万世橋わたるは不機嫌だった。
何がどう悪い、というわけではない。
ただ、ちょっとした事でイライラしてしまう。気に障ってしまう。
今日の彼は行きつけの店での買い物の帰り道。
電車に揺られながら、外界の事に煩わされぬよう、わたるはイヤホンから流れる音楽にだけ集中していた。
だから、わたるがそれに気付いたのはほんの偶然の事だった。
何かが聞こえたわけでも、見えたわけでもなかった。
ただ、何か気配のようなものとしか言いようの無いものを感じて、わたるはその方向に視線を向けた。
列車の窓際、すぐ横に立つサラリーマン風の男性の向こうに見える二人の人物。
小柄な、ひょっとすると小学生かもしれない少女と、背後に立つ中年男性。
その様子が何かおかしい。
少女の小さな体が、小刻みに震えていた。
背後の男の手の平が、少女の体に触れている。指先が蠢いている。
周囲に不審がられぬよう慎重に、しかし確実に少女を捕らえて逃さず、男は少女の体にいやらしく指を這わせていた。
少女は悲鳴を上げない。いや、上げることが出来ないのか。
「…………い…や…」
耳を澄ませても、かろうじて聞こえるか聞こえないかの小さな声。
満員電車の喧騒の中では、かすれて消えてしまうようなほんの小さな悲鳴。
それが、少女の精一杯のようだった。
「…………」
前述のごとく、わたるは不機嫌だった。
その上、わたるは目の前の痴漢男のような輩が大の嫌いときていた。
ぶちん。
何かが、頭の中で切れるような、そんな音を聞いた気がした。
「ちょ、ちょっと君、何をするんだ!」
わたると痴漢の間に立つ、自分の隣で何が起こっているのか気づいてもいない、呑気なサラリーマンを押しのける。
体を無理やりにねじ込む。
ぎりぎりで右腕が届いた。
痴漢に夢中になっている男の腕を、わたるはぐいと掴み上げた。
「な、なんだぁ!?」
不意を突かれた痴漢男の、間の抜けた声はわたるをさらに苛立たせた。
強引に、男の腕をねじり上げる。
無理な体勢からの関節技に、わたるの筋肉も悲鳴を上げたが、知ったことではなかった。
「いて、いててててっ!!おい、何をしやがるんだっ!!」
「黙れ、痴漢」
わたるの声に、周囲の乗客の幾人かが反応する。
「な、何を証拠にそんな……でたらめを言ってんじゃ…」
動揺する痴漢男を、周囲から伸びた腕が拘束する。
そこでようやく、わたるは手を離した。
「その辺は、こいつに聞けばよーくわかるだろ」
そして、今度はその手で、その指先で、男の痴漢行為の被害に遭っていた少女を指差す。
と、その時、わたるのその言葉に答えるように、背中を向けていた少女がこちらに振り返った。
小刻みに震える手の平が、ぎゅっと握った携帯電話が、まず、わたるの視界に入った。
そして、彼は声を上げた。
「あ……お前」
その少女を、わたるは見知っていた。
同じ学校の、同じ学年の、隣のクラスの女子生徒。
ツインテールにまとめた髪と、小柄な体の彼女を、彼はよく知っていた。
音無芽留。
瞳に涙を浮かべ、小動物のように震える足で、彼女はそこに立っていた。
駅に着いて、痴漢に手錠がかけられてから、わたるは警察に延々と話をさせられた。
ようやくそれが終わると、話し疲れてクタクタの彼は廊下にあった長いすにどすんと腰を下ろす。
いつの間にか得体の知れない苛立ちは去って、彼の思考は落ち着きを取り戻していた。
その代わり、置き土産のように後味の悪い自己嫌悪が心の底に滞っていた。
今日の彼の行為は、もちろん彼なりの正義感に基くものである事は確かだった。
だが、その一方で、ここ最近の苛立ちをあの痴漢にぶつけるような感情があった事を、わたるは自覚していた。
頭の冷えた今になってみると、その苛立ちの原因も、何となくわかるような気がわたるにはした。
わたるはおたくだった。
根っからの、硬派のおたくであると、自認していた。
ついでに太っていたし、顔も十人並みにすら届かないひどい代物だった。
当然、モテない。クラスの中でも浮いてしまう。
交友があるのは、わずかなおたく友達ばかり。
それでも、わたるはその事を歯牙にもかけていなかった。
罵りたい奴は好きに罵ればいい。蔑みたいならそうしてくれればいい。
そんな事はこちらの知ったことじゃない。
自分は、ただ自分自身の美学と矜持に基いて生きているだけ、後ろ指を指される謂れなどない。
俺は正しい。
俺はその事を知っている。
だから、どんな悪罵もわたるにとっては痛痒たらない。
その筈だった。
その、つもりだった……。
だけれども、彼はそこに潜む欺瞞に無意識の内に気が付き始めてしまった。
モテない。
それはそうだろう。
浮いている。
まさにその通りだろう。
だけど、それは、わたるがおたくとしての生き方を貫く事と、本質的な部分では関係があるのだろうか?
