その日の放課後の宿直室はいつもより賑やかだった。
「そうしたら、お兄様ったら大慌てで逃げ出して、それも出口とは逆の方向に」
「あはは、先生らしいわね」
「でも、そういえばつい最近もそんな事あったわよね。ほら、地下の遺跡に入ったときに…」
2のへの生徒たちの何人か、可符香に千里に晴美に奈美、それに倫が集まって、好き勝手におしゃべりをしていた。
笑い声の絶えない明るい空気のおかげで、どうにも少し寂れた感じのするいつもの宿直室も今日は華やいで感じられる。
だが、そんな中で一人、ふてくされた顔をした男が一人。
「みなさん、随分と楽しそうですね……」
「あら、お兄様、さっきから黙り込んで、生徒とのコミュニケーションはよろしいのかしら?」
「コミュニケーションなんて出来るわけないじゃないですか」
まあ、無理もない話しだった。
宿直室に集まった生徒の中で、現在話の中心となっているのは彼の妹の倫だった。倫の話す先生の過去の話、それも恥ずかしいやつを中心に、生徒たちは盛り上がっていたのだ。
「一体、この空気の中で私にどう発言しろと言うんですかっ!!」
「無理のある言い訳をして、さらに恥を上塗りしてみるとかどうかしら?」
「恥って、お前が恥ずかしいエピソードばかり選んで話しているんじゃないですかっ!!」
「あら、お兄様の人生で、それ以外のエピソードがあるとおっしゃるんですか?でしたら、是非聞かせていただきたいですわ」
喧々諤々の兄妹ゲンカ。しかし、どう言い返しても全く揺らがない倫のペースに、先生の旗色は悪い。
「まあまあ、倫さま、ぼっちゃまをそのように苛めないでくださいまし」
そこに割って入ったのは、糸色家執事の時田だった。
「そもそも、昔はあんなに仲の良い兄妹だったではありませんか。まだ幼い頃の倫さまが、いつもぼっちゃまの側で、ぼっちゃまと一緒に遊んでいたのを、私はよく覚えておりますぞ」
「こ、こら!!時田っ!!」
時田の言葉に、倫の顔が一気に赤くなった。
「へえ、倫ちゃんってお兄ちゃん子だったんですね」
クスクスと可笑しそうに、可符香が笑う。
「意外ね。今の二人を見ていると想像もつかないわ」
千里は少し驚いた表情だ。
「まあ、人は変われば変わるものよね」
晴美はウンウンと勝手に納得している。
「でも、そのころの倫ちゃん見たかったなぁ。きっと、すっごく可愛かったと思うよ」
最後にそう言った奈美に、ニコニコ顔で見つめられて倫の顔はさらに赤くなる。
「しょ、所詮は昔の話ですわ。今の私には何の関係もない事、そうでしょう?」
彼女に出来た反論は、いかにも言い訳がましいそんな一言だけだった。
それからしばらくして、生徒たちはそれぞれの自宅に帰っていった。
随分、遅くまで話し込んでしまったため時田に彼女たちを家まで送るように頼み、今の宿直室に残っているのは先生と倫、そして卓袱台にもたれかかって眠る交だけだ。
「随分と好きにアピールしてくれたものですね、倫」
交の体を抱え上げ、布団に寝かせてやりながら先生が言った。
「何の話ですか、お兄様?」
怪訝な顔をして、倫は問い返す。
「さっきの、お前がお兄ちゃん子だったとかいうアレですよ」
「あの話は時田が勝手に始めたんじゃありませんか」
「偶然を的確に活用するのもテクニックの内です。あれだと、さも大好きな兄についてまわる可愛らしい妹だったみたいじゃないですか」
むくれた表情の先生はうつ伏せに寝転がり、読みかけの文庫をパラパラとめくりながら話を続ける。
「確かに、小さい頃のお前が私とばかり遊んでいたのは事実ですが、あの頃のお前は私の後ろをついて回るのではなくて、私を振り回すやんちゃで腕白な娘だったじゃないですか」
「あら、そうだったかしら」
「しらばっくれても無駄です。お前の馬になって定規で叩かれたお尻の痛みは今も忘れません。お前は事実を話すべきだったんです。
それをあんな風にはぐらかして、みなさんの誤解を招いて、あれは立派な印象操作です。インチキもいいところですよ」
それから、先生は不機嫌そうな様子でさらに付け加える。
「そもそも、お前が一番懐いていたのは私じゃないではないですか」
あの頃、確かに先生と倫は年の離れた兄妹としてはずいぶんと長い時間を一緒に過ごし、二人で遊んだ。
しかし、倫には先生とは別に、お気に入りの相手がいた。先生のひとつ上の兄、糸色命である。
当時すでに医師となる事を目標として勉強していた命と倫が遊べる機会はあまり無かった。
しかし、たまに勉強の息抜きなどで命が休んでいると、倫はたちまちそこに駆け付けて、本などを読んでもらい、心ゆくまで命と話をした。
