――おおロミオ、ロミオ、どうして貴方はロミオ?  
   お父様と縁を切り、ロミオという名をお捨てになって  
    それが駄目なら、私を愛すると誓言して。そうすれば私もキャピュレットの名を捨てます――  
 
 
可符香がゆっくりと目を開けば、室内には既に西日が差し込んでいた。  
枕元の携帯に手を伸ばし、液晶を見て時刻を確認する。同時に新着メールを示すアイコンに気付き、メールを開いた。  
 
  From:奈美ちゃん  
  Sub :大丈夫?  
  本文:先生に欠席のこと言っといたよ。熱あるの?病院行った?  
     明日には学校に来られるといいね、お大事にね!  
 
うわあメールまで普通、と思わず呟いてくすりと笑う。受信時刻は午前9時ごろになっていた。  
確か、起きてすぐに熱があることに気付いてメールを送って、そのままベッドに横になって寝てしまったんだっけ。  
熱と寝過ぎでぼんやりとした頭で思い出すと、可符香はゆっくりと起き上がった。  
朝は38度も熱があって体を起こしているのも辛かったのだが、こんな時間まで眠って少しはましになったらしい。  
まだふらふらするものの、汗をかいたから着替えたいし、少しでも胃に何か入れないと風邪薬も飲めない。  
一人暮らしはこういう時辛いな――などと不覚にも一瞬考えてしまって、すぐにかぶりを振る。  
嫌だなぁ、辛いことなんかないですよ。家事だって自分のペースでできるし、好きな時にお出かけできるし、  
毎日自分の好きなおかずが食べられるし、素敵なことばっかりじゃないですか。  
そう言い聞かせる。言い聞かせる?誰に?私に?  
素敵なことばっかりなのは分かりきっていることなのに、どうして言い聞かせる必要があるんだろう。  
ふわふわと浮遊しているような感覚に襲われながらも台所へ辿り着くと、冷蔵庫から取り出した牛乳パックを片手に  
ダイニングテーブルについて一息つく。  
グラスになみなみと牛乳を注いで、でもそれに口をつける気にも何となくなれず、真っ白な水面を見ながら  
ぼんやりと考えた。  
もう夕方だから、授業も終わってみんな家に帰ってるころだろう。  
明日学校へ行ったら今日の分のノートを写させてもらわなきゃ。と言ってもどうせいつもみたいに  
大騒ぎしてろくに授業なんかしていないんだろうけど。昨日の授業の続き、どこまで進んだんだろう――  
昨日の、授業。  
 
 
――私の敵と言ってもそれは貴方のお名前だけ。モンタギューの名を捨てても貴方は貴方。  
   モンタギューって何?手でも足でもない、腕でも顔でもない、  
    人間の体の中のどの部分でもない、だから別のお名前に――  
 
 
ずきん、と鈍い痛みを火照る頭の芯に覚えて、顔をしかめる。  
ああ、そうだ。  
さっき眠っていたとき嫌な夢を見ていた感じがするけど、きっと昨日のあの授業のせいだ。  
――昨日の糸色先生の授業で、シェークスピアの作品について勉強した。  
『ロミオとジュリエット』の有名な1シーンを読んでいる途中でいつものように先生が  
『シェークスピアは実に本質をついています!名前なんか変えたところで、所詮その場しのぎで何も変わらないんです!』  
とか言い出して、社会保険庁→日本年金機構とか和菓子→和スイーツとかニート→家事手伝いとか板書きし始めたから  
『そんなことありません、名前が変わったらもうそれは別物です』って私もむきになって、  
――むきになって、むきに、なって?  
どうして、そんなことでむきになったんだろう。先生が突拍子もないことを言い出して絶望するのなんか  
いつものことなのに、何で、そんなことで。  
嫌な夢を、見た。昨日の、あの授業の、せいだ。  
 
――名前なんか変えたところで、所詮その場しのぎで何も変わらないんです!  
 
