昼休憩、教室の生徒達のざわめき、その喧騒の片隅で万世橋わたるは深い溜息をついた。  
片手に持った携帯電話のメール画面を開く。  
空しい行いだと自覚しながらも、受信メールの一覧を確認する。  
あの日以来、彼女からのメールを受け取っていない。  
「これで四日目か……」  
音無芽留。  
数ヶ月前からほんの数日前まで毎日のように交わした、彼女との昼休憩のメールのやり取り。  
それが嘘のように途切れてから、今日で四日目。  
きっかけはあまりに些細で、思い出す事も出来ない。  
ただ、誰にでもあるような虫の居所の悪い日が重なって、売り言葉に買い言葉を重ねて互いの怒りがエスカレートしてしまった事。  
たったそれだけで、わたると芽留の数ヶ月に渡る交流は、ぷっつりと途絶えてしまった。  
【もういいっ!!二度と顔を見せるんじゃねえぞ、キモオタッ!!】  
乱暴に投げつけられた、彼女からの最後の言葉がわたるの脳内でリフレインする。  
わたると芽留の教室は隣同士だ。  
会いに行こうと思えば会いに行ける。  
こちらの非を詫びて、もう一度彼女と言葉を交わす事が出来る。  
直接顔を合わせるのが気まずいのなら、メールで謝る事だって出来る。  
だけど、わたるの心と体はまるでタールの沼に捕われたように、虚脱感に満たされて自ら動く事が出来ない。  
それが、単に自分の臆病さ、意気地の無さの現われである事もよくわかっていた。  
それでも、彼女と言葉を交わし、時に笑い合った数ヶ月間が、あっさりと終焉を迎えてしまった事。  
そのショックが、わたるを金縛りにする。  
人との関わりを避けて、逃げて、誤魔化して、そうやって生きてきた芽留と出会うまでの自分。  
それは彼女と関わっていく事で、少しずつ変化していった。  
そう思い込んでいたけれど……。  
やっぱり、自分はどこまで行っても自分でしかなかったのだ。  
孤独に生きて孤独に死ぬ、きっとどんな時代にもいたはぐれ者の人間。  
芽留との出会いで変わったつもりになっていた、そのメッキが剥がれただけだ。  
結局、自分は、万世橋わたるはそれ以上でもそれ以下でもない。  
人との関わり合いで傷つく事を恐れ、あまつさえそれを他人のせいにする臆病者。  
たかだかこれだけの事で立ち上がれなくなる自分に、彼女と顔を合わせる資格なんてある筈が無い。  
「………くっ」  
携帯電話をぎゅっと握り締め、わたるが小さく声を漏らす。  
ただ一言でいい。  
たった一言、彼女に謝る事が出来れば、それでいいのに……。  
彼女のいない昼休憩は、どこまでも長ったらしくて、空虚で、まるで砂漠に一人で放り出されたような孤独感の中、  
わたるはいつまでも携帯の画面を見つめ続けていた。  
 
「芽留ちゃん?」  
自分の名前を呼ぶ声に気づいて、音無芽留はハッと我に返った。  
【お、おう、何だよ?何か用があるのか?】  
「いや、ボーッとしてるみたいだから、どうしたのかなって」  
芽留に声を賭けたのは、可符香だった。  
屈託の無い笑顔で覗き込まれて、戸惑う芽留だったが、すぐに表情を取り繕う。  
【別に何でもない。昼休憩なんだ、ゆっくり休んでボーッとしてたら、何かおかしいかよ?】  
「ううん、そんな事はないけど…」  
しかし、可符香のペースは崩れない。  
芽留の机にひじを突いて、さらに芽留との距離を詰めて、可符香は言葉を続ける。  
「なんだか元気が無いみたいに見えたし…」  
 
【気のせいだ。オレはすこぶる元気だ。おせっかいされる理由はないな】  
「それにほら、いつもの昼休みのメール、この2,3日してないよね?」  
その言葉に、芽留の表情がサッと険しくなった。  
【別にどうでもいいだろッ!!!】  
可符香が話しかけてきた時点で、こうなるであろう事は薄々感付いてはいた。  
芽留にとっては、今最も触れてほしくない話題。  
ピシャリと断ち切るような芽留の言葉に、可符香は少しだけ心配そうに声のトーンを柔らかくして  
「何か、あったんだね?」  
そう言った。  
対する芽留は、俯き、何も答えようとはしない。  
たぶん、これは可符香なりの気遣いなんだと、力になろうとしているのだと、芽留には何となくわかった。  
だけど、それで何が変わるというのだろう。  
喧嘩がきっかけで、何となく疎遠になって、それっきりになってしまう友人。  
そんなのは良くある事じゃないか。  
何か誤解があったとか、そういうややこしい話でもない。  
互いに感情をぶつけ合って、言い争っただけの事。  
当事者ではない可符香に、してもらう事なんて何もない。  
これはあくまで、芽留自身の問題なのだ。  
【何でもない。何でもないから、早く向こう行けよ】  
芽留のその言葉を受けて、気遣わしげな視線をこちらに投げかけながらも、可符香は去っていった。  
そう、これは芽留自身の、芽留だけの問題なのだ。  
(あの馬鹿が、かけらも融通の利かないあの馬鹿が全部悪いんだ……)  
心中でそう呟きながらも、芽留の胸はチクチクと痛む。  
ひどい言葉を幾つも投げかけた。  
相手の言い分もろくに聞かず、一方的に断罪した。  
優しくしてくれた人に、  
いつも気遣ってくれた人に、  
とてもとてもひどい事をしてしまった。  
そんな罪悪感が芽留の心をがんじがらめにして、一歩も動き出す事が出来なくしてしまった。  
こんな自分が、今更のうのうと、アイツに何を言ってやれるというのだろう?  
片手で携帯をもてあそぶ。  
アイツからの、わたるからのメールは今日も来ない。  
まるで迷子にでもなったような不安感。  
賑やかな昼休憩の教室の中で、芽留は一人ぼっちの寂しさに震えていた。  
 
