――――どうして、こんな事になってしまったんだ……?  
 
『………こちら、現場の大岡です。ご覧のように犯人が人質と共に立て篭もっているこちらの家の周辺は、  
現在警察によって完全に包囲され、犯人に対して再三の説得が行われています。  
しかし、犯人側からは、私たち毎朝放送宛に送られた犯行声明以外には、依然として何らかの要求や  
反応が見られないというのが現状のようです――――』  
ありふれた住宅街の一角、周囲の住宅に比べかなり豪華なつくりのその家の周辺を10台以上のパトカーが  
包囲していた。  
事件が発生したのは今日の夕方5時を回った頃、  
『隣の家の少年が小学生と思しき女子児童を部屋に連れ込んで立て篭もり、暴行を働いている模様』  
との通報が地元住民から警察へ寄せられた。  
通報してきた地元住民は少年の家の隣に住む主婦だった。  
少年の母親から事情を伝え聞いた彼女の通報を受けて、地元警察はパトカー3台と警察官10名を派遣。  
一気に少年の部屋への突入を敢行する作戦だったが、ここで事態は急変する。  
民放テレビ局、TVSのニュース番組が今回の事件にいち早く反応し、番組内容を変更。  
冒頭からこの事件に関する特集を開始したのだが、その番組上で新たな事実を明らかにした。  
実はこの日の朝、TVS宛に一通の郵便が届けられていた。  
ありふれた茶封筒の中には、明らかに犯罪を予告するものと思われる文章の書かれたレポート用紙が入っていた。  
『――――これらの要求が容れられない場合、お前たちは相応の犠牲をもって対価を支払う事となるだろう』  
予告状に書かれた決行の日時は、まさに今日この日。  
TVSは少年の下に捕われた女子児童こそが、この手紙に書かれた『相応の犠牲』、つまり人質である事が考えられるとして、  
これを公表するとともに、手紙を警察に提出した。  
これによって警察は対応を変更せざるをえなくなった。  
犯行予告の存在は、今回の事件が計画的なものである事を示唆していた。  
犯人である少年は相応の準備をしている可能性が高く、強行突入は人質となった女子児童に大きな危険を及ぼす可能性が高いと考えられる。  
警察はさらに増援を要請し、計14台のパトカーと70名を越える人員を配置し、現場を完全に包囲した。  
しかし、警察の再三の呼びかけ、交渉の要求に対して、犯人は全くの無反応。  
カーテンの引かれた室内の状況も把握できず、こう着状態に陥っていた。  
 
窓の外の喧騒をぼんやりと聞きながら、件の犯人少年、万世橋わたるはウンザリした調子で呟いた。  
「……どうして、こうなる?どうして、こんな事になっちまうんだ?」  
その横では人質の『小学生と思しき女子児童』、音無芽留が不機嫌そうな顔でテレビを睨みつけていた。  
【ちくしょーっ!!!誰が小学生だっ!!誰がっ!!!】  
ただ、この少女を家に招いただけなのに。  
ただ、この少年に招かれて、初めて彼の部屋に足を踏み入れただけなのに。  
ただ、二人して語り合う親密な時間が欲しかっただけなのに。  
「【なんでこんな大事件になってるんだぁあああああっ!!!?】」  
 
時間を少しさかのぼる。  
この日の夕刻、4時を少し過ぎた頃、わたるは芽留に背中を押されながら、自宅への道を歩いていた。  
 
きっかけは昼休憩の時の、他愛も無い会話だった。  
【そういえば、お前約束果たしてないよな?】  
藪から棒に芽留にそんな事を言われて、わたるは戸惑った。  
「何の話だ、約束って?」  
【まさか、破る気じゃねーよな?あれからどれだけ経ったと思ってんだ、いい加減約束を果たせ!!】  
「いや、全く話が見えんぞ。約束って何だ?」  
すると芽留はわたるの方にズズイと身を乗り出して、こう続けた。  
【前言っただろ。DVD貸せって!】  
ああ、そんな話もあったな。  
芽留の言葉を聞いて、わたるはようやく思い出した。  
以前、芽留とわたるは一緒に『スカイクロレラ』という映画を見に行った。  
この映画を芽留が気に入って、それで同じ監督の作品のDVDをわたるが貸すという話になったのだ。  
しかし、その会話の直後、二人は6人組の不良に襲われてしまう。  
どうにか難を逃れたわたると芽留だったが、その騒ぎのせいでわたるは約束の事をすっかり忘れてしまったのだ。  
「ああ、あの事か。すっかり忘れてたな。よし、明日にでも適当な奴を選んで持って来てやるよ」  
芽留が妙に怖い顔をして言うものだから何かと思ったが、そんな事とは。  
早速、どの作品のDVDを持って来るのが妥当か、わたるは考え始める。  
なにしろ、作品の難解さでは定評のある監督だ。あまり、ディープなやつはまずい。  
と、その時、そんなわたるの思考を芽留の言葉が遮った。  
 
【明日じゃ遅い。今日だ!】  
「なっ!?今日って……今から取りに行けっていうのか?」  
【違う。もっと手っ取り早い方法があるだろっ!!】  
驚くわたるに、芽留は頬を赤く染めながらこう言った。  
【オレがお前の家に直接取りに行けば、一番早いだろ!!】  
そこまで言われて、わたるはようやく芽留の意図を悟る。  
要するに、DVDは口実だ。  
芽留はわたるの家に行きたいと、そう言っているのだ。  
【オレが行って、オレが直接どのDVDを借りるか選ぶ。その方が手っ取り早いだろ】  
しかも、この口振り、わたるの部屋まで上がり込んで来るつもりのようだ。  
根っからのオタクのわたるとしては、自分の部屋の内情を目の前の少女に見られたくはなかったのだが……。  
「そんな急ぐ事はないだろ?」  
【時は金なりだ。馬鹿野郎。お前は黙ってオレを家まで案内すればいいんだ!!】  
携帯の画面に浮かぶ言葉だけは勇ましいが、顔を赤くして若干もじもじしている芽留。  
その上目遣いの視線が、わたるの心臓を打ち抜いた。  
「わ、わかった。それじゃあ、一緒に家まで来いよ……」  
こうして、芽留がわたるの家を訪ねる事が決まったのだ。  
 
というわけで、照れ隠しに背中をバンバン叩いてくる芽留を先導して、わたるは家までの道を歩く。  
【さっさと歩け、デブ!!】  
「わかったから、そんなに騒ぐな…」  
どうやら、初めてわたるの家に上がる事への興奮を抑え切れていないようだ。  
だが、わたるもわたるでかなり緊張していた。  
ただ、女の子が家に来るというだけでも大変な事態なのだが、  
自分の部屋を見た時彼女がなんと言うのか、どんな反応をするのか、かなり不安だった。  
わたるはオタクとしてはかなりディープな方だ。  
そんな彼の趣味が溢れ出した自室を見れば、大抵の人はドン引きする事必至だ。  
しかし、心の中には芽留が家にやって来る事が嬉しくてたまらない自分も存在して………。  
そういうわけで、いつもの帰り道を進みながら、わたるの頭の中はすっかり混乱していた。  
「次の角を曲がったらすぐだ」  
【おう!】  
こうなったらもう、覚悟を決めるしかない。  
家の手前まで来て、わたるの心はようやく固まる。  
わたると芽留は、先日、互いの想いを告白し、恋人として付き合うようになったばかりだった。  
そこまで近しい間柄になってしまえば、下手に取り繕った振る舞いをするわけにもいかない。  
自分の腹の底まで見せるぐらいのつもりで、付き合っていかねばならないのだ。  
そういう意味では、今日の芽留の訪問はいずれはやって来る必然とも言えた。  
「ここだ…」  
【あ……】  
その家は、外装、大きさを見るだけでも、周囲の家より1ランク上である事がわかった。  
「前に火事で焼けて、随分保険金をもらってな。それで新しくこの家を建て直したんだ」  
【知ってるぞ。前に見た事があるからな。そうか、お前の家だったんだな……】  
芽留は以前、クラスメイト達とこの付近を通りかかり、その時担任である糸色望からこの家の事情は聞いていた。  
そこがわたるの家だとは全く知らなかったのだけど、そうと知ってからこの家を見るとあの時とは違った印象を感じるような気がした。  
「んじゃ、入るぞ」  
【お、おう……っ!!】  
わたるが玄関のドアの鍵を開けて、二人は家の中に足を踏み入れる。  
「ただいまー」  
そう言ったわたるに  
「ああ、わたる、おかえり」  
玄関から伸びる廊下の右手にあるドアの向こうから、中年女性の声が返ってくる。  
おそらくは、わたるの母親だろう。  
と、そこでいきなり、わたるは芽留の右手を掴んだ。  
そしてそのまま、小走りにその廊下を通り抜けようとする。  
(な、なんだコイツいきなり……っ!?)  
手を握られて戸惑う芽留だったが、わたるにぐいぐいと引っ張られてメールを打てない。  
だが、わたるはそんな芽留の考えを察してか  
「いや、あんまり見られたくないだろ……恥ずかしいし……」  
顔を赤くしてそんな事を小さく呟いた。  
 
その言葉を聞いて、芽留もいまさらながらに恥ずかしくなる。  
確かに、わたるの母親に見られたら、芽留もどんな顔をしていいかわからないだろう。  
だが、タイミング悪く、先ほどわたるの母親の声がした方のドアが開く。  
そこから顔を出した女性、わたるに良く似た彼女は、わたると、彼に引っ張られる芽留の姿を見てひどく驚いた表情を浮かべていた。  
((み、見られた〜っ!!))  
二人は心の中で叫ぶ。  
わたるはほとんど芽留を引きずるようにして、自室のある二階へと登る階段を一気に駆け上がる。  
(まあ、声を掛けられなかっただけマシか……)  
二階に上がった二人は、そこでようやく、ホッと一息ついて立ち止まった。  
だが、実はこの時から自体が重大かつ致命的な方向に転がり始めた事に、わたると芽留はまったく気付いていなかった。  
 
