窓から差し込む夕日が、廊下を茜色に染める。既に辺りの人影はなく、一人ぼっちの廊下を先生はゆっくりと歩いていた。
「今日も終わりですね……」
スピーカーから流れ始めるトロイメライの調べ。下校時間がやってきたようだ。部活動に打ち込んでいた生徒達も、職員室の教師達もだんだんと帰り支度を始めるだろう。
人恋しいような、切ないような、そんな気持ちを、たぶん今この学校にいる全員が感じているだろう。
夕暮れの学校がそんな気分を誘うのは、たぶんこの学校という場所自体が過ぎ去っていく時間の象徴みたいなものだからじゃないかと、先生は感じていた。
平凡に繰り返される毎日、同じように積み重ねられる日々の中で、人間は時間がどうしようもなく流れていくものである事を忘れてしまう。
だけど、この学校という場所は、大人になる為の通過点であり、どんな人にとってもいずれは過去のものになってしまうものだ。
生徒たちはいずれここから巣立っていく時を感じ取り、大人たちは自分が通り過ぎた過去を思い出す。ここにいつまでもいられる人なんて、一人もいやしない。
夕暮れ時、学校の一日が終わろうとする時間は、それを否応なく際立たせる。
そしてその事が、時間は過ぎ去っていきもう戻らないものなのだと、その動かしようの無い事実を思い出させる。
「………きれいですね」
先生が窓の外へと視線を向ける。
部活の片付けを行う生徒たちや、校庭の隅に並んだ鉄棒、それに学校を囲むフェンスなどが、長い長い影を地面に落としている。
その向こうに見える住宅街の家々の窓に、一つまた一つと明かりが灯っていく。
窓を閉めているのだから、どうやったって届く筈が無いのに、どこかの家の夕飯のカレーの匂いがここまで漂ってくるような気がする。
最初は苦手な景色だった。あまりにも物悲しくて、心細くて、それを眺めるような余裕なんてなかった。
それが今では、好き好んでこんな時間の校舎を散歩するようにまでなってしまった。
家を焼かれて宿直室に住むようになって、無理にでもこれに慣れなければいけなかったのも、一つの原因だろうと思う。
慣れた分だけ余裕が出てきて、今までよく見てこなかった物を、じっくりと見つめる事ができるようになった。だから気が付く事ができた。
それはやっぱり、物悲しくて、心細くて、だけどきれいだった。
窓の外の夕焼けに、廊下や教室の片隅の暗がりの中に、過ぎ去っていく時間の名残を垣間見るような感覚を覚える。
今日という日が過ぎ去って、だけどそこに微かにのこされた匂い、そんなものを求めて先生は夕方の校舎を一人歩く。
「うちのクラスのみなさんもいつかは……」
永遠の高校2年生を過ごしているかのような2のへのメンバーだって、いつまでもここにいる事はあり得ない。みんないつかはいなくなる。
毎日の馬鹿騒ぎが、いつも通りの授業が、他愛も無い会話が、笑顔が、最近は何もかも愛おしく、美しく感じられるようになった。
だけどそんな事を口にするのも変だから、こうして一人ぼっちの夕暮れの校舎を歩いて、その思いだけをかみ締める。
「私も…年をとったんでしょうか……」
先生は廊下の途中で足を止め、窓を開いてみた。ゆっくりと茜色から紫へと変わっていく空に、2のへの生徒たちの顔を一つ一つ重ねて……
「ね〜こ〜の毛皮着る〜貴婦人のつくるスープ〜ぅ♪」
聞こえてきた歌に、その物思いを完膚なきまでに破壊された。
「い〜ぬ〜の毛皮着る〜貴婦人のつくるスープ〜ぅ♪中身聞いたその人具にな〜った〜ぁ♪」
それはもう塵一つ残さず全てを無に帰すかのような、容赦の無い破壊だった。
「おーばーさんのいなくなった〜住宅街〜♪スコーップが売れーたよー金物屋さん♪」
「風浦さぁんっ!!!!!!」
聞き覚えのある声に、聞き覚えのある歌詞。廊下の奥から歩いて来たその人物に先生が半泣きで怒鳴ると、風浦可符香はいつも通りの笑顔で答えた。
「あ、先生も夕方の校舎のお散歩ですか?」
「ええ、そうです。そうでした……」
「これぐらいの時間の学校を歩くの、私も好きなんです。なんだか独特な雰囲気があって………」
「はい。今しがたあなたに完全に破壊されましたが…」
「歌、聞かれちゃいましたか?ちょっと、恥ずかしいですね」
「聞きましたよ。届きましたよ、私の耳に。あの不気味で不吉で不穏な言霊が……」
