春・弥生。
卯月は好きだけど、弥生は嫌い。
卯月は始まり。弥生は終わり。卯月が生なら弥生は死。
産まれると必ず訪れる死。人間も季節も同じだなあ。
ずっとずっとこの日が続くと思っていた。
何らかの刺激のあった毎日。怪我人や命に関わる出来事も何度も起きた。
2年生の間のたった1年は、まるで何年間もの間同じ季節を何度も何度も繰り返した様な思いだった。
まるでこの楽しい時間を神様が何度も与えてくれたように…。
でもそれも今日で終わり・・・私達は今日この学校を卒業した。
今こうして楽しく飲んだり食べたりしている皆とももうすぐお別れ。
誰かが声をかければすぐに集まるだろう。でもそれは日常ではない特別な出来事になってしまう…。
ずっとずっとこの日が続く気になっていました。
この仕事を続けていく以上、必ず訪れる別れ。
ですが…今回送り出す皆さんへの気持ちは…もう二度とないものだという気がします…
もはや私の一部となっている…そんな気がします。
「で?風浦さん。あなたは何故こんな所で、そんな姿を晒してるんですか?」
「いやらなあ。わらひはわらひですよ〜。なにもちがうとこなんかないれしゅよ〜」
「それは登り棒です。誰がどう見てもまさに絵に書いたような酔っ払いじゃないですか。ちゃんと私の顔を見て話をしてください。」
「ああ。しぇんせいとおなじくらいほそいきゃりゃ、みまちがえちゃいまひた〜」
「だいたい卒業したとはいえ、あなたまだ未成年でしょう。飲酒なんかしても良いと思って。」
「まあ。あんなにたよりなかったせんせーが…まるできょういくしゃみたいれすね。」
「ふう。なんでこんな事に…」
二年へ組のみんなを送り出し、仲の良い先生方とささやかな慰労会を行った帰り道の公園。
『そういえば…この公園でしたね…』
世の中に絶望しこの世との別れを決意した場所。ころころと笑う一人の少女と出会った場所。それからの毎日を思うとまるでアリスを異世界に誘った
白兎の様な少女。
『咲くのはまだまだ先ですかね…ん?』
まだ綻ぶ様子もない桜のつぼみの下で、くるくると踊る一人の少女。
「あなたこんな所でなにをやって…」
「ありゃ。せんしぇい」
「酒くさ…。このまま帰す訳にはいけません。」
放っておけばいつまでもくるくると回り続けていそうなので、無理にベンチに座らせ自動販売機で買ったホットコーヒーを渡たす。
「まだまだ肌寒いですから、これで温まりなさい。でも飲んではいけませんよ。飲酒後に缶コーヒーを飲むと気分が悪くなる人も居ますから」
「やさしいんれしゅねえ。」
「私の手を離れたとはいえ、教え子ですから。放っておく訳にはいかないでしょ。」
そう言いながら望は缶コーヒーに口を付ける。春は近づいているとはいえ、まだまだ肌寒い。ホットコーヒーが体に染み渡る。
しばしの間酔っ払い相手で随分会話に苦労をしながらこの2年間の思い出を語り合う。ふとおとずれる沈黙。
望はずっと聞きたかったし知りたかった事を可符香に聞いてみる。、
「ところで…私はあなた方の担任としてどうだったんでしょう?」
顎に手を当て、しばし考え込む可符香を望はじっと見つめる。
「うーん。ちょっとたよりなかったれしゅね。なにかといえばぜつぼーした、ぜつぼーしたっていってましたしねえ。」
「仕方ないじゃないですか。あのメンバーだと絶望したくもなりますよ」
「あと〜、いろいろなことにながされすぎですよねえ〜」
「面目ないです。」
「…ボソボソ…」
「え?何か言いましたか?」
「いえ〜なんにも〜。そろそろ帰りましょうか。コーヒーごちそうさまです。…あらら。」
「ほらほら。まだ危ないですよ。送っていきますから…。」
『…で…何故こんな所に私は居るんでしょう…。』
若干ふらつく彼女を連れて帰っていました。
こっちです。あっちです。と連れまわされ、最後には気持ち悪いと言い出したので、目の前にあるホテルへ入った。
『完全に流されてるじゃないですか…。さてどうしたものか。』
カララ
「えへへ。先生すいません。もう大丈夫だと思ってたんですけどねえ。」