「あ、お兄ちゃん、おかえりなさい」  
と、そこで、今度は二階の廊下の奥のドアが開いて、わたると芽留に声が掛けられた。  
「がっ!?そうか…今日はもう帰ってたのか…」  
【誰だ?】  
姿を現したのはわたるをそのまま小さくしたような女の子だった。  
「い、妹だよ……」  
【なるほど、血統だな……。よく似てるぞ】  
芽留はわたるとわたるの妹を交互に見比べて、そう言った。  
「ねえ、お兄ちゃん、その人、誰なの?」  
「あ、いや…その……なんというかだな…」  
当然の疑問をぶつけられて、わたるはうろたえる。  
そんなわたるを横目で見てから、芽留はにやりと笑い、携帯をカチャカチャといじり始める。  
そして、画面に打ち込んだ文章を、わたるの妹に向けて掲げた。  
【コイツの彼女だ】  
それを見て、わたるの妹がおおーっと声を上げる。  
妹の反応で、芽留が何を伝えたのかを察したわたるは、慌てて芽留の携帯をひっつかもうとする。  
「お前、そんな露骨に……っ!!」  
しかし、芽留はそんなわたるを面白がって、ニヤニヤと笑いながらわたるの手をかわす。  
そのまま二人は、ドタドタと足音を立てて、携帯電話を奪い合う。  
「あははは、ほんとに仲がいいんだ」  
それを見ながら、わたるの妹はくすくすと笑い、再びドアの向こうに姿を消した。  
「はぁはぁ……何もあんなハッキリ伝えなくたっていいだろっ!」  
【いや、オレも今になって何だか恥ずかしくなってきた……】  
思いがけない遭遇に、つい騒いでしまった二人だったが、とりあえず、わたるの部屋はもう目前。  
「こっちが俺の部屋だ」  
【おう、邪魔するぜ】  
わたるはドアを開き、ついに芽留を自分の部屋へと招き入れた。  
 
一方そのころ、一階では……。  
「わたる……」  
わたるの母が不安げに階段の上がり口から二階の様子を伺っていた。  
わたるの母は自分が先ほど目にした、信じがたい光景を頭の中で再生する。  
わたるが見知らぬ女の子を強引に引っ張って二階に上がっていった事。  
その後、二階から聞こえたドタドタという、まるで誰かが暴れているような足音。  
わたるの母は、今日のワイドショーで目にしたニュースを思い出す。  
オタク趣味の男が、自宅に女性を監禁して暴行を働いたという事件だった。  
あの時も何か他人事には思えないような気持ちで、テレビを見ていた。  
ウチの息子に限って………。  
だけど、今息子が傾倒しているのは、世に言うオタクと呼ばれる世界だ。  
何より、先ほど目にした光景は……。  
(何事も無いならそれでいいけれど……。とにかく、本当のところを確かめなけりゃね……)  
 
その部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、芽留は息を呑んだ。  
(うわぁ………)  
無論、わたるの趣味を知らないわけではないので、それなりの覚悟はしていた。  
だが、目の前の光景はそれを軽々と飛び越えていた。  
別に、男子の部屋にありがちな、ひどく散らかった部屋だというわけではない。  
むしろ、徹底的に整理整頓され、手入れが行き届いており、清潔な空間と言ってもかまわないだろう。  
 
芽留を圧倒したのは、まずその物量だ。  
コミック、同人誌、各種のゲームソフト及びハード、フィギュア、プラモ、CD、DVD、その他もろもろのグッズで部屋は埋め尽くされていた。  
比喩ではなく、文字通りの意味でだ。  
なにしろ、部屋のどの方向を向いても、そういったグッズの類を目にしないでいる事が不可能なのだ。  
それらはある特定の規則を持って部屋に配置されていた。  
しかし、その規則を言語化することが出来ない。  
まず、メーカーや作品による区分が基本となっているのは確かなのだが、  
それ以外にも部屋の主であるわたる以外には理解できないある種の秩序がその配置を決定しているようだった。  
壁を埋め尽くすポスターの並びにも一定のルールがあるらしいが、それは芽留の想像の範疇外だ。  
ただ、それは何故か芽留に密教寺院に描かれるような、曼荼羅を想起させた。  
曼荼羅は仏教における宇宙観を表したものだと言われている。  
ならば、このポスターの集合は、いや、この部屋全体のオタクグッズの配置は、万世橋わたるという人間の内的宇宙の表出と言えるかも知れない。  
「くそっ…どうもやっぱりこのドアノブ、調子がおかしいな……まったく、新築だってのに…」  
芽留の背後で、わたるは上手く閉まってくれないドアを、なんとか閉めようと格闘していた。  
一応、なんとかドアをしっかり閉める事に成功したわたるは、恐る恐る芽留に尋ねる。  
「やっぱり…………引いたか?」  
【ドン引きだ……】  
自分でもある程度自覚しているとはいえ、わたるは芽留の言葉にがっくりと肩を落とした。  
【ま、まあ…片付いてはいるみたいだし、これも個性って事でいいんじゃないか?】  
「でも、お前なんか車酔いしたみたいな顔になってるぞ……」  
なんとかフォローしようとした芽留だったが、顔に出ていたらしい。  
「まあ、とりあえず適当なところに座ってくれ…」  
そう言って、わたるはクッションを差し出す。  
人付き合いの苦手なわたるの部屋にあるクッションは、その一個だけらしい。  
芽留はそれを床の上に置いて、その上にちょこんと座る。  
腰を下ろして視点が下がった事で、部屋から感じるプレッシャーはさらに大きくなったように思えた。  
「まあ、見ての通りのオタクの部屋だ。一般的な……とは言えないのは自分でもわかってるが…」  
【凄まじいな……正直なところ…】  
「ああ、オタク友達にすら引かれた。あの時は、ちょっと泣いた……」  
初見の印象で曼荼羅だの宇宙だの、そんなワードが浮かぶ部屋はちょっとない。  
ドアが閉まってしまうと、そこはもう現実世界とは隔絶された異次元空間のように思えてくる。  
【ていうか、アレだ。一度火事にあって家が丸焼けになったんだろ?それじゃあ……】  
「ああ、ここにあるのはほとんど、火事の後に集めたやつだ」  
【よくこれだけ揃えられたな……】  
「それなりに努力はしたからな」  
それから、わたるは部屋の一角に置かれた美少女の描かれた抱き枕をちらりと見て  
「火事の時に持ち出せたのは、あの抱き枕とか、ごく一部のものだけだ……」  
そう言って、少し苦い顔で笑った。  
芽留はわたるのその表情の意味が気に掛かったが、  
「ともかく、当初の目的を果たそう。例の監督の作品のDVDは……確か、このへんだったんだが…」  
芽留に貸す作品を探すため、わたるがDVDの収められた棚を調べ始めたので、結局それを尋ねる事はできなかった。  
やがて、わたるは芽留の所に十数枚のDVDを持ってやって来た。  
わたるはその中の一枚を手にとって、芽留に渡す。  
「まあ、まずは有名どころからだな。『降格機動隊』、これなら名前ぐらいは聞いた事があるだろ?」  
【知らん。っていうか、おい、お前……っ!!】  
「『降格』を見るなら、次はそうだな……。続編の『イヌセンス』も一緒に見るのが妥当か」  
そう言って、次のDVDを渡そうとしたわたるの腕を、芽留の手がむんずと掴む。  
「おい、何すんだ!?」  
【そりゃあ、オレの台詞だ!学校で言っただろ。どのDVDを借りるかは、オレが選ぶって……】  
芽留はそう言ってから、わたるの顔を不機嫌そうに睨みつける。  
「ちょ…、お前この監督の事まったく知らないんだろ?俺に任せといた方が……」  
【オレが見たい奴を、オレが決める!それが何かおかしいか?】  
そう言って、芽留はわたるの持ってきたDVDを物色し始める。  
それを見ているわたるは、気が気ではなかった。  
なにしろ、この監督の作品は、色々と『濃ゆい』のだ。  
わかりやすい作品から徐々に慣らしていくのに越したことはない。  
いきなり、いちげんさんお断りな作品を最初に見て、自爆してしまうなんて事も十分考えられるのだ。  
 
だが、芽留はそんなわたるの心配などお構いなしでDVDをあさり…  
【これだっ!!】  
その中の一枚を高々と掲げた。  
一方のわたるは、そのDVDが何であるかを見て声を上げた。  
「お前、それ…っ!!」  
それはまさにわたるの心配していた、いちげんさんお断りな作品だった。  
【『天使の煮たまご』か。面白そうじゃねえか】  
「それは、駄目だーっ!!」  
よりにもよって、それを選ぶとは……。  
『天使の煮たまご』は、この監督の作品の中でも最も前衛的なものだ。  
芸術性の高さは評価されているものの、ストーリーらしきものがほとんどないその内容は初心者にとって、まさに地雷だ。  
確かに、自分の見たいものは自分で決めるという芽留の言い分もわからないではなかったが、この作品だけはやめておいてほしかった。  
わたるは芽留の持つ『天使の煮たまご』のDVDを掴んだ。  
「悪い事は言わんから、それはやめとけーっ!!」  
【なんでだよっ?オレはこれが見たいんだっ!!】  
芽留とわたるは、互いにDVDを奪い取ろうとして引っ張り合う。  
【わーたーせーっ!!】  
「いーやーだーっ!!」  
ほとんど小学生の喧嘩だった。  
どちらも一歩も譲らぬ、綱引きならぬ、DVD引き合戦。  
『痛がる子供を見かねて、手を離した方が本当の親』とする大岡裁きならば、二人揃って失格だ。  
すっかり意地になっての引っ張り合いの最中、芽留はハッとした顔になって  
【そうか!これエロいんだろ!!お前、それを見られたくないから……っ!!】  
事情を知らぬが故の、見当はずれな推理をして、わたるを睨みつける。  
「馬鹿―――っ!!全然、違うわーっ!!」  
芽留の言葉にわたるが顔を真っ赤にして叫んだ。  
(駄目だ。もうコイツ、言葉で何を言っても納得しそうにない……)  
それならいっそ、見たからといって何か害があるわけじゃなし、素直に芽留に『天使の煮たまご』を渡そうかと、そんな考えがわたるの脳裏をよぎる。  
しかし、それを決断するには、わたるは頭に血が上りすぎていた。  
もう、意地でもコイツにDVDを渡したくない。  
芽留も携帯を手放して、わたるとの力比べに両手で応じる。  
力と体格で劣る芽留は体勢を低くして、重力を見方につけてDVDからわたるの手を引き離そうとする。  
一方のわたるは立ち上がって、大根でも引き抜くような姿勢でDVDを引っ張る。  
力では完全に有利なわたるだったが、芽留がどこまでも喰らいついてくるので、一瞬たりとも力を抜けない。  
ドタドタと床を踏み鳴らす衝撃で、わたるの部屋のドアの壊れかけのノブが勝手に動いて、ゆっくりとドアが開いていく。  
「この分からず屋がぁ……っ!!!」  
(黙れ、キモオタぁ……っ!!!)  
そして、互いに譲らぬ戦いの均衡がついに破れる。  
芽留がうっかり床の上のクッションを踏んで、うっかり足を滑らせたのだ。  
引っ張られる力が緩んで、わたるもバランスを崩す。  
どうにか体勢を立て直そうとしたわたるだが、彼までもがクッションを踏んづけてしまい……  
「うわあああああっ!!!!?」  
ドシィイイイイイイイインッッッ!!!!!!  
わたるの体が芽留の方へ倒れこんだ。  
幸い、わたるが咄嗟に手を付いたお陰で芽留は何とか押しつぶされずにすんだ。  
「……ふう、危なかった…]  
ホッと胸を撫で下ろしたわたると芽留は、ようやく冷静さを取り戻す。  
そして気が付く。  
「……………あっ」  
(……これ…は…)  
互いの顔が至近距離に接近していた。  
床に横たわった芽留の上に、わたるの体が覆いかぶさったこの体勢。  
それはちょうど、わたるが芽留を押し倒したかのような状況で……  
「……………」  
(……………)  
芽留とわたる、二人の顔が真っ赤に染まっていく。  
気まずい沈黙が部屋を包み込んだ。  
早くこの状態から開放されたいのだが、頭が真っ白になって自分から動く事ができない。  
『どけよ、デブ』、芽留はわたるにそう伝えたかったが、あいにく携帯は先ほど手放してしまっていた。  
それに何だか、このままの状況でも構わないような気分に、芽留はなってきて……  
 
