今日も今日とて2のへは相も変わらずの大騒ぎ。なんとか一日の仕事を終えたクラス担任、糸色望はぐったりと教卓に上半身を預けて、深いため息をひとつ。  
「今日もやっと終わりました。なんでこう私にばっかり被害がきちゃうんでしょうか」  
確かに、2のへの生徒たちが巻き起こす騒動でたいてい一番大きな被害を被るのは先生なのだが、そもそもが彼の思いつきの発言に端を発している事ばかりなので、あまり悲惨という感じもしない。  
まあ、ほとんどの生徒が教室から出て行ってしまい、つっこむ人間も不在であるため、先生はこれでもかというほど自分をかわいそがる。  
「絶望したっ!!絶望しましたっ!!!過酷な労働環境、荒れ果てた教育の現場に身一つで立ち向かうこの状況、まさに絶望以外のなんでもありませんっ!!!!」  
大仰にポーズをとって一人ぼっちの教室で叫ぶ姿は教師というよりはむしろ、駄々っ子か何かのようであったけれど、生徒たちの目線がないのを良いことに先生のテンションはどんどん上がっていく。  
ところが……  
「そもそもこのクラス、やっぱり特殊な生徒が多すぎるんですよっ!!しかもいつの間にか私を中心に女生徒たちの間の人間関係が複雑化してるしっ……」  
「ふんふん、やっぱり先生は大変なんですねぇ……」  
耳元で突然聞こえた声に、先生は心臓がひっくりかえらんばかりに驚いた。  
「ほ、ほぉわぁああああっ!!!?」  
振り返った先に見たのは、毎度毎度事態を致命的な方向に持っていく超ポジティブ少女・風浦可符香の笑顔だった。  
「あ、あなた、どうしてここに…っ!?」  
「忘れ物を取りに来ただけですよ。そんなに驚かなくてもいいじゃないですか?」  
なんて彼女は言っているが、こちらが気付くまでこっそりと話を聞いていたあたり、やっぱりどうにも彼女は人が悪い。  
「そ、そうですか。なら、早く見つけて帰りなさい。最近はすっかり日が落ちるのも早くなりましたから……」  
冷静になってみれば単なる愚痴を叫んでいただけの先生は、それだけ早口で言ってしまうと、顔を赤くしてそっぽを向いた。  
しかし、一方の彼女はさきほどまでの話題から話を変える気はないようだ。  
「やっぱり先生は素晴らしい教師ですね。苦境にもめげず身を粉にして生徒のために働いて……。まさに教師の鑑ですよ!!」  
「あの、ちゃんと私の話聞いてますか?」  
瞳をキラキラと輝かせて語る可符香だったが、そこで少し声の調子を落とした。そして、先生にこう尋ねた。  
「それだけ大変だと、やっぱり時々くらいは先生を辞めたくなったりしますか?」  
その言葉がなぜだか妙に真剣な感じに聞こえて、先生は少し考える。しばしの間を置いて出てきた答えは彼自身にとっても意外なもの  
「……ないですね、それは」  
あっさりと言い切られたのが彼女にとっても意外だったのか、可符香もきょとんとした表情をしている。  
まあ、何事かある度に先生が事態の中心から逃げ出そうとするのはいつもの事だったし、いつぞやは『絶望先生』の座を生徒に襲名させてまで逃げ出したりもした。  
それでもなんだかんだで戻ってきては、結局このクラスの担任を続けている。改めて考えてみると不思議なような気がするが、その理由は何となく先生自身にもわかるような気がした。  
「……大変な事は認めますけど、楽しいんですよ。あなた達と一緒にいられるのが」  
それから自分の言った事が急に恥ずかしくなったのか、先生は可符香の方に話を振った。  
「そ、そういうあなたこそどうなんですか?毎日、学校楽しいですか?」  
「え、えっとそれは…」  
先生の言葉に気を取られていたせいか、可符香は珍しく言葉に詰まった。  
「…私も、楽しいです」  
 
いつもの饒舌な調子とは違う、ごく素直な感想が言葉になって出てきた。それから、誤魔化すように笑顔を浮かべた可符香に、先生がもう一言  
「それに、あなたの笑顔を見るのも嫌いじゃないですしね」  
思えば、彼のこの学校での生活は、あの日あの桜の下で出会った彼女の笑顔から始まった。  
なにかと陰謀めいた事をめぐらせては、平然と笑顔でいる彼女。どうやら複雑な家庭の事情を持っているらしい事も、先生は知っていた。  
だけど、普段教室で目にする彼女の笑顔が、それらを裏に隠した偽りの仮面であるとも、先生には思えなかった。  
少なくとも、みんなといられる時間が楽しいから、それが彼女の笑顔の理由であると先生は何となく思っていた。  
ただまあ、それを口にしてしまったのは、普段の先生自身からすれば全くらしくない事だったけれど。  
「そ、そうですか……先生がそう思ってくれてたのは……良かったです」  
「い、いえ、どういたしまして……」  
お互い、普段にらしくない事を言ってしまって、先生と可符香は顔を赤くしてドギマギする。  
可符香はいそいそと忘れ物のノートをカバンの中に収め、教室から立ち去ろうとする。先生はその背中に向けて一言声をかける。  
「帰り道には気を付けてくださいね。もう大分暗くなりましたから」  
「はい」  
そして、立ち止まり先生に答えた可符香に  
「それじゃあ、また明日も元気で来てください」  
「はい、先生も、また明日」  
笑顔でそう言って、可符香は教室を出て行った。  
『また明日』、思えば当たり前の事なのに、明日もまた彼女とそして彼の生徒たちとの一日が始まるであろう事が妙に嬉しくて、いつもより少しだけ足取り軽く先生は教室を後にした。  
 
夕日がアスファルトの路面に落とした、自分自身の長い影を追いかけながら家路を急ぐ。はずむ息とすこし熱くなっている頬は、たぶんさっき先生に言われた言葉のせいだ。  
『あなたの笑顔を見るのも嫌いじゃないですしね』  
その言葉を頭の中に繰り返す。『笑顔』は彼女、可符香にとっては鎧のようなものだった。身の回りに降りかかる理不尽と不幸を遮り、生き抜いていくための鎧。  
ずっとその筈だった。だけど、数多くの友人たちと出会い、その中で笑い続けている内に、仮面でしかないはずの笑顔は少しずつ変化をしていった。  
そして、あの春の日、あの桜の下で出会ったこれ以上ないくらい人騒がせなあの先生との日々、それが決定的な変化をもたらした。そんな風に思える。  
「そっか、今の私は、笑えてるんだ……」  
泣いたり、怒ったり、マイナスの感情を表現するのはまだ無理かもしれない。だけど少なくとも、みんなと、先生といる時浮かべているのはきっと嘘の笑顔じゃないはずだから。  
不思議と浮き立つ心に、足取りはさらに軽くなる。『また明日』、次の一日が始まるのが待ち遠しくて、その事ばかりを考えながら家路へと急ぐ。  
だから、彼女は気付いていなかった。彼女の行く道の先、静かにエンジン音を響かせながら停車している一台の大型乗用車の存在に。  
それに気がついたのは、彼女が車の手前までやって来て、突然そのドアが開いた時だった。  
「やあ、久しぶりじゃないか…」  
車から降りてきた一人の男。白いジャケットに赤いシャツ、そしてテラテラと脂ぎったオールバックの組み合わせがどうしようもなく下品なその男に、可符香の忘れていた記憶が揺さぶられた。  
「元気にしてたかい?杏ちゃん……」  
 
