「先生、どこ行くんですか?」  
「ん?ああ、あなたですか。こんな所でめずらしいですね」  
背後から呼びかけた私の声に、ゆっくりとこちらに振り返った先生が答えた。  
右手に鞄を提げて、外套を羽織った先生は、どうやら路面電車が来るのを待っていたようだ。  
「荷物、結構大きいですね。どこか遠くに行くんですか?」  
「あなたこそ、随分めかしこんで、どうしたんですか?」  
先生が私の服装を見て、そんな事を問いかけてきた。  
今の私は、振袖に袴姿の、まるで大学生の卒業式の時みたいな格好だ。  
「そういう気分なんです。似合ってますか?」  
「ええ、とても似合っていますよ。でも……」  
「えへへ、似合ってるんですね」  
先生が何か言いかけたようだったけれど、私は先生の次の言葉も待たずくるくるとその場で回って見せた。  
袴姿を褒められた事が嬉しかったのだ。  
「ちゃんと話を聞いてくださいよ〜」  
そう言って口を尖らせる先生に、私は言い返す。  
「先生だって、私の最初の質問に答えてないじゃないですか?その大きな荷物、何なんですか?遠くに行くんですか?」  
「こ、これはですねぇ……」  
先生が言いよどんでいる内に、いつの間にか路面電車はもう間近に迫っていた。  
「先生、時間がないですよ。早く答えてください」  
「あの…その……実は……」  
「ほら、言ってる内に電車が来ちゃいます」  
路面電車は私たちの前で停まり、乗降口の扉が開いた。  
「……………場所を、探してたんですよ…」  
「……?…何の場所ですか?」  
「………………………自殺するための…場所です…」  
先生が鞄の中身を開いて見せた。  
大量のクスリと、縄と、練炭と、カミソリと、そして『遺書』と書かれた封筒。  
「思い立ったらすぐに自殺を実行できるように、持って来たものです」  
先生がバツの悪そうな顔で笑った。  
「……自殺スポットの探索ですよ。こんなご時勢、なかなかいい場所も見つかりませんしね」  
先生はそう言って、そのまま路面電車に乗り込む。  
「せっかくの休日ですからあなたも有意義に過ごすんですよ。………それでは、さようなら」  
乗降口の扉が閉まる寸前、私は思わず、足を前に踏み出していた。  
「先生……っ!!」  
プシュー。  
音を立てて扉が閉まる。  
「…先生…置いてけぼりはひどいですよ……」  
その時には、私は先生の着物の袖を引っ張って、車内に乗り込んでいた。  
 
「な〜んで、あなたがついて来ちゃうんでしょうねぇ」  
「だって、楽しそうじゃないですか」」  
私と先生を乗せて、路面電車はのんびりと走る。  
「楽しかないですよ。自殺スポット探しなんですよ」  
隣同士の席に座って、先生は仏頂面で私を睨んで言う。  
「この世界と、自分自身に絶望して、死に場所を求めてさすらうんです。楽しいわけないじゃないですかっ!」  
「いやだなぁ、先生が自殺する筈ないじゃないですか」  
先生が真面目な口調で語れば語るほど、なぜだか私は可笑しくなって、くすくすと笑いが漏れてしまう。  
「先生みたいな立派な教育者が自殺なんてする筈ありませんっ!!  
むしろこれは今後起こりうる生徒の自殺を防ぐための事前調査なんですっ!!」  
「人の目的、勝手に決めないでください〜ぃ」  
先生と私が言い合っている間にも、路面電車は進む。  
信号待ちを抜けて左折、周囲を一際高いビルに囲まれた一角に入る。  
「次で降りますよ」  
 