「なんだか照れるなぁ。先生が聞いてるなんて思わなかったですから」
「頼みますから、ほんと頼みますから人の話を聞いてください……」
ニコニコ笑顔で楽しげに話す彼女と、致命的なレベルで会話が噛み合わない。さっきまでの物思いもどこかへ消し飛んで、先生はガクリと肩を落とした。
「どうしたんです、先生?大丈夫ですか?」
「あんまり気にしないでください。……むしろほっといてください」
「黄昏の校舎の雰囲気に浸って、ちょっぴりアンニュイな気分の自分に酔ってたのを邪魔されたのがそんなに辛かったんですか?」
しかも、ピンポイントで図星を突いてくるし。それも本当に心配そうな調子で聞いてくるから、余計に傷をえぐられる気分だ。
「はいその通りですよっ!!だから、夕方の校舎の散歩も今日は終わりですっ!!!」
ヤケ糞気味に先生が叫んだ。もうさっさと宿直室に戻って、小森さんの作った暖かい夕飯を食べて、明日の授業の準備を済ませたら、風呂に入って寝てしまおう。この傷ついたハートを抱えて……。
「そうですか……」
その言葉に、可符香は少しだけ残念そうな顔をして
「……やっぱり早く家に戻りたいですよね。だったら、あんまり無理は言えないけど……でも」
先生の上着の袖をきゅっと掴んで、彼女はこう言った。
「でも、少しだけ……ほんの少し付き合ってくれませんか?」
「え、な、何ですか急に?」
「……デートしてください」
意外な言葉に先生の胸がドキンとして、自分を見上げる可符香の顔の、少し頬を染めた真剣な表情にその言葉が嘘や冗談でない事を悟る。
「デートって、どこで……?」
やっとの事で搾り出した言葉は、そんな質問。
「……ここで…この夕方の校舎で………私といっしょにデートしてくれませんか?」
答えた彼女の言葉に、先生は首を横に振る事ができなかった。
太陽はさらに西に傾き、より薄暗くなった廊下を、先生と可符香は並んで歩く。二人の手の平は、きゅっと握り合っていた。
「………♪」
ちらりと可符香の顔を横目で伺う。さっきから喋ってはいないが、彼女はとても上機嫌な様子で、廊下を進む足取りも軽い。
(どういうつもりなんでしょう?)
先生が可符香の誘いを断れなかったのは事情があった。
思い出すのも忌まわしい事件。親の遺した借金を理由に怪しげな男達に彼女が連れ去られ、陵辱を受け、あまつさえ彼らの『商品』とされようとした事。
あの時の自分は完全に冷静さを欠いていた。必死に彼女の行方を追い、やっと見つけたその場所に一人で向かった。
あの時は、それ以外に正しい選択肢があるとは思えなかったし、それは今も変わらない。だが、あれが愚行であった事も認めないわけにはいかない。
あわやという所で2のへの生徒達が助けに来てくれなければ、殺されていてもおかしくなかった。
兎も角も助け出された彼女だったが、『商品』となる事jこそ免れたものの、男達に体を汚された、その事実は、心の傷は消しようが無い。
事件が終わってしばらく後のある日、放課後の教室で彼女は先生にすがり付いてきた。『抱き締めて欲しい』、そう言った。先生には彼女を受け入れてやる事しかできなかった。
『みんなや先生がいるから、私は大丈夫』、彼女は言った。それはきっと、本心からの言葉で、紛れも無い事実なのだろう。
だけど、もう一方で彼女が見せた、あの触れるだけで壊れてしまいそうな弱さも、また疑いようの無い事実なのだ。
彼女の事が心配だった。だから、彼女に握られたその手を、先生は振り払う事ができない。
「こっちです、先生」
「どこに行くんですか?」
「それは着いてからのお楽しみですよ」
ほとんど可符香に引っ張られるようにして、廊下を進み、階段を登る。彼女の笑顔に事件を思わせる影はなく、今この時を心から楽しんでいるように見えた。
それでも、あの事件で初めて見た彼女のくしゃくしゃの泣き顔と、教室で抱き締めた彼女の背中の微かな震えの記憶が、先生をどうしようもなく心配にさせる。
先生の手の平を握る彼女の手には、ぎゅっと精一杯の力が込められていた。それは、まるで彼女が藁にでも縋るような思いで、助けを求めているみたいで……。
(…………風浦さん)
だけど、そこで先生は気がついた。
(………これは?私は?)