その翌日、風浦可符香が学校に姿を現すことはなかった。  
 
淡々と続けられる授業、途中相変わらずの馬鹿騒ぎを差し挟みながらも、なんだかんだで時間は過ぎていく。だが、そこに残る致命的な違和感。  
『はい、先生も、また明日』  
笑顔で答えた少女の顔が脳裏から離れない。今日、学校を休む事に対して彼女からは何の連絡もなかった。その事が昨日の彼女の態度とどう考えてもそぐわない。  
もしかしたら、連絡が取れないほどに体調を崩しているのかもしれない。そうも考えたが、何かそれ以上に大変な事が起こっているのではないかという胸騒ぎがする。  
「先生、ずっと難しい顔してますね」  
教卓の下からまといが話しかけてきた。  
 
「み、見てたんですか?」  
「ずっと、ていうか昨日の時点から見てました」  
まといもいないと思って愚痴をわめき散らしていたのに、まさか見られていたとは……  
「先生はひどいです。私というものがありながら、気ままに女性をたぶらかすなんて……」  
「たぶらかしてなんかいませんよ……」  
「いいんです。私はどんな事があっても、先生に付き従って尽くしていくだけですから……でも」  
と、そこでまといの表情が硬くなる。  
「私もおかしいと思います。風浦さんのこと。一人暮らしだって聞いてますし、もし何かあって、助けも呼べずにいるんだったら……」  
「そうですね……」  
まといの言葉に先生もうなずく。折りしも4限の終了を告げるチャイムが鳴ったばかりだ。昼休憩の間に可符香の家まで行ってみるべきだろう。  
「それじゃあ、戻れなくなった時には他の先生方への説明をお願いできますか、常月さん」  
「……う、わかりました、先生の頼みですから…」  
「ありがとうございます。それじゃあ…」  
教室を後に、先生は走り出す。途中、宿直室に授業道具を置いて、後はそのまま一直線にいつぞやの過程訪問の地図の記憶をたよりに、可符香の家へと急ぐ。  
元々体力のない先生の息はあっという間に上がってしまったが、それも気にせずひたすらに走る。胸の奥に滞るどうしようもなく嫌な感じが、先生に足を休ませなかった。  
やがて、道の先に彼女の家と思しき建物を見つけたとき、まず気がついたのはその前に停められた大型の乗用車だった。外国製の、それもかなり値が張る代物だ。  
ごく普通の住宅街であるこの場にはあまりにもそぐわない物、明らかな異物、額から吹き出る嫌な汗を拭いながら、走る先生の目の前で彼女の家の扉が開いた。  
そこから出てきたのは  
「さあ、行こうか杏ちゃん」  
赤シャツ白ジャケットの、オーツバックの男を中心とした、あきらかにカタギの人間とは思えない集団。そして彼らに囲まれ、俯いて歩く風浦可符香の姿だった。  
「風浦さんっ!!!」  
思わず叫んでいた。オールバック男が振り返り、怪訝な表情を浮かべる。  
「何だァ?」  
「せ、先生っ!!」  
顔を上げて叫んだ可符香の顔には、いつもの明朗さは欠片もなかった。いつも騒ぎの中心で超然としている彼女が、今はまるで怯える小動物のようだ。  
「ああ、先生ですか?学校の?いや、これは良い所でお会いしましたね」  
何が可笑しいのか、ニヤニヤと笑いながらオールバック男が言った。相手の尋常ではない雰囲気に気圧されながらも、先生は彼をにらみ返しながら問いかける。  
「あなたは、どこのどなたですか?ウチの生徒に何か御用でも?」  
「いやいや、そう恐い顔をなさらないでください。まあ、何も説明がなければ、何事かとお思いにはなるでしょうが……」  
男はニヤニヤ笑いを崩さぬまま、馬鹿丁寧に先生に頭を下げる。  
「私達は、彼女の、赤木杏さんのご親族に縁のある者でして、私名前を如月判人と言います」  
そして、如月は可符香の肩をぐいと抱き寄せ  
「今日は彼女を迎えにきたんですよ」  
「なっ!?」  
言葉を失う先生に、如月と名乗った男は懐から一枚の紙を取り出し、見せ付けた。  
「いつの時代も、世の中は世知辛いもんです。彼女の父親がたった一度ついたハンコが、めぐりめぐって莫大な借金を彼女に負わせることになるなんて、これはもうホント噴飯物ですよ」  
先生は彼女の家庭事情を思い出す。莫大な借金のために自殺してしまった父母、両親以外の親族も次々に不幸に襲われ、彼女は一人きりになった。  
「だから、私達は彼女にとって僅かにでも助けになればと、働き口を斡旋しにきたんですよ。普通に働いてどうにかなる額じゃありませんからね。特別なのを用意してあげました」  
それだけ聞けば、もうマトモな事態でない事は明らかだった。  
「そ、そんな事が許されると……っ!!」  
「ああ、言っておきますけど、彼女は既に同意していますから…」  
 
「えっ!?」  
その言葉の意味が一瞬理解できず、先生は可符香の方を呆然と見つめた。  
「嫌だなぁ、先生、そんな顔しないでください」  
その笑顔は、今にもボロボロと崩れてしまいそうで、昨日自分の前で浮かべたものと同じ表情とはどうしても思えなくて……  
「大丈夫です。ぜんぜん平気ですから、心配しないでください。みんなと一緒に卒業できなかったのは、少し残念だけど……」  
彼女の言葉を継いで、如月が続ける。  
「そうだなぁ、一度しかない高校生活を全うさせてあげられなかったのは、杏ちゃんには可哀想だったかなァ。まあ、でも本音を言うと、そこまで待ってると商品価値が大暴落しちゃうしねェ……」  
その言葉が引き金になった。  
「うああああああああああああああああっ!!!!!」  
弾かれるように走り出した先生を見て、如月はうんざりとした表情で首を振る。  
「それは良くない。実に良くないよ、先生」  
走る先生の進路上に、如月の部下らしき男の一人が立ちふさがる。殴りかかろうとした先生の腕を受け止め、そのまま力ずくに投げ飛ばした。  
「がはっ!!?」  
わざと受身を取らせぬよう地面に叩きつけられ、先生の呼吸が一瞬止まる。そして地面を無様にのたうちまわる先生の鳩尾に、男のこぶしが強烈な一撃を叩き込んだ。  
もはや声も出せない先生を一瞥し、可符香の肩を抱いた如月は乗用車に乗り込む。  
「それじゃあ、ご面倒だとは思いますが、杏ちゃんの退学の手続きの方だけよろしくお願いします、先生」  
車のドアが閉まる前の一瞬、可符香は先生の方を向いてもう一度微笑んだ。やがて車が走り去っても、地面に這い蹲る先生のまぶたの裏から、その笑顔が消えてくれる事はなかった。  
 