学校から家への帰り道を、わたるは一人トボトボと歩いていく。  
結局、今日も芽留に謝る事はできなかった。  
芽留と喧嘩して以来、ボンヤリと過ごして曜日の感覚が無くなっていたが、よく考えれば今日は金曜日。  
今週はこれでお終い。  
土日の間は、芽留と顔を合わせる事もできない。  
もちろん、メールで連絡を取るという方法はあるのだけれど、なんだかこのまま二人の距離が遠ざかっていくようで、  
わたるの心は一段と暗くなる。  
ガタンガタン。  
近くを通り過ぎていく電車の音に、わたるは顔を上げる。  
「そう言えば、明日の予定だったよな……」  
わたるが思い出したのは、先週の頭ごろ、芽留と交わした会話の事だった。  
【連れて行け】  
唐突にそう言われて、わたるは面食らった。  
「何だ、藪から棒に……。何の話か、もう少し具体的に言え」  
【忘れたのか、この間の埋め合わせだ】  
その言葉で、ようやくわたるは思い出す。  
以前、わたると芽留が一緒に映画を見に行った事があった。  
しかし、運の悪い事に二人はその帰り道、地元の不良らしき男たちに絡まれてしまった。  
何とか難を逃れたものの、二人はズタボロになってしまった。  
 
そこで芽留はこう言ったのだ。  
【今日は、最後でとんだケチがついた。埋め合わせはしてもらうぞ】  
もう一度、どこかへ出かけるなり何なりして、とにかく今回不運に見舞われた分を取り返したい。  
そういう事らしかった。  
「なら、なおさら具体的な話が必要だろ。なんか考えでもあるのか?」  
【ああ、も、勿論だ……】  
わたるの問い答えた芽留の態度は何故か少し煮え切らない様子だった。  
【これ…なんだが……】  
ごそごそと、カバンの中から雑誌を取り出し、角に折り目を付けておいたページを、わたるに向けて開いて見せた。  
それは、とある映画の紹介記事だった。  
右ページの半分以上を占めているのは、抱き合い、見詰め合う二人の男女の写真。  
わたるにもそれが、どういう類の映画なのかは一目瞭然だった。  
【これを見に行く。ちょうど、この間の映画館で次の次の土曜日から上映するらしい】  
ベタベタの恋愛映画だった。  
「こ、こんなのが見たいのかよ?」  
【ど、どうした…キモオタ野郎には高すぎるハードルだったか?】  
明らかに動揺した様子のわたる。  
それを茶化す芽留の方も、顔を真っ赤にしていた。  
思いがけない提案にしばし思考停止状態に陥っていたわたるだったが、しばらく沈黙してから腹を決める。  
「わかった。一緒に行ってやるよ。たまにはこういうのも悪くない」  
本当は、たまにどころか、テレビですらわたるがこの手の映画を見ることはなかったのだが、ぐっと堪えて、わたるは言い切った。  
【そ、そうか、思ったより度胸があるじゃねえか】  
わたるの答えを聞いて、芽留はホッと安堵の表情を浮かべ、それから本当に嬉しそうに微笑んだ。  
【それじゃあ決まりだな。細かい事はまた、上映時間表を見ながら決めるぞ】  
あの時の芽留の笑顔は、今もわたるの脳裏に焼きついて離れない。  
いまや遠い夢へと変わり果てた、幸せの記憶。  
思い出せば、思い出すだけ辛くなるばかりだ。  
わたるは記憶を振り切るように、早足で歩き出す。  
しかし、あの笑顔はそう考えれば考えるほど、より一層鮮明さを増してわたるを苦しめる。  
(そうだ。あの時のアイツは……本当に、嬉しそうだったんだ)  
応えてやれなかった。  
裏切ってしまった。  
そんな後悔に苛まれて、わたるの胸の奥の傷が、またキリリと痛んだ。  
 
「芽留ちゃんっ!」  
呼び止められて、芽留はゆっくりと振り向いた。  
【何だ、今日はやけにしつこいな…】  
「えへへ、一緒に帰ろうよ」  
振り返った先、相変わらずの笑顔で駆けてくる可符香を見て、芽留は溜息を漏らす。  
【そんなにオレの事が気になるのか?】  
「当たり前だよぉ。大事なクラスの仲間なんだから」  
【よくもそんなポンポン、調子のいい言葉が出てくるな】  
呆れ返りながらも、相変わらずの可符香の調子に、芽留はついつい心を許してしまっていた。  
これが人の心の隙に付け入り自在に操る風浦可符香の実力といった所だろうか。  
ニコニコ顔の可符香は、歩幅の小さな芽留のペースに合わせて、彼女の横に並んで歩き始める。  
「ひどいなぁ、親友の私をそんな風に言わなくたって…」  
【……まだ、そのネタ生きてたのかよ…】  
二人で歩きながら、どうでもいい事を話す。  
それだけで少し楽になったような気がした。  
 