「嫌だなぁ、名前が変わったらもうそれは別物ですよ」  
寝起きの掠れた声が出た。  
自分しかいないのに、どうしてわざわざ声にする必要があったのか、分からない。  
分からない、分からないはずだ。  
だって自分は『風浦可符香』なのだから。  
夢だって、あれは熱があったから夢見が悪かっただけで、そこに昨日の授業が変な風に働いてしまったからで、  
でも私が『風浦可符香』なら昨日の授業のことなんていつものことで全く関係ないはずで、あれ?  
 
嫌な夢を、見た、  
会社がなくなったと話すお父さん、家に毎日毎日やってくる黒い服の大人達、  
名前が変われば、もうそれは全く違うもののはずで、でも、  
血走った目で訳の分からない言葉を叫ぶお母さん、身長を伸ばそうとして細いロープでぶら下がるお父さん、  
名前なんか変えたところで、  
ただの風邪なのに何回病院へ行っても良くならないおじさんの体、塀の中に閉じ込められて滅多に会えないおじさん、  
所詮その場しのぎで、  
満開の桜の下で殺された私、殺した私、  
 
 
何も、変われないんだとしたら?  
 
 
「いや、だ……」  
いつものように嫌だなぁ、と言おうとしたはずなのに、声は途中で掠れて消える。  
少しずつ薄暗くなっていく台所で、可符香はがんがんと痛む頭を抱えた。  
頭が火照って痛いのに、体は寒い。ひょっとしてまた熱が上がっちゃったのかも知れない。  
そうだ、熱のせいなのだ、こんな風に考えがおかしな方向へ向かうのは。  
何でもいいから何か食べて、薬を飲んで眠らなきゃ、そうすればきっとまた熱も下がるから。  
立ち上がって冷蔵庫まで行って、適当に消化の良さそうな物を探そう――と頭では思うのに、  
体はダイニングテーブルに突っ伏してしまったまま張り付いてしまったように動いてくれない。  
熱くて、寒くて、だるくて、このままここで意識を手放してしまったら楽だろうなぁ、なんて迂闊にも思ってしまう。  
そんなことをしたら明日、今よりももっと悲惨なことになっているだろうに。  
ふらふらを既に通り越してぐらぐらする頭に手を当てながら、大きく息をついてゆっくり立ち上がった時  
ぴーんぽーん、と何とも気の抜けたチャイムの音が響いた。  
はーい、と反射的に応えようとして、息が喉にひっかかってげほげほと咳き込んでしまう。  
パジャマの上にカーティガンだけ羽織り、力の入らない足をのろのろと動かしてふらつきながらも玄関まで辿り着くと  
ドアに寄り掛かるようにして「どなたですか?」とできるだけ普段通りの声で尋ねた。  
「ごめんください、糸色と申しますが」  
予想していなかった声と名前に可符香はきょとんとして、思わず  
「糸色先生?」  
と聞き返してしまう。  
「ええ、そうです……風浦さんですか?」  
「そうです、ちょっと待って下さい、今開けますから」  
チェーンとロックを外してドアを開ければ、そこにはいつも通りの担任教師の姿。  
「こんにちは。お体は大丈夫ですか?」  
「は……」  
はい、大丈夫です――と答えようとして再び咳き込む少女を見下ろして、望が顔をしかめた。  
「あまり大丈夫そうではありませんね。病院へは行かれましたか?」  
「あの……どうしたんですか?先生」  
「どうした……って、私はいたって健康ですが」  
「そうじゃなくて、どうして私の家に?」  
鈍痛の続く頭の重さに耐えかねたように首を傾げて尋ねると、ふっと遠くに視線を送りながら答える。  
「智恵先生に風浦さんが病欠したことをお話したらですね、確か風浦さんは一人暮らしだったはずだと言われまして  
 ちょっと様子を見てきて欲しいと頼まれたんです」  
「ああ、なるほど」  
以前霧の様子を見に行かされた望が『智恵先生、目が怖いんだもん』と愚痴っていたのを思い出して  
思わずくすりと笑ってしまった。と、気を抜いた瞬間にくらりと眩暈にも似た感覚に襲われて  
ふらつく体を何とか立て直す。  
 