というわけで、立ち上がって財布を取り出した先生。  
私も財布から運賃を取り出そうとして  
「ああ、私が払っときますから」  
先生にその手を止められる。  
二人分の運賃を先生が払ってから、私たちは路面電車を降りた。  
「先生、ありがとうございます」  
「まあ、あなたが勝手について来たんですけど……学生の財布の中身は知れてますからねぇ」  
私がにっこり笑顔で見つめると、先生は照れた顔をしてそう言った。  
「ところで先生、ここにはどんな用があるんですか?」  
「周りを見てわかりませんか?」  
先生に言われて、周囲を見渡す。  
「周り、ですか……?」  
「高いビルがたくさんあるでしょう」  
周囲に立ち並ぶ大きなビルの数々、それが先生の目当てらしかった。  
「ここでは、飛び降り自殺スポットの探索をしてみたいと思います」  
 
先生と並んで、ビルの間を歩く。  
たくさんの人が行き交う中、しっかりと先生の隣をキープしている事が、何気に嬉しくて、私の足取りは軽くなる。  
「半端な高さで飛び降りをすると、かえって死に切れずに苦しむだけですからね。  
その辺りを考えると、この辺のビルぐらいの高さはないといけません……」  
一方の先生はそんな事を呟きながら、一つ一つのビルを値踏みするように見比べては、首をひねっている。  
思案顔でうんうんと唸り続ける先生に、私はにっこりと微笑みかけて言う。  
「さすが先生、研究熱心ですね」  
「ふふふ、この道に関しては私は余人の追随を許さないこだわりを持っていますからね」  
「それでこの歳になるまで生き残ってきたわけですねっ!!」  
「…………うっ!!」  
私の言葉に絶句した先生。  
私はその手を掴んで、  
「それじゃ、先生、取り合えずあのビルに入りましょう!」  
「えっ?…ちょ…あなた…」  
「下からだけじゃなくて、上からも見た方がいいですよ。飛び降りるときはビルの上からなんですから」  
戸惑う先生をぐいぐいと引っ張って、手近なビルの入り口に向かう。  
「そ、そのビル、部外者が入ってもいいんですか?」  
「さあ?」  
「『さあ?』って……っ!!」  
騒ぐ先生の言葉は無視して、私はずんずんと進んでビル入り口の扉を勢い良く開け放つ。  
そして、そのままズンズンと奥へ進んで行こうとすると、部外者である私たちの前に当然の如く警備員が立ちふさがる。  
「困りますね。勝手に入って来られては…」  
だけど大丈夫。  
私はその警備員の耳元にそっと囁く。  
「           」  
たった一言、それだけで警備員は私が何者か、それを悟ったようだ。  
「なっ!?…あ…し、失礼しましたぁ!!」  
真っ青になって、私たちに道を譲った警備員を見て、先生が驚く。  
「何を……言ったんですか?」  
「さあ、何でしょう?」  
私の袖を引っ張り、何度もそう尋ねてくる先生をはぐらかして、エレベーターに乗り込んで最上階に向かう。  
そこから階段を登り、屋上に出るドアの前に。  
「ほら、着きましたよ。先生」  
ドアを開けると、その向こうには街の上に広がる青空が見えた。  
冬の澄み切った空気の中で見る空は、どこまでも高くて、見上げているとそのまま落ちていきそうな錯覚を覚える。  
先生も私も無言のまま、しばしその青空に見とれる。  
「きれいなものですねぇ……」  
「そうですね」  
先生はつかつかと屋上の端まで歩いて、そこから下を見下ろす。  
「高さはやはり申し分ないですが、上から見ると、思っていた以上に人通りが多いですね。  
 飛び降りたはいいけれど、下の通行人を巻き込んで激突した上、自分だけが生き残る。  
そんな事になったら目も当てられないですからねぇ……う〜ん…」  
ぶつぶつと呟く先生の横で、私も下を見下ろす。  
 