どうやら思っていた以上に、芽留の心はわたるとの喧嘩の事でいっぱいいっぱいになっていたようだ。  
ガチガチに固まっていた心をほぐしてくれた可符香に、芽留は少しだけ感謝の気持ちを感じ始めていた。  
それから、どれぐらい歩いただろうか。  
不意に、何でもないような調子で、可符香はこう言った。  
「誰かと、喧嘩したんだね」  
芽留の歩みが止まった。  
「誰かと喧嘩をしちゃったんだね、それも大切な、大好きな誰かと……」  
【何で……そんな事がわかるんだよ?】  
硬い表情で尋ねた芽留に、可符香はあくまで笑顔で答える。  
「そりゃあ、親友だもの」  
【茶化すなよ】  
「……そうだね。本当は、今の芽留ちゃんを見たら、誰でも大体察しがつくんじゃないかな?」  
言われて、芽留はきゅっと下唇をかみ締める。  
可符香の言うとおりだろう。  
どんな風に取り繕って、平気な振りをしても、今の自分の落ち込みは自分が一番良くわかっている。  
傍から見ればそれは、滑稽なぐらいの動揺振りなのかもしれない。  
【アイツが悪いんだ、全部。人の気も知らないで、好き勝手言いやがって…】  
「でも、芽留ちゃんは自分の方がもっと悪いって、いけない事したって、そう思ってるみたいだね」  
【ちょ…人の話ちゃんと聞いてんのか?オレは…】  
「ひどい事をたくさん言ったから、もうその人に合わせる顔がないって、そんな風に思ってるんじゃないかな?」  
畳み掛けるような可符香の言葉に、芽留は反論できない。  
しばしの沈黙の後、観念したように芽留は答えた。  
【ああ、そうだよ。その通りだ…】  
芽留は心中の苦悩をそのまま見せるかのように顔を歪ませて続ける。  
【でも、だからって、どうすればいいんだよ?オレは…アイツに本当にひどい事を……】  
「そうかもしれないね。でも……」  
今にも泣き出しそうな芽留に、可符香はあくまで優しく語り掛ける。  
「でも、その相手の人はどう思ってるかな?芽留ちゃんの事、まだ怒ってるかな?」  
【それは……】  
「きっともう喧嘩の事なんかより、早く芽留ちゃんと仲直りしたいって、そう思ってるんじゃないかな?」  
それは芽留が頭に浮かべた事さえなかった考え方だった。  
そうだ、今、アイツはどうしてるだろう?  
無愛想で、口が悪くて、だけどいつも芽留の事を大事にしてくれたアイツは、今、どんな事を考えているのだろう。  
「その人は、芽留ちゃんとまだ喧嘩しようって、そう思ってるかな……?」  
【それは……アイツはそんな奴じゃないって……オレは、そう思う】  
その芽留の答えに、可符香はニッコリと笑って、こう言葉を結んだ。  
「その人はきっと待ってるよ。芽留ちゃんの事、ずっとずっと待ってると思うよ……」  
 
翌日、土曜日、天気は気持ちの良いぐらいの快晴。  
芽留は駅前のベンチにポツンと一人で座っていた。  
(来るわけないよな……)  
時刻はそろそろ午後の1時を回ろうかというところ。  
先週決めた約束の時間、待ち合わせの場所で、芽留は来る筈の無い待ち人の到着を待っていた。  
また映画に見に行こう。  
芽留から切り出した話だった。  
選んだ映画が映画だったので、断られるかもしれないと思ったが、わたるは了承してくれた。  
しかし、それもあの喧嘩の前の話だ。  
普通なら、そんな約束は反故になったと考えるのが当たり前だ。  
芽留自身、自分は何をやっているのだろうかと空しさを感じてしまう。  
そんなに一緒に行きたいのなら、わたるに連絡を取ればいいのだ。  
昨日、可符香に指摘された通り、もはやこの問題は相手がどうのと言うよりは、芽留自身の気持ちの問題なのだ。  
一言、謝ればいい。  
それをせずにこんな所で相手に期待だけして待っているのは、あまりに臆病で怠惰な態度ではないだろうか。  
「……………」  
既に時間は電車の発車時刻ギリギリだ。  
もう一度周囲を見渡す。  
わたるの姿は無い。  
当然だ。当たり前だ。そんな都合のいい事、起こる筈がないのだ。  
 
芽留は諦めてベンチから立ち上がった。  
あらかじめ買っておいた切符を財布から出して、駅の改札に向かう。  
わたるが不在のまま映画に行く事に何の意味があるかはわからない。  
むしろ、自分で自分の心の傷を抉るようなものだ。  
だけど、何もしないで今日一日を過ごす事もまた、芽留にとっては耐え難い苦痛だった。  
今は自分の心の思い付くまま、流れるままに行動しよう。  
切符を自動改札に通して、ホームに向かう。  
ギリギリで駆け込んだ芽留を乗せて、電車は駅を離れていった。  
 
ペダルをこぐ足が軋む。  
自分でもみっともないと思うぐらいに呼吸が乱れる。  
額に流れる汗を拭う時間も惜しんで、わたるは全力で自転車を走らせていた。  
やがて自転車は駅前へたどり着いた。  
わたるは周囲を見渡して、自分の探し求める少女の姿を見つけようとする。  
「いない……当たり前か」  
あんな喧嘩をした後で、今更映画の約束も何もあったものじゃない。  
そもそも、本来の約束の時間からは少しオーバーしてしまっている。  
それでもわたるは、もしかしたらという淡い希望を抱いて、ここにやって来たのだが……。  
わたるの背後で電車が動き出す。  
もし約束通りの時間の映画を見ようとするなら、あの電車に乗らなければ間に合わない筈だ。  
「そもそも、時間切れだったわけか……」  
自嘲気味に笑いながら、わたるが呟いた。  
もうこの場所に用事は無い。  
わたるは自転車のペダルをこいで、待ち合わせのベンチから離れていく。  
と、その時、背後を通り過ぎる電車の中に、見知ったツインテールの後姿を見たような気がしてわたるは足を止める。  
しかし、それを確かめるより早く、電車はわたるの前から走り去って行った。  
「……そんな筈はないか……俺の頭もいい加減危ないな…」  
今日はもう何をするあても無い。  
かといって家に戻る気にもなれなかった。  
行く当ても定めないまま、わたるは自転車を漕ぎ出し、土曜日の街の雑踏の中に消えていった。  
 