「何と言いますか……本当に大丈夫そうではありませんねえ」  
「……嫌だなぁ、朝よりは楽ですよ。さっきまでずーっと寝ていたんですから」  
にっこりと笑って見せるが、望は眉をひそめたまま少し何かを考え込むような表情を見せてから  
がさりと片手に持ったスーパーの袋を持ち上げてみせる。  
「とりあえず、お邪魔しても宜しいですか。レトルトのお粥ですとかヨーグルトですとか適当に持って来ましたから」  
「……それは有難いですけど……」  
一人暮らしの女生徒宅に過程訪問、じゃなかった家庭訪問。いろいろと遊びがいが――もとい、問題があるんじゃないかと思うが  
いつものように望を弄ぶ元気もなく、結局汚い家ですがなどと言いながらすんなりと台所へと通してしまった。  
鍋に湯を沸かしお粥のパックを温める望の後姿をダイニングテーブルに突っ伏しながらぼうっと見ていると  
ふと思い出したように望が振り返る。  
「そうそう、今日の授業のノートのコピーを木津さんからお預かりして来ました。その袋の中に入っていますよ」  
「うわぁ、助かります」  
弱々しいながらも笑みを浮かべると、がさがさと袋の中からきっちり綺麗に折りたたまれた数枚のコピー用紙を取り出した。  
注釈やポイントなど、授業中に板書きされたものをきっちり正確に写し取ったであろう千里の字。  
英語や数学のそれらに交ざって目に飛び込んできた、望の授業のそれ。昨日の、続き。  
 
 
――名前って何?薔薇と呼んでいる花を別の名前にしてみても美しい香りはそのまま。  
   だからロミオというお名前をやめたところで、あの非のうちどころないお姿は呼び名はなくてもそのままのはず――  
 
 
「――風浦さん?」  
がんがんと痛む頭を無理矢理持ち上げれば、きょとんとした表情でこちらを覗き込む望がいる。  
「お粥が温まりましたけど、お茶碗とかれんげとか、そういった一式はどこにあるんです?」  
こっちの気も知らないでいつもと全く同じ口調で話す望に、妙に苛立って、悔しくなって、少しだけ――泣きたくなった。  
一瞬歪んだ口元をぐっと吊り上げて、半ば意地で笑顔を作り上げる。  
「……名前が変わっても、変われませんか?」  
「は?」  
望がぽかんと口を開けて可符香を見つめ返し、視線を可符香の手元のコピーに落として、ああと頷いた。  
「昨日さんざん大騒ぎしたネタですねえ……まあ、名前がちょっと変わったぐらいでいきなり  
 全くの別物になるなんてこと、ありえないでしょう。私だって『希(まれ)さん』の養子になって  
 『希望』になっても絶望的な日々を送るでしょうし」  
最後の方はやや自嘲気味な響きを帯びた彼の声にかぶせるように、あはは、と掠れた声で笑ってやった。  
「嫌だなぁ、爽やかで人気のあるキャラになれるに決まってますよ。  
 『こんにちは 希望先生』とかって小学館辺りで連載されそうじゃないですか」  
「やめて下さい、そんなデトックス漫画誰も喜びません」  
心底嫌そうにうめくと、勝手に食器棚を開けて適当な皿を物色し始める望。  
可符香ははぁ、と息を吐くと自分の頭の重みに耐えかねて再びテーブルに突っ伏した。人間の頭の重さは  
同じサイズのスイカとほぼ同じ。そんな何の役にも立たない雑学を思い出す。  
 