おたくとしてのこだわりを持ち、自分の信念に従って生きる。
なるほど、言葉だけ聞けば勇ましい。
だけど、自分はこだわりを貫く事を言い訳にしながら、人との関わり合いから逃げていたのではないか。
自分が他人を避けて孤立してしまう事を、おたくとしての生き方と混ぜっ返して誤魔化しているのではないか。
自分の臆病さを、信念の金看板で隠していたのではないか。
思い返せば、わたるは異常なほどにおたくである自分に固執していた。
実のところ、そのためにおたく仲間からすら浮いてしまっている事に薄々気付いていた。
以前、家が火事になった時、燃える家に飛び込んで自分のコレクションを救出した事があった。
あの時、家の2階では妹が助けを求めていたというのに、わたるは気付きもしなかった。
ただ、おたくである自分を守ろうと、それだけを考えていた。
その滑稽なほどの無様さ加減に気付いたのは、火事が消火された後、母親に頬をはたかれた時だった。
それから、徐々にわたるの中に、どうやっても消えないしこりのようなものが出来始めた。
自分の生き方の核となる筈の『おたく』としての自分を、実は逃げの道具にしていた後ろめたさ。
それは、わたるの心を少しずつ追い詰めていった。
時計を見る。
もう事件からは随分な時間が経っていたが、わたるはまだ帰してもらえそうにない。
だが、そんな事も今の彼にはさほど苛立たしい事とも思えなかった。
今は、被害者である芽留が警察に話を聞かれているはずだった。
音無芽留。
わたるは、彼女の事をそんなには知らない。
まあ、そもそも、彼は現実の女性に対して興味を向ける事はほとんどないのだけれど。
わずかに知っているのは、彼女がコミュニケーションの手段として、専ら携帯電話のメールに依存している事ぐらい。
何でも、自分の声が変だと、クラスメイトに馬鹿にされた事がその原因らしい。
わたるも、いつどこでアドレスを知られたのかわからないが、自分の携帯に彼女からの辛らつなメールを受け取った事がある。
【邪魔だどけ、ブタ】だの
【少しは現実を見たらどうだ?キモオタ】だの
好き放題に書かれた記憶がある。
あの時は随分と腹を立てたものだったけれど……
「そうか…あいつには、アレしかないのか……」
痴漢に襲われて、声を必死に絞り出そうとしても、それすら叶わない強固な呪縛。
容赦も遠慮も全くない彼女からのメールだけを見ていると勘違いしそうになるが、多分彼女は誰よりも繊細で、脆い。
メール依存、と斬って捨てるのは容易い。
ガラス細工のような心を抱える彼女が、何とか外界と繋がろうとして、ようやく手に入れた方法がそれなのだ。
まるで自分と逆じゃないかと、わたるは自嘲する。
『おたく』である事を盾に人と関らない自分を擁護するわたると、頼りない機械を片手にそれでも他人と関ろうとする芽留。
憂鬱な自己分析に暗澹としていた心が、彼女のその生き方を思うと少し安らいだ。
万世橋わたる、この偏屈で高慢な、生粋のおたくは音無芽留という少女に少しずつ興味を持ち始めていた。
それからしばらくして、警察との話を終えた芽留が姿を現した。
その顔には、いつもの生意気な笑顔が浮かんでいる。
立ち上がろうとしたわたるのポケットで、ヴヴヴヴヴ、携帯が振動した。
メールが一件。
【よう、キモオタ】
手加減のない挨拶。
【世話になったが礼は言わないぞ。むしろお前に助けられたのが不愉快なぐらいだ。謝罪しろ】
相変わらず、口の減らない……いや、メールの場合はなんて言えばいいのか?