彼女が先生の手を精一杯に掴んでいるのと同じように、彼女の手の平を握る先生の手にも精一杯の力が込められていた。
まるで彼女がまたどこかへ消えてしまうのを防ごうとでも言うかのように、必死に彼女の手の平を握り締め、その感触を、体温を、ひたすらに求めている自分の手の平。
(これじゃあ、まるで私は………)
先生が自分の中に生まれた疑問に答えを出すより早く、唐突に、先を進んでいた可符香の足が止まった。
「さ、着きましたよ」
そこは音楽室だった。
「途中で気が付いたりしました?」
「い、いいえ…気が付きませんでした」
一応、校舎の構造は覚えているが、薄暗い廊下を可符香に手を引かれるまま、しかも考え事をしながらここまで来たので、どこをどう進んでいたのかすらわからない。
「でも、鍵しまってますよ。中に入れなくちゃ…」
「いやだなぁ、心配無用ですよ」
可符香は言って、前髪を留める×の字型に交差した二本のヘアピンの内、一本をそっと外した。そして、音楽室の扉の前で膝を突いた可符香は
「えいっ!」
ガチャリ。あっさりと扉を開錠。再び何事もなかったかのようにヘアピンを頭に戻す。後ろで見ていた先生はただただ呆然唖然。
「今、なにかすごく手慣れてませんでしたか!?」
「?…そうですか?」
「だって、今一秒もかかりませんでしたよっ!!いくら学校の簡単な鍵でも…っ!!」
「いやだなぁ、先生。それはこの魔法の鍵のおかげじゃないですか」
可符香がクスクスと笑いながら、先ほどのヘアピンを指差す。
「そうです。実は私魔法の鍵を持ってたんです。みんなには内緒ですよ、先生」
「魔法って、それはどう見ても…」
「魔法の鍵は不思議な鍵です。どんな扉の、どんな鍵だって開けられないものはありません。長年の経験と技術と勘があれば………」
「その話題はスルーで、スルーライフでお願いしますっ!!」
「生半可な対策なんて、あってないようなもの……」
「いやああああああああああああっ!!!!!!!」
一体、いつ、どうやって、彼女がそれを習得したのか?それをこれまでどんな風に使ってきたのか?考えたくもない事ばかりが頭に浮かび、それを振り払うように先生はブンブンと頭を振る。
「さあ、魔法の鍵で夢の国にご案内でーす」
そんな先生を強引にひきずって、可符香は音楽室の中へ
「うわあ、やっぱり雰囲気ありますね」
薄暗い音楽室は、窓から差し込む夕日だけを明かりにして、いつもと違った表情を見せていた。
グランドピアノが、並べられた長机や椅子が、床の上に黒く濃い影を落とし、昼間ではあり得ない静寂が室内を包んでいる。
その光景は確かに、現実を離れた夢の国を思わせた。
「そ、そうですね……」
先ほどのショックが抜けない先生は、生返事を返すのが精一杯だ。
「理科準備室とどっちにしようか、正直迷ったんですけどね」
「いや、そっちの選択肢はなしでしょう」
「え、あっちも良い雰囲気ですよ。ホルマリン漬けとか標本とかたくさんあって……」
「どんな雰囲気ですかっ!!」
「そっと目を閉じると、彼らの声が聞こえてくるんです」
「……音楽室の方を選んでくれた事、感謝します」
先生はぐったりとして、辺りを見渡した。
「……まあ、悪くない雰囲気ですよ、ここに関しては。……いえ、違いますね」
首を振り、先生は言いなおす。
「…素敵です。とても、素敵だと思います」
言われた可符香はとても満足そうに、得意げに、微笑んでうなずく。
「ずっと前から、時々、こういう風に夕方の校舎の、教室の中に潜り込んで、遊んでたんです。そしたら、最近先生が同じように夕方の校舎の中を散歩してるのを見つけて……」
夕日の差し込む廊下に立って、どこか遠くを見つめる先生を見たとき、少しドキンとした。先生が自分が黄昏の校舎の空気を共有している事が、何故だか嬉しかった。
「それで、今度は先生と一緒にこれを見たいって、そう思ったんです」
「確かに、これは私一人では見れませんでした。何しろ、私にはあなたみたいな犯罪スキルがないですから」
「人聞きが悪いなぁ、先生。魔法ですよ、魔法。頭領も言ってくれました『あざやかだ。あざやかすぎる……まさに魔法だ…』って」
「……頭領って、誰ですか?」
それから二人は並んで、最前列の長机の上に腰を下ろした。可符香が先生の方に体を寄せる。先生はそれを拒まず、二人の肩と肩がくっつく。
それからしばらく二人とも無言のまま、穏やかな時間だけが過ぎていく。だが、そんな時…
「…………あ…うあ」