薄汚れた天井をぼんやりと見つめている。照明は薄暗く、カーテンに隠された窓の向こうは隣の建物の壁があるばかりで、部屋はまるで夕闇の中にあるようだ。  
調度品といえる物はほとんど存在せず、くすんだ色の壁に囲まれた部屋の真ん中には、これもまた薄汚れたベッドが一つあるばかりだった。  
そのベッドの縁に腰掛けて、風浦可符香はただ天井ばかりを見つめ続けている。  
ここは如月たちの所有する事務所の一室だった。外には二人ばかりの見張りがいて、女一人での脱出が可能であるとは思えなかった。  
「………先生」  
ぽつり、呟いた。  
これから自分に待ち受けている運命は、如月の説明でイヤというほど理解していたが、今はあまり気にならなかった。  
ただ、地面に這いつくばっても、自分の方を見つめ続けていた先生の、その悲しげな瞳ばかりが思い出されて、他に何を考える気にもならない。  
それにきっと、暫くすれば、そんな事を思い浮かべる余裕すら自分から奪われるだろう。今だけは、この気だるい思考に心を任せていたかった。  
「やあ、杏ちゃん、入るよっ!!」  
それからいくらも経たない内に、数人の男達を引き連れて如月がやって来た。声ばかりは陽気だが、その裏に忍ばせた威圧的な空気は、可符香を不安にさせた。  
「さて、もう話したと思うけど、今回は依頼人の要望でね。少しばかり練習をしていく事になってる。初任者研修みたいなものだと思ってくれればいい」  
それから如月は、ベッドのすぐ脇にビデオカメラをセットした。  
「これも依頼人のリクエストでね。恥ずかしいと思うけど、ごめんね。まあ、何につけ仕事ってのは一にも二にも忍耐だからね。我慢してほしい」  
「……はい」  
「うん、いい返事だよ、杏ちゃん」  
如月の連れて来た男達が衣服を脱ぎ始める。そして、下着一つになった男二人が可符香の両側から近づいてきた。男達が手を伸ばし、とっさに引っ込めそうになった可符香の腕をつかむ。  
そのまま、可符香の両サイドに座った男達が乱暴に体をまさぐり始めた。  
「…っく……あぁ…痛っ…」  
 
服の上から乳房を、乳首を、千切れそうなほどの力でいじり回される。痛みに悲鳴を上げた口を、今度は男の汚らしい唇に塞がれる。  
「…んっ…んうぅっ!!…んんっ…ん―――っっっ!!!」  
左右の男達から、呼吸をする暇さえ与えられず唇を犯される。酸素不足で朦朧とする頭を、到底愛撫とは言えない男達の乱暴な行為で揺さぶられる。  
苦痛のために思考力を奪われ、抵抗する力をなくす体。その一番大事な部分に、今度は3人目の男の指先が伸びる。  
「んんーっ!!?…んっ…ぷあ…あぁ…いやあああああああっ!!!」  
男の指先は何の遠慮もなく、可符香の秘所の奥深くまで侵入してきた。強引なキスから開放された瞬間に、可符香は大きな悲鳴を上げ、抵抗するように手足をジタバタとさせた。  
だが、拘束はまったく緩むことなく、可符香の秘所は男の指によって思うさまに蹂躙される。さらに男は可符香のショーツをゆっくりとずらし  
「…あぁ…いや……」  
その舌で、彼女の秘所にしゃぶりついた。見知らぬ男の舌が割れ目に差し込まれ、荒い鼻息が恥ずかしい部分に直接当たる。  
(……こんな…汚い…)  
手足をガッチリと拘束されたままの可符香は、目に涙を滲ませ、嫌悪感に身を捩じらせながら堪えることしか出来ない。  
「…うあっ…あああっ…や…やだぁあああああああっ!!!!!」  
悲痛な悲鳴に男達はニヤリと笑い、さらに激しく彼女を陵辱する。  
「う〜ん、杏ちゃん、いい声出すなぁ……」  
恐怖と嫌悪に顔を顔を歪ませ、泣きじゃくる可符香の姿を横目に見ながら、如月はウンウンと満足げに頷く。  
出だしは上々、彼女は思った以上の商品に仕上がりそうだ。あの時首を吊った夫婦の忘れ形見が、これだけの上玉に育っていたとは、これ以上ない最高の拾い物だ。  
「よし、それじゃあウォーミングアップはこの辺までにしておこうか」  
如月がそう言って、パンパンと手を叩くと、男達は手を止めて可符香を開放した。激しい陵辱に放心状態の彼女は、そのまま力なくベッドに横たわる。  
「さあ、これからが、まさしく”本番”だ」  
如月がそう言うと、男達はクックッと笑いを漏らした。如月はそんな男達を順番に眺めてから  
「そうだな…安藤君、一番手は君に任せるよ」  
「いいんスか?」  
「君ぐらい激しい方がね、ほら、最初はまあ辛いだろうけど後の方が彼女も楽じゃない」  
如月の言葉を受けて、安藤と呼ばれた男が可符香の元に近づく。  
「んじゃあ、初物、いただいちゃいますよ」  
「ああ、存分に頼む」  
放心状態だった可符香は、自分の上に覆い被さる大きな影を見て、ようやく事態を把握する。絶望感に満たされていく頭の中に思い描いたのは、2のへのクラスメイト達の姿だった。  
(千里ちゃん、晴美ちゃん、奈美ちゃん、あびるちゃん、久藤くん……)  
次々と浮かぶ、平和な日々の思い出と、共に過ごした仲間たちの笑顔、そして最後に浮かんだのは、いつも喚いて騒いで落ち着きのない担任教師の顔だった。  
(…先生……っ!!!)  
その思考を激烈な痛みが引き裂いた。入り口にあてがわれた男の長大なモノが可符香の体を一気に刺し貫いたのだ。  
「っああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!」  
可符香の悲鳴が部屋いっぱいに響き渡った。強引な挿入に溢れ出たおびただしい量の鮮血すら潤滑油がわりにして、男は激しいピストン運動を続ける。  
「…あっ!!…うあああっ!!!…いやああああああああっ!!!!!」  
ただひたすらに、突き上げられ、突き入れられ、繊細な少女の内部を徹底的に破壊される。悲鳴を上げれば上げるほど喜悦を浮かべる男の表情が、可符香の心に深く絶望を刻み付ける。  
なす術もなく陵辱を受けるしかない現実が、かつての不幸を乗り越えて、幸せに暮らしていたはずの少女『風浦可符香』を破壊していく。  
「杏ちゃん、ホントいい反応するよねぇ…はは、これなら”就職先”でも心配はいらないかな」  
満足げな如月の声が聞こえた。  
杏ちゃん、赤木杏、学校の名簿にこそ登録されているものの今はほとんど使うことのなくなった、かつて不幸のどん底で震えている事しか出来なかった少女の名前。  
そこから逃れるために生み出した『風浦可符香』は、いつしか本物の自分になっていた。そう信じていた。だけど……。  
「…ひぐぅっ…あっ…くぅっ…ひううううっ!!!!!!」  
引き裂かれる痛みが、汚されていく心が、『風浦可符香』を壊していく。ほんの少し前まであったはずの幸せな日々が、手の平からすり抜けるように消えていく。思い出せなくなる。  
全てを奪われて、少女は男の欲望をぶつけられるだけの人形へと堕ちていく。  
「そろそろ、出すぞぉっ!!!!」  
 
男の動きが激しさを増す。可符香の思考はさらにズタズタに引き裂かれ、もはや苦痛に悲鳴を上げることしか出来なくなる。  
「うおおおおおおおっ!!!!」  
「…ひ…ぎぃ…や…ああああああああ――――――――っっっっ!!!!!!!!」  
注ぎ込まれる男の汚れた欲望の証。自らの胎内に広がっていくその熱が、可符香を繋ぎとめていた最後の一線を断ち切った。  
「…あ……ああ…」  
既に彼女の瞳から、かつての輝きは消え去っていた。『風浦可符香』は、こうして跡形もなく破壊された。  
 