目的の駅にたどり着き、芽留は映画館への道を歩き始めた。  
以前は二人で歩いた道を、今度は一人で歩く。  
(こんなに長かったか、この道……)  
あの時は、自分を映画に誘った時のわたるの動揺振りをいじめながら、二人でなんだかんだと騒いでこの道を歩いた。  
二人で交わす会話が楽しくて、ほとんど歩いたような記憶もないまま、映画館に辿り着いたのを覚えている。  
今、一人で歩くこの道は、まるであの時の何倍にも伸びたかのように感じる。  
ぶり返す記憶に、また胸の奥がチクチクと痛む。  
忘れろ。  
今はただ何も考えず歩こう。  
そう自分に言い聞かせてから、芽留はふっと苦笑する。  
(忘れられるなら、一人でこんな場所には来ないよな……)  
一人ぼっちの道を、ただ黙々と、歩いて、歩いて、芽留はようやく映画館に辿り着いた。  
一人でチケットを買って、一人で館内に入り、一人で席を探す。  
客の入りは以前見に来た映画より多いようだったが、それがむしろ今の芽留の孤独感を一層際立たせた。  
椅子に深く腰掛け、芽留はスクリーンを見つめながら、心で呟く。  
(なあ、一緒に来たかったんだぞ。お前と一緒に、この映画を見たかったんだ……)  
やがて、上映開始のブザーが鳴った。  
照明が落とされて、映画館の暗がりの中に、芽留の小さな背中は紛れて、消えていった。  
 
上映が終わり、映画館を出た頃には、太陽は西の空に沈もうとしていた。  
夕日が赤く照らす街を、芽留はとぼとぼと歩いていく。  
いかにも大作映画らしい、しっかりとした作りのその映画は、傷ついた芽留の心にとっていくらかの慰めになった。  
それでも、ずっと自分の隣に感じている空虚な感覚は消えてはくれなかったけれど。  
長い長い道のりを歩いて、ようやく芽留は駅に辿り着いた。  
ホームは電車を待つ乗客の群れがごった返し、列に並ぶだけでも一苦労だった。  
 
(これは、まず座れそうにないな……)  
結構な距離を歩いて疲れていたが、座席でゆっくりと休むというわけにはいきそうにない。  
多分、押しつぶされそうな満員電車になるはずだ。  
と、そこで、芽留の脳裏に嫌な記憶が蘇った。  
満員電車の片隅で、見知らぬ男にいやらしく体を触られた記憶  
まるで、あの時と同じようなシチュエーションに、芽留の体が細かく震え始める。  
何とか震えを抑えようと芽留は苦心するが、震えは激しくなるばかりで一向に収まってくれない。  
だが、そんな時……  
(……あっ)  
芽留の脳裏を、不機嫌そうなアイツの顔が横切った。  
『黙れ、痴漢』  
されるがままで何も抵抗できなかったあの時の自分にとって、その声がどれだけ頼もしかった事だろう。  
ぼろぼろと泣き崩れる自分を慰めてくれたあの手の平は、あんなにも暖かだった。  
ゆっくりと震えが収まっていく。  
それと同時に、何となく、昨日の帰り道、可符香が言わんとしていた事がわかるような気がしてきた。  
(そうだ。きっと、アイツはオレを待っている……)  
それは、二人の間で起こったさまざまな出来事が、毎日のちょっとしたやり取りが、ゆっくりと時間をかけて育んだもの。  
(オレは、アイツを信頼してる……)  
時にはひどい喧嘩もするかもしれない。  
だけど、そんな事とは関係なく、揺ぎ無く存在し続けるものが、確かにある。  
お互いがお互いを信じている。  
ならば、後は些細な問題じゃないか。  
芽留は携帯を取り出し、メールの作成画面を開く。  
謝ろう。  
仲直りしよう。  
自分を信じてくれているアイツに、自分の言葉で応えよう。  
こんな自分だから難しいかもしれないけれど、できるだけ素直な言葉に、素直な気持ちを乗せてアイツに送ろう。  
やがてホームにやって来た電車に乗り込みながら、芽留はわたるへのメールの制作に没頭していった。  
 
午後からの時間のほとんどを、わたるは自転車をこいで当てもなく街をさまよった。  
どこに行こうと、頭に浮かぶのは芽留の事ばかり。  
今も本屋で雑誌をぱらぱらとめくりながら、頭の中では芽留との間に起こったさまざまな出来事に思いを馳せていた。  
芽留と深く関わるきっかけになった事件。  
電車の車内で痴漢に遭っていた芽留を助けたのが、そもそもの始まりだった。  
あの時、自分の抱える大きな矛盾に苦悩していたわたるは、芽留の生き方に強く心を動かされた。  
過去のトラウマのため、人前でしゃべる事が出来なくなってしまった芽留。  
しかし、彼女はそれでも人と関わる事を諦めなかった。  
頼りない携帯電話一台を片手に、自分なりの方法を模索し続けた彼女。  
(だからこそ、俺はアイツに……)  
不意に、わたるの頭の中でなにかが弾けた。  
脳裏を次々と駆け巡る、彼女の言葉、彼女の涙、彼女の笑顔……。  
それはわたるを一つの確信へと導いていく。  
「そうだ……。そうだよな、何やってたんだ、俺は……」  
繊細で、臆病で、だけど誰よりも強い勇気を持っていた彼女。  
そんな彼女だからこそ、わたるは心を惹かれたんじゃあなかったのか。  
(俺は今まで、何をウダウダしていたんだ……)  
答えはいつだって、彼女が示してくれていた。  
臆病な自分がいるなら、それを越えて行けばいい。  
臆病を恥じるあまり何も出来なくなる自分がいるなら、それもひっくり返して行けばいい。  
彼女と顔を合わせる資格なんてある筈が無い、なんてそんな事を考えるよりも先にやるべき事があるはずだ。  
前へ進め。  
行動しろ。  
ただそれだけの、単純な事だったのだ。  
ふと、わたるは書店の店内を見渡した。  
アニメコーナーに、先日芽留と二人で見に行った映画のムック本を見つけた。  
「手土産片手に謝りに行くってのは、どうにもセコイやり方だが……まあ、いいだろ」  
呟いたわたるの表情に、もう迷いの色はなかった。  
 