(……相変わらず、不細工な顔だな…)  
なんて思いながら、芽留は首を起こして、自分の顔をわたるの顔に近づける。  
(……でも、優しい目、してるよな……)  
実際のところ、わたるは顔だけじゃなく、目つきも悪いのだけれど。  
芽留は知っている。  
この瞳が、いつもどれだけ芽留に対して、優しい眼差しを送ってくれていたかを……。  
(……ほんと、こんな近くで見るのは初めてだ…)  
コツン、わたると芽留の額がぶつかった。  
「あ……おい…近いぞ……」  
戸惑うように声を上げたわたるも、芽留の瞳から視線を逸らす事ができなくなっていた。  
超至近距離で見詰め合う二人……。  
だが、その時………  
 
バタンッッッ!!!!!!  
 
激しい音を立てて、半開きになっていたドアが閉じられた。  
わたるはハッとなって上半身を起こし、ドアの方を見る。  
わたるの部屋のドアはノブの調子がおかしく、いつの間にか勝手に開いている事がよくあった。  
さっきの音は、そうやって半開きになっていたドアの隙間から、部屋の中を見ていた人物がドアを閉めた音だろう。  
「み、見られたァ……っ!!?」  
母親か、妹か、誰かはわからないが、先ほどまでの芽留とわたるの様子を見ていたのだ。  
わたるは慌てて起き上がり、ドアに飛びつく。  
いくらなんでもさっきのはマズイ。  
誤解されないように何とか説明しないと……。  
しかし、さっきの状況を客観的に見て、弁解の余地はあるのだろうか?  
ぐるぐると混乱する頭で考えながら、ともかくドアを開こうと、わたるはノブを掴んだ。  
ところが……  
「え……っ!?」  
ひねっても、押しても引いても、手ごたえが無い。  
ノブが壊れている。  
ドアが開かない。  
「嘘だろ……」  
ビクともしないドアの前で、わたるは呆然と呟いた。  
 
階段を駆け下りながら、わたるの母は先ほど目にした光景を何度も頭の中でリピートしていた。  
わたるの連れ込んだ少女の事が気になって仕方がなかった彼女は、ドタドタと二階でまた騒がしい音が聞こえて、  
いても立ってもいられず二階に駆け上がった。  
そして、見てしまった。  
わたるが、彼女の息子が小さな少女を力ずくで押し倒す瞬間を……。  
信じられない光景に頭が真っ白になった。  
ドアを叩きつけるように閉めて、彼女は二階から逃げ出した。  
昔から、素直な良い子であるとはお世辞にも言えなかった。  
彼女自身、完璧な子育てが出来たなんて、口が裂けても言えなかった。  
それでも、まさか我が子があんな真似をするなんて……。  
信じられない。  
信じたくない。  
だが、自分の目の前で展開された光景は、まぎれもない現実なのだ。  
そして、彼女の混乱がピークに達したその時……  
ピンポーン♪  
玄関のチャイムが能天気な音を立てた。  
混乱したままの彼女は、それでもドアの鍵を開け、  
「お邪魔してすみません。次の町内会の日時について伺いたいんですが……」  
そこでついに、緊張の糸がぷつりと切れた。  
彼女は泣き崩れて、玄関に立つその男に泣き叫んだ。  
「息子がーっ!!息子がぁああああっ!!!!」  
 
 
夕闇の迫る町を歩きながら、一人の男が歩いていた。  
くわえタバコの煙を引きずりながら、不機嫌そうな顔で男は悪態をつく。  
「なんだって、久しぶりの休暇に、俺がおつかいなんぞしなくちゃならんのだ」  
男は民放テレビ局、TVSのプロデューサーだった。  
息をつく暇も無い激務に忙殺される日々の中、やっと休暇を手に入れて、今日は好きなだけ寝るつもりだったのに……。  
「春子のヤツ、町内会の予定なんて自分で調べればいいだろうに……」  
彼の妻は、『家で寝てるだけなら、ちょっとは私を手伝いなさいよっ!!』そう言って男を家から蹴り出した。  
次の町内会の日時と、話し合われる内容についてのプリントが、何かの手違いで回って来なかった。  
現在、町内会長をやっている万世橋さんの家まで行って、それをもらって来て欲しい。  
恐妻家の彼は、彼女の命令に逆らえなかった。  
情けない自分に肩を落としながら、男は万世橋家に向かって歩く。  
「ここか……。でっかい家だな。そういや、火事に遭って保険金で建て直したんだっけか……」  
道端にぺっとタバコを吐き捨てて、男は家の敷地内に入る。  
玄関のチャイムを鳴らした。  
しばらく待っていると、ドタドタと騒がしい音がして、玄関が開いた。  
「お邪魔してすみません。次の町内会の日時について伺いたいんですが……」  
現れた中年女性に、用件を告げた。  
そして、そこで男は気が付いた。  
目の前のオバサン、なんだか尋常な様子ではない。  
青ざめて、ブルブルと震える彼女は、彼に向かって泣き叫んだ。  
「息子がーっ!!息子がぁああああっ!!!!」  
「ちょ、奥さん、しっかりしてくださいっ!!息子さんがどうなさったんですかっ!?」  
男が肩を持って揺さぶると、中年女性はどもりながら状況を説明した。  
「わたるが…あんな……あんな犯罪をするなんてぇえええ……」  
男は混乱しきった彼女の話を頭の中で整理して、今この家で何が起こっているのかを把握する。  
「わかりました、奥さん。とにかく、警察に連絡しましょう。今、私が電話をかけますから……」  
男は中年女性から一旦離れて、携帯電話をポケットから取り出す。  
しかし、彼がそれを使ってしたのは、まず110番をプッシュする事ではなく……  
「全く、俺も休暇中だってのに、仕事熱心だねぇ……」  
男はアドレス帳から、TVSの報道部への番号を呼び出す。  
「今からなら、夕方のニュースには間に合うだろ……」  
そう言って、ニヤリと笑う。  
それにそう言えば、今朝方メールで妙な事を知らされた。  
どこかの馬鹿が犯罪の予告状なんぞをウチの局に宛てて寄越しやがったらしい。  
決行の日時は、まさに今日この日。  
これは、もしかすると、もしかして………。  
「くっくっくっくっ……面白くなってきたねえ……」  
 
押して、引いて、叩いて、体当たりして、それでもドアは開かなかった。  
ドアノブは簡単に壊れてしまう欠陥品だったくせに、ドア自体は頑丈なつくりでビクともしないのだ。  
芽留とわたるが閉じ込められて、もう随分時間が経過した。  
早く部屋から出たいのなら、外にいるわたるの家族の協力が必要不可欠なのだが……。  
【呼べないよな……】  
「ああ、アレを見られたらなぁ……」  
わたるが芽留を押し倒すような形で転んでしまった事。  
わたるの母親か妹か、あの時家の中にいた人間のどちらかが、あのシーンを見ているのだ。  
恥ずかしくて、到底助けを求められるものではない……。  
すっかり諦め顔の二人は、床に腰を下ろして、無為な時間を過ごしていた。  
とはいえ、いつまでもこの部屋に閉じこもっている訳にはいかないのも現実なのだ。  
内側から鍵をかけて二人きりで長時間……なんていう誤解を招いてしまっては余計に始末に負えない。  
 
「やっぱり、覚悟を決めるしかないか……」  
そう言って、わたるが携帯電話を取り出す。  
【助けを呼ぶのか?】  
「ああ、仕方がない。ここは恥を忍んで……」  
わたるがそう言った時だった。  
「ん、どうした?」  
芽留が何かに気付いたような様子で、窓の方を見ている。  
【聞こえないのか?】  
「だから、何が?」  
問い返したわたるだったが、次の瞬間、わたるにもソレが聞こえてきた。  
どこかで聞いた覚えのあるその音が何であるのか、最初の内、二人にはわからなかった。  
だが、その答えを思い出すより先に、住宅街の道路を曲がって走ってきたソレが、その音の正体を教えてくれた。  
盛大にサイレンを鳴らして走ってくる、3台のパトカー。  
それは、次第にスピードを落として、万世橋家の前を包囲するように停車した。  
そして、わたるはパトカーから降りてきた制服警官に駆け寄って、何事かをまくしたてる母親の姿を見つける。  
「な、何だよ……こりゃあ、一体…何が起こったっていうんだ?」  
しばらくの後、わたると芽留は、その答えを嫌というほど思い知らされる事になるのだった。  
 
