某月某日、とある書店。
その日はとりたてて客もおらず、アルバイトの青年が一人あくびを噛み殺しながらレジに立っていた。
時刻は午後の5時を回り、窓から差し込む西日がやたらと眩しい。
そんな時、自動ドアの開く音と共に、ようやく久しぶりの客が現れた。
太った体、目つきの悪い顔に眼鏡をかけた少年、近くの高校の生徒らしいお馴染みの常連さんだ。
いつもアニメ誌やコミックスを凄まじい量で買っていくので、恐らく相当のオタクなのだろう。
ところが、そんな彼が、今日はアニメ誌やコミックのコーナーに行かない。
何やら雑誌コーナーを色々と探し回っているようなのだが……。
「………これください」
店内を幾度も右往左往してから、彼がレジに持ってきたのは、彼がいつも買っている本とは180度ベクトルの違うものだった。
『特選デートスポット100』なんて言葉が表紙に踊る雑誌の数々。
らしくない買い物をしている自覚があるのか、少年の顔は真っ赤になっている。
(この子が色気づくとはねえ……)
心中の呟きは顔に出さぬよう淡々と会計を済ませると、少年は逃げるように店を出て行った。
まあ、彼とて男だ。色々あるのだろう。
「健闘を祈るよ」
自動ドアのガラスの向こうに遠ざかっていく少年の背中に、アルバイトの青年はそう呟いた。
そして、それから僅か数分後、今度はセーラー服姿の小柄な少女が店内に入ってきた。
こちらも常連。携帯電話のメールでしかコミュニケーションを取らない変わった娘だ。
いつもは少女漫画誌なんかを買っていく彼女なのだけれど……
(おいおい、この娘もかよ……)
さっきの少年とは反対に、彼女が向かったのはアニメ誌なんかが置かれたコーナーだった。
その中でも美少女とか、そんなのを扱った雑誌を手当たり次第に手に取ってからレジにやってくる。
少し呆然としてしまったアルバイトの青年に向かって
【おい、会計だ。早くしろ】
少女は携帯の画面に打ち込んだ文章で急かす。
「あ、はい、すみません」
アルバイトの青年はいそいそと本の会計をしながら、ちらりと少女の顔を見る。
真っ赤に染まった頬、それはまるでさっきの少年と同じようで……。
いつもと違う本を大量に買い込んだ少年と少女。一見すると共通点のなさそうな二人だけれど……。
アルバイトの青年の頭の中で想像が膨らんでいく。
(まさかね……。でも、もしかしたら……)
金を払い、お釣りを受け取ると、少女もまた逃げるように書店から出て行った。
「これは、ちょっと面白いかもな……」
今後、あのオタク少年とメール少女が、どんな形で店に姿を現すのやら。
アルバイトの青年はニヤリと笑って見せたのだった。
心臓が止まるかと思った。
大量の雑誌の入った紙袋を抱えて、家に帰り着いたオタク少年、万世橋わたるは大きな溜息をついた。
「慣れない事はするもんじゃないな…」
レジでの支払いの僅かな時間が永遠の長さに思えた。
似合いもしない買い物をする自分が、嘲笑われているような気がして、いっそ消えてしまいたかった。
だが、それでもこれはやらねばならない事なのだ。
今も手のひらに残る、あの小さな手の感触。
暖かくて、柔らかな、彼女の手の、指先の記憶。
音無芽留。
小憎らしくて、そのくせ臆病で、だけどわたるの持たない健気なほどの勇気を持った少女。
毎日の、憎まれ口まじりのメールのやり取りの中で、わたるの想いはどうしようもなく膨らんでいった。
駄目元でかまわない。
もっと彼女の近くにいたい。彼女と一緒に街を歩きたい。
「まったく、あんな奴相手に、こんなに思い詰める事もなかろうに……」
なんて言いながらも、既に自分の気持ちが彼女に傾き始めている事は否定のしようがなかった。
書店の紙袋を開けて、買ってきた雑誌を取り出し、早速読み始める。
自分のようなタイプの人間が、書物の情報のみを頼りに行動すると、
相当痛い事になるだろう事は十二分に理解していたが、今のわたるには他に縋るものがない。
「まあ、やってみるしかないだろ…」