痛む体を引きずるようにして学校に戻った先生は、保健室で手当てを受けるのもそこそこに警察に向かった。  
智恵先生と甚六先生に伴われ、やっとの思いでたどり着いたそこでの対応は、しかし冷ややかなものだった。  
「残念だけどねえ、今の段階でできる事はないですねぇ」  
「それは…どういう……」  
「君の不確かな証言だけで、警察が動けると思う?」  
「そんな……っ!!」  
応対した警官は今にも噛み付かんばかりの形相の先生をめんどくさそうに横目で見ながら続ける。  
「だいたい、君の話じゃあその娘は自分でついていったんだろ。それで、すぐにどうこうこちらが動くってのは難しいって、君もわかるでしょう?」  
何かあったら連絡してくれと、白々しくも電話番号だけ渡されて、暗澹たる表情のまま、3人は学校へと帰っていった。  
警察にどうこうできない物を学校で対応することなど出来るはずもなく、形ばかり開かれた職員会議は何の結論も出さないままに終わった。  
その後、甚六先生、智恵先生と共に考えられる限りの対応策を話し合ったが、急を要する現状に対して役立ちそうなものはなかった。  
「私達には…何もできないんでしょうか……」  
呟いた智恵先生の瞳には涙が滲んでいた。甚六先生も沈痛な面持ちで俯くばかりだ。  
先生は路面に叩きつけられた痛みもまだ癒えぬ頭を上げて、窓の外でだんだんと深まっていく夜空を睨んだ。  
一分一秒を争う事態の中で、何も出来ないでいる自分。怒りとも悲しみとも判別の出来ない激しい感情が渦巻き、ギリリと歯軋りをする。  
「とにかく、糸色先生は休んでいてください」  
甚六先生の気遣いの言葉を受けて、先生は職員室を後にし、宿直室に向かう。  
「お兄様……」  
宿直室の入り口で、倫が待っていた。先生のクラスを含めた生徒全員には、今回の一件はまだ伏せられていたが、ただ一人だけ妹である彼女には事情を説明してあった。  
「やはり、本家のツテを使ってもできる事は少なそうですわ……ごめんなさい、お兄様…」  
「…あなたが謝る必要なんてありませんよ」  
そう言って微笑んだ兄の表情が痛々しくて、倫は目をきゅっとつぶり俯いた。その頭を先生が優しく撫でる。  
「……絶望しました。絶望しましたよ、本当に」  
呟いて、宿直室の扉を先生が開く。すでに交は床に就いており、部屋の中に明かりはない。目の前の闇を睨みつけながら、先生はもう一度呟く。  
「…………絶望しました、これ以上ないほどの絶望ですよ。だけど、しかし……っ」  
その言葉の響きの中に、兄の胸の内で滾る何かを、倫は聞いたような気がした。  
 
その翌朝、宿直室から先生の姿は消えていた。  
 
日にちの感覚など、既に無くなっている。  
苦痛も快楽も渾然として識別ができながったが、体の奥を男達の剛直に貫かれるたびに走る痺れを性的快楽と言うのなら、自分は快楽に溺れているという状態なのかもしれない。  
いずれにせよ、如月に薬を使われてからは、時間の感覚すら曖昧で、彼女はただ男達の望むままにその肉体を捧げ、淫らに声を上げ続けていた。  
「あはぁっ!!…またイクぅっ!!!イっちゃうのおおおおおっ!!!!!」  
ビリビリと痙攣する体の奥に、もう何度目かわからない男の欲望を受け止める。絶頂に息を荒げる彼女を、男達は休ませない。今度は目の前に差し出された肉棒に、彼女は奉仕を始める。  
「…ん…くちゅ…ぴちゃぴちゃ……」  
「はは、随分上手になったもんだなぁ、杏」  
彼女の『名前』を呼ぶ声が、頭上から聞こえた。  
(そうだ。私は『赤木杏』で、今はこの人たちの商品で……)  
ぼんやりとした頭でそんな事を考える。当たり前のはずの事を確認している自分を一瞬不思議に感じるが、すぐに男達の行為に意識を引き戻される。  
四つん這いになって口での奉仕を続ける彼女、その背後に別の男が回りこみ、先ほど出されたばかりのアソコの入り口にモノをあてがう。  
「…や…だめぇ…さっきイったばかりなのにぃっ!!!!」  
 
彼女の言葉には耳を貸さず、男は自分のモノを一気に挿入した。絶頂を迎えた直後の敏感すぎる粘膜を刺激され、彼女はあられもない声を上げて泣き叫んだ。  
「…あっ…ああんっ!!…ひぅ…ああああっ…すごすぎるぅっっっ!!!!!」  
これも薬の効果なのだろうか、自分の内側を抉り攪拌する激しい行為に彼女は痛みを感じない。いや、感じることができないのか。  
ただ、間断なく襲い掛かってくる電流のような鮮烈な感覚に、彼女は声を上げ、その体を淫らにくねらせた。  
「おい、杏、口の方がお留守だぞ」  
「あ、…ああんっ…は、はい……んんっ…くちゅくちゅ…」  
名前を呼ばれ、思い出す。後ろから犯される感覚に我を忘れて、口での奉仕がいつの間にか止まってしまっていた。  
「ほうら、杏、出すぞっ!!」  
「こっちもだ、杏、受け取れっ!!!」  
ついこの間までほとんど呼ばれる事のなかったその名前『杏』にも、彼女は違和感を感じていなかった。  
なぜなら、かつて不幸に涙を流すことしか出来なかった少女『杏』の記憶は、男達に無残に犯される今の自分『杏』の現状とほとんど変わりがないように思えたからだった。  
二人の男の欲望が、膣奥に、顔に、同時に吐き出される。体の内と外を白濁に汚されたその姿は、不幸に抗う術を知らない少女『杏』にふさわしいように彼女には思えた。  
「あ、あは…すごい…いっぱい……」  
「まだまだ楽しませてやるからな、遠慮せずに味わえよ」  
今度は仰向けに押し倒されて、再度の挿入を受ける。絶頂の連続で痺れきった秘所から伝わる感覚は、快感とすら言えない得体の知れない熱のように感じられたが、それでも彼女の体は反応した。  
「ほらほら、どうだ、いいだろう?たまらないだろう?」  
「は、はいぃっ!!もっと、もっとはげしくしてくださいぃいいいっ!!!!」  
男達の求めるままに体を開き、男達の求めるような声を上げ、男達の求めるような反応をする。  
そうやって溺れていく感覚は、まるで底なしの沼に沈んでいくようだった。自分が壊されていく様子にすら嬌声を上げて、一体自分はどこまで堕ちて、何になってしまうのだろう?  
背筋の凍るようなその危機感も、突き上げられるたびに走る電流の中に、弾けて消えてしまう。  
「あっ!!ふあああっ!!!…すご…はげしいのぉおおおおっ!!!!」  
だが、いずれ考えても仕方のない問題だ。なぜなら、今の自分にこの流れに逆らう力など残されていないのだから。  
僅かに残った理性さえ振り切るように、彼女は声を上げ、駆け抜ける痺れに陶酔し、そしてまた高みへと登りつめる。  
「ひ…あああああああっ!!!!…イクイクイクぅ…イっちゃううううううううっ!!!!!!!」  
そして糸の切れた人形のようにぐったりと力の抜けた彼女の体の奥に、男がまた精を放つ。  
「ほう、やはりなかなかいい仕上がりになったじゃないか」  
と、そこに聞き覚えのある声が響いた。ぼんやりとした頭で声のした方を向くと、ドアを開けて、満足そうな笑顔の如月が部屋に入ってくるのが見えた。  
「さあ、そろそろ出発の時間だよ、杏ちゃん」  
 