「本当にあなたは…いや、あのその格好はどうかと思いますが。」
バスルームの中でガタガタしてるし、シャワーを浴びる音はしていましたが…。
「いやー。洋服汚れちゃいましたし…。前にも言いましたけど、先生なら平気ですし。」
なるべく視界に入れまいとする望に近寄る気配。望の座るベッドの沈み込みが増す。
『この子は本当に何を考えているんでしょうか…。私は馬鹿にされてるんでしょうか。試されているんでしょうか。』
『それとも…まさか…いやあ…それはないでしょう。』
「先生…どうしたんですか?頭を抱えたり唸ったり。」
望は自分の外套を手渡しながら、
「とにかく!!これでも羽織ってください。見られても平気と言っても、あの時は他の人も一緒だったでしょ。今とは状況が違います!!」
「…先生…平気って意味…本当に解ってます?」
望の前へ移動しながら可符香はつぶやく。
「はい?」
望の前に立ち可符香は体に巻いたバスタオルをさっと外した。
「いや…あの…先生見てません!!絶望した!!教えてもない事をさらっと行う教え子に絶望した!!」
慌てて目を逸らす望に、ころころと可符香は笑いながら
「せ・ん・せ・い?落ち着いて前を見てください。ちゃんと着てますよ。下着ですけど。」
ちらっと望が顔を上げる。確かに下着姿の可符香がニコニコと笑いながら望を見ている。
『絶望した!!教え子に馬鹿にされきっている自分に絶望した!!』
絶望する望。しかし心の隅に沸き起こる黒い気持ち。
『ここまで馬鹿にされて…本当に良いものでしょうか。一度怖い思いをさせる必要があるのかもしれませんね。』
『なに…最後までいかなければ良いのでしょう?馬鹿にしている相手に思わぬ反撃を受け少しでも反省してくれれば…』
「先生?どうかしm」
話しかける可符香の手首を掴み望はベッドに引き倒し可符香を組み伏す形になった。
「頼りなくチキンと思っているかもしれませんが…男に気を許しすぎるものではありませんよ?」
望の目をじっと見ながら可符香は口を開く。
「…先生…本当に気が利かない人ですねえ。」
「…はい?」
「そのうえ…鈍い。気がつかない。他人に自分の気持ちは知って欲しいくせに、他人の気持ちには気がつかない。」
「…は?」
「私言いましたよね。先生だったら平気だって。」
攻守交替。望の頭の中は可符香の言葉がぐるぐると回り続ける。
『は…?へ…?この子は何を言ってるんですか?私なら平気ってどういう意味ですか?どういう意味もそういう意味でしょ。』
『いやいや。この子に心を許してはいけないんですよ。私の気持ちはどうであれ…』
思考回路に全ての能力を注ぎ込む望を見つめながら、可符香は望の頭にそっと手を回し胸に抱きかかえる。
「ずっと…こうしたかったんですよ…」
「怖かったんですよ。もしみんなと同じように思いをぶつけて…それを拒否されたらと思うと…」
「それで回りからぐるぐる見てると…どんどん先生の間に隙間ができたような気がして…ますます言えなくなっちゃって…」
可符香の目から幾筋の涙が零れ出る。望は静かに可符香を見ながら、ずっと思っていた事をついに口に出す。
「風浦さん」
「ひゃい。」
「私も…ずっとあなたの事が気になっていたんですよ。」
「…?」
「随分手を焼かされたこともありましたし、ひどい目に合わされた事もありましたがね。」
「…えへへ。すいませんでした。…でも…それならもっと早く思いを伝えればよかったです。」
「…ええ。お互いに。」
自然と…流れるように二人は顔を近づけ…唇を合わす。
伝えられなかった2年間の思いをぶつけるように、二人は体を重ね続ける。
「はあ・・・先生…先生。」
可符香は望に語りかける。
「先生…でも…本当に私で良かったんですか?」
「私じゃなくても…クラスのみんなだって…」
「なにを…言ってるんですか…?」
「それに…話に聞いたんですが…先生・・・隣の女子大生さんが気になってるみたいだって…」
「…ああ…それは…無いです。…だって…あれ…あなたでしょ?」