呟いて、わたるはページをめくり、慣れない雑誌の内容に没入していった。
「おかえりなさい、芽留」
【おう、ただいま】
玄関のドアを開けて、ちょうどそこにいた母親に帰宅の挨拶を返す。
それから靴をそろえるのももどかしく、トタタタタ、と階段を登り自分の部屋へと急ぐ。
ドアを閉め、鍵をかけ、小脇に抱えた書店の紙袋の、中身を机の上にぶちまけた。
アニメ誌、ゲーム誌、その他それっぽい雑誌が多数。
どれも芽留にとっては馴染みのないものばかりだ。
だけど……。
(読もう。読むしかない……)
口も悪けりゃ顔も悪い、その上とんでもなく偏屈なオタク野郎。
今だって、アイツの悪口を言おうと思えば、百でも千でも思いつく自身がある。
でも、だけど……。
(嬉しかったから…)
その想いは否定のしようがない。
痴漢から助けられた一件以来、胸の奥に芽生えてしまった気持ち。
気遣いが、優しさが、この上もなく嬉しかった。
毎日交わすメールでのやり取りが、どんどん楽しくなっていく。
万世橋わたる、アイツに少しでも近寄りたい。
だから、まずはアイツが興味を持っているもの、それがどんな風なのかを知ってみようと思った。
それが、何かの突破口になるのではないかと、そう考えた。
机の上の雑誌の中から、とりあえず一番上の一冊を手に取る。
ぱらり、ページをめくり、芽留は未知の世界への一歩を踏み出した。
「ぐ……、ぬぅ……、わ、わからない……」
買ってきた各種雑誌を読み始めて既に3時間、わたるは苦悶の声を漏らしていた。
読めば読むほどわからなくなる。
もちろん、何が書いてあるかは理解できるのだが、そもそもわたるはこの手の事について全く無知である。
情報の良し悪し、有効性、そういった事を判断する基準を持っていないのだ。
だから、読めば読むほど嘘か本当かわからない知識ばかりが蓄積され、わたるの苦悩は深まっていく。
誰かに相談できれば良いのかもしれないが、なにしろ友人は揃いも揃ってオタクばかり。
そりゃあ、モテモテのオタクも世の中には存在するが、少なくともわたるの交友関係の中にはいない。
何をどうすれば、彼女に近づけるのやら、わたるの求める答えは霧の中に消えていくようだ。
それでも、わたるは雑誌のページをめくる手を止めない。
ぱらぱら、ぱらぱらと流し読みする内に、わたるはあるページに目を留めた。
『今月の映画レビュー』
ハリウッドの超大作から、ドラマ発の日本映画までずらりと並んだ映画紹介。
「そうか、映画か……」
芽留を映画に誘う。
見終わった後で、その映画の感想なんかを話題にしながら街を歩く。
ベタ過ぎて思い付きもしなかったが、悪くないかもしれない。
少なくとも、自分のように知識のない人間が無理に背伸びをするより、ずっと良い結果が望めるだろう。
向こうがこちらの誘いに乗ってくれるかどうかは、まあ、当たって砕けろ、と言うしかない。
そうと決まれば、後はどの映画を見に行くかなのだが……。
とりあえず、映画のレビューサイトでも巡ってみよう。
雑誌を片手に持ったまま、わたるはパソコンを起動した。
「…………む……ぐぅ……」
無口な芽留が珍しく声を漏らしていた。
机の上にはとあるアニメ誌が大開きにして広げられている。
そこはちょうど雑誌の巻頭のあたりで、美少女の描かれたピンナップがあったのだが、これが問題だった。
(ほとんど、裸じゃねえかぁああああっ!!!!)
露出の高い水着で、媚びたポーズをしている美少女を見ているだけで、芽留の顔は真っ赤になってしまう。
(次いくぞ、次っ!!)
気を取り直してピンナップをめくると、裏面も印刷がされてあった。
今度は美少女数人の、露天風呂入浴シーンである。
(完全にっ、裸だぁああああああっ!!!!)
まあ、タオルなんかで隠すとこは隠しているのだが、今の芽留には同じことだ。
芽留はアニメ誌を机の上から投げ捨て、次の本を掴み取る。
今度こそはと表紙を開き、絶句。
(こ、こ、こ、これはぁああああっ!!!?)