ほとんど足腰の立たなくなった体を男達に支えられて、彼女は部屋を出た。シャワー室に連れて行かれ、体をすみずみまで洗われて、いつの間にかクリーニングされていた自分のセーラー服に袖を通した。  
久しぶりに着た制服は如月たちに連れ去られたときと当然ながら全く変わっておらず、いまや堕ち果てた自分がさらに際立つようで居心地が悪かった。  
促されるまま階段を上る。一階上がったところで廊下の奥のドアの前へ案内される。さっきまで自分がいた部屋が2階のだったから、ここは3階だろうか。  
「さあ、杏ちゃん、遠慮せずに入ってくれ」  
如月に促され部屋の中に入る。どうやらこの部屋は、この事務所の代表である如月のものであるらしい。窓際のデスクにどっかりと座り、如月はにこやかな笑顔と共に話し始める。  
「いやあ、実によく頑張ってくれたね、依頼人もきっと満足してくれるだろうし、我々としても実に鼻が高いよ」  
それから人差し指を立てて、彼女にウインク。  
「もちろん君にとっても、最良の結果になると思うよ。借金なんてあっという間に消えてなくなるさ。個人の依頼だから、一日に何人も相手をさせられて体を壊すなんて事もないし、  
………まあ、その辺は依頼人の意向次第という所もあるけれど、いやあ、杏ちゃん、君は最高に幸運だた。私はそう確信しているよ」  
如月の言葉をぼんやりと聞き流す。もうこの体の中に残っているのは、不幸に弄ばれるだけの空っぽの少女なのだから、この先がどうなろうと関係ない。  
「じきに迎えが来るはずだ。名残惜しいけれど、杏ちゃんともこれでお別れだ」  
そうか、それじゃあ、この街ともこれでお別れなんだ。そう思ってみても何の感慨も湧かない自分に苦笑して、彼女は全ての思考を放棄してしまおうとした。その時だった。  
「……えっ?」  
信じられない物を見つけて、彼女の目が見開かれる。彼女の変化に気付いて、振り返った如月は、背後の窓の向こう、今は人通りの少ない真昼の繁華街にその男の姿を認めた。  
「せん…せい?」  
鋭い目つきでこちらを見上げる彼の、糸色望の姿に、止まってしまったはずの心が、トクン、微かに疼くのを彼女は感じた。  
 
やっとの思いで見つけた。たどり着いた。窓の向こうに彼女の顔を確認して、震えだしそうな体を何とか押さえつける。  
片手には木刀。懐にも用意した武器がいくらか入っているが、いずれにせよ今回の相手に勝つには心許ない装備だ。しかし、それでも……  
「風浦さん……」  
呟いて、決意を固める。考え抜いた末の行動だった。愚かな事かもしれないけれど、それでも自分が採るべきなのはこの選択肢しかないと、強く確信していた。  
如月達のビルの正面玄関、両開きのガラス扉が開いて、4人の男が姿を現す。全員が先生をはるかに上回る体格を持っていた。  
「しつこいな、先生……」  
先頭の男がそう言って、先生を睨みつける。だが、先生は微塵の恐れも見せない。  
睨み返し、言い切った。  
「ウチの生徒を、返してもらいます……」  
明確な意思表示に男達はコブシを固め、先生は木刀を両手で構えた。  
戦いが幕を開けようとしていた。  
 
「参ったなぁ、粘着質っていうのかな?あんな男だとは思わなかったよ。これからやっと彼女の出荷だってのにさ……」  
ウンザリとした様子で呟く如月の横で、囚われの少女は息を飲んで、眼下の戦いを見守っていた。それはあまりに無様で、絶望的な戦いだった。  
「どうして……っ!?」  
そもそも一対一で簡単にのされた男が、木刀を一本持ったところで大した違いにはならない。  
剣術の心得も持たない先生は、木刀をむやみやたらに振り回しながら男達に突っ込んでいく。男達はそれを散らばりながらかわし、それが出来ないときには腕で受け止める。  
以前のように瞬殺こそされていないが、滅茶苦茶に振り回される木刀を避けて、どうやったら無傷で先生を黙らせることができるのか、それを見極めるために様子見をされているだけだろう。  
やがて、男の一人が突撃する先生の斜め後ろから強烈なキックを食らわせる。そこに別の男が殴りかかるが、先生はそれを咄嗟に木刀で受け止める。  
ミシリ。全力で放たれたパンチの衝撃がそのまま跳ね返り、男のコブシにヒビが入る。しかし、それは男の怒りの炎に油を注ぐ結果になった。  
「この野郎がぁっ!!!」  
怒声と共に放たれたパンチが先生の右肩を強かに打った。  
 
「ぐあぁっ!?」  
先生が叫び声を上げる。それを切欠に次々と繰り出される男達の攻撃を、先生は腕や木刀でガードし、時に受け止めきれずによろめいて、それでも木刀を振り回して立ち向かう。  
先生と男達の間に再び距離が開く。しかし、四方から襲ってくる攻撃をしのぎきれず、先生は既にふらついていた。次に一斉攻撃を受ければ、ひとたまりもないだろう。  
「…やめて……やめて…お願い……」  
見ていられなかった。既に勝負は明らかだ。先生がどれだけ奮起しようと、暴力を生業とする彼らに敵う道理などないのだ。  
男達の一人が先生へと殴りかかる。先生の繰り出した木刀の一撃がかわされる。彼女は耐え切れず、目をつぶった。  
「ぐあああああっ!!!」  
だが、次に聞こえたのは先生の悲鳴ではなかった。目を開ける。いつの間にか右の片手持ちに木刀を持ち替えた先生が、左手に握った何かで男を何度も殴っている。  
「こぉのおおおおおおっ!!!!!」  
それは中に砂を詰めた靴下だった。推理小説を思い出して先生が用意した隠し武器。威力を増すために鉛も仕込んである。  
遠心力を得た砂の塊に何度も殴打され、前かがみになった男の首筋に先生は渾身の力を込めて木刀を振るう。その一撃をとどめに、男の体から力が抜け地面に倒れ伏す。  
そして、思わぬ反逆に浮き足立った男達の一人の顔面めがけて、今度は先ほどの砂袋を投げつけた。  
ひるんだ男の鳩尾に、先生は体重を乗せた突きをぶつける。さらに、ぐらりと揺らいだ男の鳩尾めがけて、追い討ちの突きを何度も食らわせる。  
死に物狂いの攻撃に、二人目の男も路上に倒れる。残りの二人が背後から襲いかかろうとするが、先生は路面に落ちた砂袋を拾い、噛み破ってその中身をぶちまけた。  
めくらましにひるんだ二人の男と先生の間に、再び距離が開く。  
「…先生……」  
ようやく彼女も心の底から理解する。死に物狂いの戦いぶりを見ていれば嫌でもわかる。先生は一歩も引き下がるつもりはないのだ。だけど……  
「まったく、素人相手に何をやってるんだか」  
苛立たしげに言って、如月が部下を呼びつける。  
「もういいよ。面倒くさい。10人、10人だ。それでさっさと終わらせよう。この間みたいな手加減もなしだ。叩き潰せっ!!」  
指示を受けて、部下が部屋の外に出て行く。それからすぐ、一階の入り口から8人の男が現れた。  
(…逃げて……先生っ!!)  
彼女の祈りも空しく、先生はまたたくまに10人の男達にぐるりと包囲されてしまう。もはや、多少の小細工や気合でどうにかなる人数ではない。  
それなのに、先生には一向に逃げ出そうという様子はなくて、ボロボロの体で木刀一本を構え、男達を睨みつけている。  
もう我慢できなかった。  
「先生っっっ!!!!!!」  
窓を開け放ち、彼女は叫んだ。  
「逃げてくださいっ!!!お願いですっ!!!逃げてっ!!!」  
悲痛な声を聞いて、先生が視線を上げる。  
「何故ですか?私はあなたを連れ戻さなければならない。それをやらずに変えるわけには…いかない」  
先生の声は無様に震えていた。それでも瞳だけは、まっすぐに彼女を見つめている。その視線が今の彼女には痛かった。  
「そんなの……無理に決まってるじゃないですか!!これだけの恐い人たちを相手にして、先生なんかに何が出来るっていうんですかっ!!!!」  
堪えていたものが一気にあふれ出す。  
「先生なんて、貧弱で、死にたがりで、こんな人たちに敵うわけないのにっ!!!!自己満足で死なれたって、迷惑なんですっ!!!やめてくださいっ!!もう、やめてっ!!!」  
涙と鼻水が拭っても拭っても顔を濡らして、呼吸が乱れて喋る事さえ苦しい。それでも、ただ一つ、その言葉だけを伝えたくて彼女は叫んだ。  
「お願い、先生、死なないで………っっっ!!!!」  
叫び終えて、先生の方を見た。先生が震えながら、それでも微笑んでくれているのが見えた。涙で滲んだ視界でも、それがわかった。  
「あなたの、言うとおりです……」  
先生が言った。  
「私なんかがこんな強面のヤクザ者を、それもこんな大人数を敵に回して勝てる見込みなんてほとんどない。それこそ絶望ですよっ!!…でも、だけど……っ!!!」  
先生の言葉が言い終わるのを待たずに、男達が一斉に襲い掛かる。先生はそれをかわして、防御して、反撃して、それでも抗いきれず男達の一人に捕まる。  
「煩いんだよ、先生……」  
 
