学校帰りに立ち寄ったスーパー、夕食のための食材をカゴに入れてから、次にあびるが向かったのは入浴剤の置かれた棚だった。  
「あ……」  
「あら…」  
そこであびるは見知った顔に出会う。  
同じクラスの大草麻菜実、この年で既に結婚しており、学生と主婦業の両立に加えて、借金をこさえるは浮気をするはと問題の多い旦那さんに頭を悩ませる2のへ随一の苦労人である。  
「夕飯のお買い物?小節さん」  
「うん、大草さんも?」  
「ええ、今日は肉じゃがにしようかなって。……だけど、小節さんも大変だね」  
大草さんの声のトーンが少し落ちる。あびるの両親はつい最近離婚しており、今は彼女と父親で二人暮らしをしている事を思い出したのだ。  
「ううん、平気。もともと母さん、家にはあんまりいなかったし、家事は昔から私とお父さんでやってたから……」  
自分の家庭の方がよっぽど大変だろうに、心の底から心配してくれている様子の大草さんに、あびるはつとめて明るい調子で答える。  
「でも、珍しいね。ここのスーパーで小節さんと会ったのって初めてじゃないかしら?」  
「ああ、今日はね」  
あびるは棚に山積みされた入浴剤の箱を二つ、カゴに放り込んだ。今日の特売品、全国の有名温泉地の湯が楽しめるという、入浴剤セットだ。  
「これが欲しかったから」  
「ああ、なるほど」  
大草さんは納得した様子でうなずく。それから、今度は自分の目的の品、こちらも特売品の食器用洗剤をとなりの棚からカゴに入れ、笑顔でこう続けた。  
「小節さん、お風呂好きなんだね」  
「う、うん……」  
その言葉に、あびるの顔が少しだけ赤くなる。返事をした声も上ずっている。  
基本的にマイペースを崩さない、どちらかと言うとクールな印象のあるあびるの思ってもみなかった動揺に、大草さんは少し驚く。  
「そ、それじゃあ、そろそろ帰らないと、夕飯急がないと、お父さん帰ってくるまでに間に合わないから…」  
「あ、うん……」  
まくし立てるように言って、あびるはレジの方に走っていく。ぽつんと取り残された大草さんは、呆然としてただ首をかしげるばかりだった。  
 
「はあ、はあ……」  
スーパーからだいぶ離れた所まで走って、ようやくあびるは足を止めた。もともと運動は得意な方ではないので、やたらと息が切れて心臓がドキドキする。  
まあ、それは急に走った事だけが原因ではないのだろうけど……。  
「……お父さんと入るお風呂が楽しみだなんて、言えないよ……」  
 
家に帰ったあびるは制服を着替えると、早速夕飯の準備に取り掛かった。今日の献立は料理番組で見た野菜の煮物だ。  
大草さんの手前ああ言ってしまったが、実は今日は仕事で帰りが遅くなるとあらかじめ父から言われている。その分、たっぷり時間をかけて調理して、材料に味を染み込ませる事ができるだろう。  
「…そうだ、テレビ」  
それから思い出したようにあびるはテレビのスイッチを入れる。チャンネルは民放のとあるテレビ局、ちょうど夕方のニュースをやっているが、あびるの目当ては別の番組だ。  
7時から始まる特番。世界の動物を特集する2時間スペシャル、あびるが随分前から楽しみにしていた番組である。  
ニュースを聞き流しながら、少しご機嫌な様子で鼻歌を歌いつつ、あびるはてきぱきと料理をする。  
いつもと同じ光景。ずっと前から変わらない、あびるの日常。  
父と母が離婚する以前とほとんど何の変化もない、そもそも母が家にいる事自体が少なかったので、用意する夕飯の量にすら変化がない。同じ繰り返しの毎日。  
「母さん…どうしてるかな?」  
自分の娘に対する親権すら主張せず、家やその他の財産に対する権利も捨てて、いつの間にか母は自分の家族ではなくなっていた。  
そのあまりの未練のなさは、まるで母がそもそもこの家の人間ではなかったみたいで、母がいなくなっても違和感なく続く自分の生活はその証明であるかのように感じられた。  
「…………あれ、こ、焦げてる!?」  
ついボンヤリとしてしまっていたようだ。コンロの火の勢いを落としてから、あびるはため息をつく。  
父が1ヶ月ほど離婚の事を言い出せずにいた気持ちも、少しだけわかるような気がする。あれほどあっさりと全てを捨てた母の事について、娘に説明する言葉を持てなかったのだろう。  
まあ、だからといって、夕食時の話題でサラッと済ませようとしたのはいただけないが。あの時もつい、父の頭をポカリとやってしまった。  
「…………あ」  
そこで、あびるは気がつく。ちゃんと自分に事情を話してくれなかった父には怒りを感じたが、肝心の家を出て行った母に自分は何の感情も持てずにいる事に……。  
 