あられもない姿の少女たちが、男性とまぐわう姿が所狭しと並べられている。
明らかに成人向けだ。
顔から火を噴きそうな恥ずかしさの中で、芽留は思い出す。
そういえば、アニメやゲームの雑誌コーナーと成年誌コーナーはそう離れていなかった。
あの時はかなり慌てながら、次々とそれらしい本を手に取っていったので、その過程で紛れ込んだのだろう。
表紙はそれほど過激な絵ではないが、裏表紙を見れば露骨な成年向けゲームの広告が印刷されている。
(気づいて止めろよ、店員〜〜〜〜ッ!!!!)
一体こんな本、どうやって処分すればいいのだろう?
机の上に、芽留はがっくりとうなだれる。
もう、精も根も尽き果ててしまった。
すっかり無気力になってしまった芽留は雑誌の山の中から比較的穏当そうなアニメ誌を選んで、パラパラとめくる。
ふと、とある記事が目に留まった。
アニメの紹介、それもテレビ放映ではなくて劇場公開中の映画らしい。
少年と少女。飛び交う戦闘機。空の青と雲の白が目を引いた。
タイトルを確認する。
『スカイ・クロレラ』
アイツはこの映画の事を知ってるだろうか?
多分、知っているはずだ。アイツはかなりのレベルのオタクである事を自認している。
公開されたのはつい最近のようだったが……
(もしかして、もう見に行ってるって事はないよな……)
もし、そうでないのなら……。
脳裏に浮かんだアイデアは、芽留にとって、非常に魅力的に思えた。
翌日。学校。時間はすでに昼休憩。
教室の片隅で、わたるはいつになくそわそわしていた。
『芽留を映画に誘う』
それが、昨日出した結論だ。
だが、言うは易し。芽留に断られるか断られないか以前に、どう話を持ち出すかが問題だ。
何度もメールの文面を、打っては消し、打っては消し……。
ここ一番で決心のつかない自分に、わたるはいい加減ウンザリし始めていた。
今日は、まだ芽留からのメールは届いていない。
正直、今彼女からのメールを受け取っても、どう返信して良いのかわからない。
「うう、情けないな……」
少し歩いて気分を変えるとしよう。
わたるは自分の席から立ち上がり、教室を出ようと出入り口に向かう。
そして、扉を開いたその向こうに、先ほどから自分が問題にしている少女の姿を認めた。
「………あっ!?」
いつもなら、開口一番、いつもの不機嫌顔で皮肉の一つも飛ばすところだが、今のわたるはそれどころではなかった。
思考がぐるぐると空回りして、何をしていいのかわからない。
何か言葉を掛けるべきなのだろうけど、喉がカラカラに渇いて、声すら出てこない。
冷や汗を額いっぱいに浮かべたわたるは、だから、芽留の様子が少しおかしい事に気がつかなかった。
その、少し赤らんだ頬の理由に思い至る事はなかった。
(そうだ、むしろこれはいい機会だろう……)
パニック状態のわたるの脳内だったが、何とか本来の目的を思い出した。
いつまでも迷っていても仕方がない。どうせ、駄目元なのだ。当たって砕けろ。
呼吸を整え、伝えるべき言葉を脳内で再度確認。
断崖絶壁から身を投げるような気持ちで、わたるは口を開いた。
「こ、今度の週末、映画を見に行かないかっ!」
上ずった声が我ながら痛々しいと思った。
だが、ここで止まる訳にはいかない。わたるは言葉を続ける。
「『スカイ・クロレラ』ってのがやってるんだが………」
と、そこまでまくし立てて、わたるは自身の犯した重大なミスに気がつく。
(『スカイ・クロレラ』って、アニメ映画じゃねかっ!!!!)