「お前にとって、命兄さんは憧れの対象で、私はせいぜいオモチャだったんですよ。可愛いお兄ちゃん子だなんて、お兄ちゃんが違っています」
先生は拗ねたような表情でそう言った。それを聞いていた倫は…
「あら、寂しがってくださっていたんですね」
「な、な、何を言うんですか!?私は、ただ……」
図星を突かれたのか、先生は慌てふためく。
「そうですね、私、命お兄様の事は大好きでしたわ」
「ほら、やっぱりそうじゃないですか」
クスクスと笑いながら答えた倫に、先生は恨めしそうにそう言った。それから二、三ほど文句を言おうとした先生だったが、倫の笑顔があまりに楽しそうだったので、毒気を抜かれてしまう。
仕方なく手元の文庫に再び視線を落とし、パラ、パラとページをめくり始めた。
それからさらにもう少し時間が経って、うつ伏せで文庫を開いたまま、先生は眠りについていた。
その寝顔を見つめながら、倫は苦笑してつぶやく。
「まったく、お兄様という人は……」
確かにいつも相手をしてもらえない命に遊んでもらえるのは嬉しかった。命の事が大好きだった。これらは全て事実だ。
「だけど、お兄様、あなたは覚えていらっしゃらないんですか?」
やんちゃで腕白、幼い頃の倫に対する先生の評価は的を射たものであると、倫は思う。
そして彼女は、やんちゃで腕白だったが故に、向こう見ずに行動しては怪我をしたり、とんでもない失敗をしでかしたり………。
「その度に泣きじゃくる私の涙を拭って、慰めてくれたのは誰ですか?」
気弱な兄は、無鉄砲な妹の後をどこまでもついて来てくれた。
地元では絶大な影響力を持つ旧家の娘は、周囲の人間にとっては近寄り難い存在だったのだと思う。小学校に通っていても、倫は少し浮いた存在だった。
「私が一人ぼっちにならずに済んだのは、一体誰のおかげなんですか?」
倫はそっと先生の右手をとり、両手で包み込むようにしてその温もりを味わった。
『倫、もう大丈夫だから、泣かなくてもいいんだよ、倫』
そのまま先生の右手の平を、そっと自分の頬にあてる。あの頃と変わらない感触。何度も、何度も撫でてくれた手の平。
「気付いてくださらないのね。お兄様は本当に愚か者ですわ……」
ふっと、倫の顔が安らかに眠る先生の顔に引き寄せられていく。
「どうして、私がお兄様のクラスの生徒になったのか、少しぐらい察してくださってもいいのに……」
倫の視線は規則正しい呼吸を続ける唇へ……。軽く重ねるだけのようなもので構わない。自分の唇に、兄の唇の熱を感じてみたい……。
「お兄様……」
やがて、二人の唇の距離が零になろうとしたその時……
「倫さま、なりませ―――――んっ!!!!!」
突然響いた時田の声に、倫は正気に返った。
(み、見られてしまった……っ!?)
動転した倫がバネ仕掛けのように上半身を起こす。その瞬間――
ゴキィッ!!!!!!!!
嫌な音が、倫の体の真下から聞こえてきた。そこにあるのは兄の右肩。そこから突き出ている腕の角度が明らかにおかしい。
「ど、ど、どうなさったのですか!?どうしてぼっちゃまにこの様な仕打ちをっ!!?」
考えてみれば、うつ伏せに寝ている人間の手の平を、座っている自分の顔の辺りまで持ってきた時点でかなり無理のある状態だったのだ。
右腕を背中の側に無理にねじり上げられたような状態。遠目に見ていた時田には、倫が先生に関節技を極めているように見えたことだろう。
そして、時田が思わず叫んだのが運のツキ。反応して跳ね起きた倫の体の動きで、先生の右肩は見事に粉砕された。
「倫さまっ、倫さまっ、一体何があったのですっ!!倫さまーっ!!!」
時田の叫ぶ声が、倫にはやけに遠くに聞こえた。
で、翌朝。
「お、お兄様、口を開いて…」
「は、はい…ぱく…もぐもぐ…」
右腕が使い物にならなくなった先生に、倫は朝食を食べさせていた。食卓の空気は重い。
先生にしてみれば全く事態がつかめない。どうして妹が自分の右肩を破壊なんてしたのか。もしかして、昨夜のやりとりがよほど腹に据えかねたのか……。
「あ、あの、倫、何か不満とか言いたい事があったらハッキリ言ってください。話し合いましょう」
ビビられてる。完全に。
「い、いいえ、お兄様に不満なんて、そんな……」
弁解したいのは山々だが、そうすると色々触れなければならない事が出てくるわけで……そもそも右肩粉砕の事実は動かしようがないわけで……
「………はぁ」
思わずこぼれた倫のため息に対しても
「な、な、何ですかどうしましたか、怒る気持ちもわかりますが、まずは話し合いをっ、話し合いをーっ!!!!」
この反応である。
まさに八方塞がり、倫の前途はどうしようもないほど多難であった。