満員電車の片隅、芽留は壁の方を向いたまま、手にした携帯を操作して、わたるへのメールの文面を打っていた。  
(むう、だけど、思うように進まないな……)  
わたるに謝ろうという決意は固まったものの、肝心のメール作成がなかなか上手くいかない。  
打っては消して、打っては消して、結局まだ一行も書けていない。  
(難しく考えすぎているか…でも、オレの気持ちが伝わらないと意味がないし……)  
また打ち込んだ文章を白紙に戻して、芽留はうむむと唸る。  
と、その時だった。  
「………っっ!!?」  
背中から思い切り壁に押し付けられて、芽留はバランスを崩しそうになった。  
(なんだ、カーブでもないのに、ふざけた事しやがって……)  
怒り心頭で振り返った芽留は、思わず息を呑んだ。  
「…………」  
背後に立っていた男。  
芽留を見下ろすその男の視線は、まるで獲物を値踏みする狼のような貪欲な光が宿っていた。  
芽留は、その感覚を、空気を知っていた。覚えていた。  
芽留が何らかのアクションを見せるより早く、男は動いた。  
男の手の平が芽留の口を塞ぐ。芽留の体を力ずくで壁に押し付ける。  
(なんで…こんな無茶苦茶な真似をして、誰も止めないんだ!?)  
男の腕の下でもがきながら、左右に視線を向けた芽留はその疑問の答えを知る。  
芽留の右手と左手を遮る二人の男。  
その瞳には、芽留を押さえつけている男と同じ、淀んだ光が宿っていた。  
(こいつら、三人がかりのグルなのかよっ!?)  
以前痴漢に遭った時とは比較にならない、おぞましいほどの恐怖が芽留の背中を駆け抜けた。  
それでも、芽留の抵抗の意思はなくなりはしなかった。  
先ほどまでわたるへのメールを打ち込んでいた画面に打ち込んだ文章を、目の前の男に見せつける。  
【ふざけた真似をしやがって、この痴漢野郎ッ!!そんなに急所を蹴り潰されたいのかよっ!!!】  
だが、男はその文面を見てニヤニヤと笑い……  
ガッ!!  
芽留のすねを思い切りつま先で蹴った。  
(………痛っ!!?)  
口を押さえられ、悲鳴を上げることも出来ない芽留は、身をよじってその痛みに耐える。  
「ふざけた真似をしたら、どうするんだってぇ…?」  
その芽留の耳元で、男は馬鹿にしたような口調で囁いた。  
だが、それでも芽留は屈しない。  
【この野郎……】  
痴漢に向けてせめて言葉で反撃しようと、新しい文章を打ち込み始める。  
【お前みたいな痴漢の蹴りが効くとでも思ってんのか。もう一度言うぞ。これ以上ふざけた真似をしや……  
だが、その文章を打ち終わる前に、男の手が芽留の携帯電話を鷲づかみにした。  
(そんな、携帯まで……)  
携帯を奪われまいと必死で引っ張る芽留だったが、力では男の方が勝っていた。  
ぐいぐいと引っ張られるたびに、芽留は携帯を手放しそうになってしまう。  
(駄目だ。もう限界だ……)  
口を押さえられて呼吸もままならず、指先から力が抜けていく。  
このまま、全ての抵抗手段を奪われて、自分はこの男達のなすがままになってしまうのか。  
何とかしなければ。  
必死で考える芽留は、ある事を思い付く。  
それは、策と呼ぶ事さえ出来ないような、ほとんど幸運と偶然を頼りにした一手だった。  
(だけど、もうオレにはそれしかない……)  
今にも奪い取られそうな携帯のボタンを、素早く操作する。  
その作業を終えたギリギリの瞬間に、携帯は芽留の手から離れ、男の手の中へ。  
「さあ、これで生意気も言えなくなったな…」  
男が下卑た笑いを浮かべて、さも嬉しそうな調子でそう言った。  
(ちくしょう……後はもう、運に任せるしか……)  
祈るように目を閉じた芽留に、三人の男たちの手の平がゆっくりと伸びていく。  
それが、芽留にとっての長い長い悪夢の始まりだった。  
 
とある公園の片隅のベンチ。  
わたるはその脇に自転車を停めて、携帯のメール画面を操作していた。  
芽留への謝罪を、週が明けてから直接会って行うか、それともメールで先に謝っておくか。  
それがわたるの目下の悩みだった。  
「やっぱり、謝るなら早い方がいいだろうな…」  
最初は、直接会って謝った方が、こちらの気持ちが伝わるんじゃないかとも思ったのだが、  
考えてみれば、メールはわたると芽留のやり取りの基本スタイルだ。  
直接会うのをわざわざ待つより、まずはわたるの気持ちを少しでも早く伝えた方がいいだろう。  
「となると、問題は文面なんだが……」  
色々と書きたい事は思い付くが、まずはこちらがきちんと謝りたいという気持ちを、シンプルに伝えるべきだろう。  
細かい話は、週明けに直接会った時にすればいい。  
「まあ、それが順当なところか……」  
それでわたるの腹は決まったようだった。  
ならば早速メールの作成だ。  
わたるが携帯の画面に文章を打ち込もうとし始めた、ちょうどその時だった。  
ヴヴヴヴヴヴ。  
携帯が震えた。  
「ん?」  
メールが一件届いたようだった。  
その送り主を確認して、わたるは思わず声を上げた。  
「まさか……」  
恐る恐るメールを開く。  
だが、そこにあったのはわたるが予想だにしなかった内容。  
「なんだ……なんだよ、これは……!?」  
焦燥、不安、怒り、様々な感情がわたるの顔に浮かび上がっては消えていく。  
そして、そのメールが意味するところを完全に理解したとき、わたるは行動を開始した。  
自転車にまたがり、公園を飛び出す。  
「どうすればいいっ!?一体、どうすりゃあいいんだっ!!?」  
必死の表情を浮かべたわたるは、全速力の自転車で夕闇に沈む街を駆け抜けていった。  
 
