。  
 
「・・・・小節さんの・・・・・・・・・・」  
「ああ・・・・・・・・・前、課外授業でペット屋に行ったときに、俺がうさぎを飼いたがってたら、  
あびるねえちゃんが『動物を飼うってことはその動物の命を預かるっていうことなんだよ、  
交君自身が飼われるうさぎの気持ちになって、真剣に考えて決めなきゃだめだよ』ってね・・・・・・・  
それと、死んだときにすっごい悲しい思いをしなきゃだから覚悟しておけって。」  
 
(なんと・・・・・・・・うちのクラスの生徒たちは本当に、この子の親代わりになってくれていたのですね・・・・・・・・)  
 
望は心の底から、感心した。  
コミュニティが発達している町で、両親が忙しくて家にいてあげられる時間が少ない子供を、近所にすむ大人が協力して、教育するように  
2のへの生徒たちが、この子に人としてあるべきものの考え方を親身になって教えてくれていたのだ。  
 
(本来は保護者である私がそういう教育をしなければいけないというのに・・・・・・・自分が情けない。)  
生徒たちのことを誇りに思う反面、望は自分のふがいなさを再度恥じた。  
 
「で・・・・それで、交君はペットを飼う気はもうないの?」  
後ろを歩いていたまといが交に問いかける。  
「ああ・・・・・・・やっぱり、ペットを飼うのは大変だし、死んだら悲しいし・・・・・。  
それに俺には、遊んでくれる姉ちゃんたちや兄ちゃんたちがいるから、ペットなんか飼わなくても、十分楽しいし、寂しくもないよ・・」  
「交・・・・・・・・・・・。」  
 
その言葉に、望は心から安堵して、優しそうな笑顔でまた交の頭をくしゃくしゃと撫でた。  
「な・・・・・・・なんだよ、さっきから・・・・」  
「・・・・・・・・そう思っているんだったら、何よりです。・・・さあ、今日は3人で魚をいっぱい見ましょう。」  
 
(先生のこんな笑顔、初めて見る・・・・・・・・今日の先生は朝から、いつもと全然違う・・・・・・  
すごく優しくて、一緒にいると安心できる。)  
まといは朝から感じていた望の変化を、今1度しんみりとかみしめた。  
「そうですね・・・・・・・交君、思いっきり、楽しみましょう!」  
せっかく、望が大人らしい態度を見せているのだ、自分もそれに追随しようとまといが後押しをする。  
「・・・・・・・・・・・・・?・・・・・あっ・・・・・ああ、そうだな。」  
 
交は望のものとは思えない言動の連続に、怖れに似たものを感じながらも、子供らしく素直に、その言葉に従うことにした。  
 
3人は水族館に到着した。  
望は交の分だけでなく、まといの分もチケット代を払った。  
「先生・・・・・そんな、申し訳ないですよ・・・私が勝手に付いてきただけなんですから」  
「いえ・・・・・・今日は私に出させて下さい。あなたも交につきそってくれているんですから。男1人じゃ、交も楽しくないでしょうし  
まあ・・・・この後、いつものようにクラスのみなさんが大勢で来られたら、さすがに自分で払ってもらいますけどね・・  
これはあなたと私だけの秘密です。」  
まといは申し訳ないと思いつつも、その望の言葉の響きに心ときめかせ、甘えることにした。  
いつもの望なら、絶対言わないであろうであろう甘い台詞だった。  
交やクラスの生徒に対する自責の念が望の考え方を改めていた。  
 
この日の水族館は前回、平日の放課後に来たときに比べ、当然、人は増えていたが、それでも落ち着いて見られるゆとりは十分あった。  
(人はそんなに多くないですが、決して交を見失わないようにしなければ・・・・・・・)  
夏休みにプールに交を連れて行ったとき、交から目を離してしまって、千里から注意を受けたことを思い出し、望は警戒を強める。  
入り口に1番、近いスペースには  
うつぼやカニなど普段、あまり見ることがない生物が比較的せまい水槽で飼育されているコーナーがあった。  
 
