自分の知らないところで思わぬ事態が進行している、というのは、決して珍しいことではなかった。  
『望はまだ分からなくていいんだよ』  
幼い頃から何度そう言われて蚊帳の外にされてきたことか。両親だけではなく上の兄3人も何かと世話を焼いてくれ  
それは年の離れた妹が出来てからも決して変わらなかった。妹――倫の方がしっかりしているというのが  
情けないかな自他共に認める事実である以上仕方ないことかも知れない。  
それにしたって、それにしたっていくらなんでも。  
(――何なんですか、糸色家公認の嫁って!)  
苛々と頭を掻き毟りながら足元の小石を蹴飛ばす。  
さすがに兄達が世話をしているわけではないだろうから、旧家ならではのしがらみかしきたりか  
はたまた面白いことに目がない父親の戯れか。いずれにしても教え子たちが持っていた『公認の嫁』の証明書を見たときは  
かなり本気で死にたくなった。  
(どんな嫌がらせなんですか!何で広告まで出してよりによって2のへの皆さんに渡すんですか、あんなもの!  
 絶望した!また新たに捏造される不特定多数との男女関係に絶望した!!)  
リアルで繰り広げられる「先生は私の婿」「いやいや私の婿」「いやいや私のry」を想像してしまい  
いつもより早足で歩きながら声には出さずにひたすら嘆き続ける。  
これが知れ渡ったら解雇処分だろうか。あるいは多重結婚の疑いで逮捕だろうか。  
ぞっとしない未来予想図に頭を抱えたくなりながら、ため息1つ。  
逮捕される前に重婚が認められている国へ引っ越した方がいいんだろうか、具体的にどの辺りだろうか、等と  
ネガティブ思考が現実逃避を始めた辺りでふと立ち止まる。  
 
(――と言いますか、何で嫁ぐらい私に選ばせてくれないんですか)  
 
兄達の後ろについてまわっていた子供の頃ならいざ知らず、今の自分は成人して職に就き、経済的にも自立している人間である。  
少なくとも人並みに恋愛する権利くらい、ある――と思う。  
それは確かに自分の実家は旧家。もし嫁入りする女性がいるとすれば家柄や教養なども求められるかも知れないが  
四男坊である自分の嫁にそこまで求めなくても、というのも偽らざる本音。  
今回の件といい、毎年繰り広げられる見合いの儀の件といい、そこまでして自分の相手を  
お膳立てしなくてもいいと思うし、そもそも自分よりも先に兄達を結婚させなくていいのかとも思う。  
百歩譲って他人に嫁を用意されるとしても、せめて普通のお見合いなりなんなりして自分にも相手を確認し  
この人ならばという決定を下す権利くらい与えられてもいいのではないか。否、むしろそれが普通のやり方ではないか。  
今のやり方には、全く己の意思の介入する余地がないではないか。  
 
 
『望はまだ分からなくていいんだよ』  
そんな風に言われるのを鵜呑みにしていた子供の頃とは違う――そう考えているのは自分だけということか。  
 
(……………)  
何だか虚しくなって、近くの公園にふらふらと入り込むと小さなベンチに腰を下ろす。  
確かに親にとっては子供は何歳になっても子供、兄にとっては弟は何歳になっても弟だろうが  
子供は、弟は、1人で歩くことすらできないと思われているのではないかと疑ってしまう。  
それはまぁ、日々絶望ばかりしている手間のかかる人間であることは認めざるをえないけれど。  
(……私だって、嫁とまではいかなくても、好きな女性ぐらい――)  
「……糸色さん?」  
「ほぁいっ!?」  
ぼんやりしていたところにいきなり声をかけられて、裏返った声で返事をしながらんばっと顔を上げれば、そこには  
困惑したように口元に手を当てる元・隣の女子大生がいた。片手に近くのスーパーのビニール袋を持っているところからして  
買い物帰りらしい。  
「あ、あの……ごめんなさい、そんなに驚かれるとは思わなくて」  
「あ、い、いえ、すいません……ちょっと考え事をしていたものですから」  
ぺこりと頭を下げる女子大生に慌ててこちらも謝罪する。  
「お買い物だったんですか?」  
「ええ、今日は卵が安かったんですよ」  
ふふ、と微笑んで答える女子大生だったが、不意に眉を下げて心配そうにこちらの顔をじっと見つめてきた。  
「糸色さんは……お散歩じゃ、ありません……よね?  
 何だか落ち込んでいらっしゃるみたいでしたけど……大丈夫ですか?」  
「え?」  
――そんなに情けない顔をしていたのだろうか、と思わず両手を頬に当てながら考えてしまう。  
「お、落ち込んでいるように見えました?」  
「ええ、あの、何となくですけど」  
控えめに頷くのを見て、望の気持ちがずーんと二段底へ落下していく。  
つい先程、脳裏に思い浮かべたばかりの女性――嫁とまではいかなくとも、少なからず好意を寄せている女性に  
公園のベンチで1人落ち込んでいるところを見られただなんて、みっともなさ過ぎて穴があったら入りたい。  
気付けばいつもスコップを手にしている教え子を思い出し、いやいや埋まりたいわけではなくてと  
心の中で自分に突っ込みを入れながら自嘲気味の苦笑を浮かべて見せた。  
「……まあ、いろいろとありまして」  
「そうなんですか?」  
首を僅かに傾げつつ、先生っていろいろと大変そうですものねと納得したように呟く女子大生。  
はは、と乾いた笑いで応えると、控えめにこちらの顔を覗きこんでくる。  
「あの、私なんかでお力になれることがあったら言って下さいね。  
 何も出来ないかもしれませんけど、それでも1人で抱え込むよりは楽になると思いますから」  
心からこちらを案じる穏やかな声に、頬が僅かに熱くなるのを感じた。  
ありがとうございます、と心の底からのお礼を口にすると、彼女も一安心したのかにこりと微笑んでくれ  
その柔らかい笑顔に胸の奥がじんわりと暖かくなる。  
 
