「死んだらどーする!?」
いつもの教室。いつものように死のうとする担任教師。
いつものようにスルーする、どころか無意識のうちに後押しする生徒達。そしていつものように半泣きで叫ばれるお決まりの台詞。
『ちょw担任涙目wwwww9m(^д^)プギャー』
「ああっ、またこんな毒舌メールがっ!?絶望した!落ち込んだ背中を更に踏みつける中傷社会に絶望した……っ!!」
「先生、絶望するのもいいですけど、いい加減きっちり授業して下さい。」
「そうだよ、こっちは授業料払ってるんだから。契約不履行で訴えるよ」
携帯を片手に俯いて肩を震わせる望だが、千里とカエレの呆れたような声にぐわばっと勢いをつけて振り返る。
「何なんですか貴女方!いくら何でも冷たくありませんか!?
もうちょっとこう、心配する気持ちとか、ないんですかそういうの!!」
ばん、と教卓を叩きながら叫ばれた言葉に、生徒達が一瞬顔を見合わせる。
「だって先生がかわいそぶるの、いつものことだし」
「もう一々心配してられないって言うか慣れちゃったって言うか、そんな感じですよぉ」
あびると奈美が口々に言うのを聞いて、男の癖に妙に細い肩が僅かに震え、
「――っせ、生徒達の思いやりのない態度に絶望したあぁぁぁぁっ!!」
わっと叫びながら教室を飛び出していってしまう担任に、一同の口から一斉にため息が漏れる。
「あーあ、結局今日も自習か」
「珍しく途中まではまともに授業になってたのにな」
教科書を机の中に仕舞いながらぼやく青山と芳賀の言葉に、晴美が
「ま、いいんじゃない?ここまで含めていつもの流れなんだし」
と応えながら机の上にうつぶせになる。奈美が顔を引き攣らせて呟いた。
「こんなんじゃ今年も留年なんじゃないかな、私達……」
『ジョーダンじゃねーぞ!ふざけんなよこのハゲ!そろそろ進級させろ!!』
「すいません!私が先生をお止めしなかったばっかりに皆さんの貴重な授業時間を奪ってしまってすいません!!」
いつものように大騒ぎの始まった教室の中で、その輪の中に加わろうとせず、こっそり教室を出て行った少女が1人。
そのことに何故か誰も気付かないのも、また2のへ組のいつもの光景だった。
秋の空は恐ろしく高く見える。そんなことを考えながら、吹き付けてきた冷たい風に1つ身震いをした。
ああ、もうすぐ冬なのだな。そう思わせる空気を大きく吸って、吐き出し、ぼんやりと屋上の手すりにもたれかかって
街並みを見下ろす。
「いいお天気ですね。何だか素敵なことが起こりそうな、そんな日じゃないですか」
唐突に背後から聞こえてきた声に、振り向かないまま応える。
「素敵なことなんて何も起こりませんよ。どれだけ期待しても何もないまま、昨日と同じように絶望的な1日が終わるだけです」
「そんなことありません。今日と言う日はまだ見ぬ希望に満ち溢れています」
「それは永遠に見えません」
「いつかは必ず見えます」
ああ言えばこう返ってくる言葉に、いい加減うんざりしたように振り返った。少し離れたところに立っている
可符香が浮かべているにこにことした笑顔に、思わず顔をしかめる。
「何ですか貴女。さっきの教室では私がどんなに死のうとしてもスルーなさってたくせに今更」
「だって、ここまでやって来たのに誰も追いかけて来てくれなかったら、もう先生すんすん泣きながら不貞寝でもして
時間潰すぐらいしか出来ることないじゃないですかあ」
「例えが具体的過ぎませんか!?」
「嫌だなぁ、先生の行動パターンを的確にトレースしてみただけですよぉ」
フォローするつもりもないらしい可符香の答えに、最早何も言う気になれずそのまま空を見上げた。
「……授業、途中でしたね」
「嫌だなぁ、いつものことじゃないですか」
即座に返ってきた言葉に沈黙することしばし。
「……智恵先生に怒られますね」
「嫌だなぁ、それもいつものことじゃないですか」
即座に返ってきた言葉に更に沈黙することしばし。
「……皆さん、ちゃんと自習してますかね」
「嫌だなぁ、皆こんなの慣れてますから大丈夫ですよ」