「んん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」  
目の前のうつぼの水槽を見ようとする交。だが、身長が今1つ足らず、精一杯背伸びをする。  
それを見て、望は交の脇下に手を添え、抱き上げる。  
「わっ・・・・・・こら、何しやがる。」  
「こうすれば、よく見えるでしょう。」  
「恥ずかしいだろう。」  
「少しも恥ずかしくありませんよ・・・今のうちによく見なさい。私の非力な腕が疲れる前に」  
「っ・・・・・・・・・・」  
交はしぶしぶ望の好意に甘えることにした。  
 
「1ヵ所に固まっててキモチ悪いな・・・・・ヘビみたいだ」  
「うつぼは夜行性ですからね・・・・・・今は寝ているんですよ。」  
「水族館は昼間しかやってないのに、夜寝てたら、意味ねーだろ。」  
「人間の都合に生き物は合わせてくれませんよ、交もさっき、言ってたでしょ、生き物を飼うってことは命を預かるってことだって・・・・・・  
生き物は人間のおもちゃじゃありませんからね。夜行性の魚は水族館に結構いますよ。」  
「ま・・・・・まあ、そうだな。」  
「うつぼは凶暴な魚ですよ。鋭い歯をもってますからね、気をつけるんですよ。タコとかをバリバリ食うそうですよ。」  
「気をつけるったって、漁師じゃねえんだから、普段、接する機会ないだろ」  
「ははっ・・・・・確かに、その通りですね。」  
望は説明が書いてある手元の板を見ながら、交が少しでも面白くなるようにと、その場しのぎの解説をいれる。  
 
(そう言えば、今まで世間を皮肉ったような知識を教えるだけで、  
こんな風に、子供が喜びそうなまともな知識を教えたことすらなかったですね・・・・・・・)  
望は交のことをよく見て、親密に接すれば、接するほど、自分の今までのそっけない態度を深く認識するようになっていた。  
 
「もう、いいよ、降ろしてくれ。」  
「はい。はい。」  
交は次の水槽へ向かう、今度はカニの水槽だ。望はまた同じように交を抱きかかえて、つたない説明を試みる。  
「これはサワガニですね。日本にしか分布しない種類です。  
きれいな川にしか、住まないので、川の水がきれいかどうかを判断する指標になっているそうですよ  
これも夜行性ですが、雨の日は昼間でも活動するようです。」  
「夜行性ってことは、夜でもよく目が見えるのか?」  
「っ・・・・・・・それは・・・・・・・すいません。勉強不足です。」  
「お前は理科の教員じゃないから、期待してないよ・・・・・・気にするな。恥じることはないよ。」  
「め・・・・・・・・面目ありません。」  
交の、年齢にそぐわない、ませたなぐさめの言葉を受け、望はへこんだ。  
 
(こういう時にちゃんと答えられれば、株も少しは上昇するんですがね・・・・・・・・・・・・  
―――――――――――――――って私は別に株をあげたいわけじゃありません!!)  
 
望は頭のなかに浮かんだフレーズを打ち消した。自分はあくまで、今まで、交に何もしてこなかったことへの償いがしたい、  
大切な幼児期に、両親と一緒にいられない、この子に、人並みの思い出をつくってあげたい・・・・・  
ただそれだけなのだ。決して、自分の好感度をあげようとか、そんなことを考えているわけじゃない・・・・・・  
むしろ今の今まで、交の立場にたってその心のありどころを察してやるもできず、  
何もしてあげられなかった自分の評価など、もう堕ちるところまで堕ちている。  
だから、せめて、自分が今出来る最大限のことをしてやろうじゃないか・・・・・・・・・  
望の決意はさらに固まった。  
 
しばらく、交の背が届かない水槽の前で交を抱き上げ、説明するという一連の動きを続けた。  
最初は恥ずかしがっていた交も、望に抱きかかえるたびに、その腕の力強さに不思議な安心感を覚えるようになった。  
 
(へ組のねえちゃんたちや久藤の兄ちゃんたちに抱かれたときも安心できたけど・・・・・今までとは違う、なんか不思議な気分だ  
望の腕がこんなに頼もしく感じるなんて・・・・・・・・・・・・  
それに・・・・・・・こんなに優しく、望が話してくれるのは初めてだ・・・・・・よくわからないが・・・・・・・・  
まるで・・・・・・・・父ちゃんみたいだ。)  
 