わたるは苦笑して応える。
「ああ、悪かったな。キモオタに助けられて、さぞ気分が悪いだろう」
こういう時、必ず噛み付いてくる人間だと、わたるを認識していた芽留はいささか面食らったようだった。
気味の悪いものでも見るかのような目でわたるを見ながら、メールをもう一件。
【わかってるなら、さっさとオレの前から消えろ。それとも、そこまで頭が回らないか?】
「悪いけれど、警察にまだ帰れと言われてない。少し我慢してくれ」
淡々と、わたるは言葉を返す。
質問の答えよりも、その態度に納得がいかないらしく、芽留はさらに気味悪そうな目でわたるを見る。
わたるは、どんなメールを受け取ろうと怒る気はなかった。
芽留の、彼女のあり方の一端に触れて、そんな気など起ころう筈もなかった。
ともかくも、いつも通りの辛らつなメールと、不遜な態度を見て、わたるはひと安心した。
列車の車内で見た彼女の様子はとても尋常なものとは言えなかったが、これならば……。
わたるは再び、長椅子の端っこに腰を下ろす。
すると、芽留は彼を避けるように長椅子の反対側の隅に腰を下ろした。
「…………ふぅ」
二人の間に、それ以上言葉のやりとりはなかった。
わたるのため息がやけに大きく響く、それぐらいの沈黙。
僅かに聞こえるのは、芽留がカチャカチャと自分の携帯を操作する音だけだ。
恐らく、親か友達か、誰かにメールを使って現状の報告でもするのだろう。
わたるは、その作業を横目でしばらく見つめてから、そこから視線を外そうとする……その時だった。
「………ん?」
違和感に気付く。
芽留の、携帯のボタンをカチャカチャといじるその手の平が、さっきから同じ動作ばかりをしているように見える。
打ち損じて、消去して、また打ち損じて、また消去して……
繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し……
その指の細かな震えに、わたるはようやく気が付いた。
(何がひと安心だ……これじゃあ…)
わたるが気付くまで、芽留はどれだけの間、あの痴漢の好きなようにされていたのだろう?
それがたとえどんな短い時間だったとしても、彼女にとってはまるで永遠の拷問のようだったろう。
そして今、危機こそ脱したものの、今も薄暗い廊下で彼女の味方となる人物は一人としておらず……。
何か、何かしなければっ!!
わたるの心は焦る。
だが、何が出来る?
わたるは芽留にとってはほとんど他人で、信用できる人物ではない。
むしろ、嫌悪の対象であり、近寄るのもはばかるような唾棄すべき存在で、そんな存在からの慰めなど彼女にとっては……。
(……って、俺は何を考えている!?)
それは、さっき自己分析して、さんざんこき下ろした、わたる自身の怯えに過ぎないではないか。
何が出来る?
何かが出来る!!
恐れるな、万世橋わたるは自分の生き方を持った一端の男、誇るべき『おたく』だろう?
震える手の平を見つめる。
それは、ちょうど今の芽留と同じだ。
彼女は必死で耐えて、堪えているぞ。
さあ、自分には何ができる?
「……………」
わたるが立ち上がる。
その気配に気付かないのか、芽留は携帯との格闘をずっと続けている。
わたるが、芽留の間近まで近づいて、ようやく彼女は顔を上げた。
その、彼女の頭に、ぽん、優しく、大きな手の平がのっけられた。
わたるの手の平。
伝わるぬくもりからは、芽留をいたわろうと、慰めようとしてくれているように感じられた。
ぽろり。
ぽろぽろぽろ。
芽留の頬を、いくつもの雫が流れ落ちて跡を作った。
「………っあ………うあ…あぁ……」
彼女の口から漏れた、かすかな嗚咽。
わたるが膝をつくと、芽留は彼の肩に顔を埋めた。
大量の涙と鼻水が、彼の肩を汚す。
(ひでぇな、人の服だと思って容赦のない…)
なんて考えながらも、わたるは芽留の頭を撫で続けてやる。
自分が芽留の縋り付く藁ぐらいにはなれた事に、内心ほっとしていた。
と、その時、ヴヴヴヴヴ。
「………ん?」
メールが一件。
芽留からのものだった。
文面はただ一言だけ
【ありがとう】
わたるは苦笑する。
「この体勢で、涙でろくに目も見えないだろうに、器用なもんだな……」
それからしばらくの間、自分の肩をほとんど雑巾がわりにされながら、わたるは縋り付く芽留の頭を撫でていた。
そして、数日後。
芽留のあり方に何かを感じたところで、はみ出し者のおたくの生活が変るはずもない。
わたるはぼんやりと窓の外を眺めながら、昼休憩を孤独に過ごしていた。
ただ一つ、変った事があるとすれば……
「……ん?」
ヴヴヴヴヴ。
携帯が震える。
メールが一件。
文面には、悪辣で容赦のない言葉が踊る。
【よう、キモオタ、生きてるか?】
余計な仏心を起こして、性悪娘を助けたせいで、わたるの携帯には悪罵に満ちたメールが時折舞い込むようになった。
わたるは、面倒くさそうに携帯のボタンをいじり始める。
さて、どんな返信を返してやろうか。
口汚く罵るしか能のないあの娘に、ひとつ気の利いた皮肉でも返してやろう。
教室の隅っこで、携帯の画面を見つめながら、万世橋わたるは心底うれしそうに、ニヤリと笑ったのだった。