男は両手で先生の首を掴み締め上げ、そのまま先生の体を持ち上げ宙吊りにした。男が満面の笑みを浮かべ、その指にさらに力を込めようとしたその時だった。  
「………えっ?」  
自分を見下ろし、睨みつける先生の視線に気付いた。大上段に構えられた木刀が、自分の脳天めがけて振り下ろされるのを見た。  
渾身の一撃を、完全な不意打ちで喰らい、男は地面に倒れ伏す。  
「首だけは……鍛えてるんですよ」  
開放された先生はぜいぜいと息を切らしながら、さきほどの言葉の続きを叫ぶ。  
「何があろうと知った事じゃないっ!!!絶望だろうと何だろうと、あなたがそこにいるのなら………っ!!!!!!!」  
それが悩みぬいた末の先生の結論だった。おそらくは無駄に終わる行い。彼女を悲しませるだけになるかもしれない愚行である。  
だけど、どうにもならない理不尽の荒波に巻き込まれ、助けを求める彼女のために何もしないでいる理由を、彼は思いつく事が出来なかった。  
たとえ何があろうとも、苦境にある彼女に手を差し伸べる。無理も道理も関係ない。それ以外の選択肢を持たない自分に、彼は気がついた。だからこそ………  
「私のいる場所もここにしかあり得ないっ!!!!!!」  
そして、先生は高らかに宣言した。  
「一緒に帰りますよ、『風浦』さん……っ!!!」  
「先生っ!!!」  
先生の言葉に、彼女は思わず応えていた。陵辱の最中で破壊され、消え去った筈のその『名前』で呼びかけた先生の声に、彼女は声を振り絞って応えていた。  
しかし……  
「だから、面倒くさいからさ……」  
如月が手をかざした。それを合図に残りの男達が一斉に襲い掛かる。先ほどの一撃で力を使い果たした先生は、もはや腕を上げることすらできない。  
「死ねぇえええええええっ!!!!!」  
だが、しかし、彼らの攻撃はただの一撃たりとも、先生に届くことはなかった。  
 
「うらあああああああああっ!!!!」  
横なぎに振るわれた角材が男のわき腹にめり込んだ。  
「先生は、やらせないっ!!!!」  
数人がかりのがむしゃらな体当たりが、幾人かの男を吹き飛ばした。  
路面すれすれに渡された包帯に躓いた別の幾人かが、追い討ちの石つぶてをくらって悶絶した。  
いずれも地面に倒れ、膝をついた男達を、制服に身を包んだ30人あまりの少年少女達が包囲していた。  
「みなさん…どうして?」  
呆然とする先生の下にまといが駆け寄った。  
「いたん…ですか?」  
「ずっとじゃないですけどね」  
「どうして、ここが?」  
先生の問いにまといはイタズラっぽく微笑み、先生の懐に手を突っ込む。  
「ちょ…何するんですか、常月さん!?」  
「これですよ、これ」  
まといが取り出したのは、指先でつまめる程度の小さな電子部品だった。  
「ま、まさか……」  
「発信機兼盗聴器です。一緒にいられないのなら、せめてと思ってあの時に……」  
どうやら、可符香の様子を見に彼女の家に向かった時点で仕掛けられていたらしい。  
「常月さん、それはないじゃないですかっ!!!」  
「それはこっちの台詞ですよっ!!!」  
思わず叫んだ先生に、まといはキッと睨みつけるような表情で言い返す。  
「先生が消えてから、何か無茶をするんじゃないかと思ってたら、いくらなんでもこんな事、無茶を越えて無謀ですよっ!!!  
慌ててみんなを集めて駆けつけましたけど、もし間に合わなかったら先生、ほんとに死んでたかもしれないんですよっ!!!」  
それだけ叫んで、先生の胸に縋りついたまといに、それ以上反論する気にはなれなかった。  
「すみません。心配をかけました……」  
 
「まったくです、お兄様」  
後ろからの声に振り返る。刀を携えた倫がそこに立っていた。  
「お兄様のくせにこんな事をしでかして、私ならばこんな無様は晒しませんでしたわ」  
憎まれ口を叩く妹の目元に、うっすら残る涙の跡に気がついて、先生の胸は今更ながらに申し訳なさでいっぱいになっていた。  
「先生っ!!!」  
「日塔さん、音無さんっ!!!」  
さらに二人の女生徒が駆けつける。  
「まったく、普通以下の貧弱な体で、どうしてこんな無茶を思いつくんですかっ!!」  
「い、いつもの仕返しですか、日塔さん」  
【身の程をわきまえろ ハゲ】  
奈美と芽留はテキパキと先生の手当てをしていく。見渡せば、外に現れた男達と2のへの生徒たちの戦いは、若干2のへ側有利の拮抗状態となっていた。  
今ならば、事務所の中に突入できる。痛みをこらえ、先生は立ち上がろうと体を起こす。  
「せ、先生…何考えてるんですか!!」  
「まだ、風浦さんが中にいるんです。いかなければ……」  
「それなら大丈夫ですよ、先生」  
奈美の言葉に、先生は怪訝な表情を浮かべて振り返る。  
「別働隊が動いてるんですよ」  
 
3階の自室の窓から眼下を見下ろして、如月はいつになく苛立っていた。暴力のプロがたかだか学生風情との喧嘩に遅れを取っている。それだけでも苛立たしい事だったのだが……  
「どうした、下の奴らは何をしている」  
それでも、まだこの事務所のなかにいる30人ばかりの部下たちが相手をすれば、すぐにケリがつく。そう考えて、部下に応援したはずが、応援部隊は一向に姿を現さない。  
うろうろとみっともなく部屋の中を右往左往する如月。その耳が、部屋の外の微かな異変を捉える。  
「悲鳴?」  
聞き間違いかと耳を澄ませた所にもう一度。学生たちのものではない。明らかに自分の部下のものと思しき、男の悲鳴が聞こえた。  
「何だ?一体、何が起こっているんだ?」  
 