「……寒い」  
急に背筋がゾクリとして、あびるは体を震わせた。秋の空気の冷え込みに、知らず知らずに体温を奪われていたのかもしれない。たぶん、それだけ。それだけの事のはず………。  
「まだかな、お父さん……」  
心細げにあびるが呟くいた。その声も、大きめにしたテレビの音声も、くつくつと煮える鍋の音も、全てを呑み込んでしまう一人ぼっちの家の静寂の中で、ブルル、あびるはもう一度体を震わせた。  
 
それからしばらく後、特番も終わって、食事も終えて、後片付けまで終わらせても、まだ父は帰ってこなかった。また、あの静寂が忍び寄ってくる。  
あびるはダイニングのテーブルの上で宿題を始めるが、こんな日に限って宿題の量は少ない。すぐにやる事がなくなって、あびるは途方にくれる。  
「……そうだ」  
思い出して、あびるは立ち上がる。  
掃除機を持って、父の部屋へと向かう。  
そういえば当分、父の部屋の掃除が出来ていない。男性にしては整理整頓、片付け上手な父だが、読書好き漫画好きですぐ本が増えるので、ときどきあびるが掃除してやらないと部屋が荒れるのだ。  
ガチャリ、父の部屋のドアを開ける。まず視界に入るのは、大きな本棚とそこに収まりきらずに床に積まれたたくさんの本たち。  
歴史小説を中心に、ノンフィクション、推理物、新書に専門書とぎっしりと本の詰まった本棚を見上げてから、あびるはその中で漫画ばかりが置かれた棚に視線を移す。  
「また増えてる……」  
いぢご100%全巻。それから新しく集め始めたらしい、宇宙からやって来たお姫様やらその他にもたくさんの女の子たちと、主人公の少年とのやたらHな”とらぶる”を描いた少年誌連載のお色気漫画。  
父の部屋を掃除していて、いわゆるアダルトな本やDVDを見つけた事は一切ないが、正直こっちの方がよほど心配だ。  
藤沢周平、司馬遼太郎と一緒にそれらの漫画が並ぶ光景は、中年男性の本棚としてはほとんど致命的な物に感じられる。  
頭を抱えるあびるだが、不自然な事に気がついた。ぎっしりと本の詰まった本棚の中、例の”とらぶる”な漫画の隣に不自然なスペースがある。  
「何だろ?」  
そこには本ではなく、別の物が置かれていた。体にぴっちりとフィットした恥ずかしい服を着てこちらに微笑む女の子のミニチュア、例の漫画の表紙に描かれたヒロインのフィギュアだった。  
『時間のない社会人には、完成品を買えるのはありがたいもんだな……』  
あびるは、かつて父がぽつりと呟いた言葉を思い出す。  
「これの事かーっ!!!」  
思わず叫んだ。しかも良く見ると、フィギュアの隣にもまだ不自然なスペースが残されている。ちょうど、あと2,3体ほど同じようなフィギュアを置けそうなスペースが……。  
(……まだ、他にも買う気なんだ)  
肩の力が抜けた。まあ、自分のしっぽコレクションだって他の人から見たらアレな感じだろうし、個人の趣味をどうこう言っても仕方がない。  
「掃除しよ……」  
気を取り直して、まずは床の上の本を一度、部屋の机の上にどけてしまう。それから丹念に部屋の隅々まで掃除機をかける。  
それから、本棚に入らない本たちを、せめて種類ごとに整理してから床に戻し、机の上、そして窓に雑巾をかける。  
「うん、綺麗になったかな」  
掃除を終えた部屋は幾分かスッキリしたように見えた。満足げにうなずいて、あびるは部屋を出て行こうとする。しかし、その時、気が付いてしまった。  
「………あっ」  
母のベッド。見慣れた光景であるために意識していなかった。部屋に並んだベッドは二つ。片方は父親の、そしてもう片方は母親のベッド。  
母が出て行った後も、大きすぎるその家具はまだ処分されていなかった。たぶん、ベッドの下の収納スペースを開ければ、母の服がいくらか残されているはずだ。  
(そうだ、ここは…お父さんとお母さんの部屋だったんだ………)  
また、背中がゾクリとした。飛び出すように、父の部屋から出て行く。  
再びダイニングに戻る。時計を見れば、もう11時になろうとしていた。もうそろそろ帰ってきてもおかしくないのに、父はまだ戻らない。  
テレビのスイッチを入れる。なるべく明るい番組を。くだらない笑いを。近所迷惑にならないギリギリの範囲で音量を上げる。  
何とかしなければ、あの寒気にまた捕まってしまう。  
「早く帰ってきてよ……お父さん…」  
しかし、呟いたあびるの言葉さえ吸い込んだ静寂は、一人ぼっちの家の中を隅々まで満たして、決して追い払う事は出来なかった。  
 