そして、場面は冒頭のシーンに戻る。  
 
家の周囲を取り囲む警察や野次馬のざわめき。  
テレビ各局の現地レポーターが張り上げる声。  
上空を飛び交う報道ヘリのローター音。  
かつてない喧騒に包まれた万世橋家の中、わたるの部屋に閉じ込められたままの二人は途方にくれていた。  
テレビを点ければどのチャンネルも、万世橋家の事件を報道していた。  
『犯行予告の内容から考えると、犯人に捕われている女子児童は非常に危険な状態にあり、警察の対応もかなり慎重になっているようです』  
『年端もいかない子供をですねえ、人質にするなんてのは、本当許せませんよ』  
『×××さんのお宅の息子さんでしょ?いつか、何かやらかすんじゃないかと思ってたのよ』  
『根暗で友達も全くいないようでしたからね。昔から何考えてるかわからない危ないヤツでした』  
『いわゆるオタクであったようですね。ゲームや漫画、アニメだけを友達とする生活が、次第に犯人の心を歪ませていった事は十分考えられます』  
『ああ、今新聞の号外を読みましたよ。やっぱり最近の若者は何かがおかしくなってますよ』  
全国ネットで放送されるその内容は、完全にわたるを犯罪者扱いしたものだった。  
しかも、運の悪い事に、外の様子を伺おうとしたわたるが、カメラに写されてしまった。  
未成年の犯罪とはいえ、一度その素顔が全国放送の電波に乗って既成事実ができたお陰で、報道側はすっかり遠慮をしなくなった。  
わたるの顔が映った問題のシーンは何度も放映され、全国に晒されてしまった。  
しかも、その時のわたるの顔は光の当たり具合等のせいで、いつにも増して目つきの悪い凶悪な顔に映っていた。  
デブでオタクで人相も最悪の犯人というあまりに美味しすぎるネタに、テレビもネットもいまや異様な盛り上がりを見せている。  
もはや、濡れ衣を晴らせたとしても、わたるに多大な社会的ダメージが及ぶ事は間違いなかった。  
「ちくしょう……せめて、ドアが開けばなぁ…」  
相変わらずのテレビを見ながら、わたるが絶望的な表情で呟いた。  
【畜生…誰が”年端もいかない子供”だぁ!!】  
一方、芽留の怒りのポイントはあくまでもその部分のようだ。  
部屋に閉じ込められた今の二人には、今の事態に抗う術がなかった。  
こうして手をこまねいている間にも事態はどんどん大きくなっていく。  
真実を明らかにしたところで、今度は人騒がせな馬鹿として袋叩きにあうのは目に見えている。  
別に、わたるが事件を大きくしようと煽ったわけじゃないのだけれど……。  
「はぁ……また、辛い思いをさせちまうな…」  
【ん、どうした?】  
暗い顔で溜息をついたわたるに、芽留が尋ねる。  
「いや、妹の話だよ。俺が昔やった馬鹿の話だ……」  
それは、今の万世橋宅が建てられるそもそもの原因となった事件の時の話。  
以前のわたるの家が全焼した大火事の時の話だ。  
 
突然燃え広がった炎に、慌てて家から飛び出した万世橋家の家族達だったが、二階にいたわたるの妹だけが家の中に取り残されてしまった。  
だが、その時わたるが取った行動は……  
「水を頭からかぶってな、家の中に飛び込んでいったんだ。………自分のコレクションを火事から救うために……」  
当時のわたるは、オタクである事だけを唯一のアイデンティティーとしていた人間だった。  
そんなわたるにとって、自分のコレクションが燃える事は何よりも耐え難い事だった。  
全てはオタクとしての自分を守る事だけを考えた行動。  
今になって考えてみればあまりに愚か過ぎる行いだった。  
わたるが泣き叫ぶ妹の声に気が付いたのは、コレクションを抱えて炎の中から飛び出した後だった。  
結局、わたるの妹は消防によって救助されたが、今でもわたるの心には深い後悔の念が残されていた。  
「あの時の俺は、妹が泣いているのに、それに気付いてもいなかった。………自分の事しか考えてなかった」  
そこで、わたるはその顔に自嘲気味な笑顔を浮かべる。  
「そして、今回の事件だ。俺がこんな事をして、妹の方もただで済むわけがない。また、俺は妹に……」  
そう言ってから、わたるは芽留の方を見て、  
「ひどい兄貴だろ……」  
そう言った。  
【……そうだな、本当にろくでもない事をしたもんだな…】  
答える芽留の表情も暗かった。  
さっきの話を聞けば、わたるがどれだけその事で苦しんだか、後悔したか、わからない筈がない。  
でも、芽留は知っていた。  
わたるがそれだけの人間ではない事を。  
わたると付き合ってきたこの数ヶ月で、それを何度も目にしてきた。  
だから、芽留はわたるに真剣な眼差しで語りかける。  
【本当にろくでもない事だ……でも…】  
「でも?」  
【今のお前は、そんな男じゃないだろ……】  
その当時のわたるの事は、確かに芽留にはわからないけれど。  
今のわたるは違うと断言できる。  
信じている。  
わたるの優しさを、思いやりを、今の芽留は知っているのだから……。  
【だから、ほら、そんな情けないツラすんな。今回の一件でお前の妹がピンチになるんなら、なおさらお前がしっかりしなきゃいけないだろ】  
そう言って、励ますように肩をバンバンと叩いてきた、芽留の笑顔に、  
「ああ、そうだな。お前の言うとおりだ…」  
わたるもようやく、明るい顔で微笑み返した。  
「さて、本当の事を話すんなら、警察に直接言った方がてっとり早いんだが……」  
さきほど、カメラの前の自分の顔を晒してしまったわたるは、今は部屋のカーテンをしっかりと閉ざしていた。  
二階の窓から直接、警察と話すという方法も考えられたが、出来ればもう顔を出すのは避けたかった。  
「一応、人質をとって、犯行声明を出しての篭城事件なんだ。警察から交渉の電話がある筈だ。俺の携帯の番号はすぐにわかるだろうし…」  
わたるがそう言った、まさにその時だった。  
ヴヴヴヴヴヴヴ。  
わたるの携帯電話がどこからかの着信を受けて、ポケットの中で震動した。  
 
わたるの妹は事態の展開に呆然としていた。  
どうして、こんな事になっちゃうの?  
兄は、わたるは、確かに女の子を連れて帰ってきたけれど、どう見ても誘拐したとかそんな様子ではなかった。  
だけど、その事を何度も母に話しても、母は泣くばかりで一向に聞いてくれない、信じてくれない。  
そうしてる間に、パトカーやテレビ局の車が集まって、自分の家に凶悪な犯人がいるぞと、わめき始めた。  
お兄ちゃんはそんなんじゃない。  
わたるの妹はよく知っている。  
昔からずっと怖い顔をして、いつも気難しそうにしていたけれど、彼女にとってわたるは良い兄だった。  
中学に入ってからさらに性格が暗くなって、さらに家が火事になった一件以来、いつも悩んでいるようだったけれど。  
それもここ最近、数ヶ月ほど前からすっかり様子が変わって、以前よりずっと明るい顔を見せてくれるようになった。  
『お前は、俺と違って優しい目をしてるな…』  
わたるは口癖のように彼女にそう言っては、頭をぐしぐしと撫でてくれた。  
彼女にとっては、いつも優しい兄だったわたるが、どうして犯罪なんかをしたりするだろうか?  
 
何度だって言う。  
あれはただ、仲の良い女の子を家に連れてきた、それだけの事なのだ。  
だけど、母は彼女の言葉を信じてくれない。  
警察に至っては端から聞く耳を持っていない。  
このままでは、本当に兄は、わたるは………。  
「それでは、お母さん、ありがとうございました。わたる君の携帯電話の番号、確かにお教えいただきました」  
傍らで、ずっと母と話しこんでいた刑事がそう言った。  
黒髪をオールバックに撫で付けた、ちょっと警察官らしくない、紳士然とした様子の男。  
彼が今回の事件の現場指揮をとっているようだった。  
母は、彼にすがり付いて、泣きついて、どうか息子をお願いしますと、何度も繰り返している。  
わたるの妹は、その刑事が母を見下ろしながら、顔に浮かべた笑顔がなんだか信用ならなかった。  
一見すると柔和な、人当たりの良い笑顔に見える。  
だけど、その瞳の奥底で、泣きじゃくる母を小馬鹿にしたような、冷たい色が滲んでいるように見えた。  
「大丈夫です、お母さん。あなたの息子さんは、私が必ず説得して見せます」  
刑事がそう言うと、わたるの母は何度も、ありがとうございます、ありがとうございます、と頭を下げた。  
そして、刑事はわたるの母の元を離れ、電話が用意してあるらしいパトカーへと向かう。  
そもそもがとんでもない勘違いの筈なのだ。  
警察とわたるが直接話せば問題はなくなる、その筈だ。  
だけど、わたるの妹は、全身に広がる寒気をなぜか抑える事ができなかった。  
 
わたるが携帯を耳にあてると、馬鹿丁寧な男の声が耳に飛び込んできた。  
「もしもし、私××署の笹平と申します。こちら万世橋わたるさんの携帯電話でよろしいですね」  
待ちかねた警察からの電話だ。  
全くの事故なのだが、わたると芽留が取らなければならない責任は小さくはないだろう。  
それでも、全てを打ち明けてしまえば、とりあえずは現状を解決する事ができる。  
「はい、私が万世橋わたるです」  
「そうですか。まずは、万世橋さん、私を信用して、こちらの話を聞いていただきたいのですが…」  
笹平という刑事の話しぶりは落ち着いていたが、やはりこちらを立て篭もりの犯罪者と考えているのは間違いなかった。  
散々、テレビを見て覚悟していた筈だが、こうして警察から言われるとかなりショックだ。  
「私の立場は、あなたの主張を警察に伝え、より良いゴールを目指す事です。味方と、そう考えてもらってもいいでしょう」  
「そうですか……」  
少なくとも相手が冷静そうな人物である事に、わたるはホッとしていた。  
これから話す内容は、場合によっては相手を怒らせかねない。  
そして、事態がより悪化してしまうという事も考えられたが、とりあえず安心していいようだ。  
覚悟を決めて、わたるは話を切り出す。  
「では、私から、私の味方である笹平さんに聞いていただきたい事があります」  
「なんでしょうか……?」  
「非常に驚かれるとは思いますが、落ち着いて聞いてください」  
「はい…」  
そこでわたるは深く深呼吸して、一気に言い切った。  
「今回の事件、全くの勘違いが起こした、単なる事故なんです」  
それから、わたるは自分達の立場を説明した。  
単に友人を自分の部屋に招いただけだったのだが、ドアが壊れて開かなくなった事。  
それが何故か、自分が人をさらって、あまつさえ乱暴を働いたかのように警察に通報されてしまった事。  
それから、テレビで報道されている犯行予告状は、自分とは全く関係のない事。  
それらをわたるは順序立てて、笹平に説明した。  
「すぐには信じてもらえないと思います。ですが、こちらの考えている事は、この部屋から早く脱出したいという、ただそれだけなんです」  
「それは、本当のお話なんですね……」  
「はい。詳しい話はここを出てから、警察で話します。ですから……」  
「本当なんですね?本当に、嘘は吐いていないと?」  
「……はい?何度も言った通り……」  
そこでわたるは、電話の向こうの人物の雰囲気が一気に変化したように感じた。  
 
とんでもない話を聞かされて、腹を立てているというのではない。  
何かまるで、汚物を見せられて不愉快を感じているといったような、そんな雰囲気に笹平が変わるのを感じた。  
「嘘は吐いていないと…そうですか…わかりました。……という事は…」  
声のトーンが変わる。  
柔和な口調だけはそのままだが、背中に氷でも当てられたかのような悪寒をわたるは感じた。  
「という事はですね……あなたは、人質を開放する気はまだないと、そう仰るのですね」  
「な、何を言ってるんだよっ!?俺はさっきから、誤解だって、外に出たいだけだって……」  
「そうですか、残念です。そちらがその気では、現段階では警察としても今の対応を続けるしかない……」  
「だから、ちゃんとこっちの話を聞いて……っ!!」  
「本当に残念です。それでは、一旦ここで失礼させていただきますよ……」  
「おい、待てっ!!」  
わたるの言葉を完全に無視して、通話は一方的に断ち切られた。  
閉鎖された部屋の中、さらに絶望的な状況に追い込まれた事を理解して、わたるは携帯を持ったまま呆然と立ち尽くした。  
 