「今度、また何かお料理を持ってお伺いしてもいいですか?」  
「え?」  
きょとんと目を丸くして、いえ全く構いませんがともごもごと呟きながら頭を掻いていると  
女子大生が口元に手を寄せながら続ける。  
「あ、いえ、もちろん糸色さんがご迷惑でなければですけど。  
 何だか最近こうやってお話することもほとんどなくなっちゃいましたし、それに……」  
私に出来ることなんてお料理くらいですから、と言う女子大生の笑顔が――どこか寂しげで。  
――私は無力だと語るその目がさっきまでの自分とどこか重なって、慌てて立ち上がった。  
「そんなことありませんっ!」  
驚いたように目を見開く彼女の顔を真っ直ぐに見つめながら、早口でまくしたてる。  
「私は貴女の、貴女が持ってきて下さる料理が本当に大好きでしたし、それに  
 こうやってたまに外でゆっくりとお話ができるたびにどれだけ元気付けられたか知れません!  
 今日だってこうして貴女に会えてお話できて良かったと思っていますから、ですから、  
 私は貴女がまたいらしてくださるならそれは本当に嬉しいですし、またお会いしてお話したいと――」  
普段下らないことを生徒たちに語っている時に勝るとも劣らない力説が、ふと止まる。  
 
呆気にとられたようにこちらを見ている女子大生の、ほんのりと赤い頬を見て。  
 
「あ、お、おおお話したいとその、交もっ!交も思っていると思いますよっ、はいっ」  
我に返った途端かっと顔に熱が上ってきて、あわあわと手を振りながら咄嗟に無理矢理なフォローを入れる。  
「あ、ま、交君も……そ、そうですね、交君にももう随分お会いしてませんもんね」  
赤くなった顔のままやや裏返り気味の声で頷く女子大生に、本気で今更ながら自分は何を力説しているんだと  
頭を抱えたくなるものの、そんなことをやってしまえばさっき入れたフォローが完璧に無意味になってしまう。  
仕方なくあさっての方向を向きながらはは、と誤魔化すように笑い声を上げると、女子大生が俯いてぽつりと呟いた。  
「……レー……」  
「はい?」  
「……カレー、交君お好きでしたよね?」  
「は、はい」  
こくこくと頷くと、未だほんのりと赤くなったままの顔で更に続ける。  
「……糸色さんも、お好きでしたよね?」  
「は、はい。好きです」  
再びこくこく頷いてから、いや好きって違いますから!あくまでカレーのことですから!と心の中で自分に言い聞かせて  
固まっていると、ぱっと女子大生が顔を上げた。嬉しそうに、どこか恥ずかしそうに微笑んで。  
「それじゃ、今度作ってお持ちします、カレー」  
「あ、はい、ええ、ありが――」  
頷きかけてはたと気付く。  
 