「う、うああああああああっ!!!!!」  
悲鳴の音源は如月のいる調度真下、2階からのものだった。  
金属バットがなぎ払う。  
「ぎゃあああああっ!!!」  
2冊のコミケカタログが顔面を叩き潰す。  
「ぎゃ…ぐあうっ!!!」  
そして、廊下の真ん中に陣取って、2本のスコップを自由自在に操る少女の姿があった。刺して、叩いて、刻んで、既に少女の足元には死屍累々、彼女に敗れた男達が積み重なっていた。  
「こ、この野郎ぉおおおおおおっ!!!!!!」  
蛮勇を奮い、短刀を片手に男が飛び出すが、少女は眉一つ動かさない。ただ、振り上げた二本のスコップを、渾身の力を込めて男の両肩に叩き込む。  
激痛にもんどりうって倒れた男の手から短刀を奪い、少女は男の目の前スレスレにそれを突き立てた。  
「ひ、ひぃいいいいっ!!!!!」  
「後できっちり落とし前はつけてあげるから、それまでそこで待っていなさい」  
その様子を後ろから見ていた二人の少女の片方、藤吉晴美は呆れ顔で呟く。  
「千里、かなり頭にきてるみたいね……」  
もう一人の少女、三珠真夜は彼女の言葉にコクコクとうなずく。  
「まあ、それを言ったら私もね。今回ばっかりは腹に据えかねてるんだけど……」  
そう言って、晴美は再びコミケカタログを構える。真夜も血まみれの金属バットを振りかぶった。  
もう、この二階にほとんど敵は残っていない。次は三階、いよいよ彼女を助け出す時が来た。  
それぞれの得物を携えて、少女たちは疾風怒涛の勢いで目的の場所へと向かう。  
 
一方の一階は、二階や建物の外の喧騒とは対照的に、静寂を保っていた。いや、静か過ぎるといってもいい。  
「な、なんなんだよ、お前……いったい…なんなんだよ?」  
蚊の鳴くような声で、そう問いかけたのは、如月の部下の一人だった。床に這い蹲る彼の周囲には、気を失った幾人もの彼の仲間たちが横たわっている。  
震える彼の視線の先には、温厚そうな中年男性が一人。彼こそがこの惨状の原因だった。  
「ただの、教師ですよ。まあ、過去には色々とありましたが……」  
その中年男性、甚六先生は笑顔を絶やさぬまま続ける。  
「この戦いはもう、あなた達の負けです。これは動かしようのない事実です」  
子供に諭して聞かせるような調子が、男にはたまらなく恐ろしかった。暴力を振るいながら、その事を歯牙にもかけない甚六先生の穏やかさに、彼は言葉に表せない恐怖を感じていた。  
これだけの人数を倒しておいて、まるでそれが当たり前のことであるかのように振舞う目の前の男が、同じ人間であるとはどうしても思えなかった。  
「むしろ、あなた達はうちの生徒たちに感謝するべきです」  
甚六先生はにっこりと笑いながら、こう言葉を結んだ。  
「おかげで、殺さずに終わらせる事ができました……」  
その言葉を最後に、男は意識を投げ出した、大きすぎる恐怖に精神が耐えかねたのだ。  
「ちょ、ちょっとおどかしすぎましたかね……。う〜ん、反省です」  
 
3階、如月の部屋の窓際で、囚われの彼女は、彼女を取り戻さんと戦うクラスメイト達の声にただ聞き入っていた。  
いつもの中間達が繰り広げる喧騒、それに包まれている内に心が穏やかになっていく。一度は彼女を粉々に破壊した絶望でさえ、ほんのちっぽけな、取るに足らないものに思えてくる。  
(…みんなっ!!…先生っ!!!)  
犯され、汚され、全てを奪われた。もうあの楽しかった日々は失われて、二度と戻ってこない。そう思い込んでいた。  
だけど、違った。彼女が失ったと決めこんでいたもの達が、堕ちていく彼女をギリギリのところでつなぎとめた。  
『あなたがそこにいるのなら、私のいる場所もここしかあり得ないんですっ!!!!!!!』  
先生は叫んでくれた。  
みんなが助けてくれた。  
断ち切っても、奪われても、壊されても、それでも消える事のない無数のつながり、それが今の自分を支えていることにようやく気付いた。  
「くそっ!くそっ!どうしてこうなっちまうっ!!!一体全体、どうしてこんな事に……」  
日本刀を抱えて無様に震える如月からは、かつての余裕は跡形もなく剥がれ落ちていた。所詮はメッキ、見せかけの強さだったのだ。  
部屋の入り口のドア、そのノブがガチャリと音を立てる。その音に反応して、小動物のように飛び上がる如月。来るべき時が来たのだ。  
ゆっくりと開いたドアの向こう、現れた3人の少女の姿。  
「助けに来たわよ、可符香ちゃんっ!!!!」  
先頭に立つ千里が叫んだ。  
部屋の外にいたはずの部下は、彼女たちの足元に転がっている。恐慌状態の如月は日本刀を鞘から抜き放つが、刀は震える腕の中でかちゃかちゃと無様な音を立てるばかりだ。  
(何なんだよ、これは?滅多にないうまい仕事を見つけて、それをいつものようにこなしてただけだろう?どうしてこうなっちまう?)  
(それに、なんだあの女どもは、どうして恐れない。刀を突き付けられてるんだぞ。斬られれば死ぬんだぞ。それがわからないのか?頭がイカレてやがるのか!?)  
元来、彼らのような生業が売り物にしているのは、暴力ではない。暴力を背景にもった恐怖である。彼らを恐れぬ者が現れば、たちまちに力を失ってしまう、そういうものなのだ。  
そして、悲しいことに、彼は自分の生業のそういった性質について、あまりにも無知だった。無知であるが故に、この事態に対処する事ができない。  
カラカラと空回りする頭脳は、何の解決策も導き出してくれない。だがしかし、彼の頭脳はこの土壇場でとんでもない結論を弾き出す。それは……  
「あ、あなた何をっ!?」  
千里が叫んだ。如月は、千里たちの方に向けていた切っ先をゆっくりと自分の隣に向けた。自分の隣に立つ、自分が虜とした少女の首筋に刃を突き付けた。  
「殺すぞ、コイツを……」  
如月はとっさに思いついたアイデアに、こらえきれないといった様子で笑いを噛み殺している。  
(こいつを予定通り出荷して、まとまった金を受け取って最初から全部やり直そう。いくらでもやり様はあるさ、何しろ俺は機転が利くんだ。こういう風に、こういう風になあ……)  
一気に形成は逆転する。こうしている限り、目の前の少女たちも、下の連中も、自分に手出しすることは出来ない。彼を阻むことは出来ない、その筈だった。  
 