映画に誘う、そのアイデアで頭が一杯になって、昨日の映画選びの時にはその事をすっかり失念していた。
わたる自身もいつか見に行こうと考えていた映画だったのが良くなかったのかもしれない。
映画レビューサイトをなめる様に見て、考えに考えて、考えすぎて重要な事を見逃してしまったようだ。
オタク野郎がアニメ映画に誘ってくるって、普通の女子なら敬遠したくなるところじゃないだろうか。
(ち、致命的だ……)
わたるの顔を流れ落ちた汗の雫が一滴、床に落ちて弾けた。
だが、もはや後戻りは出来ない。時計の針を戻す事など誰にも不可能だ。
わたるは、恐る恐る、芽留の様子を伺う。
視線の先、芽留の表情はなにやらポカンとして、なんだか何かに呆然として驚いているようにも見えた。
(えっ………)
そんな芽留の様子に、わたるが疑問を抱いた、そんな時だった。
ヴヴヴヴヴヴ。
わたるの携帯に届いた一件のメール。
差出人は、目の前の少女。
一体何が書かれているのか、ビクビクしながらわたるが確認すると、そこに書かれていたのは余りにも意外な言葉だった。
【『スカイ・クロレラ』見に行かないか?】
ポカン……。
今度はわたるが呆然とする番だった。
晴れ渡った休日の空の下を電車が走る。
込み合った車内の中で、芽留は座席に座り、その前でわたるがつり革につかまって立っている。
以前のバスでの一件もあってか、何となくこれが定位置になってしまった。
電車に揺られる二人。行き先は『スカイ・クロレラ』の上映されている映画館だ。
【しかし、存外意気地がないな、お前も。あの時の顔を思い出しただけで、笑えてくるぜ】
「う、うるさい……」
先日、芽留を映画に誘おうとした時の一軒をネタにされて、さしものわたるも形無しのようだ。
【お前なら、こっちの都合なんて考えず、自分の興味だけで決めた映画で、強引に誘ってくると思ってたんだがな】
「俺だって、相手の事ぐらい考える……」
【ヘタレなだけだろ、単に】
いつもは対等にやり合っている二人だが、さすがに今回はわたるも反撃しにくいようだ。
散々にわたるを苛めながら、芽留はくすりと笑う。
本当は、嬉しかった。
まあ、最後の最後にアニメ映画なんて選んできてしまうのがアレだったが、
コイツがこんな話を持ちかけてくるなんて思ってもみなかった。
そもそも、今こうして、安心して電車に乗っていられるのだって、目の前のデブオタのお陰だ。
痴漢に遭った時のトラウマは、まだまだ芽留の中では払拭できていない。
だけど、わたるが一緒なら怖くない。安心して乗っていられる。
こんな奴……、と心の中で悪罵を浴びせる一方で、どうやら自分がわたるを信頼している事も間違いのない事実のようだ。
やがて、電車は目的地の駅のホームへ。
電車を降りてもわたるへの攻撃を緩めない芽留、その足取りは軽く、表情は晴れやかだ。
時折反撃しつつも、やっぱり苛められてしまうわたるも、苦笑いしつつ、その実会話を楽しんでいるようだ。
駅からはそれなりの距離があった筈だが、映画館までの道のりは二人にはあっという間のように感じられた。
二人並んで映画のチケットを買うのは結構気恥ずかしかった。
お決まりのポップコーンとコーラを両手に持って、薄暗い館内に入っていく。
観客の入りはそこそこといったところ。
隣同士の席に座ると、改めて”二人で”やって来たのだという実感が湧いてきた。
【なあ…】
上映開始直前、芽留が携帯の画面で語りかけてきた。
【なんだか楽しいな】
「えっ!?」
わたるがその言葉を読み終えるか読み終えないかの内に、芽留は携帯の電源を落とした。
ブザーがなる。
映画が始まった。
銀幕を横切る戦闘機の軌跡。飛び交う弾丸。どこまでも高い空。
映画に見入りながらも、わたるはちらりと、隣に座る芽留の表情を確認する。
その視線はスクリーン上に繰り広げられる物語を一心に追いかけているようだ。
少なくとも、退屈した様子はない事にわたるは安心する。
難解さで知られる監督の作品だが、今回のは比較的わかりやすかったのも良かったのかもしれない。
再び、わたるは画面に目を向ける。
辛らつなわたる自身にとっても、この作品はなかなか悪くないものに思えた。
だけど、ストーリーに没入しながら、筈のふとした瞬間に、隣の少女を見てしまう。
(あ〜、我が事ながら……まったく)
自分の気持ちを自覚しているつもりだったが、どうにも予想以上に重症なのかもしれない。
気を取り直して再び視線をスクリーンに。
(と、思ったが、もう一度……)
これで最後と思いながら、再び視線を芽留の横顔へ向けて………
(………あっ!?)