隣り合った肩から伝わる震えを感じて、先生は可符香の方を見た。微かに荒くなる呼吸、額に僅かに滲んだ汗、何とか笑顔を保とうとして保ちきれずに、彼女の顔が辛そうに歪む。
「…ごめんなさい…先生…ごめん……」
彼女の中で、再びあの事件の記憶が蘇っていた。痛みと、嫌悪と、それすら塗りつぶす虚無感、無力感。
彼女は自分の体を抱えるようにしてうずくまる。
「…だ、だいじょうぶ…ですから……今回のは…あんまりひどく…な…」
「そうは見えませんよ」
先生の両腕が優しく可符香の体を包み込む。自分を守ってくれる、確かな安心感に包まれて、可符香の体の震えがだんだんと和らぐ。忌まわしい過去が霧に溶けるように薄らぐ。
「…ありがと…先生……」
「前に頼まれたのに、いざという時には遠慮されたんじゃ、こちらも困ります。私はあなたに辛い時でも耐えて忍ぶような日本人的奥ゆかしさのあるキャラクターは期待していませんから」
「そんな言い方はひどいですよ、先生……」
言いながら、可符香は先生の胸に顔を埋め、ぎゅっと背中にしがみつく。そんな可符香に対して先生が、少し改まった口調で話しかける。
「…風浦さん…少し聞いてください…」
「……なんですか?」
「…風浦さんが辛いとき、こうやって抱きしめてほしい、そうあなたは私にお願いしましたよね?」
「はい……」
「だから、その代わりに私のお願いも聞いてください……」
先生がそう言った後、可符香を抱き締める先生の腕にぎゅううっと力が込められた。
それは先ほどまでの可符香を守り慈しむような抱擁とは違っていた。
むしろ、まるで泣きじゃくる子供が必死で親に抱きつくような、彼女の存在を、熱を、一欠けらも逃すまいとするかのような、……それは縋りつくような抱擁だった。
「せ…先生……!?」
「情けない話ですけど、今になって気が付いたんです。恐いんですよ、私は……」
先生の腕の中で、可符香は気が付く。微かな呼吸の乱れと、ごく僅かな体の震え、それはまさしくついさっき可符香を襲ったのと同じものだ。
そして、次の一言で彼女は全てを理解する。
「あなたを失う事が、ひどく恐ろしいんです……」
あの事件の時の自分は、ひどく冷静さを欠いていたと、先生は後になって何度も後悔した。何とか事態が収まったから良かったものの、最悪の結果も十分にありえた。
だけど、今になって気が付いたのだ。あれは全て、彼女の、風浦可符香のためだったのだと。
恐らく、他の2のへの誰が彼女のような苦境に陥ったとしても、先生があの時出した結論は変わらないだろう。
たとえ無駄でも、無理でも、自分に危険が及ぼうと、先生はその誰かを助けるために全てを投げ打って行動するだろう。
だが、その行動の質は違ってくるはずだ。震える心を必死で押え付けて冷静さを保ち、考え得る最も可能性の高い方法で助ける。きっと、そうするはずだ。
だけど、あの事件の時の先生は、冷静さなど放り捨てて、ただ彼女の元に向かおうとした。それはほとんど、親を探して泣きじゃくる迷子のようで……
「……だから、こうやって時々、抱き締めさせてください。あなたがここにいる事を確かめさせてください。臆病な私を、どうか安心させてください……」
あの春の日、桜の下で出会った彼女の笑顔が、先生の新しい生活の幕を開いた。
超ポジティブ思考で暴走するか、それとも人の心の隙に取り入って陰謀をめぐらすか、彼女の行動に先生は振り回されるばかりで、だけど、振り回される日々の中で何度も笑うことができた。
きっかけなんてわからない。ただ、彼女を気にかけて、彼女に痛い目に遭わされて、そんな日常の積み重ねが、いつしかかけがえの無いものに変わっていった。
それは、どうしようもなく単純な、使い古された言葉でしか表現できない、一つの感情として結晶する。
「……あなたを愛しています。風浦さん……」
「……え…あ……先生…?」
可符香はその言葉の意味をすぐに理解することが出来なくて、それなのに心臓ばかりがドキドキと鼓動を早めて、彼女の心をさらにかき乱す。
「好きです。だから、失いたくなかった。失うのが恐かった。……でも、そのせいで私は軽率な行動をして、あなたを……」
「…そんな…事ないです…あの時先生が来てくれたから…私…諦めずに…」
あの事件で、先生が再び可符香の前に姿を現した時、絶望の底に沈んで凍り付いてしまったはずの心を、先生の声が、言葉が、いとも簡単に揺り起こした。
自分のせいで先生を危ない目に遭わせているという気持ちと、先生がそこにいてくれる事の嬉しさと、二つの感情が胸が荒れ狂ってボロボロと涙を零した。
『お願い、先生、死なないで………っっっ!!!!』