もうどれだけの時間が経過したのか。  
幾つの駅を通り過ぎたのか。  
延々と男達の玩具にされる耐え難い時間が、芽留の頭から次第に思考能力を奪い去っていた。  
最初はもがいて、手足をばたつかせて、せめてもの抵抗をしていたが、もはやその気力もない。  
無抵抗のまま、男たちに体を弄られる内に、芽留の思考は暗く深い淀みに沈んでいく。  
(何でこんな事になったんだろう?)  
手を伸ばせばすぐ届くほどの距離に、当たり前の日常を過ごす多くの人達がいるのに、3人の男達の壁に阻まれたここで、  
芽留は拷問にも等しい、地獄のような時間を過ごしていた。  
(もしかして、これは罰なんじゃないだろうか?)  
弱りきった芽留の心は、我が身を襲う理不尽に何とか理由を見つけ出そうとする。  
(そうだ。きっとその通りだ。自分は何か悪い事をして、罰を受けているんだ。でなければ、こんなひどい事……)  
何か理由がなければ、納得のいく理由がなければ、自分にはこんな事は耐えられない。  
撫で回し、這い回り、いやらしく蠢く手の平の感触。  
まるで違う。  
全然、違う。  
自分が知っている、あの優しくて、大きくて、暖かな手の平の感触とは全く違う。  
アイツの手に触れられている時はいつも、心の底から安心していたれた。  
(ああ、そうか、アイツにあんなひどい事を言ったから……)  
自分はわたると喧嘩して、数え切れないぐらいのひどい言葉をわたるに浴びせかけた。  
これはその、当然の報いなんだ。  
ようやく納得のいく理由を見つけて、さらに芽留の心は流されていく。  
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい………)  
少女の瞳から零れ落ちる涙に、男たちはその下卑た嗜好を刺激され、一層激しく少女の体をまさぐる。  
だが、流されていくだけかと思われた少女の思考が、一瞬浮かび上がった小さな疑問に立ち止まる。  
(だけど……だけど、アイツはこんな事を望むだろうか?)  
優しさ。気遣い。好意。  
アイツがいつも芽留に与えてくれたもの。  
自分は今日まで、散々悩みぬいて気が付いた筈ではなかったのか?  
(そうだ……オレは、アイツを信じてるっ!!!)  
芽留の瞳に、微かな光が戻る。  
 
こんな奴らに負けてたまるものか。  
ほんの僅かでもいい、こいつらに抵抗をするんだ。  
萎えかけた気力を無理やりに蘇らせ、芽留は必死に逆転のチャンスをさぐる。  
その時だった。  
『間も無く列車は駅のホームに入ります。お出口は左側……』  
千載一遇のチャンスが訪れた。  
列車が駅に停車して、自動扉が開く。  
芽留にとって幸運だったのは、この駅で下車、もしくは乗り換えをする乗客がかなりの数いた事だった。  
乗客の密度が減って、密集している事を怪しまれるのを恐れた男たちが立ち位置を変えようとする。  
その隙を、彼女は狙った。  
(今だっ!!)  
男達の拘束を強引に抜け出し、芽留は飛び出す。  
列車を降りる人の流れに乗って、男たちから離れる。  
たとえ車両から降りられなくても、男達の囲みを破れば、もう奴らには何も出来ない。  
(うわああああああああああっ!!!!!)  
何も考えず、がむしゃらに前に進む。  
希望に向かって、ひたすらにまっすぐに……。  
だが、しかし……  
(うわっ!?)  
ドンッ!!!  
大きな壁にぶつかって、芽留の体がよろめく。  
わけがわからないままその壁を見上げた芽留の表情が、さっと青ざめた。  
(そんな……)  
壁と思われたのは、大柄な男の胸板だった。  
「いけないなぁ、お嬢ちゃん……」  
その見下ろす瞳は、さきほどまで芽留を囲んでいた男たちと同じ淀んだ色に染まっていた。  
(3人じゃ……なかった!?)  
恐らく、芽留を直接押さえつけていた3人をさらに囲むように、壁の役割をしていた人間がいたのだ。  
目の前の男を含めて、恐らくもう3,4人ほど。  
壁役を交代しながら、痴漢行為を行おうという事なのだろう。  
呆然とする芽留の腕を、背後から伸びたいくつもの手の平が捕まえる。  
(これが…最後のチャンスかもしれないのに……)  
助けを求めるように伸ばされた芽留の腕も、壁役の男たちによって巧みに周囲の人間からは隠されてしまう。  
必死で抜け出そうとする芽留の体が、じりじりとまたあの囲いの中に引っ張られていく。  
また、あの地獄に引きずり戻される。  
(……助けてっ!!…誰か、助けてっ!!!)  
涙を流し、必死で喉を振り絞っても、かすれた声さえ出す事ができない。  
声さえ届けば、誰かが気付いてくれるのに。  
忌まわしい呪縛に捕われた芽留には、たったそれだけの事さえ叶わない。  
(…助けてっ!!!…わたるっ!!!!)  
芽留の心の叫びが、再び下卑た男達の欲望の中に飲み込まれていくかに思われた、  
その時だった。  
「手を伸ばせっ!!!」  
聞き慣れた声に、下ろしかけていた腕を上げた。  
広げた手の平をしっかりと掴む、優しくて、頼もしい、あの手の感触。  
腕を引っ張られるタイミングと合わせて、全力で足を踏み出すと、後ろから縋り付く男達の手の平はあっけないほど簡単に離れていった。  
そして、芽留の体はそのまま、彼女が信じた少年の胸の中に倒れこむ。  
(そっか、届いたんだ、来てくれたんだ……)  
見上げた先には、いつも通りの不機嫌そうな顔があった。  
(わたるっ!わたるっ!!わたるぅ!!!)  
芽留が携帯電話を奪われる直前にした操作。  
それはわたるに宛てたメールを送る事であった。  
芽留はわたる宛てのメールを作成中の画面に文章を打ち込んで、痴漢と会話していた。  
【ふざけた真似をしやがって、この痴漢野郎ッ!!そんなに急所を蹴り潰されたいのかよっ!!!】  
そんな言葉が並んだ文面を、メールとしてそのままわたるに発信したのだ。  
当然、尋常な事態でない事はすぐにわたるに伝わる。  
 