「貴女、私を元気付けようとしてるのか叩き落したいのかどっちなんですか」
視線を少女に戻してぼやくが、可符香は口元に手を当ててニャマリ、と人の悪い笑みを浮かべてみせる。
「そんなに心配なら教室へ戻りましょ。まだ授業中ですよ、先生」
う、と言葉に詰まる。
「……それは、ちょっと……」
ごにょごにょと言いながらその場に座り込む。ひんやりとしたコンクリートの感触にぶるりとしながら可符香を見ると
軽やかな足取りでこちらに近付いてきた。そのまま隣に立ち、先程までの望とそっくりのポーズで
遠くまで広がる街並みを見つめている。
「教室、戻りづらいですか?」
「……あれだけ派手に飛び出して来たんですから、それはそうですよ」
自分の膝を抱えながら呟く。
「それだけですか?」
予想外の問いかけに心臓が跳ねた。
「先生、皆から逃げてませんか?」
頭を跳ね上げて見上げた可符香の横顔は、いつもと全く変わらない笑顔のまま。
「今年いっぱいで学校を辞めて蔵井沢へ帰ること、皆に言わなくていいんですか?」
何も読み取れない笑顔のまま、ただ遠くを見つめていた。
「――どうして」
呆然とした声が望の口から漏れる。
「どうして、貴女がそのことを知っているんです?」
瞬きすら忘れたように少女の横顔を凝視する望の質問に、答えは返ってこない。
まだ本当にごく一部の教員しか知らない、霧に伝わるとまずいと思って交にすら伝えていないその話を、何故彼女が。
いや、確かに彼女は訳の分からない人脈や情報網を持ってはいたが、それにしたって。
「ちゃんと言った方がいいと思います。千里ちゃんとかまといちゃんとか霧ちゃんだけじゃなくて、
皆先生がいなくなったらそれなりに寂しいと思いますし」
「それなり……ですか」
こういう時にまでいちいち引っ掛かる物言いに、僅かに肩を落とす。こちらを見ようとしない少女から目を逸らして
言い訳がましく口を開いた。
「一応まだ決まったわけではないんですよ。確かに戻って来いと実家には言われていますけど
私だって職を持っていてそれに対して責任があるんですから、投げ出して帰れませんし……。
ですから今いろいろと時田を通じて話し合っている最中で、どうしても帰らなければいけなくなってから
皆さんにはお話しようと――」
「先生」
早口でまくしたてる言葉を遮る、静かな一言。
「ちゃんと言った方がいいと思います」
少女は、決してこちらを見ようとしない。
「もう、ほとんど決まってるようなものじゃないですか」
いつもと全く変わらない、何も読み取れない笑顔のまま。
「学校を辞めて蔵井沢に帰って――結婚するんですよね?」
ただ淡々と、まるで心を読むように、残酷な真実を口にする。
実家に帰れ。結婚しろ。相手はもう選んである。
ことごとく命令形の実家からの連絡に、驚きと戸惑いと怒りとをごちゃ混ぜにして父と連絡を取ったのが先月のこと。
いつまでも子供扱いはやめて欲しい――そう主張しようとした父との会話で初めて気がついたのだ。
子供扱いなど、自分はとっくにされていなかった、と。
だからこそ父は実家に戻って結婚し――糸色家の後継として働くよう命じてきたのだ、と。
兄達や妹のように相続を放棄しておかなかったことを、どれほど悔やんだことか。
土日には直接蔵井沢へ足を運んで両親と話し合った。それ以外の日には時田や倫に間に入ってもらって
電話や手紙で自分の今の仕事のこと、糸色家の後継となるつもりはないということ、自分の知らぬ相手との結婚など
するつもりはないということをこんこんと伝えた。
だが――どこかで分かっている自分がいた。
自分がしていることは、蜘蛛の巣に囚われた蝶が最後の足掻きに必死で羽を動かしているようなものだ。
糸色という家に対して自分はあまりにも無力すぎる。
結局最後は父の言うとおり実家に帰って、見知らぬ伴侶と共に、糸色という家を継ぐしかないのだ――
冷たい風が望の髪を揺らした。
先程から街並みを見つめたまま人形のように動かない少女を、のろのろと見上げる。
「――だから、言ったじゃないですか」