今まで、こんな大人にだけは絶対なりたくないと思ってきた相手・・・・・糸色望という人物  
交はその望に失踪した父親の姿を重ねるまでになった。  
 
水槽は奥に行けば行くほど、大きくなっていき、交の背丈でも十分じっくり観賞できる大きさになった。  
そして、館内で1番大きな水槽にたどりついた。  
 
 
「うわ―――――――――――――――――――――っっっ・・・・」  
 
 
交は目の前、一面に広がる青い風景の中で縦横無尽に泳ぎ回る魚の群れに、目を輝かせて、心の底から感動していた。  
これが人工のものだとわかってはいるものの、生まれて初めて味わう、まるで海中にいるような感覚に  
世界というもの、自然というものがこんなにも美しいものなのか・・・・・・とコペルニクスの地動説が証明された直後の知識人  
のように、世界の見方が180°反転したような衝撃をマジマジと感じていた。  
 
(今日が水族館始めてでしたよね?交・・・・・・・・・・・・・もっと早く、この光景を見せてやればよかったです。)  
交の様子を見た望はやはり後悔していた。  
両親の不在で、心の中にぽっかり穴が空いている少年に、この神秘的な光景、自然の美しさをもっと早く教えてやれば、  
心の穴を埋めることだって可能だったはずだ。  
群れで固まって、敵から身を守りながら泳ぐ魚たち・・・・・・  
生き物は1人じゃ生きられない。他人と関わって、助け合っていかなければならない。  
 
思い返してみれば、幼いころ、傷つくのが恐しくて仕方がなく、他人との関わりを絶とうとしていた心の弱い自分は  
連れてこられた水族館で、この光景を見て、他人と助け合うことの尊さを思い知ったのだ。  
正直な話、この齢になった今でも心の弱さは相変わらずであり、傷つくことも恐くて仕方がないが、  
あの時、感じた助けあうことの大切さ、がむしゃらになって生きようとあがく、生命の尊さへの感動は今でも心の中に強く残っている。  
交にも、もっと早くその感動を味わってもらいたかった。両親以外にも、君のことを愛してくれる人間、  
君のことを思ってくれる人間はたくさんいるぞ・・・・・・と。  
そして、自分もそのうちの1人であると・・・・・・・・・・  
 
「きれいでしょう。・・・・・・・・・・交・・・・・・・・・。」  
「あ・・・・・・・・・・・・・・・ああ!!」  
「ごめんなさい・・・・・・・・・・・もっと、早くこの光景を見せてやるべきでした。」  
望は申し訳なさそうに言う。  
「な・・・・・・・・・何で、誤るんだよ・・・・・・・・・・・今こうやって見れてるんだから、いいだろ。  
やっぱり、今日のお前、変だぞ!」  
「はい・・・・・・・・自分でもわかります。いつもなら絶対こんなこと、言いませんもんね。」  
「なんだ、自覚してるのかよ。」  
「もっと近くで見ませんか?交・・・・・・。」  
「ああ・・・・・・・そうだな。」  
 
感動のあまり、その場を動いていなかった交はガラスに近寄って、泳ぐ魚を間近で見る。  
望も交のそばで、説明版を見ながら、泳いでいるのが、どの魚か、わかる範囲で解説をする。  
 
その仲睦まじい親子のような姿に、望を後ろから見守るまといは、心の中が温かくなるのを感じていた。  
 
(これこそが親子があるべき姿ですよね・・・・・・先生)  
 
(そうだ・・・・・・・・・・・・・・)  
 
望は思い出したように、かばんを開け、中からカメラを取り出すと  
少し、後ろに下がり、魚を眺める交の姿を写真におさめた。  
カシャッ  
 
フラッシュに気付いた交は驚いて抗議する。  
「なっ・・・・・・・・・・・なんだよ!撮るなら撮るって言えよ!」  
「はは・・・・・・・自然な姿が1番いいと思いましてね。  
私たちは魚を見るために水族館に来たのですから、変に形を気取らないほうがいいでしょ。」  
「でも、被写体に断ってから撮るのが礼儀ってもんだろ。」  
 