「…!!」
「くっ…そんなに驚くと…伝わりますよ…」
「…気づいてないのかと思いましたよ。それならそれで…どうせ私なのに…」
理解できないと言いたげな可符香をじっと見つめながら
「…隣の女子大生の中の人は…あなたかもしれませんが…風浦可符香じゃありませんからね…」
「好きな人本人に…好きと言えなくて…くっ…男じゃないですよ」
限界が近づいている。息を切らせながら望は可符香に言葉を伝える。
「それに…私は…あの満開の桜の下で…あなたと出会った時から…。」
「せんせい…私も…」
唇を重ね・・・胸に手を当て・・・繋がった場所を激しく動かし続ける。室内に水音が響き渡る。
「風浦さん…」
「…せん・・・せい・・・名前を…名前を呼んでください。」
「・・・?」
「…可符香じゃなくって…」
耳元に口を寄せ望は可符香を本名で呼ぶ。
「せんせい…うれしいです…」
「すいません。もう私・・・限界です。」
そう言いながら自分の分身を抜こうとする望の腰に、可符香は脚を絡める。
「!!駄目です!!間に合いませんよ!!」
「いいんです。せんせい…やっと名前で呼んでくれた。ずっと本当の名前で呼んで欲しかったんです・・・」
涙を流しながら可符香は望に思いを伝える。可符香の思いに答える様に可符香自身が望の全てを受け入れようとするように複雑に蠢く。
「だ…だめです…もう…」
そう言いながら望は限界に達する。可符香の中で弾け可符香を満たしていく。
「…先生…ありがとうございます…大好きですよ…」
「…」
「先生?どうしましたか?」
「絶望した!!お互い望んだ事とはいえ教え子にあんな事やこんな事をしたうえに…その…中に…あああ。絶望した!!」
「大丈夫ですよ。こういう話ではいくら中で出しちゃっても何の問題もありませんから!!」
「…風浦さん?あなたは何を言ってるんですか?」
「まあ良いじゃないですか。」
「それに…あなた服全然汚れてないじゃないですか。」
「へへへ…まあ細かい事は気にしないでください。」
「…まあ…たまにはこういうのも良いですかね。」
「ええ。そうですよ。…先生?今日の夜は時間は空いていますか?」
「ええ。特に今日は予定はありませんけど。」
「それでは…私のお家にご飯を食べに来てくださいな。もしかすると留守にしているかもしれませんが…勝手に上がって待っててください。」
そう言いながら望と可符香はチェックアウトし外へ出る。
「うわー。まぶしいですねえ。ちょっと疲れましたねえ。」
可符香は嬉しそうに笑いながら望に話しかける。
「あなた…そんな事を大きな声で言わないでくださいな。」
「…嫌だなあ。大きな声って言うのはもっとこう…」
声を張り上げるそぶりを見せる可符香を望は必死に止める。
「…まあ。それはそれで…私も…その…嬉しかったですよ。」
見つめながら可符香に望が声をかける。
「私は一度家へ帰って学校へ行きますが…一緒に家に帰りますか?」
「私はちょっと行く場所がありますので…それにまた夜に。」
「わかりました。それではまた今夜。」
「…ええ。先生。それでは…さようなら。」
別方向に歩き始める二人。数歩歩いて立ち止まり振り返る可符香。望の背中を見ながら…
「さよなら…先生…」
4月から担当するクラスやへ組生徒に関する残務処理などを終え、望は可符香の待つ家へと向かう。
交は倫が蔵井沢の実家へと連れ帰っている。
卒業する生徒や新入生の手続きもあり、交の世話が疎かになるのを考えての事だったが…
『予定とは随分違ってしまいましたが…結果的に交は倫と実家に帰ってもらって正解でした。』
可符香の家に着いたが、家の電気は消えている。
『まだ帰ってないようですね…。もう少し待ってましょうか。』
『風浦さん…。』
可符香と出会ってからの事を望は回想していた。
物事全てをネガティブに考え何かあれば死も考えていた。
可符香と出会い、へ組の担任となってからの望は周囲が驚くほど変わっていった。
『まあ…あのクラスではそういうことを考える暇も無かったんでしょうけどね。』