だが、そこからわたるにどんな行動が出来るのか、それが問題だった。  
幸運だったのは、わたるが映画館に行くために電車に乗り込んだ芽留の姿をチラリと見ていた事だった。  
あの時は気のせいだと思ったが、もしかしたら……。  
そう考えて、わたるは行動を開始した。  
映画の上映終了時刻と、映画館から駅までの所要時間、さらには列車の運行時間。  
それらを考え合わせれば、芽留が乗っていると考えられる列車はある程度絞られてくる。  
それ以上は運に任せるしかない、分の悪い賭けだったが、何とか上手くいったようだ。  
「すまん、待ち合わせ、だいぶ遅れたな……」  
わたるの腕が芽留の背中をぎゅっと抱きしめる。  
それに応えるように、芽留も両腕を伸ばしてわたるの体にしがみついて、きつく抱きしめた。  
そして、わたるは芽留を弄んでいた男達を、鋭い目つきで睨みつける。  
「逸脱し過ぎだぞ、痴漢どもが……」  
わたるの言葉を聞いて、車内の視線が一斉に男たちに集まる。  
「な、何の証拠があって、そんな事を……」  
言い返した男の言葉に、わたるはにやりと笑って、自分の携帯電話を取り出す。  
そして、先ほど受け取った芽留からのメールを、空メールで返信する。  
すると……。  
「な……あぁっ!?」  
ヴヴヴヴヴヴヴヴ。  
着信を知らせるバイブレーションの音が、男達の一人のポケットから鳴り響いた。  
わたるの意図に気付いた男は、ポケットに入れていたその携帯電話を慌てて投げ捨てる。  
「なんでコイツの携帯電話を、お前が持ってるんだ?納得のいく説明はしてもらえるんだろうな?」  
いまや車内の乗客が男達を見つめる視線には、疑念ではなく強い確信が込められていた。  
無数の人の壁に囲まれた状況下で、もはや男達に抵抗など出来ようはずもなかった。  
 
相も変わらず長ったらしい警察の事情聴取を終えて、芽留は廊下に出てきた。  
そこは奇しくも、芽留とわたるが親しくなるきっかけとなったあの痴漢事件の時と同じ場所だった。  
あの時と同じ長椅子の、あの時と同じ端っこに座っているわたる。  
芽留はあの時とは反対に、つかつかとわたるの側に歩み寄り、彼のすぐ隣に腰を下ろした。  
二人が喧嘩をしてから、今日で五日目。  
言いたい事や、言わなければいけない事は山ほどあるのに、いざ彼を前にすると話を切り出す事ができない。  
黙りこくって、俯いてしまった芽留を横目で見て、わたるは深く深呼吸。  
自分の方から話を始めた。  
「色々言って、悪かった……ごめんな」  
その言葉に、芽留はゆっくりと顔を上げる。  
「映画の約束も駄目にした。挙句、あんなひどい目に遭わせてしまった…」  
わたるの沈痛な表情を目にして、芽留は携帯電話を取り出し、メール画面に自分の思いを打ち込む。  
【そんな事ない。オレも……、いや、オレが悪かったんだ…】  
必死で文章を打ち込む芽留の瞳からは、ぽろぽろ、ぽろぽろと止め処もなく涙が溢れ出てくる。  
【オレがたくさんひどい事を言って、お前を怒らせて……いつも優しくしてくれたのに、大切にしてくれたのに…】  
一度堰を切った涙は、もうどうやっても止める事が出来なかった。  
わたるにひどい言葉を浴びせてしまった事が、それなのにわたるが彼自身を責めるような事を言う事が、  
ただただ悲しくて、芽留は泣きじゃくる。  
わたるは、そんな芽留の背中を優しく撫でながら、  
「ごめんな、……本当にごめんな」  
もう一度、謝った。  
ぽろぽろと涙を零し続ける芽留と、それを慰めるわたる。  
それからどれぐらいの時間が過ぎただろう。  
ようやく芽留が落ち着きを取り戻し始めた頃、それを見計らったようにわたるが口を開いた。  
「それにしても、嫌な偶然だよな……」  
苦笑しながらそう言ったわたる。  
芽留は顔を上げ、不思議そうにその顔を見つめる。  
「お前と縁が出来たのも痴漢がきっかけで、喧嘩して以来ようやく顔を合わせた今日も痴漢に出くわして……いい加減ウンザリだ」  
【ホントだな。正直、オレも前回のでこりごりだったんだけど】  
困り果てたようなわたるの口調が可笑しくて、芽留もつられて笑う。  
 