一瞬、息が止まるかと思った。
目の前には、自分と同じように、こちらを見てくる彼女の顔があった。
視線と視線が交差する。
時間が停止したような錯覚。
スピーカーから流れる映画の音声だけが、かろうじて時が流れている事を教えてくれた。
やがて、どちらも気まずそうに、おずおずと前方に、スクリーンの方に向き直った。
これ以降もう一度隣を見るような勇気は、さすがにわたるにもなかった。
やがて映画も終わり、二人は映画館の外に出た。
暗い館内に慣れきった目には、傾きかけた太陽の光もひどく眩しく感じられる。
映画の内容には芽留も、わたるも概ね満足していた。
互いの感想などを言い合いながら、二人は街を歩いていく。
【あの監督の他の作品、お前、なんか持ってないか?】
「ん、いくらかDVDは持ってるが…」
【よし、貸せ。週明けたら持って来い】
「命令形かよ……」
【お前のオタク趣味に付き合ってやるって言ってるんだ。感謝する事だな】
「……わかったわかった、2,3枚見繕って持って来てやる」
会話が弾む理由の裏側には、映画館の暗がりの中で目が合った時のドキドキした感覚が、まだ尾を引いているのかもしれない。
浮き立つ足取り。
二人とも、口には出さないでいたけれど、来て良かったと、心底から思っていた。
だから、そんな楽しい気分が、周囲への注意力を二人から奪い取ってしまったのは、全くの不運だった。
ぬう、と前方に大きな影が立ちふさがって、二人は足を止めた。
短く刈った髪を金に染めた長身の男を先頭に、目つきの悪い男たちが6人。
睨み付けるような鋭い視線。敵意があるのは明らかだった。
「よう……」
先頭の男がドスを効かせた声で話し始めた。
「楽しそうだな、お二人さん……」
蔑み、嘲笑う下衆な視線。
芽留とわたるにとって不運だったのは、二人共揃って負けん気の強い性格である事だった。
二人とも、男の視線を真っ向から受け止め、反射的に睨み返してしまった。
男はそんな二人の様子に、何が可笑しいのかクククッと笑い……
「おらあああっ!!!!」
わたるに向けてパンチを繰り出した。
男の拳がわたるの右頬をとらえる。
痛烈な一撃を喰らい、倒れそうになところを何とかこらえて、わたるは踏みとどまった。
一瞬、黒い怒りの炎が心の内から吹き上がりそうになるが、わたるは隣の少女を見てそれを思いとどまる。
(こんな奴らとやりあったって、何の得にもならない……)
そうと決まれば、やる事は一つ。
「逃げるぞっ!!!」
芽留の腕を強引に掴み、わたるは走り出した。
(くそっ…まあ、目につきやすい組み合わせなのは認めるが……っ!!)
最初は戸惑っていた芽留も、わたるにペースを合わせて走り始める。
ちらりと後ろを見ると、6人の男たちもへらへらと笑いながら追いかけて来る。
どうやら、二人は彼らにとって、いかにも魅力的な玩具に見えたらしい。
二人と男たちの距離は一定で、近づきも離れもしない。
歩幅の小さい芽留と、太ったわたる、二人の足はお世辞にも速いとは言えない。
恐らく、しばらくは追い掛け回して遊ぼうという魂胆なのだろう。
(まずいな……)
息が切れ、酸素の回らない頭で、わたるは必死で考える。
そして、一つの結論を導き出す。
「おい……」
隣で走る芽留に、わたるは自分の考えを伝える。
「この先の角を右に曲がったら、そこで二手に分かれるぞっ!!」
わたるの言葉に、芽留は明らかに戸惑っているようだが、メールを打つ余裕のない今は反論できない。
「それで奴らを撒く。どうせこのままじゃ駅と反対方向だ。バラバラに逃げてまた駅で合流するぞ」
芽留の答えも聞かないまま、わたるは芽留の腕をひっぱり、スピードを上げて走った。
曲がり角を右に、そして、そこから分かれた二つの道の右の方に芽留の背中を押しやった。
「何かあったら、メールで連絡しろっ!!上手く逃げろよっ!!」
何か言いたげな芽留の背中にそう叫んで、わたるは左の方の道に駆けていく。
仕方なく走り出した芽留の姿が道の先に消えた後、時間にすればわずか十数秒後、6人の男達も曲がり角を曲がって姿を現した。
「…………ん!?」
先頭の金髪男が足を止める。
彼らの行く手、道のど真ん中に仁王立ちしている人物。
走り疲れて息を切らす見苦しいデブ、彼らの目下の遊びの対象がそこにいた。
「なんだよお前、女はどうしたよ?」
金髪男の横から、別の男が出てきて、馬鹿にし切った口調で言った。
しかし、相手は無言のまま、こちらを睨むばかり。
その態度だけで、極端に沸点の低いその男を逆上させるには十分だった。
「なんとか言えや、うおらああああっ!!!」
大振りなパンチがうなった。
ガシッ!!!