「という事はですね……あなたは、人質を開放する気はまだないと、そう仰るのですね」  
笹平は、なるべく声の調子を変えないよう気をつけて、そう言った。  
「そうですか、残念です。そちらがその気では、現段階では警察としても今の対応を続けるしかない……」  
電話の向こうの声は完全に無視する。  
周囲の人間に感づかれては、この後の対応に支障が出る。  
「本当に残念です。それでは、一旦ここで失礼させていただきますよ……」  
そして、そう言ってから、一方的に通話を打ち切った。  
ポーズとしてはこれで十分、誰にも疑われない筈だ。  
「まいったね……これは慎重に処理しないと……」  
恐らく、あの少年の話していた事は全て事実だ。  
だからこそ、始末に負えない。  
今も現場周辺で騒ぎまわっている報道どもは、この事実が明らかになった時には、一斉に警察を叩くだろう。  
この事件を全国規模のお祭りに仕立て上げたのは、他でもない自分たちだというのに……。  
しかし、警察の側にも、十分な判断材料がないままに、事件と予告状を結びつけてしまった落ち度がある。  
そうなると、強く反論する事も難しい。  
下手をすればトップを始めとして、いくつのクビが飛ぶのか見当もつかない。  
ほとんどチェックメイト寸前の最悪の状況だったが、まだ手段は一つだけ残されていた。  
笹平は携帯電話を本部につなぐ。  
「現場の笹平です。至急お話しなければならない事があるのですが……」  
笹平は、上司達に自分が少年から聞いた話を伝えた。  
上司たちは明らかに動揺した様子だ。  
事の重大さを、十二分に理解しているのだろう。  
「笹平君、これは由々しき問題だよ。我々にとって、とてつもない汚点となってしまう」  
「はい。ですが、解決策はあります。ごくシンプルで、しかし最も確実なものが……」  
そこまで言った時点で、笹平の上司たちも察したようだったが、あえて笹平はそれを口にした。  
「万世橋わたる君には、このまま犯人になってもらいましょう」  
「うむ、それしかないだろうな……」  
上司たちは、笹平の言葉に対しても、一切の躊躇を見せなかった。  
「了解したよ、笹平君。幸い、私には検事局の友人も多い。少年審判程度ならどうとでも誤魔化せるさ」  
「そうですか。安心しましたよ」  
「そのかわり、現場はまかせたよ。特に人質となっている少女の証言は一からでっちあげる事になる」  
「その辺りは、万事おまかせください」  
そう言って、笹平は恭しく礼などしてみせる。  
「ははは、頼もしいな、笹平君は。では、頑張ってくれたまえ」  
そうして、いとも簡単に犯人でっち上げの謀議は終了した。  
携帯をポケットに収めた笹平は、彼自慢の人当たりの良い柔和な笑顔を顔に張り付かせる。  
最大のピンチが最大のチャンスとはよく言ったものだ。  
今回の件を上手く捌くことで、笹平は大きな利益を得る事ができるだろう。  
「さて、これは頑張らなくてはね……」  
鼻歌なんぞ歌いながら、上機嫌の笹平は、再び万世橋母娘のところへと向かった。  
 
警察が確信犯的に冤罪を作り出す決定をしたその最中にも、事件の報道は過熱し続けていた。  
専門家を招いての、犯人の心理分析。  
街頭でのインタビュー。  
総理大臣も今回の事件を非常に遺憾であると発言し、わたるはいよいよ犯人へと祭り上げられていく。  
しかし、そんなテレビの様子を、冷ややかに見つめる一団があった。  
わたるの通う高校の宿直室、そこに集まった10名ほどの生徒達は渋い顔でテレビの画面を睨んでいた。  
「おかしいわよ、絶対……」  
最初に口を開いたのは、千里だった。  
「うん。だって多分、人質の女の子って、芽留ちゃんの事だよ…」  
続いて、奈美も不信感を露にした口調で続く。  
ここに集まっていたのは、2のへの生徒たちだった。  
担任である糸色望のところへ遊びに来て、たまたまこのニュースを目にしたのだ。  
彼らは同じく2のへの生徒である芽留を介して、わたるとの付き合いがあった。  
「でも、ニュースはアイツがやったって言ってるぞ」  
次に口を開いたのは、意中の人である加賀愛を目当てにやってきた木野だった。  
彼もわたるがそんな事件を起こした事には半信半疑だったが、繰り返し映し出される家に立て篭もったわたるの映像に動揺していた。  
「いやだなぁ、万世橋くんがそんな事するわけないですよ。これは何かの誤解です。そうでなかったら、警察の陰謀とか…」  
不安げなみんなに向けて、可符香が自信たっぷりにそう言い切る。  
その発言が、事件の真相を思いっきり言い当てている辺りに、彼女のとんでもなさが伺えた。  
「そうだね。証拠は何もないけど、僕にも彼がこんな事をする人間とは思えない……」  
次に口を開いたのは、久藤准だった。  
彼が知る限り、万世橋わたるはこういった行動を何よりも嫌う人間だった。  
そして、彼が芽留の事をどれだけ大事にしているかも、2のへの面々の良く知るところだった。  
そんな彼がよりにもよって、芽留を人質にする筈がない。  
「当人達は隠してるつもりらしいけど、あの二人が付き合ってるのはバレバレだしね。これはちょっと考えられないかな」  
晴美もうんうんとうなずいて同意する。  
「先生、やっぱりこの事件、変ですよ……」  
そう言って、まといが部屋の主である望を見ると  
「そうですね。彼がこんな事をするとは、私にも信じられない……」  
望はそう言って立ち上がる。  
「少なくとも、彼の通う学校の教師として、音無さんの担任として、説得ぐらいやらせてもらわなくては……」  
そこに霧が望の外套を持ってやって来る。  
「はい、先生。外、寒いから……」  
「ありがとうございます、小森さん」  
受け取った外套を望が羽織ると、2のへの面々も顔を見合わせてから立ち上がる。  
「とにかく現場に行ってみましょう。話はそれからです」  
 
とある安アパートの一室で、一人の男が食い入るようにテレビを見ていた。  
「おかしいぞ、こりゃあ……」  
短く刈った髪を金に染めた、長身の彼は以前わたると出会った事があった。  
彼は、映画を見た帰りのわたると芽留に目をつけて仲間と共に追い回し、わたると路上で喧嘩をした。  
以前はそれなりの空手選手だった彼は、ほんの遊びのつもりでわたると戦い、そして敗北した。  
技術、体力、その両方で劣るはずのわたるが、気合一つで男を倒したのだ。  
全員で6人いた男とその仲間たちは、最後には総崩れになり散り散りになって逃げ出した。  
あの日以来、男は以前の不良仲間と会っていない。  
あの時見せ付けられた、わたるの不屈の闘志に、彼は自分の振る舞いに空しさを感じ始めたのだ。  
男はかつて所属していた道場への復帰を考えるようになっていた。  
少しずつ、体を鍛え直す毎日。  
今更合わせる顔もないが、それでも道場に戻りたい。  
あの日の記憶を原動力に動き出した男、だからこそテレビに映されたそのニュースが信じられなかった。  
「アイツは、そんなセコイ真似をするヤツじゃねえよ……」  
そう思うと、居ても立ってもいられなかった。  
 
男は立ち上がり、愛用のジャンパーに袖を通す。  
納得がいかないなら、その目で確かめてみるしかない。  
靴を履き、玄関の扉を開けて外に出る。  
すると、そこには見知った顔が並んでいた。  
「お前ら……」  
「何か変なニュースがやってるからよ、ちょっと一緒に来てくれないか?」  
久しぶりに顔を合わせた、あの時の不良仲間たち。  
彼らも男と同じ疑念を抱いているようだった。  
「ああ…」  
男はうなずき、一歩を踏み出す。  
あの時のデブがそこらのクソッタレ共と同じはずがない。  
6人の不良仲間たちはその確信に突き動かされて、一路事件の現場を目指す。  
 
警察との電話を終えてから、真っ青になったわたるの顔を、芽留は不安げに見上げていた。  
【何かあったのか……?】  
「何かどころの話じゃない……」  
わたるは、警察との電話の一部始終を芽留に語って聞かせた。  
【何だそれ?一体どうしてそんな事を……】  
「わからん。だけど、このままじゃあ、俺は本当に本物の犯罪者にされちまう……」  
そう言って頭を抱えるわたるの顔には、何とも言い難い苦渋の表情が浮かんでいた。  
つい先刻までは、当たり前の日常を過ごしていた筈なのに、今では全国に報道される事件の犯人扱いだ。  
そこまでして強引にわたるを犯人にするという事は、被害者の位置づけである芽留も無茶苦茶な証言を強要されるのだろう。  
いっそ二階の窓から自分の無実を訴えてみるか。  
だが、わたるの家の周辺は警察のパトカーに固められて、報道のカメラはその外側だ。  
警察は犯人の妄言として受け流すだろうし、テレビや野次馬にその声が届く事もないだろう。  
携帯でどこか外部に連絡しても、警察は黙殺するに違いない。  
何一つ打開策が見えてこない。  
「くそっ…まさに八方塞がりだ」  
そう呟いて、わたるは力なく床の上にへたりこんだ。  
完全に意気消沈してしまったわたるを、芽留は心配そうに見つめる。  
コイツを犯罪者なんかにされてたまるか。  
芽留は頭をフル回転させて考える。  
現在のわたるの人質という立場を利用すれば、何かが出来るのではないか?  
この最悪の状況をひっくり返せるのではないか?  
(そうだ……コイツが逮捕されて家の外に連れ出される時なら……)  
報道のカメラは犯人の姿をレンズに捉えようと、一気にむらがってくるはずだ。  
その時、他ならぬ人質の筈の自分がわたるの無実を訴えれば……  
だが、そこで芽留は自分の作戦の重大な欠陥に気付く。  
(駄目だ。……オレは声が……)  
かつてのトラウマのために声を発する事ができない芽留。  
彼女には、わたるの無実を叫び伝える事など最初から出来ないのだ。  
このまま、本当にわたるは犯罪者にされてしまうのだろうか?  
莫大な富と権力を持つ、芽留の父親に助力を乞う事も考えたが、あいにく彼は現在北海道に出張していた。  
戻ってくるのを待っていては遅すぎる。  
わたるの身柄が警察に渡った時点でどんな事をされるかわからないのだ。  
それでも、芽留は思う。  
(それでも、コイツがそんな馬鹿をやるヤツじゃないって、わかる人間もいるはずだ……)  
芽留の知る、わたるの優しさ、思いやり、それを理解してくれている人間だっているはずだ。  
それがもしかしたら、現状を突破する鍵になってくれるかもしれない。  
(頼む。頼む、誰かコイツを…わたるを助けてくれ……)  
 