「それだけじゃない。一緒に映画を見に行ったら不良に絡まれる。お前といるとこんな事ばっかりだ」  
【どうだろうな、お前の方が原因かもしれないぞ】  
「その上、毎日メールでさんざんにこき下ろされて、ほんとにロクな事がない」  
【それは、お互い様だろうが】  
くすくすと笑いながら会話を続ける二人の間には、ようやくいつもの空気が戻ってきたようだった。  
そして、わたるはしみじみとした調子で、こう言葉を続けた。  
「でも、楽しかった。本当に楽しかった。お前と一緒にいられて、本当に良かった……」  
そう言ってから、不意に真剣な表情になったわたるは、ぐいと身を乗り出して芽留の顔を覗き込む。  
至近距離からの視線に射すくめられて、芽留は思わず息を呑む。  
わたるは一つ呼吸を置いてから、何気ないような調子で、しかしはっきりとその言葉を口にした。  
「好きだ」  
芽留がその意味を理解するよりも早く、わたるはもう一度言葉を重ねる。  
「俺はお前が好きだ。大好きなんだ」  
その言葉はゆっくりと芽留の心に染み渡り、やがて言いようのない感情の波となって、彼女の中から湧き上がる。  
すうっと、一筋の軌跡を残して芽留の頬を伝い落ちていった雫は、ついさっき芽留の顔をぼろぼろに濡らしたそれとは、明らかに違った意味を持っていた。  
「……あ………うあ…」  
カタリ、手の平から携帯が滑り落ちたのにも気付かず、芽留は微かな嗚咽を漏らして、体を震わせる。  
見つめる先、メガネの向こうのわたるの真摯な眼差しは、先ほどの言葉が偽りでない事を何より強く物語っていた。  
涙に濡れた瞳でわたるを見つめながら、芽留は懸命に喉を震わせ、わたるの気持ちに対する自分の答えを、言葉を紡ぎ出す。  
「…オレも……好きだ……わたる……」  
消え入りそうなその微かな声は、しかし、わたるの耳にはしっかりと届いた。  
わたるの腕が、芽留を抱き寄せる。  
強く、優しく、いたわるように、わたるの体温が芽留を包み込む。  
それに応えるように、わたるの背中を芽留の両腕がぎゅっと抱きしめる。  
薄暗い廊下の片隅で、互いの想いを確かめ合った二人は、大好きな相手のぬくもりに身を委ね、いつまでも抱きしめ合っていた。  
 
やがて週は明けて、二人の新しい日々が始まった。  
まあ、告白しようが何をしようが、二人の関係が急にガラリと変わってしまうわけではない。  
いつも通りにメールのやり取りをして、顔を合わせればまた皮肉を言い合う。  
そんな毎日だ。  
それでも、いくらかの変化が二人の生活に生じた事も事実だった。  
まず一つ目は、芽留とわたるが一緒に行動する事が、以前にも増して増えた事。  
そして二つ目は、それに伴って芽留を仲介として、わたると他の2のへの生徒たちの間にも新たな交友関係が生まれた事だった。  
昼休憩、なんだかんだで2のへの面々に馴染み始めたわたるを横目に見ながら、芽留は可符香に語りかける。  
【あの時は、世話になったな……】  
「ううん、そんな事ないよ。それより、二人とも上手くいって、ほんとに良かったね」  
【まあ、何しろお前の事だから、何か裏でもあるんじゃないかとも思っちまうんだがな…】  
「ああ、それはないない。だって、二人を見てるだけで十分に面白いし」  
何とも可符香らしい応えに、芽留は苦笑する。  
そこで、午後の授業の開始を告げる予鈴が校内に鳴り響いた。  
 
2のほの教室に戻るべく、その場を立ち去ろうとしたわたるを、芽留が袖を引っ張って引き止めた。  
【ずいぶん、こっちのクラスに馴染んだみたいじゃないか】  
「元のクラスじゃ浮いてるままなのが、悲しいところだけどな」  
それも以前の頑なさが和らいだ今のわたるなら、これから幾らでも変えていけるように、芽留には思えた。  
ただ、芽留には一つだけ、懸念している事があった。  
【まあ、仲良くするのはいいんだが………浮気とか、するなよ?】  
なにしろ、2のへはクラスの半分以上が女子生徒である。  
2のへの面々とわたるが仲良くなるのはいいのだが、どうにも傍で見ている芽留は落ち着かない。  
そんな芽留の言葉に、わたるはぷっと吹き出してこう言い返した。  
「心配しなくても、俺と付き合おうなんて変人は、お前ぐらいだろ」  
【ぐ…ぬぅ…】  
さらにわたるはニヤリと笑ってこう付け加えた。  
「それに、お前を放り出してまで付き合いたくなるようなきれいな奴なんて、この辺にいたっけか?」  
それを聞いた芽留は、しばし呆然と立ち尽くしていたのだが、次第にわたるの言葉の意味を理解し始めて……  
(…この…大馬鹿の…オタク野郎がぁ……)  
顔を真っ赤にして、自分の席にうずくまってしまった。  
そんな芽留の様子を確認してから、満足そうな表情を浮かべて、わたるはすたすたと2のへから立ち去っていった。  
教室から出ると、廊下の窓から見える空には雲一つなく、気持ちのいいぐらいの秋晴れだ。  
今度の週末には芽留をさそって、どこかへ出かけてみるのもいいだろう。  
彼女と共に笑って、騒いで、同じ物を見て、聞いて、二人が一緒に過ごす日々。  
どこまでも続いてゆくそんな日々の予感に満たされて、わたるの心はどこまでも晴れやかだった。  
 

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