咄嗟に腕でガードしたようだが、こいつのような根性なしのデブ野郎には十分に堪えただろう。
そう思ってニヤリと笑った顔が、一瞬の後、凍りついた。
「な、てめえっ!!!」
パンチを振るった右腕と、上着の襟を掴まれた。
そして、戸惑う暇もろくに無いまま、男の顔面に凄まじい衝撃が走った。
「っがああああっ!!?」
頭突きを喰らったのだ。
男の鼻からたらりと鼻血が垂れる。だが、攻撃はまだ終わらない。
ゴキィッ!!!
襟を再び引っ張られ、次に攻撃されたのは男の急所。
強烈な金的を喰らい、路上に倒れた男は激痛のために悶え苦しむ。
「…………」
一部始終を見ていた金髪男と、その仲間たちの表情が険しくなった。
彼らは見誤っていた。
万世橋わたるという男を甘く見過ぎていた。
確かにわたるは見た目通りのオタクだ。運動神経が良いわけでも、体力があるわけでもない。
先ほどの男のパンチも、実際のところ、わたるにはかなり堪えていた。
だが、しかし、わたるにはそれを凌駕するものがあった。
「おい、お前ら……」
静かに、わたるは口を開いた。
その瞳には、燃え上がる怒りと、尽きる事のない闘争心が映し出されている。
それこそがわたるの最大の武器だった。
喧嘩にルールはない。
それでも強いてあげるなら唯一つ、最後まで立っていた者が勝者である。それだけだ。
わたるの心には、それを可能にするだけの力が眠っていた。
わたるは怒れる男だ。
無尽蔵の怒りと闘志が、今のわたるを動かしていた。
「逸脱するなら二次元にしとけ………お前ら好みのソフトの一つや二つ、譲ってやらんでもないぞ」
金髪男が構える。
背筋に物差しを入れたような姿勢の良さ、恐らくは何かの武道経験者だ。
それを睨みつけるわたるの顔には、ニヤリ、獰猛な笑いが浮かび上がっていた。
見知らぬ道を、走る、走る。
僅かな段差に足を取られ、転びそうになりながら、それでも芽留は足を休めない。
今は何よりも、あの男達から逃げる事が先決だった。
確かにわたるの判断したとおり、多勢に無勢の状況で、あんな奴らと争う事に何の得も無い。
だが、必死で走りながらも、芽留の胸にはどうにも割り切れない違和感が残っていた。
二手に分かれて、暴漢達の追跡を撒く。
わたるの剣幕に押されて、つい納得してしまったが、考えれば考えるほどおかしい。
自分たちより土地勘があるだろうあの連中を相手に、分かれて行動するのは果たして良策なのか?
それに、あの分かれ道の直前での、わたるの焦った態度が気にかかった。
まさか……いや、でも、もしかして………。
ぐるぐると、芽留の胸中に疑念が渦を巻く。
思い過ごしならいい。だけど、あいつの性格ならば……。
立ち止まり、芽留は今まで走ってきた道を振り返った。
もし、勘違いなら、自分はただでは済まないだろう。
携帯をぎゅっと握り締め、延々と苦悩して、芽留はついに決断を下した。それは……。
体中が痛む。
打ち込まれる鋭い打撃に、息が止まるような心地を味わう。
目の前の金髪男は、わたるを相手にしながら、明らかに遊んでいた。
手加減した攻撃で、むかつくオタク野郎を生殺しのままいたぶろうという魂胆なのだろう。
残りの男達が観戦に回って、手を出してこないのがせめてもの救いだった。
「おら、どうしたよっ!!」
鞭のようにしなるキックが、わたるの太ももを強かに打つ。
間髪いれずに放たれた拳は、ガード越しでも凄まじい衝撃をわたるに喰らわせた。
だが、金髪男の思うがままにサンドバックにされながら、ガード越しに睨みつけるわたるの目は全く死んでいなかった。
次々に放たれる攻撃の中、明らかに大振りで隙だらけのそのキックを、わたるは見逃さなかった。
ドンッッッ!!!!!
