さざ波ひとつない水鏡のような静寂の中に、私は足を踏み入れる。  
見慣れた机、見慣れた椅子、見慣れた黒板。  
いつも通りの教室が月の明かりに照らされて、いつもとは違う色の中に沈んでいる。  
まるで忘れ去られた遺跡にいるような、不思議な気分。  
カツコツ、と私が僅かに立てる足音も、水面に起こした波紋がいつかは拡散して消えるように、周囲の静寂に飲み込まれていく。  
私は静かに椅子を動かして、いつもの自分の席につく。  
「風浦さん」  
「可符香ちゃん」  
「あはは、可符香ちゃん」  
「ねえ、風浦さん」  
「よう、風浦」  
「やあ、風浦さん」  
目を閉じれば聞こえてくる。  
この学校で、同じ時間を過ごす大切な友人達の呼び声。  
そして、喧騒に満ちたこの場所の真ん中にいつもいるあの人の笑顔。  
「先生……」  
呟くと、あたたかな気持ちが胸に広がっていく。  
自他共に超ポジティブと認める私にだって、胸が締め付けられるように苦しくて、眠れなくなる夜がある。  
自分の背後にぽっかりと開いた穴の深さに、一人きりの布団の中で震えるしかない時がある。  
でも、やっぱりポジティブシンキングが私の取り柄。  
悪い事ばかり考えてしまう時には、楽しい場所に行けばいい。  
誰もいないこの教室は、だけど、今の私の幸せの象徴で、中心だ。  
ただこの教室に、この席に座っているだけで、私の胸の内に溢れ出てくる様々な想い。  
それは今まで体験してきたみんなや先生との幸福な思い出であり、  
これから待っているであろうみんなや先生と一緒の未来への予感だ。  
ここにいて、ただその想いに身を委ねていれば、暗い気持ちなんてすぐにどこかに行ってしまう。  
「……………」  
だから、今私の頬を流れ落ちた熱い雫の感触は嘘っぱちで、  
自分の体をぎゅっと抱きしめていなければどこかに吹き飛ばされてしまいそうなこの体の震えも当然偽物だ。  
「大丈夫、私は幸せなんだから……」  
ちょっと暗い気持ちになる事ぐらい、誰にでも良くある事。  
それは私も例外じゃないけれど、それに囚われ過ぎるのは決して利口な事じゃない。  
ポジティブに、明るく、楽しく。  
そんな想いで心を満たしてくれるだけのものを、私は今の生活から得ているのだから。  
「…あ…うあ……うわあああああああん……っ!!!」  
大丈夫、これは、この涙は一時だけのもの。  
大丈夫。  
大丈夫。  
大丈夫。  
ぼろぼろと、顔を濡らす涙や鼻水、みっともなくてみんなには見せられないな。  
だけど、時には素直に感情を吐き出すのも大切な事だと、どこかで聞いた事もある。  
だからこれは大丈夫なんだ。  
私の幸せに必要な、ごく当たり前の事。  
だけど。  
だけど、もし、吐き出しても吐き出しても止まらない涙が、今の私を形作る全てなのだとしたら……。  
私の心を満たしているのは、このみっともなくて惨めな涙だけを満々と湛えた湖なのだとしたら……。  
足元が崩れていくような、とてつもない恐怖が私を飲み込む。  
「寒いな……」  
私の心が涙の湖の底に沈んで消えていく。  
そう思った、そんな時だった。  
「…………あ…」  
温かい手のひらが私の頬を拭って、私は顔を上げた。  
「だ、だ、だ、大丈夫ですか!?」  
耳に馴染んだ優しい声。  
明らかに私を心配して動揺しているその声音のおかげで、その人が今、どんな表情をしているのか、  
涙で霞んだ私の目でも、簡単に想像する事が出来る。  
「どうしたんです、あなたは?こんな時間に学校で……」  
言いながら、柔らかいハンカチが私の顔を拭う。  
 
そのハンカチを、まだもう少し涙の止まらない私に渡して、その人は私の顔を覗き込んだ。  
「…せんせい……」  
ようやく涙を拭い去った瞳で、私は先生の心配そうな顔を見つめる。  
「本当にどうしたんです?何かあったんなら、私が相談に乗りますよ?」  
ああ、やっぱりこの人は、先生は優しいな。  
でも、その問いかけはちょっと答えるのが難しい。  
「何でもないですよ、先生……」  
「…な、何でもないのにあんなに泣く人がいますか!?」  
ほら、本当の事を言ったのに信じてもらえない。  
だから、私はいつもの笑顔をゆっくりと思い出しながら、こう答えるのだ。  
「本当に何でもないんです。何でもないのに、こうなっちゃうから困ってるんです……」  
私のその言葉に、先生はどうしても納得がいかないようで、でもどう言葉を返していいかわからなくて、結局辛そうに沈黙する。  
だから、私はそんな先生を元気付けてあげたくて、いつものような軽い調子で話しかける。  
「それより、これもいつもの私のいたずらかもしれませんよ。油断してていいんですか、先生?」  
「教室に入ってきた私に気付かないぐらい本気で泣いてたのに、それはないでしょう?」  
「気付いてないふりをしてたのかもしれませんよ?」  
「それでも、泣いているあなたを放っておくより、こうした方が百万倍ましです」  
生真面目に答えた先生のその言葉に、私の胸の奥が震えた。  
「さあ、宿直室に行って何か甘くて温かいものでも飲みましょう」  
そう言って、先生は私の肩を抱いて、ふらふらの私の体を支え起こす。  
先生の腕の中、その温かさに包まれた私の瞳からは、完全に涙は消えていた。  
たまらなく優しいぬくもりに包まれたこの場所で、私は再び思う。  
先ほどまで頬を濡らした涙は、仮初めのものに過ぎないと強く確信する。  
「私は時々不安になるんですよ。いつも明るく笑っているあなたの笑顔の影に、なんだかとても悲しい何かがよぎるような気がするんです」  
だから、私は先生の心配そうなこんな言葉に、強い自信を持ってこう答えるのだ。  
「いやだなぁ、先生。私は今、とっても幸せですよ」  
なぜならば。  
あなたが傍にいてくれるのなら、どんな恐怖も悲しみも、私に毛筋一本ほどの傷も負わせられないのだから。  
あなたの傍にいる限り、私の胸の奥にはどんな強い風でも消せない、暖かな炎が宿り続けるのだから。あなたは知っていますか?  
あなたがいる限り、私はこの先ずっとどんなものにだって負ける事は有り得ないんだって。  
先生。  
先生。  
先生。  
臆病な私の、素直に伝える事すら出来ないこの想いがある限り、私は絶対に幸福なんです。  
「さあ、行きますよ」  
私を支える先生の腕に、ぎゅっと力がこもるのを感じた。  
その優しい感触に身を委ねて、先生と一緒に、私は宿直室に向かって歩き出した。  
 

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