素敵なことなんて起こりはしない。素敵なことなんて、何1つとして、起こりはしない。
どれだけ期待してもどれだけ抗っても何もないまま、昨日と同じように絶望的な1日が終わっていく。
きっと、明日も、そのまた明日も。
それは――なんと恐ろしいことか。
「希望なんて永遠に見えません――少なくとも、私には」
吐き捨てるように言って、再び膝を抱える。
何もかもをポジティブに考える怖いもの知らずのこの少女にはきっとこの恐ろしさは分からないだろうけど
それでも、言わずにはいられなかった。
「戻りたくもない家に戻って、好きでもない人と結婚するなんて、そんな日々に」
かわいそぶりでも何でもなく、自分は今こんなにも、
「希望なんて、あるわけないじゃないですか――」
絶望しているのだ、と。
「逃避行、しちゃいましょうか」
「は?」
思わず眉をひそめると、くるりとこちらに向き直った可符香が夢見るような表情で身振り手振りつきで言った。
「嫌な結婚から逃げるために、2人手と手を取り合ってどこまでも逃げていく、とか、お約束じゃないですか」
「まあ、王道と言えば王道ですけど……」
そういうのって、普通は愛し合う2人がするものじゃないんですか。
言いかけたところで至近距離から顔を覗きこまれて慌てて口をつぐむ。
ひょいとしゃがみ込んだ少女の小さな手が自分の手に触れる。ひやりとした冷たい感触に思わず体を震わせた。
クロスした髪留めが陽光を反射し、すぐ間近できらりと光る。
少女の丸い大きな瞳に映った自分と目があった。目を逸らすことも、目を閉じることも許されない。そう思ったのは何故だろう。
いつも前向きに、あるいは何かを企むように笑う彼女が――妙に真顔だったからだろうか。
「先生、私と2人で行きませんか?」
どこへ。
どうやって。
どうして、私と貴女で。
そういうのって、普通は――
「こういうのって、普通は愛し合う2人がするもの、ですよね」
くすりと唐突に笑われて、は、という気の抜けた声が漏れた。
身軽に立ち上がって、固まったままの望に背を向けてすたすたと屋上の扉に向かう少女に向かって
何か言おうと慌てて立ち上がりながら口を開きかけたときを狙ったように、芝居じみた仕草で可符香が振り向いた。
「分かってますよ。先生、そんなことができるぐらいならチキンの汚名も返上してるでしょうし」
「……………」
「先生がいなくなっちゃったら、先生のご両親もお兄さんたちも倫ちゃんも、みんな悲しんじゃいますもんね。
先生、優しいから……だから、逃避行なんて先生には無理ですよ」
彼女が空を仰いで笑いながら言うその言葉が妙に胸を刺すのは――何故だろう。
何かを言いたいのに、何と言ったらいいのか分からない。
ただ、冷たい風が可符香の髪とスカートを揺らしていくのを見ていた。
高い、どこまでも落ちていけそうなほど高い空を見上げていた少女が、ゆっくりとこちらに向き直る。
「先生」
その微笑を見て、気付いてしまった。
「いつか希望が見えたら、また私に会って下さい」
嗚呼、絶望などこの少女は最初から知っていたのだ――と。
きっとこの少女の言う通りなのだろう。
自分は糸色という家を、家族を捨てて逃げるなんてこと、できはしない。
自分の弱さに言い訳をして、期待することも抗うことも諦めたまま、昨日と同じように絶望的な1日が終わっていく。
きっと、明日も、そのまた明日も。
だから。
「――希望なんて、私には永遠に見えないでしょうから」
掠れた声は何とか届いたようで、少女が僅かに小首をかしげる。
大きく息を吸って――泣きそうに震える声を、必死で落ち着かせた。
「――来世で。来世で、また会いましょう」
こんな頼りない約束でも、自分と彼女の『まだ見ぬ希望』の1つになってくれるのだろうか。
「――はい、先生。また来世で」
ゆっくりと頷いた可符香の笑顔がほんの少し歪んで、何故だかそれを見たくなくて、咄嗟に空を見上げる。
また、来世で。
口の中だけで呟いた約束が高い青空に吸い込まれて落ちていくのが、見えた気がした。