わき腹を突き抜ける衝撃。一瞬、目の前が真っ暗になりそうになる。
だが、わたるの意識はギリギリで踏みとどまり、繰り出された右足をその両腕でしっかりと捕らえた。
だが、しかし……。
「やっぱ、そう来るよなぁあああっ!!!!」
攻撃を受け止められた金髪男は、ニヤニヤと笑っていた。
打撃で勝てないなら、掴み合いに持ち込むしかない。
わたるの行動など、端から予測していたのだ。
拳を大きく振りかぶり、今度は遊びではない本気のパンチを打ち込む。
それでこの不愉快なデブも黙るだろう。
「うぅらぁああああああああああっ!!!!!!」
叫びと共に、全力の拳をわたるの顔面めがけて放った。
バキィイイッ!!!!
凄まじい激突音。これで全てお終いだ。
清々した気分で拳を引いた金髪男は、一瞬遅れてその異変に気づいた。
「な、あ、あああ……」
拳が、指が、掌が、醜く折れ曲がり、ひしゃげていた。
目の前の、血まみれのわたるの顔がニヤリと笑うのが見えた。
コイツは、このデブは、自分の頭でパンチを迎撃したのだ。
全力の拳に、全力の頭突きを叩き込んだのだ。
そして、想定以上の衝撃が、金髪男の拳を粉々に砕いた。
やがて、驚愕のあまりに忘れていた痛みが、じわりと金髪男の拳に広がっていく。
「あ…な……お前…どうして……」
……どうして、平気で立っていられるんだ?
今まで散々痛め付けられて、そして最後にはこちらの全力のパンチに頭突きするなんて無茶をして……。
金髪男は今になって初めて、目の前のデブを相手にした事を後悔していた。
怖い……。
湧き上がる恐怖が、男の体を金縛りにする。
それが運の尽きだった。
「もう一度言っとく。逸脱するなら二次元だ。その手を直したら家に来い。おすすめを貸してやるよ」
金髪男の右足を捕まえたまま、残された左足に足払いをかける。
空中に浮かび上がった男の体を、わたるは全体重をかけて道路に叩きつけた。
男は、受身を取る事さえできなかった。
立ち上がったわたるの足元で、男は無様にのたうち回る。
「……くぅ…勝負…ありか……だけど…」
満身創痍で立ち尽くすわたるは、事の成り行きを呆然と見ていた金髪男の仲間たちに目をやる。
金髪男敗退のショックにしばし凍りついていた彼らだったが、やがてその驚愕はわたるへの敵意に変化していく。
「漫画みたいに、一番強い奴がやられたら、それで引き下がってくれると有難いんだが……」
男たちは、金髪男のように武道の心得があるわけではないようだったが、それでも、今のわたるが相手をするのは厳しい。
何しろ、四対一、これまでのダメージを考えれば、勝てる見込みはほとんどない。
かといって、逃げてしまおうにも体が言う事を聞いてくれない。
「やるしかないな……」
わたるは腹をくくった。
どうせ、芽留を先に逃がした時点で覚悟していた事だ。
「うぅりゃあああああああっ!!!!」
男達の一人が殴りかかってきた。
わたるはそれをかわそうとして、しかし、足がもつれ直撃を食らってしまう。
派手に吹っ飛び、地面に倒れたわたるのポケットから携帯電話が転がり落ちる。
何とか立ち上がろうとするわたるに襲い掛かる、容赦の無い蹴り、蹴り、蹴り。
「はぁ〜ん、これがコイツの携帯かよ。やっぱ、デブのだけあって脂ぎってるワ」
男達の一人が、わたるの携帯を拾い上げて言った。
「これで、お前の連れのチビ娘に知らせてやるか。お前のデブの彼氏は俺らにボコられてる最中だって…」
「…や…め……」
芽留がその知らせを受けて戻って来たら、一体こいつらにどんな目に遭わせられるのか。
それは、わたるの考え得る最悪の事態だった。
しかし、必死に伸ばしたわたるの手の平は、男達の足に踏みつけられてしまう。
「ぎゃああっ!?」
「さてさて…おお、わかり易いね。女の名前は一つだけだわ。っていうか、登録件数自体かわいそうなぐらい少ないよ、コイツ」
男が早速、芽留宛のメールを作成しようとした、その時だった。
ヴヴヴヴヴヴヴヴ。
「なんだぁっ!?」