張り裂けんばかりの声で叫んだ。
からかって、イタズラして、笑い合って、彼女の心にキラキラと輝く2のへでの日常の、その真ん中にはいつだって、先生の顔があった。
泣いたり、笑ったり、怒ったり、拗ねたり、くるくると変わる先生の表情を、いつだって可符香は見つめ続けてきた。
いつの間にか彼女の胸の中は、そんな先生の見せる色んな顔に埋め尽くされていた。
「…そっか…先生も同じだったんですね……」
学校側は、例えばスクールカウンセラーの智恵先生なんかは誤解しているようだけれど、小さい頃の可符香は幸せだった。
借金だらけの家、寂しい思い辛い思いをする事も決して少なくなかったけれど、それでも両親に愛されていたあの頃の可符香は、間違いなく幸せだった。
お父さんは何度も『身長を伸ばそうとした』し、生活だって本当に苦しかったけれど。
それでもお父さんもお母さんもしぶとくて、諦めずに頑張って、だから可符香も一緒に頑張って、そして家族で笑い合っていた。
だけどある日、津波のように襲ってきた抗い難い力に負けて、両親はいなくなってしまった。
それは、『身長を伸ばそうとした』んじゃなくて、『首を吊って自らの命を絶った』のだと、可符香にもわかった。
その日までの幸せな時間は、まるで嘘のように断ち切られて何も残らなかった。
『幸せも、大事なものも、人も、ある日突然に消えてしまう』、それが彼女の心の奥底に刻み付けられた傷の正体だった。
幸せが消えてしまうのなら、自分で作り出すしかない。どんな時でも幸せである自分を、笑顔の仮面を、そうしなければ生きていく事に耐えられないから。
その筈だったのに、友達と、先生と過ごす時間は、いつしかその仮面を溶かして、その存在を忘れさせていった。
そしてあの事件、再び彼女の全てが奪い去られ、過去の傷が大きく口を開いて彼女を飲み込もうとしたとき、先生が来てくれた。叫んでくれた。
だから、可符香は気付くことができた。彼女は何も失っていない。どんな相手も、彼女から何一つ奪うことが出来ないのだと、先生が気付かせてくれた。
目を閉じれば、ほら、何のことは無い。両親の笑顔はそこにあって、かつての幸せな彼女は欠片も損なわれていない。絆は断ち切られる事などなく、ずっと彼女を守り続けているのだと。
そして、それでも時に怯えてしまう臆病な心を、その感情を分かち合ってくれる人が、今ここにいる。私を抱き締めてくれている。
「……先生…私も……」
痛いぐらいに抱き締めてくる先生の腕に負けないように、可符香は自分の腕に力を込める。
「…私も、好きです…先生の事が……」
そして可符香は、先生の胸に埋めていた顔を上げる。見下ろす先生と、額と額がくっつくほどの距離で見詰め合う。
言葉も出せないまま、お互いの高鳴る心音を感じながら、相手の眼差しに、瞳に、心を奪われる。
「…………えっと、私なんかでいいんですか?風浦さん……」
「…このタイミングでその後ろ向き発言は、私のポジティブでもフォローしきれませんよ?」
言い合って、笑う。言葉とは裏腹に、可符香の体を抱き締める先生の腕の力は緩む事なく、その事が可符香には嬉しくてたまらなかった。
「私が好きで、失うのが恐いんじゃなかったんですか?こんなにぎゅーって抱き締めてくれるのに」
「……でも、私なんかが本当にそんな…風浦さんと……」
「ついさっき、私の気持ちを言ったばかりじゃないですか」
「…本当に本当なのか、今までの絶望的な自分を思い出すと自信がなくなって……」
「ふうん……つまり、私の事信じてくれないんですね、先生……」
拗ねたように可符香が言うと、先生は大慌てで
「…そ、そ、そんな事…そんな事ぜんぜんありませんっ!!」
「……それなら…」
可符香は目を閉じ、先生の方に唇を差し出した。
「…ふ、風浦さん…」
彼女の行動に、先生は少しだけたじろいだが、やがて覚悟を決めたような表情を浮かべ、ゆっくりと自分の唇を可符香の唇に近づけていく。
「……愛しています、風浦さん…」
「…ん…せんせ…んくぅ……んんっ……」
触れ合った唇からは意外なほどに熱いお互いの体温が伝わり合い、二人を一気にその行為に没入させていく。
おずおずと自分の口腔内に差し入れられてきた先生の舌に、可符香は自分の舌を優しくなぞらせ、優しく絡ませた。それに応えるように、先生の舌の動きが積極的になる。
お互いの口腔内を貪るように味わう。歯列を舌先でなぞり、舌の裏側まで愛撫される。舌を絡ませ合うほどに、そこから溶け合っていくような感覚を覚えて、先生と可符香は恍惚とする。