自分が現在住んでいるのは学校の宿直室。そこに女子大生が登場すれば当然多くの教え子たちの目に触れるわけで。  
時折自分を包み込む女生徒たちの只ならぬ雰囲気の中にこの女子大生がぽつんと佇むのを思い浮かべて  
いやいやさすがにそれはまずい、とぶんばぶんばと首を振る望の顔を不思議そうに彼女が見上げてくる。  
「どうしたんですか?」  
「い、いえ……」  
眼鏡を直しながら僅かに虚空を見上げて考え――首を傾げる女子大生に視線を戻してこほんと咳払い1つ。  
「ええと……今私、学校の宿直室に住んでいるんですよ」  
「あら、そうだったんですか?」  
住み込みでお仕事なんて大変ですね、と微妙にずれた労わりを返してくるのにええまあ、などと答えながら  
「ですから、あの……今度は、交を連れてそちらにお伺いしてもいいですか?」  
とおずおずと尋ねると、一瞬驚いたように目を見開いて、すぐにぱあっと微笑んで頷いた。  
「ええ、もちろん。是非いらして下さい」  
「ほ、本当ですか?」  
「はい、狭くて何もない家ですけど、それでも宜しければ」  
「そんな、お邪魔させていただけるだけで十分です」  
「それじゃ、今週の土曜日なんてどうですか?」  
「は、はい。大丈夫……だと思います」  
あまりにとんとん拍子に進んでいく会話に、思わず後ろ手で自分の手をつねってみたが確かに痛い。  
それでは今目の前で心底嬉しそうに「楽しみにしてます」と笑いかける女子大生が幻なのだろうかと  
眼鏡を外して目を手で擦ってみるが、再び眼鏡をかけても彼女の姿は消えていない。固まったままの望の前で  
女子大生があら、と慌てたように手首の腕時計に視線を落とす。  
「もうこんな時間なんですね、急いで晩御飯にしなくちゃ」  
「あ、申し訳ありません、長々とお付き合いさせてしまいまして」  
ぺこりと頭を下げると、女子大生もいえいえこちらこそ、と笑いながら頭を下げる。  
「それじゃ、失礼します」  
「お、お気をつけて」  
そう言ってしまってから慌てて  
「あ、いえあの、送りましょうか」  
と言い直すが、女子大生はくすくす笑うとスーパーの袋を持ち直した。  
「大丈夫ですよ、すぐそこですから。糸色さんも気をつけて帰って下さいね」  
「は、はい。ありがとうございます」  
自分の情けなさにこっそりため息をつきながら「それでは」と改めて頭を下げる。公園の出口に向かって歩き始める  
女子大生の後姿を何となく見送っていると、くるりと彼女が振り向いた。  
「土曜日、本当に楽しみにしてますからね。約束ですよっ」  
それだけ言うとぱっと身を翻して走り去ってしまうのを、何も言えないまま見つめて。  
完全に彼女の姿が見えなくなってしまってから、やっと大きく息をつく。  
(――土曜日、本当に楽しみにしてますからね――)  
 
頭の中で彼女の言葉を繰り返して、真っ赤になった頬を隠すように俯いた。この数分間の出来事がどうしようもなく  
自分に都合が良すぎて素直に現実だと信じられない。  
それは確かに彼女に嫌われていることはないと思っていたけれど、でも彼女にとって自分は『お隣さん』でしかないと思っていた。  
ちょっと料理を作りすぎた時に、たまたま隣にいたとっつきやすい独身男に親切にしてくれただけだと思っていた。  
思っていたが。  
 
――『お隣さん』ではなくなってもまだ私の為に料理してくれるなんて、  
      しかもわざわざ自分の家でご馳走してくれるなんて、それはまるで――  
 
「いやいやいやっ、持ち上げて落とすというパターンが流行している昨今ですからっ!」  
ぶんばぶんばと首を振って浮かび上がりかけた妄想を打ち消そうとする。勝手に有頂天になって後で  
二段底、どころか無限底に叩き落される可能性だってアリじゃないか、と言い聞かせながらため息1つ。  
――いやいやいやいや、でもこれはさすがに、ちょっと、ほんのちょっとは、期待してもいいのだろうか。  
自分にだって、人並みに恋愛する権利くらい、ある――だろうから。  
いずれは兄達に、糸色という家に胸を張って彼女を紹介できたらいい、それぐらいは夢見てもいいのだろうか。  
(私だって、いつまでも子供じゃないんですから)  
とりあえず交に土曜日は何も予定を入れないように伝えておかなければと考えながら、自然と微笑んでいる自分に気がついた。  
 
 
 
 
「……ちょっと意外だったなぁ」  
足を止め荒くなった呼吸を何とか整えながら、ぽつりと呟く。走ったせいで汗ばんだ額に前髪が張り付いて気持ち悪い。  
手でうっとおしげに髪を払い、ついでに熱くなった頬に手を当ててため息1つ。  
人の目を見ないことにかけては定評のある人だと思っていたのに、あんなに真っ直ぐに目を見て力説されるとは。  
それは確かに自分は彼に好かれるように計算して振舞ってきたけれど、でも彼は『お隣さん』の立場を貫くかと思っていた。  
男として末期だのチキンだのとさんざんからかわれてきたのを見てきたからではないけど、何となく勝手にそう思っていた。  
思っていたが。  
「うーん、これはちょっと先生の認識を改めないと駄目かも知れないですね」  
言いながらくすくすと笑う。自分が想像していた以上に楽しいことになる可能性だってアリじゃないか、と笑いながら頷き1つ。  
あんなに必死で熱く語ってくれたし。その割には慌てて変なフォロー入れちゃって台無しにしちゃったけど。  
まあ、あそこで勢いのまま突っ走って告白できないところがどうしようもなく先生らしいと言えば先生らしいかな。  
(本当に、いつまでも子供みたいな落ち着きのない人なんだから)  
とりあえず土曜日までに自宅を『女子大生の家』っぽくしておかなければと考えながら、自然と微笑んでいる自分に気がついた。  
 

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