わたるの妹は怯えていた。  
笹平という刑事が電話して以来、次々と警察車両が到着して警官が増えていく。  
いまや万世橋家の前の道路は溢れかえらんばかりの警察官埋め尽くされて、尋常ではない雰囲気に包まれていた。  
そして、笹平という刑事は一度目の電話以降、一切わたるとの交渉をしているようには見えない。  
そこかしこから漂うキナ臭さを、彼女は感じ取っていた。  
わたるは犯人なんかじゃない、彼女はそう確信している。  
しかし、わたるの母は自分の息子の犯罪にすっかり元気を無くし、呆然と立ち尽くすばかりとなっていた。  
今、わたるの無実を訴えられるのは自分しかいない。  
意を決して、彼女は何やら同僚の刑事と話しこんでいる笹平のもとに向かう。  
「笹平さん…」  
呼びかけられた笹平は、相変わらずの柔和な笑顔でわたるの妹の方を振り返った。  
「どうかしましたか?」  
だが、今の彼女にはこの柔らかな物腰すら、信用なら無いように思えた。  
彼女は精一杯の怖い顔をして、笹平を睨みつけて言った。  
「お兄ちゃんは犯人じゃありません!」  
「おや、どうしてそんな事を思うんです?彼は現に人質をとって立て篭もっているんですよ」  
「お兄ちゃんはそんな事をする人じゃないからです!」  
「ううん、妹さんとしてはお兄さんを信じたいというのは理解できるますけど……」  
彼女の言葉にニヤニヤと笑いながら答える笹平。  
そこで彼女は最大の爆弾を笹平に向けて投げつける。  
「それに私、見たんです。お兄ちゃんと女の人が仲良く話して、一緒に部屋に入るのを……」  
ここで初めて、笹平は言葉に詰まった。  
「……それは本当の事ですか?確かな話でなければ、警察は信用しませんよ。それとも、何か証拠でも?」  
「証拠がないのはお母さんの話も一緒じゃないですか!!」  
笹平の笑顔が歪む。  
さらに、わたるの妹は畳み掛ける。  
「それなら、お母さんの話も、私の話も同じはず。それなのに、どうして私の話だけ聞いてもらえないんですか?」  
これで、是が非でも兄にかけられた濡れ衣を晴らしてやる。  
わたるの妹は必死で笹平を睨みつけた。しかし……  
「困りましたねぇ……」  
そこで笹平は再び、あの笑顔を取り繕う。  
「大橋君、大橋君っ!」  
そして、近くにいた刑事の一人を呼びつける。  
「どうしたんですか、笹平さん?」  
「いや、”犯人”の妹さんがね、どうにもちょっと錯乱してるみたいで……」  
(え……っ!?)  
ニヤニヤと、笹平が呟いた言葉に、わたるの妹は驚愕した。  
「そうですか、じゃあ、私が相手をしますので……」  
「頼むよ、さっきから支離滅裂な事ばかり言って困ってたんだ…」  
そして、彼女は気付く。  
笹平の指示を聞いて、大橋と呼ばれた刑事がニヤリと歪んだ笑みを見せた事に。  
(……この二人、グルだ)  
思わず逃げ出そうとした彼女の腕を、大橋が掴む。  
「さあ、こっちへ来てください」  
「いや、放してぇ!!」  
大橋は言葉だけは丁寧だったが、痛いぐらいの力で彼女の腕を握る手の平からは明らかな悪意が感じられた。  
(この人たちは全部知ってて、お兄ちゃんを犯人にするつもりなんだっ!!)  
わたるの妹は必死で暴れるが、屈強な刑事が相手では逃れようが無い。  
彼女がそのまま大橋の手で引きずられていこうとした、そんな時だった。  
「あの〜、すみません」  
突然声を掛けられて、笹平が少し驚いて振り返った。  
大橋も立ち止まり、声のした方を見る。  
そこにあったのは、背後に数十人の制服姿の学生たちを従える青年の姿。  
今時珍しい着物と袴を着たその青年は、ぺこりと頭を下げてこう言った。  
「私、万世橋わたる君が通っている学校の教師でして、糸色望と申します」  
 
「先生?高校の?」  
「ええ、もっとも彼のクラスの担任ではありませんが、それでもそれなりに彼の事は知っているつもりです」  
笹平は、唐突に現れたその人物を警戒した。  
そもそも、バリケードの内側になるこんな場所まで、どうやって入ってきたのだろうか?  
すると、望は笹平の考えを見透かしたかのように  
「ああ、無理やりここまで入ってきたわけじゃないですよ。ちゃんと警察の方にお話しました」  
そんな筈は無い。  
バリケードを超えたのは、この男だけではないのだ。  
この男の背後の学生たち数十人、全部通す馬鹿がいるはずがない。  
「2のへだけじゃなく、2のほの皆さんまで集まったのでこんな大人数になってしまいまして、本当にご迷惑をおかけします」  
「でも、警察のみなさん、私の話を聞いたら、すぐに通っていいよって言ってくれましたね」  
「そうですね、風浦さん。警察の方々が理解のある人達で本当に助かりましたよ」  
一体、こいつらは何なんだ。  
こんな大勢で何の用があるっていうんだ?  
笹平は心中の動揺を押し隠しながら、望という教師に問いかける。  
「で、一体どういうご用件ですか?糸色先生……」  
「いえ、少し警察の方のお手伝いをしようと考えまして…」  
望は微笑んで、こう言った。  
「犯人への説得、それを私にもやらせていただけないかと……」  
「………っ!?」  
笹平の心臓が一気にすくみ上がる。  
そんな事をされたら、自分たち警察が今からやらかそうとしている事までバレてしまいかねない。  
笹平は叫びそうになるのを堪えながら、望の問いに答える。  
「そ、それは非常に有り難い申し出ですが、残念ながらお受けは出来ません…」  
「何故ですか……」  
「犯人は現在、非常に興奮しており、かなり危険な状態です。いたずらに刺激しては、かえって危険なのです」  
笹平のもっともらしい説明にも、しかし、望は納得してくれなかった。  
「そうでしょうか?彼は元来そんな人間ではないはずです。私が話せば……」  
「ですから、彼はいつもの学校での彼とは違うんですっ!!」  
思わず声を荒げてしまった事に、笹平は一瞬遅れて気が付く。  
目の前の教師の顔には明らかな不信感。  
まずい。このままでは……  
「そうですか。彼はそんな状態に……」  
「ご理解、いただけますね?」  
「……しかし、私としては、彼を信じてあげたい……」  
そう言って、望が取り出したものを見て、笹平は戦慄する。  
旧式の携帯電話だ。  
まさか直接自分で万世橋わたるに連絡を取るつもりかっ!?  
「やめろぉおおおおっ!!!!」  
叫んで、笹平は望に掴みかかった。  
「何をするんですかっ!?刑事さんっ!!」  
「お前こそさっきの話を聞いていなかったのかっ!!犯人と今話すのは危険なんだっ!公務執行妨害で逮捕するぞっ!!」  
激昂する笹平。  
と、その耳元に誰かが囁きかけた。  
「あれ、先生は万世橋君に電話するなんて、一言も言ってませんよ?」  
「なっ!!」  
それは、先ほど望と話していた、風浦とかいう女生徒の声だった。  
「そうですよ。私はとりあえず、2のほの担任に現地の状況をメールでお知らせしようとしただけです」  
ここに至って、笹平は自分が痛恨のミスを犯した事に気が付く。  
「何だか、万世橋君と私たちに、どうしても話をさせたくないみたいですね」  
「だから、それは犯人が危険な状態にあるからで……」  
気が付けば、笹平は望の連れて来た生徒たちの無数の目に睨みつけられていた。  
駄目だ。  
こいつら、俺の事を怪しんでやがる。  
そして、うろたえる笹平の耳元に、さきほどの女生徒、風浦可符香がとどめの一言を告げる。  
 
「だめですね、すっかり化けの皮が剥がれちゃってますよ、笹平さん……」  
ニッコリと笑った彼女の口から発せられた言葉に、笹平は全身が砕け散りそうな衝撃を覚える。  
この女、こっちの演技を見抜いているのか?  
いや、それだけじゃない……っ!!  
「な、なんで……なんで君が私の名前を知ってるんだ!?」  
笹平は、彼らに自己紹介などしていない。  
それなのに、目の前の少女は平然と彼の名前を言い当てて見せた。  
「女の子には秘密がいっぱいなんですよ、笹平さん」  
可符香がもう一度、笹平の名前を囁く。  
ヤバイ。  
こいつらは本当にヤバイ。  
そんな時だった。  
絶体絶命の笹平に、天の助けが舞い降りる。  
「笹平さんっ!!」  
「お、大橋君かっ!?」  
「突入準備、完了しました。いつでもいけますっ!!」  
その言葉を聞いて、笹平は生気を取り戻す。  
「よし、突入だっ!!被疑者を確保しろっ!!!」  
大橋に叫び返し、望達の方に振り返った笹平は勝ち誇った笑みを浮かべる。  
「すみませんね。先生、どうやら、あなたの説得の必要はなくなりました……」  
 