携帯が振動した。
メールが一件。
それは、男が今まさにメールを送ろうとしていたその相手、音無芽留からのものだった。
【それはそこのデブの携帯だ。とっととその汚い手を離せっ!!このクソッタレの蛆虫どもがっ!!!!】
突然のメールに呆然とする男。
その背中を凄まじい衝撃が襲った。
「があっ!!?」
地面に這い蹲りながら、わたるは見ていた。
華麗に宙を舞い、暴漢の背中にとび蹴りを喰らわせる音無芽留の姿を。
地面に着地した彼女は、どこで拾ったのか鉄パイプを肩にひっさげ、仁王立ちで男達を睨みつける。
その姿に、わたるは体の痛みも忘れて見惚れていた。
きれいだ。
本当に、心の底からそう思った。
わたるの顔に、再び不敵で獰猛なあの笑顔が蘇る。
「うおらぁあああっ!!!」
好き勝手に自分を蹴っていた足の一本をぐいと両腕で捕まえ、そのまま立ち上がる。
予想外の反撃にひっくり返った男に、容赦の無い金的を食らわせてやった。
「ああっ…てめえっ!!!」
続いて叫んだ男に、頭突きを一発ぶちかます。
不思議な気分だった。
気力も体力も尽き果てたはずなのに、体の奥から凄まじいまでの力が湧き上がってくる。
「やってやるか……」
呟いて芽留の方を見ると、彼女もニヤリと笑って頷いた。
再び立ち上がったわたるに、男たちはジリジリと後退する。
わたるは渾身の力を拳に込めて、暴漢どもに向かって突っ込んで行った。
夕日が空を赤く染めるころ、路上に残されていたのは芽留とわたるの二人だけだった。
二人を襲った暴漢たちは、彼らの死に物狂いの反撃に、ついに撤退してしまった。
精も根も尽き果てて、道路にへたり込むわたると芽留の顔には、どちらもしてやったりという笑顔が浮かんでいた。
【逃げてく時のアイツらの間抜け面、見たか?】
「ああ、泣きべそかいてる奴までいたな」
【ただの女とデブの二人に、六人がかりであの有様、アイツら当分外を出歩けないぜ】
くっくっく、とひとりでに笑いがこぼれてしまう。
体中傷だらけで、痛くて仕方が無かったが、わたるは実に爽快な気分だった。
だが、その爽快な気分に釘を刺すように、芽留が声のトーンを落として口を開く。
【それにしても、今日のお前、どういうつもりだったんだ?お前一人であいつらをどうにか出来ると思ってたのか?】
いつかは言われるだろうと思っていたが、それでもその言葉は重たかった。
【ただのデブオタが、思い上がりも甚だしいな……】
「だからって、あのまま走って逃げ切れたとも思えないぞ」
苦し紛れだとわかっていても、わたるにはそう言うしかなかった。
多分、また同じような状況に追い込まれても、わたるの判断は変わらないだろう。
彼女を、芽留を危険に晒すような選択肢など、彼の頭の中には端から存在しない。
そんなわたるの言葉に、芽留はしばし沈黙してから、こう答えた。
【オレの気持ちも考えろって、そう言ってるんだ……】
その言葉は、わたるの心の奥の、深い深い場所に突き刺さった。
芽留の、それが偽らざる気持ちなのだろう。
そう言ってくれる芽留の心が嬉しくて、そう言わせてしまった自分が悔しかった。
苦い表情を浮かべて俯いたわたる。
そんな彼を横目に見ながら、芽留はなるべくそっけない調子でこう続けた。
【ところで、次、どうする?】
「次?」
質問の意味がわからず、オウム返しにわたるは尋ね返した。
【今日は、最後でとんだケチがついた。埋め合わせはしてもらうぞ】
そう答えた芽留の顔は、夕日に染まって少し分かりにくかったが、いつもより赤く見えた。
「そうか、次か……次は…」
【先に言っとくが、連続でアニメはなしだぞ】
苦笑しながら、わたるは芽留の顔を見つめる。
やっぱり、彼女はきれいだ。
そう思った。
【なんだ、人の顔をジロジロと…。気持ちの悪いヤツだな…】
戸惑う芽留の顔を見ながら、わたるは『次』の事を考える。
『次』の、『次』の、そのまた『次』の、これからも続いてゆく自分の過ごす日々に、芽留の存在がある事が今のわたるには無性に嬉しかった。