息の続く限界までキスを続けて、それでも名残惜しそうに、ようやく二人は唇を離した。
「…っはぁ…はぁはぁ……せん…せい……」
「…ふうら…さん……」
乱れた呼吸が整うのも待たずに、可符香は先生に強く強く抱きついた。そして、先生の耳元でささやく。
「…せんせい…もっと…わたしにふれて…あいしてください……」
「……えっ」
その言葉を十分に聞き取れなくて、その意味を察する事が出来なくて、戸惑う先生の耳元でもう一度
「…先生と…ひとつになりたい……」
はっきりと、可符香はそう言った。
しかし、それは、あの事件で可符香が負った心の傷を知る先生にとって、あまりに辛すぎる願いだった。頭はぐるぐると空回りし、声は上ずり、言葉が上手く出てこない。
「…でも、あなたは……」
「…先生が恐いの…わかりますよ……私も恐いです、少しだけ…」
そこで可符香はゆっくりと顔を上げ、先生に向けて精一杯の笑顔を向けて、こう言った。
「…だけど、だからこそ…私はそれを先生と一緒に越えて生きたい…先生となら越えられる、そう思うんです…」
彼女の目から零れ落ちる涙は、きっと先生が抱えているのと同じ怯え。それを包み込んでやれるのも、慰めてやれるのも、きっと自分にしか出来ないこと。
そう思って、先生も覚悟を決める。
「…わかりました。あなたと、いっしょに……」
「…はい、先生といっしょに……」
可符香の体を抱き締めていた腕を緩め、右の手の平を背中からわき腹へ、さらにそこから彼女の胸にまで這わせる。
柔らかなふくらみを手の平に感じた瞬間、再びよぎる恐怖。傷付けてしまうのではないか、壊してしまうのではないか、そんな想いが先生の心の中に渦巻く。
それを察したように、可符香の手の平が先生の手の平に重ねられる。伝わる温もりが、思いやりが、先生の背中を押す。
「……っあ…」
先生の手に少しだけ力が入って、可符香は微かに声を上げた。あくまで慈しむように、優しく、先生の手の平が可符香の胸を撫でて、揉んで、彼女の体温が僅かに上昇し始める。
「……っく…あぁ……せん…せいぃ…」
可符香の反応を確認しながら、先生は今度は左の手の平を彼女の首筋に。下から上へ、つーっと指先でなぞってやると、腕の中で可符香の体がビクンと小さく跳ねる。
そのまま彼女の反応を伺いつつ、先生の手の平は可符香の脇腹やおへその周り、太ももに背筋、そこから上がっていってうなじと、体の各所を愛撫する。
先生に触れられれば触れられるほど、だんだんと可符香の呼吸は荒くなっていく。先生はそこで可符香の耳元に唇を近付け
「…ふぁ…や…あ……みみぃ…」
耳たぶにそっとキスをする。それに対する可符香の反応を待たず、さらに耳たぶの縁を舌先で舐め、さらに軽く甘噛みをしてやる。
耳元から駆け抜けるくすぐったさと、ゾクゾクする感覚に実をくねらせる可符香の体中を、さらに先生の指先が這いあますところなく刺激を残していく。
「…あぁっ…ひぁ…ああんっ……はぁはぁ…せんせい…」
駆け巡る刺激に翻弄されながら、可符香は先生の瞳を見つめて呼びかけた。
「…どうしました、風浦さん?」
「…こんどは…私の肌に直接触れて……先生の手の平…もっと感じたいんです…」
そう言って、おずおずとセーラー服の上着の裾をつまみ、胸元までたくし上げ、さらに胸の膨らみを覆うブラジャーまで上にずらしてしまう。
「…お願いです…せんせい……」
先生はしばらく声もなく可符香の顔を見つめ、しかしやがて、ゆっくりとその手の平を彼女の肌へ。おへその辺りからなぞるようにして、鳩尾を経て鎖骨の辺りまで指先で撫でてやる。
それから両方の乳房を優しく手の平で包み込み、その先端の淡いピンクの突起を、最初は指の腹で撫でて、次は親指と人差し指でつまんで軽く転がしてやる。
「…あっ…くぅんっ…せんせ…キスして……」
まるで酸素を求めて息継ぎでもするかのように、自分の唇を求めてくる可符香の声に、先生は唇を重ねてやる事で応える。
夢中で先生の舌に自分の舌を絡ませ、先生の愛撫に敏感に身をくねらせる。そんな可符香が愛しすぎて、つい我を忘れそうになるのを必死で堪えながら、先生はあくまで優しく愛撫を続ける。
「…そんなに我慢しなくても、だいじょうぶですよ…せんせい…」
それを見透かしたかのように、可符香が微笑んで言った。
「ですが……」
「…だいぶ慣れてきましたから…それに、先生の指なら、私大丈夫みたいです……」
それから今度は恥ずかしそうに、少しだけ声を小さくして
「……今度はここで…先生の指先を感じたい……」