そうだ、昨日さんざん大騒ぎしたネタなんだ。先生が突拍子もないことを言い出して絶望して  
奈美ちゃんやあびるちゃんが突っ込んで、私がむきになって反論して、最後は千里ちゃんが暴れて終わった  
本当にいつも通りのネタなんだ。どうせあと一週間もすれば先生がまた新しいことに絶望しだして  
その頃にはこんなことどうでもよくなっているような、その程度のネタなんだ。  
「ロミオとジュリエット、お嫌いですか」  
カレー用の深皿にお粥を移している望が横目でこちらを見ていた。  
「……なんで、ですか」  
上手く声が出せずに咳払いをしてから尋ねると、右手にれんげを左手に皿を持った望が  
「いえ、昨日から何となくそんな感じはしていたもので」  
としれっと答えてくる。  
「小娘がパーティー会場で会ったちょっとかっこいい男とちゃらちゃら恋愛して、結果いとこが殺されちゃったり、  
 好きな人と一緒にいられないから狂言自殺してみて、結果好きな人が本当に死んじゃったりなんて話ですからね。  
 子供が背伸びして恋愛すると碌なことにならないといういい例です!  
 絶望した!14歳をベッドインさせるシェークスピアに絶望した!!」  
「嫌だなぁ、14歳で初体験なんて、むしろ時代の先取りで今風ですよぉ……」  
言葉こそいつもと変わらないものの、弱々しい口調に望がはぁ、と気の抜けた返事とともに肩を落とし  
「……何と言いますか、貴女が弱々しいとこちらまで気が抜けてしまいますねえ」  
とぶつぶつ言いながら皿とれんげをこちらの前に置いた。そのまま可符香の向かいに腰掛けながらため息をつく。  
食欲なんて全く湧いてこないが一応れんげを手に取って、ふと望を見れば本当に心配そうな顔でこちらを見ていた。  
「何だか風浦さんらしくないと言いますか、いつもの風浦さんと違いますから調子が狂ってしまいますよ」  
 
え?  
あれ?  
 
「……先生」  
「はい?」  
首を傾げる望に、ゆっくりと尋ねる。先程と同じ問い。  
「名前が変わっても、変われませんか?」  
望が顔をしかめて腕を組んだ。訳が分からないとでもいいたげにこちらを見つめてくる。  
「貴女、妙にこのネタにこだわりますね」  
「……あはは」  
「まあ構いませんが、変わらないと思いますよ。風浦さんが木津さんを名乗ろうが、藤吉さんを名乗ろうが、  
 どんな名前になっても貴女は、」  
 
――『風浦 可符香』さんのままでしょう。  
 
「――そう、ですか――」  
そっか。  
ああ、そっか。  
「……なあんだ……」  
名前が変わっても、『私』は変わらない――その『私』は、少なくとも先生にとっては、  
 
「『風浦可符香』なんだ……」  
 
「ちょ、風浦さんっ!?」  
急に慌てだした望を見て、やっと自分の頬を伝うものに気付いた。  
「あ……」  
慌てて手の甲でそれを拭う。おたおたしながら立ち上がって近付いてきた望が可符香の額に手を当て「熱っ!」と叫んだ。  
「だ、大丈夫ですか!?泣くほど辛いなら早く言って下さいよ!今から病院に行きましょう、今すぐ!」  
「今すぐ……って先生、さすがにこの時間じゃ病院も閉まってますよ」  
そもそも自分は体調不良で泣いているわけではない、と言おうとしたが、それより早く望が懐から携帯を取り出して  
ぱっと身を翻す。  
「命兄さんに連絡して、医院を開けてもらいます!ちょっとこちらで待っていて下さいね!」  
言うが早いか、ばたばたと廊下へ出て行ってしまう。可符香はまだ少しだけ潤んでいる瞳をぐしぐしと手で擦ると  
三度テーブルに突っ伏した。その顔は、先程までとは違って柔らかく微笑んでいる。  
「嫌だなぁ、こういう時って人肌で温めてくれるとかっていうのがお約束じゃないですかぁ」  
半ば冗談で呟いて――でも、それも悪くないなんて考えている自分にちょっと驚く。  
先生が電話を終えて部屋に入ってきたら、そう言ってみようかな、なんて考えたりして。  
頭も痛いし寒気もするけど、さっきまでみたいに辛くない。先生をからかう余裕も出てきたから、  
早く、こっちへ来てくださいよ、先生。  
 
 
――ロミオ、その名をお捨てになって。  
   貴方と関わりのないその名を捨てたかわりに、この私を受けとって――  
 
 
嫌だなぁ、先生が絶望を捨てなくても、私のことはちゃんと受けとってもらえますよ。  
だって私はジュリエットなんかじゃなくて、『風浦可符香』なんですから。  
 

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