へ組の個性的なメンバーを思い出しながら苦笑いをする。
『あの子達は個性的ですがしっかりしている人ばかりです。これからもしっかりと生きていけるでしょうね。』
『…でも…私はどうでしょう。あの子達が居なくなっても、今までのように楽しく生活できるのでしょうか。』
『いけませんね。…あの子達に随分頼りきるようになってしまったみたいですね。どちらが生徒なのか。』
ネガティブな思いを打ち消そうと望は頭を振った。
『それにしても遅いですね。家の前でずっと居るのもなんですし、中で待たせてもらいましょうか。』
望は可符香から聞いていた場所から鍵を取り出し家の中へと入った。
『許しを得ているとはいえ…他人の家に留守中に入るのは変な気がしますね。』
『電気のスイッチはっと…ああ。これですね。』
壁のスイッチを入れる。暗かった部屋がぱっと明るくなる。
生活感の無い部屋。何も無い部屋。部屋の中央にちゃぶ台と食事…1封の封筒。
嫌な予感がする。望は震える手で封を空け中身を取り出す。
望への謝罪で始まるその手紙には、望の知らない可符香の事も書いてあった。
へ組の思い出…望への思い。そういう事が手紙には書かれていた。
望への感謝と愛の言葉を伝える文章と、本名での署名で手紙は締め括られていた。
手紙と一緒に入っていたのは、可符香がいつも付けていた髪留めだった。
何度も何度も手紙を読み返し自問自答を繰り返し、望は髪留めを袂に入れ可符香の家を出た。
俯き夜道を歩きながら望は思う。
『昔の私なら…間違い無く自ら命を…。しかしそれでは…あの子達が…。』
望はふと立ち止まり、夜空を見上げる。空は満天の星。
『…そうですよね。風浦さん。そんなわけ無いですよね。』
望は自らの人生を一変させた女性の事を思う。
「明日も…忙しくなりそうです。」
自らに言い聞かす様に呟き、望は家へと向かった。
「これでよし。」
バスケットにお弁当を入れながら可符香はそう呟いた。季節は春になり公園の桜も満開になっている。
「さあ。桜を見に行きましょうか。」
春の香りを受けながら、可符香は近くの公園へと向かった。
「ほら…そんなに急ぐと危ないですよ。」
公園には一本の桜。桃色ガブリエルと名付けた桜と遜色ない。
『癒されるなあ…そうだ!!』
「この桜は桃色ラファエルね。」
「桃色…ラファエル?」
小さな女の子が可符香に不思議そうに問いかける。
「そう。ラファエル。良い名前でしょ?」
「…えへへ。」
二人でじっと桜を眺めていると”ぐー”
「あらら…お弁当にしましょうか。」
桜の下にランチマットを引き、可符香はお弁当を広げる。
「…先生…元気かな…」
何年も口に出した事が無い言葉を、可符香は思わず呟く。
「…先生?」
娘に聞かれ一瞬たじろいだが…可符香は微笑みながら話しかける。
「そう。先生。お母さんが高校生だった時の先生だったんだけど…。頼りなくって…でも優しくって…」
「…好きだったの?」
「…そうね。」
「お父さんとどっちが好きだったの?」
「同じくらいよ。どっちも大好きだったわ。」
「…へー、お母さんもやるね。」
そう言いながら楽しそうに笑う娘。どこでそんな言葉を覚えてくるのか…。
青空の下でお昼ご飯を食べ、お茶を飲み話をする二人。
…サリッ…
可符香の後ろでする物音。顔を上げる娘。音の方へ走り出す…。
「こら。希…危ないわよ。」
振り返る可符香。そして…
「はー。疲れたあ。残業ばっかりで大変だあ。」
そう呟きながら、ポストの中身を一つ一つ確認する。
「ダイレクトメールばっかりだねえ…本当に内容のある手紙がな…あらら?」
「へー…あの二人とうとう…良かったね。可符香ちゃん…」
机の上にそっと手紙を置きシャワールームへと向かいながら、ふっと呟く。
「私にも良い人いないかなあ…。」
手紙の裏には笑顔の二人の写真が印刷されていた。
可符香もその隣の人も…見るだけで幸せになるような満面の笑みを浮かべていた。
春−四月…
私の心は希望に満ち溢れていました…。