スカートをゆっくりと捲り上げ、その下の、白い薄布一枚に守られた、彼女の一番大事な場所に手を当てる。先生は導かれるようにして、そこに右手の指先を触れさせて……
「…先生の指先…すごく熱いです……」
なぞる。指先に感じる。そこに篭る途方も無い熱量を。
「……あぁ…」
「……風浦さん…」
信じ難い熱を、彼女の内側から溢れ出て来たエネルギーを感じながら、先生は何度もその部分を撫でた。
指先を濡らす湿り、布地越しの摩擦に反応する彼女の声が、先生を駆り立てる。
「ああっ!…ひぅ…あっ…ああああああんっ!!!!」
やがて先生の指先はショーツの上側からその内部へ、密やかな茂みの心地よい感触を感じてから、指先はさらにその先へ、敏感な入り口の部分に到達する。
「…ふああっ!!…あぁ…せんせいっ!!!」
さらに熱く、指先を溶かすようなその熱量。直接触れられて、激しく反応する彼女の体を、ぎゅっと抱き締めた。
先生の指先にかき混ぜられる度に、彼女の体が踊り跳ねる。強すぎる刺激に耐えようとぎゅっとしがみついてくる可符香に、先生は何度もキスをしてやる。
「…んんっ…んくぅううっ!!…ぷぁ…あぁ…せんせ…すごいいいいっ!!!」
滴り落ちる蜜は既に先生の手の平をびしょびしょに濡らしていた。くちゅくちゅと聞こえる水音は可符香の恥ずかしさを煽ったが、それが先生の指先を求める衝動は収まらない。
一度先生の指が動く度に、声が出てしまう、体がビクンと震える、涙が零れて先生の事を呼んでしまう。体は天井知らずに熱くなっていき、その熱が理性を溶かしていく。
「…せんせいっ…せんせ……ぅああああああああ!!!!」
やがて可符香の心と体は、先生の指先の導くままに、高みへと上り詰める。一気に力が抜けて崩れそうになる彼女の体を、先生の腕はしっかりと抱きとめた。
「…大丈夫ですか、風浦さん……?」
「……はぁはぁ……はい、先生……」
涙が滲んだ瞳で、可符香は先生の顔を見てうなずいた。
そのまま、しばし見詰め合う二人の間に言葉は無かったが、お互いの気持ちは手に取るようにわかった。
ひとつになりたい。愛する者の全てを受け入れ、繋がり合いたい。
「……先生…わたし…」
可符香の呼びかけに、先生が頷く。
可符香は自分のショーツに手をかけ、するすると脱いでいく。先生も自分の大きくなったモノを取り出す。少し恥ずかしそうにしている表情が可愛いなと、可符香はこっそり微笑んだ。
先生のモノは、やはり生物として同種である以上、あの事件の時に見た男達のモノとそう変わらないような形をしていたが、不思議と可符香には嫌悪感は湧かなかった。
手の平で触れてみる。伝わってくる脈動は、全て自分を想うが故なのかと思うと、可符香の胸に不思議な愛しさが湧いてきた。
「…それじゃあ…風浦さん…」
「…はい……」
長机に座り脚を開いた彼女の、大事な部分の入り口に先生のモノがあてがわれる。触れ合った感触に、お互い少しドキリとしてしまう。
だけど、そんな時、得体の知れない不安が可符香を襲った。
「…風浦さん?」
微かに歪んだ彼女の表情を見て、先生が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「大丈夫ですか?…辛いなら、今からでもやめに……」
「違います…違うんです……」
気遣う先生に、可符香はぶんぶんと首を横に振った。
「……汚くないですか?」
「えっ!?」
「……私…汚くないですか?」
それは、あの事件の忌まわしい記憶。何度も汚され、男達のオモチャにされた記憶がもたらした理屈では言い表せない不安感。
しかし、そんな可符香の頬に、そっと先生の手の平が添えられて
「あなたはきれいですよ、風浦さん……」
どこまでも優しいその声が、心の中をじんわりと満たして、不安をほどき、消し去っていく。
「あなたはとてもきれいです……」
もう一度言ってくれた言葉に、可符香は少しだけ目じりに涙を滲ませてうなずく。
「はい、先生……」
先生と可符香の唇がそっと重なる。
二人はもう一度うなずき合って、それからゆっくりと、先生は可符香への挿入を開始した。
「…うぁ…っあああああ……せんせいっ…せんせいの…はいってくるぅ……っ!!!」
愛しい人に体を満たされていく、満たしていく、言葉に出来ない感覚と感情に、二人は互いの体を強く抱き締め合い、歓喜に震える。
繋がりあった部分から一つに溶けてゆくような感覚が、二人の理性すら奪い去り、むき出しになった感情が、愛情が、行為をだんだんと加速させていく。
