ぽふっ、と軽く柔らかい音が頭の上で聞こえた。  
その後、2度、3度と優しくいたわるような手の平が芽留の頭を撫でる。  
「よう」  
【勝手に撫でんな】  
なんて憎まれ口で返答をしながらも、実のところ、芽留はこうして彼に、万世橋わたるに頭を撫でてもらうのが嫌いではなかった。  
【だいたい、その妙な馴れ馴れしさが傍から見ると、幼女を誘拐する危ない犯罪者っぽいんだよ!!】  
「いや、その言い方はお前自身の弱点の方もザックリ抉ってるから、その辺でやめとけ」  
言い合いながらも、わたるは芽留の頭を先ほどより少し荒く、だけど決して乱暴にならない程度の強さで撫で続ける。  
散々文句を言いながらも、芽留はその手の平を押しのけようとせず、ただその優しい感触を甘受する。  
芽留の頭はどういうわけか、叩くと、ぽんむ、とまるで小さな太鼓でも鳴らしたかのような音がする。  
小さな頃から、この事に気付いた同級生達にからかわれる事が多く、芽留を溺愛する父親もその度に激怒して色々と大変な事になったものである。  
つい先日も、芽留のこの秘密に気付いた奈美が、つい芽留の頭を押しすぎたために、全身を緑色に塗られてしまうという災難にあった。  
芽留自身にとっては、少し嫌なことも思い出すけれど、それ以上はどうという事も無いごく普通の現象なのだけれど………。  
ただ、だからこそ、芽留はある事に気付く事が出来た。  
(でも、わたるが頭を触ってくるときは、絶対にあの音がしないんだよな……)  
たぶん、それはぶっきらぼうな物言いとは裏腹に、わたるは芽留にそっと優しく、まるで壊れ物でも扱うように慎重に触れているからなのだろう。  
言外に込められたその優しさに、身を委ねる瞬間がたまらなく心地良くて、芽留はいつもこの時間を待ちわびていた。  
時間は夕方の4時を過ぎ、学校は放課後、こうして廊下でわたるの事を待ってから帰るようになって、もうどれくらい経つだろう。  
「んじゃあ、帰るか」  
【おう!】  
芽留とわたるは眩しい西日の差し込む廊下を並んで歩き出す。  
二人の影は足元から薄暗い廊下の先の先まで、仲良く寄り添ってのびていた。  
 
「で、今日は寄っていくのか?」  
【ん、そのつもり】  
わたるが尋ねた言葉に、芽留は肯いた。  
ここのところ、芽留は帰宅の途中にわたるの家に寄ってから帰る事が多かった。  
わたるの家には大概、わたるの母親や妹がいるので、彼としてはどうにも気恥ずかしいのだが、  
以前、その程度の気恥ずかしさなどどうでも良くなるような事件を経験してしまい、それ以来芽留と一緒に過ごす事への照れも和らいだようである。  
「ただいま」  
【じゃまするぞぉ】  
わたるの家にたどり着いた二人は、玄関をくぐりわたるの部屋のある二階への階段を上っていく。  
「あ、芽留さん、また来たんだ」  
と、その途中で芽留に声をかける人物がいた。  
わたるの妹である。  
【おう、相変わらず、双子と見紛うようなソックリ兄妹だな】  
「芽留さんも相変わらずお兄ちゃんと仲良いみたいだね」  
なんて、すっかり気安く言葉を交わすようになった妹と芽留を見て、わたるは流石に恥ずかしくなったのか  
「おい、さっさと行くぞ」  
顔を少し赤くしながら、自分の部屋の方に急ぐ。  
「それじゃあ、芽留さん、くつろいでいってくださいね」  
【ああ、ゆっくりさせてもらうぜ】  
ひらひらと妹に手を振る芽留を引っ張って、わたるはようやく自室に転がり込む。  
以前、この部屋の鍵の不調のせいで大変な目に遭ったせいか、今のわたるの部屋のドアは新しいものに変わっている。  
わたるの部屋の中は、相も変わらずのオタク的な品々の山で埋め尽くされていた。  
芽留はそんな部屋の隅に鞄を下ろして、すっかり自分専用と決め込んでいるクッションの上にポフンと座り込む。  
【相変わらず、妹には弱いのか?】  
「うるせえよ」  
未だに顔を赤くしているわたるをからかうように、ニヤニヤ笑いながら芽留がそう問いかけた。  
二人はこの部屋でゆっくりと語り合ったり、だらだらと漫画を読んだり、ゲームをしたり、好きなように時間を過ごすのがお決まりだった。  
だが、今日は、芽留がわたるの部屋を訪れた理由は他にもあるようだった。  
【ところで、例のアレ、もう出来てるんじゃないのか?】  
「……むぐっ…!?」  
芽留の言葉に、わたるの顔が青ざめる。  
【締め切りも近いって言ってたし、お前はそういう約束はキチンと守るからな………出来てるんだろ?】  
「う……うぅ……出来てちゃ…悪いのかよ?」  
すっかり蛇に睨まれた蛙のような顔になってしまったわたるを、芽留は意地悪く追い詰める。  
「……例の小説なら…もうとっくに書き上がってるさ……」  
 