「ははははは・・・・・・・・・メインは野鳥の撮影でねぇ、断った試しがないんだよ・・・・」  
 
「な――――――――――――っ・・・・・・・・・・そんな、ネタをお前が言うな!!」  
「はははは、すいませんでした、じゃあ、お色直しでもう1回撮りましょう。」  
いつもでは考えられないほどノリノリな望に、ちょっとムッとしながら、交は望の方に向き直った。  
「はいっ、チーズ!」  
カシャッ  
 
「じゃあ、次は常月さんとツーショットで撮りましょう。」  
「えっ・・・・・・・・・・・・」  
まといは名前を呼ばれ、驚く。  
「常月さん・・・・交と一緒に映ってあげてくれませんか?」  
「は・・・・・・はいっ、お安い御用です。」  
まといは交の隣に素早く移動した。  
「じゃあ、2人で手をつないで下さい。」  
望の指示どおり、まといは交の手を握る。  
交は緊張で、少し顔を赤くする。他の女生徒とはよく手をつないだことがあるが、  
いつも、望の後ろについて回る、まといと手をつなぐのは初めてだった。  
「それじゃあ、いきますよ、はい、チーズ、」  
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  
2人はカメラに意識を集中した  
 
しかし、望はシャッターを押すことはなかった。  
 
「どうした・・・・・・早く撮れよ、」  
「・・・・・・・・笑顔がないですね、交くん」  
「はっ・・・・・・・・・・・・・・・?」  
交は望のおちょくったような口調に、あっけにとられる。  
「せっかく、うら若き乙女の魅力にあふれる、美人の常月さんと手までつないでツーショットで映れるんだから、  
笑顔でいきましょうよ、交。」  
 
「『なっ・・・・・・・・・・・・』」  
交とまといが同時に、声をあげる。  
 
(せ・・・・・・・・・先生が私のことを美人って・・・・・・美人って言ってくれた。・・・・・・)  
(そ・・・・・・・そんなこと、言われたら・・・・・意識しちゃうじゃんか・・・・・・)  
まといも交も今までの望であるならば絶対言わなかったであろう、ノリノリ発言に戸惑う  
 
「はは・・・・・それは冗談として、せっかくの楽しい水族館なんだから、笑顔で行きましょうよ、交。」  
望は柔らかい笑顔と落ち着いた口調で、交に諭す。  
「そうよ、交くん、笑顔で映ったほうが、写真全体の雰囲気もよくなるわよ。  
それに笑っていれば、自分も楽しい気分になれるし、見る人もとてもいい気分になれるのよ。」  
まといも交を笑顔にさせようと、優しく声をかける。  
「わ・・・・・・・わかったよ。」  
交は恥ずかしがりながらも、顔にぎこちない笑顔をつくる。  
「顔が引きつってますよ・・・・・もっとリラックス、リラックス!」  
「こ・・・・・・・・これでいいか。」  
交は恥ずかしさをこらえ、自然な笑顔をつくった。  
「よくできました。素敵な笑顔です。それではいきますよ。  
はいっ・・・チーズ」  
カシャッ  
互いに袴を身につけている2人は、さも歳が離れた姉と弟のような様子で、レンズを覗く望の目に映った。  
「はいっ、もう一枚」カシャッ  
「まるで姉弟のようですよ。とてもいい絵が撮れました。おつかれさまでした。」  
 
2枚目を撮り終え、望がカメラをかばんの中にしまおうとするのを見て、まといが待ったをかける。  
 
「まって下さい、今度は先生が一緒に映ってあげて下さい。私が撮りますから。」  
 
望ははっとして、まといを見る。  
「そうですね・・・・・・・・・・  
いや、・・・・私はいいですよ。私は今日の専属カメラマンですから、  
常月さんが映ってくれるだけで、交は幸せですよ・・・・・・・・。」  
望は少し考えたが、自分が映るのを拒否した。  
自分は今まで、交をほったらかしにしていた張本人・・・・・・・・  
自分に交の幼いころの輝かしい思い出の1場面に記憶される資格はない・・・・・・交だって自分と映ってもうれしくないだろう。  
そう考えて、あくまで今日は専属カメラマンに徹しようとした。  
さっきまでのノリノリな様子とはまるで別人の、いつものようなネガティブな様子になる望  
 