「…くぅ…ああっ…風浦さんっ!!」
「…ひゃうぅ…あはああっ!!…せんせ…やぁ…すごいぃいいいっ!!!!」
敏感な粘膜が擦れあう度に、脳裏に無数の火花が飛び散る。抑えきれずに出てしまう声、ビクンと震える体、そんな互いの反応が愛しくて嬉しくて、それが行為をさらに激しいものにしていく。
何度も何度も、先生のモノが可符香の中をかき乱して、かき混ぜて、ほとばしるあまりに大きな快感に、彼女は背中を弓なりに反らせて体を震わせた。
「…ふああああっ!!!あんっ!!あ、ああんっ!!!…や…は…ぁああああああんっ!!」
ともすれば怒涛の如き感覚の洪水に流されて、壊れそうになってしまう彼女の体を、先生の腕がしっかりと抱き締めてくれた。
自分の全てを相手に委ねる事ができる、相手の全てを受け入れる事ができる、そんな感覚が生み出す安心感が、先生を、可符香を、より大きな快感の高みへと解放していく。
「…ひぅ…ふあああんっ!!…せんせ…せんせいっ!!…もっと…もっとはげしく…おねがいっ…せんせいっ!!!!」
「…風浦さんっ!!…ああっ…すごい…わたしも……っ!!!」
汗に濡れた肌が触れ合う感覚さえ、頭をスパークさせるような痺れに変わる。体の上をなぞる相手の手の平の通った跡が、火傷を起こしたように熱い。
呼吸する時間さえ惜しむように互いの唇を求めて、舌を、口の中を、溶けそうになるまで愛撫し続ける。競うように相手の体にキスマークを残し続けた。
「…風浦さんっ!!…風浦さんっ!!!!」
「…せんせいっ!!…せんせいせんせいっ…せんせいぃいいいいっ!!!!」
思考能力は当の昔に消し飛んで、今の二人の中を満たすのは、快感と、快感と、快感と、そしてそれさえ
凌駕するほどのお互いへの激しい想い。
このまま本当に一つに溶けてしまいたいほどに、好きで好きで好きで、愛しくてたまらない。溢れ出して止まらない感情の波の中で、先生と可符香はさらに強く互いを求め合う。
「…風浦さんっ…私はもうっ!!!」
「…せんせいっ…きてくださいっ!!…せんせいっ…きてぇええええええっ!!!!!」
熱も、快感も、全てが許容量をはるかに超えて高まり、先生と可符香は限界に近づいていく。しかし、二人の行為はそれでもペースを落とす事無く、むしろさらに激しさをましていく。
そして、高まり続けた熱が二人の心と体の中で弾けて、ついに限界を迎えた。
「…くっ…あああああっ…風浦さぁああああんっ!!!!!!!!!」
「…せんせいっ…せんせいっ…ふああああああああああっ!!!!!!!!!!」
ビクンビクンと、体の中で溢れ出た熱が可符香を満たしていく。その幸福感に零れ出た涙を、先生の手の平がそっと拭う。
そしてそのまま見詰め合った二人は、引かれ合うように唇を重ねて、お互いの体を抱き締めあった。
それから二人が衣服を整え、音楽室を出ようとする頃には、さすがに夕日も沈んで、僅かに薄紫の光が西の空を染めていた。
「随分、遅くなりましたね……」
「でも、不思議ですね……先生にもっとずっと長く抱き締められてた気もします」
音楽室の中もすっかり薄暗くなって、互いの存在を確かめ合うように二人は手をつなぐ。伝わる温もりの中に、お互いの気持ちを確かに感じる事ができる。
夕日に染められた校舎がいつもと違う雰囲気に変わるように、通じ合った気持ちは先生と可符香の見る世界の色を変えていくのだろう。
「先生、また夕方の学校でデートしてくれますよね?」
「どうせ、理科準備室でホルマリン漬けと挨拶でしょう?それは遠慮します。絶対にっ!!」
「いやだなぁ、他にも見所はたくさんあるんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、廊下だけしか見てなかった先生じゃ思いもよらないような所が…」
「それは自由自在に不法侵入しまくってたって事でしょう…」
「それならもう先生も共犯ですから、ぜんぜん全く問題ありません」
「ああっ、そういえば……」
嬉しそうにクスクスと笑う可符香と、苦笑しながらも彼女に優しい眼差しを送る先生。暗くなった廊下を、二人は肩を寄せて歩いていく。
きっと、もう大丈夫。
喜びも悲しみも、良い事も悪い事も、今は一人だけのものじゃないから。二人なら、きっと大丈夫。
先生がつないだ手の平に力を込めると、応えるように可符香の手の平が握り返してくる。その感触が、今の二人にとって何よりも確かな道標になる。
東の空の隅に上った冴え冴えとした三日月が、並んで歩く二人の後姿をいつまでも、いつまでも見守っていた。