「あびる、起きなさい。風邪をひくぞ、あびる」  
肩を優しく揺さぶられて、あびるは目を覚ました。  
「あ……、お父さん」  
「どうしたんだ?こんな所で寝てるなんて…」  
 
どうやらあの後すぐ、ダイニングのテーブルでテレビを見ながら眠ってしまったらしい。  
少し体が冷えているような気もするが、普段と変わらない父の声を聞いているだけで、安心感がじわりと広がって体が楽になっていくようだった。  
時計を見れば深夜の零時を越えている。一時間以上も眠っていたわけだ。  
「ずいぶん遅かったじゃない、お父さん。仕事、忙しかったの?」  
「ん、いや、まあそれもあるんだが……」  
あびるの問いに父は口ごもった。よく見ると、仕事帰りの父はカバンの他に、何か袋を持っている。それはあびるも知っている有名書店の紙袋だった。  
「この時間までやってる本屋はさすがに少ないからな……」  
そういえば、あの某少年誌のコミックスが発売されるのは、ちょうど月のこの辺りの時期だったはず……  
「お父さん……」  
「いや、その、新刊がな……」  
あびるが静かに睨むと、父は明らかに狼狽して、つい口を滑らせてしまった。  
ポカリッ!!!  
(こっちの気も知らないで……っ!!!)  
思わず拳が出ていた。冷静に考えれば、父にはそこまで責められるような謂れは無いのだが、どうにも我慢が出来なかった。  
「あ、あびる…何も殴ることはないじゃないか」  
言いながら、父は落としてしまった書店の袋から、飛び出した本を拾い集める。  
予想通り例の”とらぶる”な漫画と、お堅い経済誌に、中近東の歴史と宗教に関するハードカバー、相変わらずカオスな取り合わせだ。  
「お父さんの…馬鹿っ!」  
「あびる……お前…」  
そして、再び顔を上げた父は、少しだけいつもと違う娘の様子に気がついた。いつもは落ち着いた娘であるあびるの、この乱れの意味が何となくわかった。  
「寂しかったのか……?」  
「……………」  
あびるは何も言わず、ただ父の胸に手を置いて、スーツの布地をぎゅっと握り締めた。父は娘の肩にそっと手を置いてやる。  
そのまま、二人はしばし無言でその場に立っていた。  
「…………お風呂、まだお湯入れてなかった」  
やがて、あびるはぐしぐしと目をこすり、父の側から離れる。  
「ごめんなさい……ありがと…」  
小さくそう言った言葉だけを残して、あびるはダイニングから出て行った。  
 