事の発端は3ヶ月ほど前に遡る。  
芽留に会う為に2のへにやって来ていたわたるに、ある人物が声をかけた。  
「万世橋くん、ちょっと相談があるんだけど……」  
「……藤吉?…なんだ?」  
わたるが聞き返すと、藤吉晴美はニヤニヤと笑いながら、一冊のやたら薄っぺらい本を彼に手渡した。  
わたるはそれを受け取って、ぺらぺらと中身に目を通す。  
「どう?」  
「…………どうも何も…」  
「結構、良い出来だと思うんだけど?」  
「……んな、評価を聞かれても、そもそも俺にはソッチの趣味は無い……っ!!」  
バンッ!!とわたるが机の上に叩きつけたのは、晴美作の同人誌である。  
もちろん、内容はぶっちぎりのBL。  
ジャンルは全長18メートルのロボットが紛争根絶の為に撃ったり、斬ったり、暴れたりするダブルでオーなアニメである。  
カップリングは、『アニメ一期の終盤で死んだ射撃上手のお兄さん』×『声が2のへの担任教師に瓜二つの眼鏡美少年』。  
まことにもって、王道であった。  
「こういうのは無理だから、同じ趣味の奴と話してろ」  
「まあ、そう言わないで、万世橋君に話したのも訳あっての事なんだから…」  
「……訳って、なんだ?」  
晴美はこのカップリングで新しく本を出したいそうなのだが……  
「戦闘シーンがね……やっぱり、描き慣れないから……」  
「まあ、そりゃあそうだろうな」  
晴美の描きたい話では、どうしても戦闘シーンを多く描かなければならないのだという。  
しかし、描き慣れないメカを描写するのは、流石の晴美にも手間のかかる作業らしかった。  
それで、ダブルでオーなこのアニメに限らずメカ関連は一通り押さえているわたるに相談したいという話らしい。  
「でも、俺は絵なんて描けないぞ?」  
「設定的にこういうのは変だとか、こうはならないだろうとか、そういうのは分かるでしょう?  
千里もそりゃあもう有り得ない精度でメカの作画を手伝ってくれてるけど、作品自体は見てないから……」  
「要するに、ちゃんとロボット同士の戦闘の雰囲気が出せるようにアドバイスが欲しいと…」  
「そうなの、お願いできる?」  
結局、わたるはその話をOKした。  
BLな描写を目にする事になってしまうのは少しキツイが、我慢できないほどではない。  
何よりも、自分の知識が必要とされているところに、オタクとしての自尊心を刺激されてしまったのだ。  
以来、わたるは晴美の持って来るネームなんかに逐一目を通して、さまざまなアドバイスをする事になった。  
が、これこそが不幸の始まりだった。  
元来が凝り性で、千里ほどではないが完璧主義の気があったわたるは、次第にネーム全体に目を通すようになっていった。  
おかげで、わたるのアドバイスはストーリーも踏まえてより的確さを増していったのだが、  
だんだんとわたる自身がBL慣れしていってしまうという弊害も起こり始めた。  
そして、ある日、わたるは気がつく。  
「いや、ここまでの流れを考えたら、そこでティエがニールにそう発言するのはおかしいだろ?」  
「ああ、なるほど、これはちょっと前後の何ページかもまとめて練り直さないと……」  
そこで、わたるはふと、自分が先ほど晴美に対して言ったアドバイスの内容を省みて……  
(あれ?俺はなんで野郎同士の感情をこんなに熱く語ってるんだ!?)  
気付いたときには、全てが後の祭りである。  
「それにしても、最近の万世橋君、BLってものがかなり解ってきたみたいね!!」  
嬉しそうにそう言った晴美の言葉で、わたるは全てを悟る。  
自分が今、とんでもない方向に向かって脱線し始めている事に……  
「いや、ちょっと待て…さっきのは……!!!」  
「むしろ、私よりも二人の恋心を分かってる感じだし………そうだっ!!」  
キラキラと目を輝かせて、晴美はそのアイデアをわたるに告げた。  
「絵が描けないんだったら、小説っ!!万世橋君、私の本にゲスト原稿として、小説を書きなさいっ!!!」  
 