一瞬、くらっとなるほどの高さ。  
確かにこんな所から人が降ってきたら、下の人もたまらないだろう。  
「まあ、そんなに悩まなくてもいいんじゃないんですか、先生?」  
「悩みますよっ!自分の死に場所なんですから、慎重に決めないと」  
「いやだなぁ、先生」  
眉間に皺を寄せる先生に、わたしはにっこりと微笑みかける。  
「こぉんな良い天気の日に、死のうとする人がいる筈無いじゃないですか!!」  
「こういう日こそ、死ぬには良い日って、そう考える事もできますよ」  
ぶすーっと脹れた子供みたいな表情で私を見る先生と、それを見つめ返す私。  
そのまましばらく無言で見詰め合っていたけれど、不意に先生はふう、とため息をついて……  
「ま、まあ、ここで死ぬのはやっぱり場所的に微妙みたいですからね。まわりの迷惑になるような自殺は私も嫌ですし……」  
困ったように、笑ってみせた。  
「それじゃあ、次の場所に行ってみますか」  
「はい、先生!」  
そんな先生の笑顔がなんだかとても嬉しくて、屋上のドアへと戻る先生の後ろを、私はほとんど跳ねるような足取りでついて行った。  
 
再び路面電車に乗って、次にやって来たのはとある公園だった。  
「ここです」  
「うわぁ」  
ビルとビルの合間に、そこだけは芝生や常緑樹の緑に囲まれていた。  
「こんな所に公園があったんですね!!」  
「ここには首を吊るのに最適な、枝振りの良い木がたくさんありそうですからね。以前からチェックしたかったんです」  
のんびりと、休日の公園を歩いていると、色んな人とすれ違う。  
散歩に来た老夫婦。犬とその飼い主達。追いかけ合って遊ぶ子供達。それを見守る母親、父親。  
みんなが思い思いに、良く晴れた休日のひと時を楽しんでいた。  
先生は公園に植えられている木を、一本、また一本と値踏みするように見比べながら、その中を進んでいく。  
「う〜ん、どれも今ひとつピンときませんね……」  
気に入る木が見つからずに唸る先生。  
「じゃあ先生、あれはどうですか?」  
そんな先生に私が指で指し示したのは……  
「あ、あれって………」  
「いい枝ぶりじゃないですか」  
今歩いている場所からだいぶ離れた所に、一本だけ飛びぬけて背の高い木が聳え立っていた。  
「いや、ちょっとアレは無理なんじゃ……」  
「大丈夫ですっ!!先生ならきっと楽勝ですよっ!!」  
嫌がる先生を引っ張って公園を走り抜ける。  
目で見た以上に距離が離れているらしく、走っても走っても、目標の木は見えているのに、なかなかその場所にたどり着けない。  
ようやく木の根元にたどり着いた時には、先生も私もぜえぜえと息を切らしていた。  
「…はぁはぁ…どうですか?これだけ立派な木なら先生も満足して…」  
「…ぜぇぜぇ…っていうか、枝の位置、めちゃくちゃ高いじゃないですか!!  
無理ですよ、あんな所まで登れませんっ!!首吊りするならもっと低い……って、あなた何をして!?」  
先生が木を見上げて文句を言っている間に、私は木の幹に取り付いて上へ上へと登り始めていた。  
「ほら、先生、結構いけますよ。幹の表面がゴツゴツしてるから、以外に登りやすいですっ!」  
「ちょ、待ってください危ないですよっ!その袴も一張羅でしょう?破れたり汚れたりしてもいいんですか?」  
先生はどんどん上に登って行く私を、しばらく下の方からオロオロと見ていたが  
「ええいっ!あなたという人はっ!!…仕方がないですねぇっ!!!」  
鞄を地面に置いて、外套を脱いで、先生も木の幹に取り付いた。  
ひ弱な先生は、少し登るのにも苦労しながら、それでもだんだんと木の上に登って行く。  
私は下をチラリと見て、そんな先生の必死な表情を盗み見る。  
たぶん、先生は私を心配する気持ちに後押しされて、怖いのを我慢して登ってきているのだろう。  
私は知っている。  
先生は、本当に優しい人なのだ。  
先生の眼差しは、先を登る私だけを捉えて、他のものには目もくれない。  
 