それからさらに40分ほど後、父が夕食を食べ終えた頃、あびるはダイニングに戻って来た。父の向かいの席に腰を下ろす。  
「………お風呂、もう入れるから」  
そう言ってから、あびるはそのまま俯いてしまう。父は自分の使った食器を流しへ運び、スポンジに洗剤を落として洗い始める。  
流れる水の音、食器同士がぶつかって立てるカチャカチャという音、そんな音達を聞きながら、あびるは時折、ちらりちらりと食器を洗う父の背中を上目遣いに伺う。  
やがて、食器を洗い終わった父は振り返り  
「じゃあ、そろそろ風呂にしようか」  
そう言った。  
「お父さん、私も……」  
それに対して、あびるがおずおずとそう言うと  
「ああ、一緒に入ろう……」  
父はあびるの言葉を継いで、そう言ってくれた。  
「うん……」  
あびるが嬉しそうにうなずく。父が帰宅して以来ようやく、あびるは微笑む事ができた。  
 
父の指がシャンプーで泡だらけになったあびるの髪を優しく洗う。丹念に、丁寧に、あびるの髪に触れる父の指先の感触は、彼女の胸を安心感で満たしてくれた。  
「昔は体も洗ってくれたのに……」  
「年頃の娘の体に、親と言えど触る訳にはいかんだろう」  
暖かい湯気の中、互いに裸の父と娘の間には、穏やかで親密な空気が流れていた。  
お互いの体を洗いっこするのが、幼い頃からの父とあびるの習慣だったが、さすがにこの年になると父も娘の体に触れる事に抵抗があるようだ。  
「別に私は構わないんだけどな」  
「アメリカだったら逮捕されるぞ」  
仕方ないのであびるはスポンジにボディシャンプーを含ませ、自分で体を洗う。髪と体の泡をいっぺんにお湯で流して、リンスもしてもらって、今度はあびるが父の背中を流す番になった。  
あびるは立ち上がり父と場所を交代しようとして  
「あ、あんまり見ないでよ、お父さん…」  
父の視線に気が付いて顔を赤くする。いつもの事とはいえ、あまり見られると少し恥ずかしい。  
「さっきはあんな事言ってたのに、お父さんのエッチ」  
「ばか、今更、娘の裸ぐらい気にもならん」  
それはそれで、何だか腹が立つ。ぶすっとした表情を浮かべるあびるに、父はこう続けた。  
「いや、生傷の絶えない娘だな、と思ってな。お前が好きでやってることだし、仕方が無いとはわかっているんだが……」  
動物(及びそのしっぽ)好きのあびるは動物園でアルバイトをしている。その際、動物にじゃれつかれてケガをしてしまう事が多く、彼女の体は傷だらけだった。  
「ごめん、心配だよね……」  
「いや、親の心配なんて勝手なものさ……お前の気にする事じゃない」  
「ありがと……」  
「まあ、やたらとしっぽを引っ張る癖だけは、どうかと思うがな」  
憎まれ口を叩く父の頭を、ポカリッ!!  
「痛い…」  
「お父さんが悪い」  
「理不尽だ…」  
「誰だって好きで好きでしょうがないものってあるでしょ。お父さんだって今日も買ってきたあの漫画、やめられる?」  
「むぅ………」  
「だから、あんまりそういう事言わないのっ!」  
なんて言い合いながらも、あびるは笑顔だ。父の気遣いが、心配してくれる気持ちが嬉しかった。自然と、父の背中を洗う手にも力がこもる。  
しかし、父の背中を夢中で洗っている内に、言いようの無い不安がこみ上げてきた。一人ぼっちの時に感じていた、あの寒気が再び襲ってくる。  
(お父さんはこんなに私の事を大事にしてくれている。だけど、お母さんは……)  
あびるに対して何ら執着を見せる事無く、それどころか憎しみさえぶつけてくる事も無く、母は何も残さず消えてしまった。  
まるでそれでは、あびると母はそもそも何の関わりも無い他人だったみたいで……  
少しだけ、父の背中をこするスポンジから、力が抜ける。  
「あびる……」  
そんなあびるの心情を察したかのように、父は優しく彼女の名前を呼んだ。  
「母さんは、離婚の理由について、最後まで私にもあまり話してくれなかった。とにかく離婚してくれの一点張りで、家にも帰ってこなくなって、それで私は挫けてしまったんだ……」  
ぽつり、ぽつりと、父はその時の事を思い出しているかのような調子で、ゆっくりと話し始めた。  
「だけど、今になって少し母さんの気持ちがわかるんだ。たぶん、恐かったんだろうって……」  
「恐かった?」  
「この年になるとな、色々先が見えてくるんだ。自分の限界のようなものが……」  
そこで父は深いため息を一つつく。  
「母さんはずっと仕事一筋だったからな。だけど、それもいつまでも続けられるものじゃない。そう考えて不安になっていた母さんに、私はその代わりになる物を与えてやれなかった。  
それどころか、母さんにとって仕事に代わるような希望になるものは、全て奪い去られていたんだよ。他ならぬ、夫である私の手によって、何もかも………」  
「な、何を言ってるの?お父さんが奪ったって……」  
「例えば、お前だよ。あびる……」  
「私……!?」  
 