で、場面は再びわたるの部屋に戻る。  
【まさに、墓穴を掘った感じだな】  
「うぅ……俺とした事が……」  
結局、テンションの上がり過ぎた晴美の頼みを断り切れなかったわたるは晴美の新刊本に掲載される小説で同人デビューを飾る事になってしまった。  
そんなの絶対に書けるはずがない、そう思っていたわたるだったが、どうやら彼の脳はBLを血肉として吸収し、  
すらすらと自然にBL二次創作小説を書ける人間に、彼を変えてしまったようだった。  
完成した小説は既にメールで晴美のもとへと送られ、今頃印刷所で製本されている頃である。  
「一生の不覚だ……」  
【オタクとしての新しい世界が拓けて、良かったじゃねえか。………さてと、どれどれ】  
「……って、お前、何読んでるんだよっ!!!」  
【ん?一度学校に持ってきてただろ?推敲前の小説のプリントアウト】  
「ちょ…ま、ま、ま、待てぇええええええっ!!!!!」  
必死の形相で自作BL小説を取り返そうとするわたると、そんなわたるから愉快そうに逃げ回る芽留。  
やがて、小説にも全て目を通し終えたらしい芽留は顔を上げて  
【うんっ!!素晴らしい作品だったぞ!!!】  
わたるにとっては悪夢のようなその言葉をぶつけた。  
最後はほとんど芽留ともみ合いになっていたわたるは芽留の首にチョークスリーパーで組み付いたままの状態でしばし呆然。  
「よ、読まれた……もう生きていけない……」  
【初心者にしては文章も及第点以上、戦場で揺れ動く恋心をよく描けていたと思うぞ。男同士のな!!」  
「う、うわああああああああっ!!!!!」  
悲鳴を上げるわたると、ケラケラと楽しそうに笑う芽留。  
まあ、この辺も、いかにもこの二人らしい、いつも通りのじゃれ合いだったのだけれど……。  
「………あ…」  
不意にわたるが、芽留を捕まえていた腕を離した。  
密着状態だった二人の体が離れていく。  
【どうしたんだ、急に?】  
「いや、ちょっと調子に乗りすぎたな。すまん……」  
どうやら、わたるは先ほどまでの小説のプリントアウトを巡る、芽留との取っ組み合いの事を気にしているらしかった。  
だが、その口ぶりはどうにも歯切れが悪く、いつものわたるらしさに欠けているように、芽留には感じられた。  
【別に気にしなくていいだろ?いつもの事だし】  
「まあ、そうだが………とにかく、すまん」  
そう言って、わたるはぺこりと頭を下げた。  
芽留もそれ以上の追及はできず、急に元気をなくしたわたるの様子を見ている事しかできなかった。  
 
その後、何となく言葉少なになってしまったわたると芽留。  
いつもと違う微妙に居心地の悪い時間を過ごしてから、芽留はわたるの家から帰る事になった。  
【別に子供じゃないんだし、毎回お前に送ってもらわなくても大丈夫だぞ?】  
「まあ、そう言うな。俺の自己満足だ。気にせんでくれ」  
隣を歩くわたるの表情を見ながら、芽留は考える。  
そう言えば、わたるはなるべく自分の体に触れないようにしているように思える。  
あれほど、頭をたびたび撫でてくるのに、体に手を触れてきた事は数えるほどしかない。  
過去に感情が高ぶって抱きしめられた事や、今日のように互いのテンションがよほど上がった状態でなければ、わたるは芽留の体に触れないのだ。  
そして、芽留にはわたるがそうしてしまう理由が、何となくわかるような気がした。  
【もしかして、気を遣ってるのか?】  
「何の事だよ?」  
【お前、俺の体に触らないようにしてるだろ。あれは、オレに気を遣ってるんだろ?】  
芽留は過去に二度ほど痴漢の被害にあっている。  
どちらとも、わたるによって大事に至る事は避けられたが、その時の恐怖は芽留もまざまざと覚えている。  
特に、二度目に痴漢にあった時は、相手は数人がかりで共謀して芽留を取り囲んできた。  
今思い出しても、背筋の凍るような経験である。  
わたるは、そんな芽留のトラウマを気にして、迂闊に芽留の体に触れないようにしているのではないか?  
芽留はそう考えたのだ。  
それに対するわたるの答えは……  
「ん、まあ、それもあるんだけどな……」  
わたるは苦笑しながらこう言った。  
「たぶん、一番の理由は、俺がビビってるって事だと思う……」  
「ビビってる?」  
その言葉を反芻した芽留に、わたるは肯く。  
 
