何をするでもなく、ただ、彼を見ていた。  
呼吸を整えてすぐに自分から体を離し、さっさと1人だけ後始末を終えて脱ぎ散らかした衣服を身に着ける彼を。  
見ることに意味はない。ただ、他に何も出来ることがないだけだ。  
「お帰りになられるんですか?」  
つい先程まで夢中で喘いでいたために掠れた声で問う。こちらに背を向けてシャツを着込んでいた望は  
ちらりと頭だけでこちらを振り向いた。  
「ええ、もう7時ですし」  
「……まだ7時ですよ。先生、もう少し……」  
無駄とは知りつつも、どうしても甘えるような、ねだるような声が出てしまう。上半身を起こして  
ほんの少しだけにじり寄るが、彼は表情を変えずに首を振った。  
「帰りますよ。夕食の時間ですし、待ってますから」  
「……………」  
『誰が』待っているかとは言わなかった。それが自分への最低限の配慮では決してなく、  
言わなくても十分過ぎるほどに分かるだろうから、という考えから来るものだということをまといは知っている。  
それで会話は終わりだとでも言いたげにまた着替えに戻ってしまった望に、何も言うことが出来ずに  
そのまま俯いた。さっきまで2人で溺れていたシーツの中に、たった1人、取り残される。いつも通りに。  
「……たまには、私とご一緒してくれてもいいじゃないですか」  
何を、とは言わなかった。夜をとまでは望まない、向かい合って夕食を食べるだけでもいい。あの女に毎日しているのと  
同じように、自分の作った料理を口にして美味しいと言ってくれるなら、それだけでいい。  
望は今度は振り向かなかった。  
「……そうですね、またいずれ、機会があったら」  
どうでも良さそうに呟かれた言葉に下唇を噛む。何という当てにならない約束。  
きっとその機会は訪れない。自分と彼の距離が埋まらないように。  
常に歩いていた彼の2歩後ろ。かつては他のどの女子よりも近いと有頂天になっていたその距離が  
気付けばどれほど遠いことか。たかが2歩、されど2歩。自分がその2歩よりも彼に近づけることは多分、ない。  
ばっと顔を上げれば、望が袴の帯を締め終えたところだった。  
「それでは、おいとまします。貴女も早く服を着たほうがいいですよ」  
淡々と告げてくる望を見上げて、酷く泣きたくなる――これも、いつものこと。  
「先生――!」  
お慕いしています。愛しています。帰らないで。傍にいて。愛して。私を。私だけを。  
言いたいことは山ほどある。願いたいことは1つだけある。だが、それらをまといが口に出せずにいるうちに  
望はふっと微笑んで見せた。  
「常月さん、先生、貴女のことは――」  
 
 
嫌いじゃないですよ。  
 
 
1人取り残された部屋の中で、膝を抱える。  
下半身にかかっているシーツには、さっきまでこの部屋の中に確かに存在した望の匂いがかすかに染み付いていた。  
あとは、胸元に散らされた紅い痕。それを間近で見つめて、まといは小さく笑う。  
そっと枕の下に手を入れ、銀色の刃――普段は着物の袂に仕込んでいるそれを取り出した。  
明かりを反射してぬらりと光る刃をぎゅっと握り締める。  
分かっている。望は、誰彼構わず関係を持つような男ではない。  
四六時中付きまとい、盗聴と盗撮を繰り返して調査した結果――彼と関係を持てたのは、あの女と、自分だけ。  
最初は、それこそ狂喜した。自分はとうとう選ばれたのだと、愛されたのだと、彼は他の女を捨てて  
自分を愛してくれたのだと。  
彼が自分と関係を持ってなお、あの女とも離れていないのだと知った時は、怒り狂った。  
だが、自信はあった。必ず望は自分の元へやって来るはずだと。他でもない、自分こそが彼に選ばれるはずだと。  
それから何度も、何度も体を重ねて、今は――  
「……先生……」  
刃を握る手により力を込める。  
嫌いじゃないですよ。彼は自分を抱く度にそう言って微笑むが、それ以上のことは決して言わない。  
好きですよ。  
愛していますよ。  
今日こそは、今日こそはと祈るように何度抱かれても決して口にされない、望む言葉。  
あの女は夜を過ごす度に何度も何度も囁かれているに違いない、望む言葉。  
 
いつからか、枕の下に刃物を置くようになったのは。  
何を望んでそうしているのか、自分でも分からない。  
 
彼を殺してしまおうか。そうすれば彼は永遠に自分のものだろうか。  
否、彼はきっと最期まで別の女を想いながら逝くだろう。心が永遠に手に入らないなんて、そんなことは許さない。  
あの女を殺してしまおうか。そうすれば彼は自分の元へ来てくれるだろうか。  
否、彼はきっと永遠にあの女を想いながら生きるだろう。美化された記憶は決して風化しない。  
 
いっそ私が死んでしまおうか。そうすれば彼は私にすがって泣いてくれるだろうか。  
 
 
否、彼とあの女はきっと私など歯牙にもかけずに2人で幸せに生きていくに違いない。そんなの死に損だ。  
 
 
いとしき先生。愛しき先生。  
また明日も、自分は愚かにも彼の後ろをつきまとい、郵便物をチェックして、盗聴器に耳を当て、  
夕方にはこの部屋で祈りを込めて彼に抱かれ、そして何も出来ないまま彼をあの女の待つ宿直室へ帰すのだろう。  
ほんの小さな希望がどれだけ鋭く裏切って突き刺さるか、十分過ぎるほど分かっているのに、諦めきれないまま。  
「……絶望した……か……」  
壁に大量に貼られた写真に視線を移す。嗚呼、写真まで彼と一緒だ。  
こんなに簡単に手に入るのに、どれ1つとして私の方を見てはくれない。  
 

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