父の意外な言葉に、あびるは思わず息を呑んだ。  
「出産の後、お母さんが職場に戻ってからはずっと、お前の世話はほとんど全て私が引き受けた。お母さんが仕事に専念出来るよう、お母さんほど忙しくはない私が頑張ろう、そう思っていた」  
「それの何がいけないの…」  
「そのせいで、お母さんはお前との時間を、思い出を、ほとんど持つ事が出来なかった。それだけじゃない。他の家事にしたって、洗濯も、料理も、掃除も、何もかも私がやってしまった。」  
あびるは思い出す。自分の記憶の中の母の姿は、仕事に出かける時の後姿と、疲れきって帰ってきた時の姿ばかりだった。  
思えば、この父娘二人での入浴の習慣も、父が幼いあびるを風呂に入れてやっていた頃の名残だ。母は、あびるの養育に関わる事ができなかったのだ。  
「夫婦の、家族の生活は、お互いが歩み寄って作り上げるものだ。それなのに、私は母さんの事を手伝っているつもりで、この家の中から母さんの居場所を奪ってしまった……」  
「そんな…お父さんが悪いわけじゃないよっ!」  
「帰る場所のなくなった母さんは、自分でそれを作るしかなくなった……。今度、独立して新しく会社を作るそうだ……。母さんは今も一人でもがいている。私のせいだ……」  
あびるの瞳から涙が零れた。父が自分自身を責める言葉が、あまりに重くて、切なくて、どうして良いのかわからず、あびるはただ泣く事しか出来なかった。  
そんなあびるに、父の言葉はただ優しい。  
「母さんは、お前の事を愛しているよ。間違いない。ただ、どう関わって良いかがわからなくて、それで離れる事しかできなかったんだ」  
「……うん…うん」  
涙で顔をくしゃくしゃにしながら、あびるは父を抱きしめた。父を慰める言葉を、元気付ける言葉を思いつくことが出来なくて、それでもその思いだけは伝えたくて、あびるは父の背中をぎゅっと抱いた。  
触れ合う肌の暖かさと、抱きしめてくる腕に込められた力の中に、娘の切なる思いを感じて、父の心は少しだけ和らぐ。  
「母さんはこの世から消えたわけじゃない。だから、いつでも会いに行ったらいい。ちょっと話すだけでも、顔を見るだけでも、なんなら不満をぶつけて喧嘩してみるのもいい。  
間違いなく、母さんはお前の母さんなんだから。何も不安になる事なんてない。そうやって少しずつ、思い出を、絆を、積み上げていけばいい。母さんもきっと、お前の事を待っているよ」  
そう言って、あびるの頭を撫でてやる。それから、父は苦笑を浮かべて呟く。  
「まったく、結婚生活のツケを子供に押し付けるなんて、とんでもない父親もいたもんだな……」  
そんな父の言葉に、あびるは顔を上げて  
「そんな事ない…ぜんぜん、そんな事ない…」  
あびるは精一杯の笑顔で言った。  
「ありがとう、あびる……」  
振り返り、そう言葉を返してくれた父の笑顔が嬉しくて、あびるはまた父の背中に顔を埋めて、涙を流したのだった。  
 