ドタドタと大勢の人間が階段を駆け上がり、わたるの部屋に近づいてくる足音が聞こえる。  
「ついに来るときが来たな……」  
【わたる……】  
不安そうに見上げてくる芽留に、わたるはニヤリと笑ってみせた。  
「心配すんな。俺は何もやってないんだ。必ず無罪放免で、戻ってきてみせる」  
それは、あまりにも見え見えの強がりだった。  
何かを伝えたくて、でも何も言葉を思いつかなくて、芽留はわたるの胸に縋り付いた。  
そんな彼女の頭を、わたるはいつもと変わらぬ調子で撫でてやる。  
と、その時、ガンッ!!ガンッ!!と激しい音がドアの方から響いてきた。  
斧か何かを使って、ドアを叩き壊すつもりなのだ。  
「ああいうのが部屋にあれば、こんな事にはならなかったんだけどなぁ……」  
呟いてから、わたるは芽留をそっと自分から引き離す。  
「それじゃあ、行ってくる……」  
「……あぁ……わたるぅ……」  
芽留が、か細い声でわたるの名を呼ぶ。  
わたるはそれに笑顔で応える。  
ドガッバキンッ!!!!  
ついにドアは破られ、大勢の警官が部屋の中になだれ込んでくる。  
わたるは彼らの前に歩み出て、そっと両手を差し出す。  
「被疑者確保ーっ!!人質も無事ですっ!!!!」  
手錠をかけられたわたるは、警官たちに伴われて、部屋の外に連れて行かれる。  
その姿が警官の群れの中に紛れて消えた時、ついに芽留の理性が吹っ飛んだ。  
(わたる……っ!!!!)  
突然駆け出した芽留を、警官たちは数人がかりで押さえつける。  
「こら、落ち着きなさいっ!!もう君は解放されたんだっ!!大丈夫なんだっ!!」  
(何を言ってやがるんだっ!!大丈夫なもんかっ!!このままじゃ…このままじゃ、わたるが……っ!!!)  
必死に前に進もうとする芽留。  
だが、これだけの数の警官を前にしては、彼女はあまりに非力すぎた。  
無力な自分を、このとんでもない理不尽を呪って、芽留は声にならない声で叫ぶ。  
(ちくしょぉおおおっ!!!!わたるぅうううううううっ!!!!!!)  
その時だった。  
「……?」  
警官の一人が顔を上げた。  
 
「どうした?」  
「いや、何か聞こえたんだ…なんだか聞き覚えのある音だったんだけど……」  
不思議に思って尋ねたもう一人の警官にも、それはすぐに聞こえ始めた。  
風を切る音。  
そうだ、これは戦争映画なんかで、落下していく爆弾が空気を切り裂くあの音……。  
思わず、警官達が上を見上げた次の瞬間。  
ドォオオオオオ――――――――――――――ンッッッ!!!!!!  
凄まじい衝撃が、家全体を揺らした。  
そして……  
ドガガガガガガガガガガッ!!!!!!!  
天井を突き破って、それはわたるの部屋のど真ん中に落下した。  
「なんだこれ……?」  
「棺……?」  
突如、天井をぶち抜いて現れた黒塗りの西洋風の棺。  
あまりに非現実的な出来事に、その場にいた警官の全員が動きを止めた。  
そして、その棺の中から、地獄の底から響いてくるような低く恐ろしい声が聞こえてきた。  
「めるめるをぉ…いじめたのはぁ…誰だぁあああああああああっ!!!!!」  
「へっ!?」  
次の瞬間、棺の蓋が吹っ飛び、中から黒い影が躍りだした。  
「お前かぁあああああっ!!!!!」  
「ひぃいいいっ!!!!」  
影が腕を振るうと、警官の一人が軽々と吹っ飛ばされた。  
続いて影に飛び掛った数人の警官も同様の末路を辿る。  
「な、何だ、お前はっ!?」  
怯える警官の一人がそう叫ぶと、影は動きを止めゆっくりと振り返った。  
山高帽に黒服、紳士然とした衣装にカイゼル髭をたくわえた異様な姿。  
混乱する部屋の中、芽留だけがその男の正体を知っていた。  
(ク、クソヒゲハット……っ!!?)  
彼こそは、音無芽留の父親、芽留による通称はクソヒゲハット。  
莫大な富と権力を有し、それをフル活用して芽留に間違った愛情を注ぎまくる怪人だ。  
「私は芽留の父親だ。官憲が何の用かは知らんが、芽留を放してもらおうかっ!!」  
先ほどの暴れっぷりを見て萎縮した警官たちは、芽留の父の一喝にすくみ上がる。  
(でも、コイツ、北海道に出張していたんじゃ?)  
「おお、めるめる、何だか私がここにいるのが不思議そうな顔だな。何、別に大した事じゃあない」  
この不可解な事態への疑問で頭がいっぱいの芽留に対して、彼女の父はニヤリと笑い  
「愛のパワーでめるめるのピンチを察知して、特別便で帰ってきたのだっ!!!」  
自信満々にそう言い切った。  
(ああ、駄目だ……。こりゃあ、本当に早いとこ縁を切らないと……)  
そんな父の態度に、芽留はすっかり呆れ返る。  
(でも、今の状況なら……っ!!)  
父の出現によって、いまや部屋の中は大混乱だ。  
芽留を押さえつける警官も、すっかり彼女の父に気を取られている。  
チャンスだっ!!!  
(今回だけは恩に着るぜっ!!)  
するり。  
警官の腕をすり抜け、芽留は部屋の外に飛び出した。  
廊下にいる警官たちの合間を、小さな体をフル活用してくぐり抜け、一気に一階まで駆け下りる。  
(そうだ、今はチャンスなんだっ!!わたるの無実をオレが証明できる、今が最後のチャンスなんだっ!!!)  
一階に下りると、後はまっすぐ廊下を進めば、そこが玄関だ。  
(俺がアイツを助けるんだっ!!!!)  
廊下を駆け抜けて、玄関の扉を開くと、警官の一団に囲まれて進むわたるの姿が見えた。  
(わたるっ!!!)  
だが、駆け出そうとした芽留を、大きな影が遮った。  
私服の刑事らしきその男は、芽留には知る由も無いが、大橋という名前の例の刑事である。  
「いけませんよっ!!」  
大橋は芽留の肩を掴んで、彼女を引き止める。  
 
その容赦ない力加減と、顔に張り付いた薄ら笑いを見て、芽留はこの男が敵であると確信する。  
(ちくしょうっ!!あともう少しなのに……)  
荒事に慣れた刑事と、小さな女の子の芽留とでは、全く勝負になるわけがない。  
大橋の腕に押さえつけられている間に、わたるは芽留から遠ざかっていく。  
だが、その時――  
「いい加減にしとけよ、オッサンっ!!!」  
鋭い回し蹴りが、大橋の頭を直撃した。  
脳を直接揺らすその衝撃に、大橋は力なく崩れ落ちる。  
そして、その向こう側にいたのは……  
(な、なんでコイツが……)  
「よう、久しぶりだなぁ……」  
短く刈った金髪を、芽留は良く覚えていた。  
わたると一緒に映画を見に行った帰りに、襲い掛かってきた不良の一人だ。  
「事情がわかんなくて混乱してると思うが、質問は後にしてくれ。今はあのデブを助けるのが先決だ」  
呆然としたまま芽留が周囲を見渡すと、そこはとんでもない事になっていた。  
見知った顔が何人も、警官を相手に暴れている。  
2のへと、そして何人かの2のほの生徒達だ。  
「お前のクラスの先生ってのに頼まれてな、好き勝手に暴れまわったんだ」  
現場はもはや大混乱に陥っていた。  
芽留のクラスメイト達の大暴れのせいで、バリケードに穴が開き、野次馬や、テレビカメラが万世橋家の前に殺到していた。  
わたるを囲んだ警官たちも、彼らに行く手を塞がれて立ち往生している。  
「人質ってのは、やっぱりお前か。ようやく話が見えてきたな。やっぱり、テレビで言ってたのは全部嘘っぱちだったわけだ」  
【当然だ。わたるがそんな事するわけないだろうっ!!】  
「ははは、相変わらず、お熱いねぇ」  
男に茶化されて、芽留は頬を真っ赤に染める。  
「わかってると思うが、あのデブを助けるには、被害者であるはずのお前が味方するしかない」  
【ああ……】  
「問題は、どうやってアイツが犯人じゃない事を、ここにいる奴らに分からせるかなんだが……」  
そう言って、男は顔をしかめる。  
確かにそれは難しい問題だった。  
言葉で説明しても、確実な証拠がない限り誰も信じれくれないだろう。  
そもそも、人前でほとんど話すことの出来ない芽留には、その方法を使う事自体無理がある。  
しかし、手をこまねいていれば、警察はわたるを自分の手の内に収めて、好き勝手に事件の偽の真相を作り上げるだろう。  
今、ここで戦っている芽留の学校の仲間たちも、片っ端から公務執行妨害で逮捕されてしまう。  
(言葉じゃ無理なんだ。言葉じゃ………)  
そこで、芽留はハッと顔を上げる。  
閃いたのだ。  
芽留にでも出来る、芽留だからこそ出来る、言葉以外の方法を……。  
(ちょうど、いい具合にカメラも集まってるな……)  
芽留は覚悟を決め、金髪男をちらりと横目で見る。  
「行くのか?」  
それだけで芽留の意思を察した金髪男に、芽留は静かにうなずいて見せる。  
「よっしゃ、それじゃあ行くぞっ!!」  
金髪男が叫んだのと同時に、芽留は駆け出した。  
行く手を遮る警官たちを金髪男がなぎ倒し、その隙間を縫って、ついに芽留はわたるの目の前に踊り出る。  
「お前、なんで……っ!?」  
顔を隠すため、頭から刑事のコートを被せられたわたるが、芽留の姿を認めて驚きの声を上げた。  
そんなわたるに、芽留は心配ないとでも言うように微笑んでみせる。  
 
(わたる、お前はオレをいつも助けてくれたよな……)  
芽留が、わたるに向かって歩み寄る。  
そして、わたるの頭にかけられたコートを手に取り、それをそっと肩の位置にまでずらしてやる。  
露になったわたるの素顔、今回の事件の犯人の顔は、周囲を囲むカメラの注目を一気に集めた。  
「き、君ぃ!!こんな事をして、何をっ!!!」  
意外すぎる行動に叫ぶ刑事たちの声も、芽留の耳には入ってこない。  
ただ、目の前の愛しい人の顔だけを見つめる。  
(だから、今度はオレが……オレがお前を助けてみせるっ!!!)  
爪先立ちになった芽留は、わたるの顔に両方の手の平を添える。  
さらにその両手で、わたるの顔をそっと自分の方に引き寄せた。  
「………お前…」  
「…………わたる、大好きだぞ…」  
わたるにしか聞こえない、小さな声で芽留はそう呟く。  
そして、そのまま、二人の唇はそっと重なり合った。  
 
その映像は電波に乗って、全国を駆け巡った。  
凶悪事件の犯人に興味津々の視聴者達も、わたるの素顔に色めき立っていたテレビ局のスタッフたちも、すべからく理解した。  
二人は、犯人とその人質などではない事を。  
二人の間にある、想いと絆をの名前を。  
何よりも鮮烈な形で、彼らは目撃する事となった。  
 