それが嬉しくて、くすぐったくて、私はこっそりと笑った。  
「うん、ここの枝なら太くて大丈夫そう」  
ある程度の高さまで登った私は、幹から生えている太い枝の一本に手を掛けて、その上に移動する。  
枝の上に腰掛けると、私と先生がここまで走ってきた道が見渡せた。  
「せんせーいっ!先生も早くこっちに来てくださいよ。いい眺めですよぉ!!」  
「ちょ…ま…そんな急かされても、私、無理ですからっ!無理ですからっ!!」  
先生は落ちないように必死に幹にしがみつきながら、ジリジリと登ってくる。  
そして、ようやく私の座る枝まで、先生の手が届こうとしたとき  
「ほら、先生、もう少しですよ」  
私は登ってくる先生に手を差し伸べた。  
あと少しの高さを、少し手助けしてあげようという、ほんの軽い気持ちからの行動だった。  
だけど……  
「あれ…!?」  
先生と私との間の距離が意外と離れていたので、私は少し身を乗り出す形になった。  
その時、ぐらり、空が、地面が傾いた。  
自分が高い木の枝の上に、大した支えもなしに座っていたのを忘れていた。  
私の体は、私の意志とは関わりなく、重力に引っ張られて傾いてゆく。  
そして、次の瞬間には、私の体は枝から離れ、宙に放り出されていた。  
「………あ、危な…っ!!?」  
ようやく枝に取り付いた先生の顔色が、真っ青に変わるのが見えた。  
(あ…落ちる…)  
周囲を流れる景色は、全てスローモーションだった。  
さっきまで自分が登っていた木の幹が、木の枝に座って眺めていた公園の風景が、逆さまになってゆっくりと流れていく。  
そして、木の幹を蹴って宙に踊り出し、必死に私に手を伸ばす先生の姿も、  
同じようなスローモーションで、私の瞳に映っていた。  
(えっ!…先生っ!!?)  
そこでハッと気が付く。  
なんで、先生の姿が落ちている筈の私に向かってくるのか……  
「ええいっ!!!」  
先生の叫ぶ声が聞こえて、私は先生の腕の中に包まれた。  
そして次の瞬間、まるで魔法が解けたようにスローモーションの時間は終わり、私たちは地面に叩きつけられた。  
ズンッ!!とお腹の底に響くような衝撃が、体を突き抜けた。  
だけど、先生に守られた私の体は、直接何かにぶつかるという事はほとんど無かった。  
「いたた……あっ…先生っ!!」  
先生が庇ってくれた事を思い出し、私は体を起こした。  
先生は私の体の下で、落下の衝撃にうめいていた。  
「先生っ!!大丈夫ですか、先生っ!!」  
「あっ…ああ……どうやら無事だったみたいですね…」  
私が呼びかけると、先生はかすれた声で答えてくれた。  
「心配…しないでください……痛いのは痛いですけど…特に怪我はしていないみたいです…」  
痛みに顔をしかめながら、先生が起き上がる。  
「土も柔らかかったし、芝生が衝撃を吸収してくれました」  
「よかった……」  
私は、先生の無事にホッと胸を撫で下ろす。  
「あなたも怪我がなくて良かったですよ……」  
先生はそう言って、優しく微笑んだ。  
その笑顔を見たとき、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を、私は感じた。  
頬が少し熱くて、頭がぽーっとするような気がした。  
「……せ、先生…」  
「何ですか?」  
「………ありがとう…ございました……」  
ペコリ、頭を下げた。  
ほのかに赤くなった頬を見られないように。  
「ええ……どういたしまして…」  
私の言葉を聞いて、先生はもう一度笑ってくれた。  
気が付けば、体中が痛くて仕方ないのに、私も笑顔に変わっていた。  
とても嬉しかったのだ。  
痛みなんて忘れてしまうぐらいに、先生の笑顔が、とてもとても嬉しくて仕方がなかったのだ。  
 