温泉の素を入れて、白く濁ったお湯に肩までつかる。どれほどの薬効があるのかは知らないが、温かなお湯に全身を浸していると、疲れが体から染み出していくようだ。  
「いいお湯だね……」  
「そうだな……」  
小節家の風呂桶は大きく、父とあびるの二人が十分にお湯につかれる物だったが、さすがに足を伸ばしきる事が出来るほど余裕がある物でもなかった。  
向かい合って入っていると、足や腕が当たる。でも、そのくすぐったさの中に、父の存在をより親密に感じる事が出来るような気がする。  
(お母さん……)  
母に対して自分が出来ること、あびるはそれを考える。もう元通りの家族に戻る事は無理なのかもしれない。でも、現状を少しだけ変える力なら、自分にもあるかもしれない。  
父も、きっと応援してくれるだろう。そうやって、どんな小さなものでもいい、新しい何かを自分と母と、そして父の間に築く事が出来たなら……。  
だけど、不安は大きい。父の言葉が信じられない訳ではないけれど、あの寒気はあびるの胸の奥底で未だにわだかまっている。  
「ねえ、私の名前もお父さんがつけたんだよね……」  
 
この『あびる』という名前でさえ、父の手によるものなのだ。  
「ああ、そうだ。だけどな……」  
『あびる』は『浴びる』。  
太陽の光を、そよ吹く風を、海のにおいを、山のさわやかな空気を、人々の愛を、この世に生まれてきて生きていく喜びを、その身に『浴びる』。  
人生を生きる素晴らしさを全身で享受する。そんな願いの込められた名前だった。  
「だけど、母さんはとても良い名前だって、きっとこの子は幸せになれるって、すごく喜んでいた。生まれたばかりのお前を抱きしめて、すごくすごく喜んでいたよ」  
父の言葉に、あびるの表情が輝く。不安はそれでも消えないけれど、きっと何かを掴むことが出来る。そんな希望があびるの胸の中に芽生え始めていた。  
 
風呂から上がり、体を拭いて髪を乾かし、パジャマに着替える。トイレも済ませて後は寝るだけだったのだけれど、あびるは通りかかった父の部屋の前で足を止める。  
少しだけ、ドアを開けて中を覗いた。  
「………やっぱり」  
ドアの隙間から見えたのは、今日買った例の”とらぶる”な漫画をうつ伏せになって読みながら、足をパタパタさせている父の姿だった。  
全く、子供じゃあるまいし、風呂で話し込んだせいで時間もだいぶ遅くなったのに、どうして我慢ができないのだろう。ため息をつきながら、あびるはドアを開き  
「お父さんっ!!!」  
「ん、あびるか?」  
「明日も早いんでしょ。漫画はそのくらいにして……」  
「ああ、この話を読み終わったらすぐに…」  
あびるの怒りにも全く動じない父の態度に、彼女は実力行使に出た。つかつかと父の枕元まで歩み寄り、父の手からひょいと漫画を取り上げた。  
「ああっ!!」  
「明日まで没収します」  
「ひ、ひどすぎるぞ、あびる。せめて、せめて今読んでいた話だけでも……」  
父の抗議の声も完全に無視して、あびるは部屋の外に出て行く。  
「それじゃあ、おやすみなさい、お父さん」  
それだけ言って、バタンとドアを閉じてしまう。  
「まったく……」  
そして、自室に向かいながら、深くため息をつく。  
言いたい事が、伝えたい言葉があって父の部屋を訪ねたのに、予想通りの行動だったとはいえ、どうしてこんな事になってしまうのか。  
「大好きなのになぁ…お父さん…」  
 

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