「お、お、お、お、お前、何をぉおおおおおおおっ!!!!?」  
芽留の唇が離れて、ようやく事態を理解したわたるは、顔を真っ赤にしてわめきたてた。  
しかし、芽留はそんなわたるの言葉には一切答えず、ただ得意げに、そして嬉しそうに微笑むばかり。  
そんな二人の様子を見ていた周囲の警官たちに動揺が広がっていく。  
「おい、これどういう事だよ?」  
「俺に聞くなっ!!俺だって訳がわかんねえよっ!!」  
「でも、あの娘は人質の女の子の筈だよな?」  
「だったら、さっきの、キ、キ、キ、キスは……」  
誰も彼もが訳が分からず、ただ呆然と立ち尽くすばかり。  
そんな中で、芽留の行動の意味と、その重大さを嫌というほど理解している男がいた。  
「こ、こんな手で来るなんて………っ!?」  
笹平は呆然と呟いた。  
これで全国に、二人が親密な関係にあり、それは今も崩れていない事が印象付けられた。  
そんな二人を、今更犯人とその人質に仕立て上げるなど不可能だ。  
「終わりだ。全部、お終いだ……」  
笹平は、自分の体を抱きかかえるようにして、ゆっくりとその場にうずくまった。  
 
辺りでは二人のキスを見て、2のへや2のほの生徒たちが歓声を上げ、やんやと二人を囃し立てていた。  
「これで何とかなりましたね。あなたもお疲れ様でした」  
「いえいえ、親友の芽留ちゃんのためですから」  
「まだそのネタ引きずってたんですか?」  
望と可符香の二人も遠巻きにわたると芽留の姿を見つめながら、祝福の拍手を送る。  
これでもう一安心、二人を助けるべく集まった人間たちは皆ホッと胸を撫で下ろしていた。  
わたるが犯人だと思い込んでいた人間たちは、驚きの余り呆然として言葉をなくしていた。  
万世橋家の周囲の空気は一気に緊張から開放され、辺りには弛緩した空気が漂っていた。  
だから、誰も気付いていなかった。  
最後の脅威が静かにこの場に紛れ込み、今まさに牙を剥こうとしている事に……。  
 
彼は怒っていた。  
彼が犯行予告を送りつけたTVSが、愚かにもこんなくだらない事件と自分の予告状を結びつけてしまった事に。  
彼は自分を、聖なる戦いのための戦士として自覚していた。  
犯行予告はいわば、彼の世界に対する宣戦布告だったのだ。  
だが、その名誉はあのいかにも低能そうなオタク男に奪い去られた。  
その上、事件の結末は汚らわしい男と女の行為に締めくくられてしまった。  
(これは冒涜だ…)  
彼は懐から、折り畳み式のナイフを、聖戦を戦う彼の牙を抜き放った。  
愚鈍な周囲の人間たちは、誰も彼に気付かない。  
やはり、彼らのような存在は、自分のような戦士に裁かれる運命にあるのだ。  
彼は確信を強める。  
まずは、全てを台無しにした愚か者に天罰を。  
彼が狙い定めたのは、髪を二つにくくった小柄な少女。  
あの女の血を以って、我が聖なる戦いの開戦の狼煙とするのだ。  
ナイフを構え、彼はゆっくりとスピードを上げて走り始める。  
「うわああああああああああああああああああっ!!!!!!!!!」  
 
その叫び声が何であるかを理解できたものは、その場には一人も居なかった。  
だが、ただ一人、わたるだけが、叫び声を上げて突っ込んでくる男の一直線上に、芽留がいる事に気付いた。  
男が何者なのか、何をしようとしているのかはわからない。  
だが、わたるにとっては、それだけで動く理由に十分に値した。  
わたるが芽留の前に歩み出て、男の前に立ち塞がる。  
しかし、男はスピードを緩めない。  
最初から二人とも殺すつもりだったのだ。  
どちらが先になろうと関係ない。  
一気に加速をつけて、わたるの懐目掛けて男は突っ込んでいく。  
わたるは男を迎え撃つべく、手錠に繋がれた両手を前に掲げる。  
そこでようやく、わたるとその周囲の人間は、男が手に持っているものの正体に気が付く。  
光を反射して輝く刃の銀色に、誰もが凍りついた。  
しかし、最初から芽留の前を動くつもりの無いわたるには関係の無い話だった。  
「うわああああああああああああああああっ!!!!!!!!」  
絶叫と共に銀の牙がわたるに襲い掛かる。  
そして……っ!!!  
「残念だな。届かなかったみたいだぞ……」  
あと少しで腹に刺さる直前、わたるの手の平がギリギリで折り畳みナイフを捕らえていた。  
刃を握った手の平から、ポタポタと血が流れ落ちる。  
「ちくしょおおおおおおっ!!!!」  
男はそれでも力を込めて刃を押し込もうとするが、その前にわたるが動いた。  
「逸脱するなら二次元だけにしとけってんだ!!!!!!」  
わたるは男の頭に渾身の頭突きを落とし、さらに力ずくで男を投げ飛ばした。  
頭突きを受けた瞬間に力が緩んで、ナイフを手放した男は無様に道路に叩きつけられる。  
そして男は、ようやく正気に戻った警察官達によって取り押さえられた。  
「くそっ!くそったれっ!!あれは俺の犯行予告だったんだぞっ!!!それを何でお前がっ!!!!」  
男がそのまま警察官に連れ去られていくと、芽留は慌ててわたるに駆け寄った。  
(この馬鹿っ!!またとんでもない無茶をしやがって……っ!!)  
一つ間違えばわたるは死んでいた。  
手の平が震えてメールが打てない。  
言葉を失った芽留は、ただわたるを睨みつける。  
そんな芽留に対してわたるは、  
「ああ、すまなかったな。また、お前の気持ちを考えずに動いてた……」  
そう言って、優しく微笑んだ。  
その言葉に、芽留の瞳から涙が一気に溢れ出す。  
服が血で汚れるのにも構わず、芽留はわたるに縋りついた。  
「本当にごめんな、芽留……」  
その時、一陣の風が吹き抜けて、わたるの肩に引っ掛けられたコートをたなびかせた。  
マントのように広がるそれを背負い、芽留の傍らに立つわたるの姿は、さながらか弱い少女のために戦う騎士のように見えた。  
 
こうして、不運と嘘と誤解が作り出した事件は幕を下ろした。  
 
事件から一週間後、真っ赤な夕日に照らされながら、わたると芽留はいつもの学校の帰り道を二人並んで歩いていた。  
「まあ、何とか無事に終わったのはなによりだ……」  
【あれを無事と言えるかどうかは、少し疑問だけどな……】  
事件の後、マスコミの報道の矛先は、わたるを犯人に仕立て上げようとした警察に向けられた。  
おかげで今の警察は、上へ下への大騒ぎを続けている。  
そして、事件の当事者であるわたると芽留にも、当然取材の手が及ぶはずだったが、芽留の父親の力で全て握りつぶされてしまった。  
最も、あの日全国放送で流れた映像までは取り消す事はできなかった。  
現在、動画投稿サイトを覗けば、二人のキスシーンをいつでも見る事が出来る状況だ。  
そして、芽留の父親も、二人にマスコミが近づけないよう手配した後、ばったりと倒れて一週間近くずっと寝込んでいる。  
愛する娘のファーストキスに、完全に心を折られたのだ。  
それでも、わたるに危害を加えようとしないあたり、ある程度、娘を守ったわたるの事を認めているのかもしれない。  
ともかく、全国ネットでキスシーンの生中継をしてしまった二人は、この一週間だけでもかなり恥ずかしい目に遭う事となった。  
「仕方がないだろ。ベストじゃないが、ベターな落としどころだったとおもうぞ」  
【まあ、そうなんだが……。あ、そう言えば、お前のところの母親、大丈夫なのか?】  
「ああ、さすがに大分持ち直してきたけど、まだ元気とは言えないな……」  
事件後、息子が濡れ衣を着せられそうになった原因が自分にある事を悟り、わたるの母は塞ぎこんでしまった。  
わたるや、彼の妹の励ましでいくらか元気を取り戻したが、こちらも完全に元に戻るには長い時間がかかりそうだった。  
「しかし、今回は2のへの連中に随分世話になったな」  
【まあ、あいつらは暴れまわるのが仕事みたいなもんだからな】  
「お前もその2のへの生徒だろうが…」  
そこでわたるは、一つ息をついて、こう呟いた。  
「でも、まさか2のほの連中まで助けに来てくれるとは思わなかった……」  
自分は2のほの中で浮いている。孤立している。  
そう感じていたわたるにとって、それはかなり嬉しい事だったようだ。  
また少し、わたるの頑なさが解けつつあるのを見て、芽留も嬉しそうに微笑む。  
それ以外にも、以前二人を襲った6人の不良たちが助けにやって来てくれた事も嬉しい出来事だった。  
わたるは以前の約束どおり、彼らにお勧めの作品を貸し与えてやった。  
その後、連絡は取っているのかと芽留が聞くと、布教は順調だと言ってわたるは笑った。  
「ともかく、今は平和な毎日に感謝するばかりだよ」  
【そうだな……】  
そう言って、微笑み合った二人だったが……  
 
「あ、あのチビデブカップルじゃんっ!!」  
「すげーっ!!本物、初めて見たよっ!!」  
通りすがりの小学生に囃し立てられ、二人は一気に真っ赤になる。  
何しろ、全国生中継だったのだ。  
これからも当分、二人の苦労は続く事になるだろう。  
【わかっててやった事とはいえ、キツイなぁ……】  
芽留は真っ赤な顔を俯かせて、深く深く溜息をつく。  
と、そんな時、唐突にわたるが立ち止まった。  
【ん、どうした?早く帰らないと、またさっきみたいな奴らに見つかっちまうぞ】  
「あ、ああ…まあ、そうなんだが……」  
微妙に言いよどみながら、わたるは芽留の肩に手を置く。  
【ちょ…何だよ?どうしたんだよ?】  
「いや、どうせ恥ずかしいのなら、もう何回やっても同じかなって思って……」  
【だから一体、何の話だよ?】  
「あの時、完全にお前に主導権を握られてたのも悔しいし……なんというか、リベンジがしたいというか…」  
そこまで聞いて、芽留はようやくわたるの意図を悟る。  
【ちょっと待て!路上だぞっ!!外だぞっ!!また見られたりしたら……】  
「もう全国の人間に見られてるんだ。今更、大した事じゃないだろ?」  
【そ、そ、そ、そうだけど……そうなのか?】  
なんてやり取りをしている間にも、わたるの顔がゆっくりと近づいてきて……  
「……俺は…その…もう一度してみたいんだ……お前はどうなんだ?」  
わたるにそう聞かれて、ぐるぐると混乱するばかりの芽留。  
結局、最後に出てきた答えは……。  
【…………オレも…したい…】  
それだけ伝えて、芽留は携帯を持つ手を下げた。  
そのまま、見詰め合う二人の唇の距離はどんどん縮まってゆく。  
夕日に照らされて、道路に落ちた二人の黒く長い影がそっと重なり合った。  
辺りに人影はなく、まるで世界と時間から切り離されたような夕焼けの帰り道で、わたると芽留はずっと唇を重ねていたのだった。  
 

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