だが、しかし………  
「さあ、杏ちゃんからもお友達に頼んでくれ。道を開けてくれってな……」  
勝利を確信して如月が放った言葉に、彼女は答えなかった。  
「おい、何を黙ってるんだっ!!言ってやれ、杏……」  
苛立ち、振り返った如月は言葉を失った。  
「いやだなぁ」  
そこに超然としてたたずむ、少女の笑顔が如月から言葉を奪い去った。  
それは、2のへに巻き起こる騒動の中、どんな状況であろうとも揺らぐことのない、あの笑顔と同じものだった。  
「私の名前は『風浦可符香』ですよ。忘れちゃったんですか?」  
それはもはや、かつての不幸な少女が己を守るために作り出した鎧の名ではない。  
それは、彼女を支え、守り、彼女を彼女たらしめる、無数の絆を束ねた名前。過去の不幸さえいつか笑顔に変えていく、彼女の生きる日々の名前。  
超ポジティブ思考で周囲に騒動を巻き起こす、2のへ随一の要注意人物。人の心の隙につけ入り、混乱をもたらす生粋のトリックスター。  
風浦可符香は、ここに復活した。  
「な、何だよ、杏、どうしちまったんだよ……」  
混乱する如月をよそに、可符香はいつものように考え、いつものように行動する。  
部屋の入り口のドアは、たしかに目の前に突き付けられた刀に邪魔されて通ることは出来ない。だけど、この部屋から出る方法なら、ほら、すぐそばにある。  
可符香は2歩、3歩と後ろに下がり、窓の縁に腰掛ける。その意図を、如月も、千里たちも測りかねている間に、彼女は行動に移った。  
体重を背中の方に傾ける。そして重力の導くままに、彼女の体は窓の外に消えていった。  
 
3階の攻防を下で見ていた人間の中で、誰よりも早く行動したのは先生だった。落ちてくる彼女の、落下点に向かって一目散に走る。  
「せんせ〜〜〜〜〜いっ!!!!!!!」  
彼女の声が聞こえる。元気いっぱいに自分を呼ぶ、彼女の声が。  
それが、いつもながらのポジティブ思考で考え出した、彼女なりの解決方法なのだろう。  
(”いやだなぁ、先生ならきっと、私を受け止めてくれるに決まってるじゃないですか”って、そういう事なんでしょうっ!!)  
勝手に考えた理屈で、勝手に事態を引っ掻き回して、彼女だけが無風地帯に立ったまま、こっちは彼女の思うままに踊らされるばかり。まったくいつもと同じじゃないか。  
それならば今回も、見事彼女の思い描くとおりに踊ってみようじゃないか。彼女の期待に応えてみせようじゃないか。  
「まったく、あなたはどうしていつも……っ!!!」  
落ちてくる彼女に向かって、大きく腕を広げた。一瞬遅れて襲い掛かる、すさまじい衝撃。先生はそれを全身の間接のバネで受け止めて、それでも受け止めきれずに後ずさる。  
その二人の体を、今度は多くの腕が、2のへのみんなの力が支える。そこでようやく落下のエネルギーは相殺され、先生と可符香はぺたりと尻餅をついた。  
「ただいま、先生……」  
言いながら、可符香は先生の体をぎゅっと抱きしめる。  
「頼むから勘弁してください。体中の間接がズタボロです。殺すつもりですか……」  
文句を言いながらも、自分の体にしがみついて離れない少女の頭を、何度も、何度も、慈しむように撫でてやる。  
彼女は帰ってきたのだ。自分のあるべき場所に。自分が笑顔でいられる場所に。みんなが、先生がいる2のへに、彼女は、風浦可符香は帰還したのだ。  
 
 
「嘘…だろ?」  
あり得ないはずの脱出劇を見せ付けられて、既に如月の思考はほとんど停止していた。  
ゆっくりと振り返れば、ドアの前に立ちふさがる三人の少女たち。可符香と同じように窓から飛び出すという手もあるかも知れないが、受け止めてくれる者はいないだろう。  
「ち…くしょう……ちくしょおおおおおおおおっ!!!!!」  
自暴自棄になった如月は日本刀を振りかぶり、なりふり構わず突進する。  
それに真っ向相対した千里は、如月が振り下ろすよりも早く横なぎに一閃。神速のスコップは日本刀を真っ二つにブチ折った。  
「観念しなさい……」  
もう一本のスコップを、如月の首に突き付ける。柄だけになった日本刀を取り落とし、膝をついた如月にはもはや抵抗の意思は欠片も残っていなかった。  
 
結局、蓋を開けてみれば拍子抜けの話だった。如月の持つ債権で可符香に返済を要求するのは、本来不可能なはずだったのだ。  
そもそも存在しないはずの借金で、彼は可符香を縛りつけようとしたのだ。そのために、巧みな書類の偽造と口先三寸で、如月はその嘘を真にしてしまった。  
油断ならない可符香も、両親の過去にまつわる話題に動揺してしまったのかもしれない。  
(しかし、その結果彼女に起こった事は実態を持たない、虚像の代償としてはあまりに大きすぎます……)  
ひとりぼっちの教室で、先生は深くため息をついた。  
確かに可符香は間一髪で開放されたが、彼女を襲った陵辱は、心に刻み付けられた傷跡は、決して消し去ることは出来ない。  
日常に戻り、以前と変わらぬ笑顔を浮かべる可符香だったが、先生にはどうしても心配でならなかった。  
深いため息を、もう一度。と、その時である。  
「先生、そんなまた暗い顔して、何悩んでるんですか?」  
まったくの不意打ちで、耳元で聞こえた彼女の声に、先生は慌てて振り返る。  
「な、な、なんですか!?あなたはいきなりっ!!もう帰ったんじゃなかったんですか!?」  
「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか、忘れ物を取りに来ただけですよ」  
いつかと同じシチュエーション。嫌でもあの事件の事を思い出してしまう。何も言えずにいる先生に、可符香は少しだけ声のトーンを落として続けた。  
「……まあ、それは少しだけ嘘なんですけど」  
「風浦さん……」  
「忘れられないんです、あの時の事が……」  
やはり、と先生は心の中で呟いた。あんな事件の記憶を拭い去る事の出来る人間なんて、きっとどこにもいない。  
「だから、先生、私……」  
彼女に何か言葉を掛けてやりたくて、だけどどんな言葉で取り繕っても空しくなるばかりのような気がして、先生は結局黙りこくってしまう。  
それでも、彼女を慰めたくて、せめて彼女に触れてやろうと、肩に手を置こうと、先生は手を伸ばしたのだが  
「えいっ!!」  
彼女に勢いよく抱きつかれて、先生の手は空を切った。  
「あの、風浦さん?」  
「あの時の事が忘れられないんです。先生に思い切り抱きしめられた時のことが……」  
どうやら彼女が言っているのは、事件の最後3階から飛び降りた彼女を抱きとめた時の事らしい。  
思わずじたばたともがく先生だったが、可符香の腕にがっちりと捕まって、全く脱出する事ができない。  
「いや、あれは抱擁と言うよりは激突に近いもので……」  
「先生の腕の感触が、頭を撫でてくれた手の平の事が忘れられない……」  
「風浦さん、どうやら少し話し合いが必要みたいですね。そんな一方的に言われても私は…」  
「あの人たちにされた事も全部吹き飛ぶぐらいに、嬉しかったんです…」  
その言葉で、先生の抵抗が止まった。  
「先生がいるから、みんながいるから、私は大丈夫です。だけど……」  
先生の左腕が可符香の背中を優しく抱きしめる。そして、右の手の平を彼女の頭へ……  
「だけど時々、こうしてほしいんです。ただ私の背中を抱きしめて、頭を撫でて……」  
「わかりました……」  
窓の外を見れば、群青色の空の隅に既に月が昇っていた。窓の外に見えるその光を見つめながら、先生は何も言わず、ただ可符香の背中を抱きしめ続けた。  
 
 

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