「ダメです。・・・・・・・・先生!!、せっかくの水族館なんですから、先生も映らなきゃ、交君、かわいそうじゃないですか!」  
 
まといは叱りつけるように、強い口調で望を諭す。  
「・・・そ・・・・・そうですか・・・・・・・・、わっ・・わかりました。  
じゃあ、よろしくお願いします。常月さん。」  
望は交の隣にしぶしぶ移動する。  
「すいませんね・・・・・・交、私なんかと一緒で、常月さんがあのように言ってくれたんで、・・・・」  
「そ・・・・・・そんなに、卑屈になるなよ・・・・・・・。さっきのノリはどこにいったんだよ・・・・・。」  
交は、望のさっきまでとはうってかわった腰の低い態度に、戸惑った。  
「じゃあ、さっきの私みたいに交君と手をつないで下さい。先生。」  
「いやっ・・・・・・・男同士で手をつなぐのはちょっと、」  
望の言い分も受け、それもそうだな・・・・とまといは考える。  
「じゃあ、交君の後ろで、両肩に手を置いて下さい。」  
「は・・・・・・はあ、まあそれなら、」  
望は交の後ろに回り、両手を交の肩に置く。  
「う〜〜〜〜〜〜ん、背景の魚が見えにくいから、先生、しゃがんでいただけますか」  
「は・・・・・・・はい」  
「それでは、いきます。ほら、2人とも、笑顔、笑顔!!」  
「は・・・・・・・・・はいっ・・・・・・そうですね。」  
「う・・・・・・・うん。」  
望も交も少しぎこちなくなりながらも、自然な笑顔を顔に浮かべた。  
「はい・・・・チーズ。」 カシャッ、  
「もう1枚。」カシャッ  
 
「2人とも、親子みたいです。素敵な写真が撮れました。」  
 
「・・・・・・・・・―――――――――――――――ッッッッッッッ」  
まといのその一言に、望は顔をさ――――っとひきつらせた。  
 
その様子を見て、まといは『しまった』と言わんばかりに口をあけて、固まってしまった。  
しかし、交はまといの一言に意を払うこともない様子で、  
「ありがとな、まといねえちゃん・・・・・・・・・。」  
まといに例を言って、背後の魚を観察する作業に戻った。  
目の前でまといが自分と同じように顔をひきつらせ、固まっていることに気付いた望は、我を取戻し、まといに声をかける。  
 
「常月さん・・・・・・・・どうされました。」  
「・・・・・・・・す・・・・・・・すいません。先生、あんなこと言ってしまって。親子みたいだ・・・・なんて」  
まといは申し訳なさそうに、望に深々と頭を下げる。  
 
「・・・・・・・・・常月さん・・・・・・・・・・気にしないで下さい。交は強い子です。  
親子という単語を聞いただけで、悲しんだりするくらいの弱い精神の持ち主じゃありません。  
それより、写真を撮っていただいて、ありがとうございました。あなたがいてくれて、本当によかった。」  
「いえ・・・・・・そんな、また私に何かできることがあったら、言って下さい。」  
「ありがとうございます。それでは、引き続き、交の話相手になってあげて下さい。」  
「わかりました。」  
 
望とまといは交の横に並び、交互に話かけ、魚の解説をしたりして、交の見識を深めようとした。  
 
 
大きく広がる水槽を見終わった3人は、さらに奥へと進んだ。  
交はウミガメやラッコなど人気の高い生物に遭うたびに、興奮に目を輝かせて、興味深々に見入っていた。  
望が、出発前に買ってきたフィルムのストックが豊富なため、残りのフィルム数を気兼ねすることもなく  
次々と3人で記念撮影を行った。  
やがて、全ての水槽を見終わり、野外へと出た。  
水族館の裏には大きなプールがあり、そこでは、週に4回、イルカショーが催されていた。  
 
「交、午後から、野外プールでイルカショーがあるようです。もうお昼ですし、そこのレストランで昼食を食べて待つことにしましょう。  
常月さんも私がおごりますから、心おきなく注文して下さい。」  
「は・・・・・はい。ありがとうございます。何か、すいません・・・・ホントに」  
プールの隣には、レストランが設けられており、野外のテラスからプールが見渡すことができた。  
3人はレストランの野外にあるテラスの席に腰を落ち着けた。  
交は自分の注文を終え、まといと望が注文を終えるのを見計らって、望に突っかかった。  
 