わたるがビビっている。  
何を?  
何に?  
膨らむ疑問の中で、わたるは言葉を続けた。  
「お前が痴漢にあった時、特に二度目、ギリギリの間一髪でお前のところにたどり着いた時、俺は怖くてしょうがなかったんだ。  
痴漢なんて、言葉にしてみれば何でもないようだけど、される方がどんなに辛いかは一度見て、知っていたからな……」  
わたるが芽留と深い関係を結ぶ事になったきっかけ。  
それは、痴漢の被害に遭っていた芽留を、わたるが助け出した事だった。  
あの時、不安と恐怖の中で震えていた芽留の姿は、わたるの脳裏に強く焼き付けられた。  
そして、芽留が傷つき、涙を流す姿は、わたるにとっても強いトラウマとなったのだ。  
「しかも、お前にあんな事をしようとした奴らと同じ欲望が俺の中にもあるんだ。それを考えると、正直、怖い」  
【そんな、お前はっ!お前はあんな奴らとは違うだろう?】  
「ああ…きちんと自分で制御できているっていう意味では確かに違うな。でも、俺の中にあるのはやっぱり奴らと同じモノだよ」  
だから、わたるは芽留になかなか触れられなかった。  
その問題はいくら考えてもキリがない事。  
そうやって芽留を避けるような態度が逆に彼女を傷つけてしまうかもしれない事。  
全てわかっていた。  
わかっていても、やはり怖かった。  
「やっぱり、気を遣わせたな。……すまん、俺に意気地がないせいだな」  
【わたる……】  
寂しそうな、申し訳なさそうな、そんなわたるの笑顔が、芽留の胸に突き刺さった。  
そうだ。  
誰かが傷つく事は、その人の近しい人の心にも傷を残していくものなのだ。  
(もうちょっと、オレがちゃんとわたるの事を見てたらな……)  
それでも、わたるは芽留の頭をいつも撫でてくれた。  
軽口と憎まれ口の間に、そっと優しい言葉を掛けてくれた。  
だから、今度は自分から、そんな彼の気持ちに応えてやりたいと、芽留はそう思った。  
「……ん?…って、お前何してんだ!!?」  
ぎゅうっ、と小さくて細い腕が、わたるの体を抱きしめた。  
【気にすんな…】  
「気にすんなって…お前!?」  
芽留はわたるの胸に顔を埋めて、携帯の画面だけでわたるに話しかける。  
【大丈夫だから……信じてるから……】  
「信じてる……?」  
【お前がお前を信じられなくて、ビビって仕方がなくなっても、オレは勝手にお前を信じる。だから……】  
芽留の腕を、温もりを通して、彼女の気持ちがわたるの心に伝わってくる。  
二度の痴漢との遭遇で、確かに彼女は傷ついた。  
だけど、そんな恐怖も乗り越えて、全てを信じて託す事のできる相手がわたるなのだと……  
【だから、ほら、もう大丈夫だろ…?】  
「ああ……」  
芽留の言葉に応えるように、わたるは彼女の背中に腕を回し、きゅっと抱きしめる。  
なんだか、こうしているだけで、自分が恐れていたものが、まるで馬鹿みたいに小さな事に思えてくる。  
わたるは、少し恥ずかしそうに笑ってから、芽留の耳元でこう告げる。  
「ありがとうな、芽留……」  
その言葉に、芽留はわたるの胸の中で、わたるには見えないように、満面の笑顔を浮かべたのだった。  
 
 
 
ちなみに、例の晴美の同人誌はその後イベント等で販売され、なかなかの売れ行きだったようだ。  
収録されている、わたるの小説もかなり好評だったらしく、その後わたるは何通かのファンレターまで受け取ってしまった。  
【お前の人生、はじまったな】  
「うるせーっ!!!」  
 

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