「おいっ・・・・・・・望、電車の中で言ってたことの続きを聞かせてくれ・・・・・・・お前が言ってた夢ってどんな夢だったんだ。  
その夢のせいで今日のお前はおかしくなったんだろ?」  
 
望は交の強いがっつきに、驚きながらも、落ち着いた様子で言葉を返す。  
「ああ・・・・・・・・・・あの話ですか、なあに、私が勝手にみた下らない夢です。  
忘れて下さい・・・・・・というか私も忘れました。」  
「はぁぁぁぁぁ・・・・・・・・お前も忘れただとぉ?・・・・・お前、さっき悲しい夢を見たって言ったじゃんか  
忘れたのに、なんで悲しいってわかるんだよ」  
交は真面目に答えないと許さないというオーラを漂わせ、望に聞き返す。  
「いや・・・・・・電車に乗ってる時までは覚えていたんですが、水族館まで歩いて、館内で魚を見ていたら忘れてしまいました。」  
「はあ?・・・何だそれ・・・・・・・・」  
交は納得がいかない様子でいぶかしげに望を見据える。  
「まあ、いいじゃないですか。・・・・・・・・せっかく水族館にきたんですから、  
ここにいるうちは、つまらないことは忘れて、楽しいことを考えましょうよ。  
そうだ、交・・・・・・・この前、野球中継をテレビで見てましたが、野球とサッカーどっちが好きですか?」  
「突拍子もなく、急に話題を変えるな・・・・・・・・・・・・そうだな・・・・・・野球かな・・・・・・・・。」  
「それはよかった。私も野球のほうが好きだったんです。じゃあ、プロ野球で好きな球団はどこですか?」  
「う〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん、ヤクルトかな。」  
「これは好都合です。・・・・・・・・神宮球場は都内にありますから、今度試合を見に行きましょう!」  
「そうか・・・・・・ありがとな。望」  
 
「常月さんはどうですか、野球とサッカーだったら、」  
「私もどちらかと言えば、野球の方が好きなんですよ。先生と一緒でうれしいです。・・・好きな球団はありませんけど。」  
「それはよかったです。・・・・・・ちなみに、交、それ以外のスポーツはどうですか?バスケとか、テニスとか・・・・・・・」  
「そうだな、・・・・・・あんまり見たことないから一概に言えないけど、やっぱり見てて、おもしろいのは野球かな・・・・・」  
「そうですね・・・・・・・というか、あんまりテレビ中継しませんもんね。バスケとか、バレーとか」  
まといが相槌をうつ。  
「ところで、自分も野球をプレイしたいと思ったことはありますか?」  
「あるよ・・・・・・・やっぱり、見てるだけじゃもの足りないからな。」  
「じゃあ、交、明日私とキャッチボールしませんか。グラブとボールも宿直室の押入れにそろってますし。」  
「いいですね・・・・・・・キャッチボールは心を通わせるのに、最適ですよ。」  
まといがすかさず、後押しする。  
(―――――まといさん、ありがとうございます。――――――――――)  
まといが会話の潤滑油になってくれていることに望は強く感謝した。  
 
「お前、野球できるのかよ?」  
「残念ながら、本格的な野球経験はありませんが、キャッチボールくらい誰でも出来ますよ。  
まあ、人に教えられるほど、上手くありませんけどね。  
子供のころ、よく暇な時に壁にボールをぶつけて、遊んでましたからね。  
お前が将来野球をやるんだったら、ボールに早く慣れた方がいいですよ。捕りやすいように優しく投げるんで、ぜひやりましょうよ、交。」  
「ああ・・・・・そうだな。やってみるよ。」  
 
(そう言えば、望が本格的に自分と遊んでくれるのは初めてだなぁ・・・・・)  
今朝まで、つまらない人間だと思ってきた望・・・・・・しかし、今日の午前中の言動、昨日までとはまるで別人の様子を見て  
交は望という人物に対して、不思議な興味を抱くようになっていた。  
そして、その興味は、望と一緒に何かをしたいという願望に少しずつ変わっていた。  
 
注文したメニューが運ばれてきた。和服を着た3人は本物の親子のように、仲睦まじく、談笑しながら、食事を楽しんだ。  
 

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