それから先生と私は、痛む体を芝生に横たえて空を見上げていた。  
青い空を時折横切る小鳥たちの姿と声、冬にしては珍しく暖かな日差しの中、私達はしばらくの間心休まるひと時をすごした。  
 
その後も、先生の自殺スポット探索は続いた。  
電車に飛び込むための最適の場所を探して線路沿いを歩いたり、入水自殺にピッタリな橋を探したり。  
私も及ばずながら、先生に協力した。  
自殺スポットは知らないけれど、その為に使えそうな道具を売ってくれる人なら知っている。  
『な、何なんですか、この怖そうな人たちはぁ…っ!!?』  
ピストルを売ってくれる人、色んな薬を売ってくれる人、たくさんの刃物を扱っている人、その他にもたくさん……  
『誰なんですっ!!あの怖そうな人たちはっ!!』  
『いやだなぁ、私のお友達ですよ、先生。あ、あと、先生一つ間違ってますよ』  
『な、何ですか?何の事です?』  
『あの人たちは、”怖そうな人”じゃなくて、”怖い人”ですよ』  
『いやああああああああっ!!!』  
そんな風にして、先生とたくさんの時間を一緒に過ごした一日は、あっという間に過ぎていった。  
 
夕焼けに赤く染まった街の中、先生と私は路面電車の乗り場へとたどり着いた。  
道路のはるか先を見ると、信号待ちで停車している路面電車が遠くに見えた。  
もうしばらくすれば、この乗り場にやって来るだろう。  
「ふう、今日は本当に疲れました……」  
「そうですね。私ももうクタクタです」  
結構遠くまで来たので、家に着くまで大分時間がかかるだろう。  
その間、先生と今日の事や学校の事、色々な事を話して、笑い合ったりしよう。  
先生はたぶん、『私も一応教師ですから』なんて言って、家の前まで送ってくれる。  
そして、家に戻った私は、また学校で先生と会う時の事を考えて、ぐっすりと眠るのだ。  
きっと良い夢が見られるだろう。  
だけど……。  
だけど、今の私は……。  
 
 
夕焼け空を見上げる先生の背後から、私は一歩後ろに下がる。  
気付かれないように、気配を殺してこっそりと。  
二歩目、三歩目。  
あともう一歩下がったら、後ろを振り返って一気に駆け出そう。  
気が付いた先生が何か言うかもしれないけれど、聞こえないふりをして走り抜けよう。  
大丈夫。  
雑踏の中に紛れてしまえば、先生もそれ以上は追いかけては来ないだろう。  
さあ、後もう一歩、もう一歩後ろに下がろう。  
これ以上、あの人の、先生の背中を見ているのは辛すぎるから……。  
さあ早く。  
駆け出そう。  
逃げ出そう。  
先生の前から、消えてしまおう……。  
 
だけど、私が最後のもう一歩を退くより早く、私の手首が掴まれた。  
振り返った先生が、悲しそうな顔で、私の手首を握っていた。  
強い力で握られているわけじゃない。  
だから、振りほどいて逃げる事は本当は簡単な筈なのだけれど、  
先生の眼差しに射抜かれた体は、もう一歩も動く事が出来なかった。  
先生が私に語りかける。  
「もう帰りましょう……」  
悲しみを、辛さを押し隠して、無理やり顔に貼り付けたような笑顔が痛々しかった。  
きっと、先生はこの笑顔の下で泣いているのだ。  
「お願いです。戻ってきてください。………でないと、私は……」  
 
 
糸色望が、彼の生徒、風浦可符香の異変に気付いたのはおよそ2週間前の事だった。  
最初は、ほんの些細な違和感。  
「風浦さん、最近ずっと笑ってばかりいませんか?」  
「可符香ちゃんが笑ってるのはいつもの事じゃないですか」  
望に問われた千里は、何を言っているのか、といった感じでそう答えた。  
だが、望は納得できなかった。  
確かに彼女はよく笑う娘だけれど、それ以外にもさまざまな表情を見せてくれる。  
それがどういうわけか、ここ最近全く見られなくなっていた。  
それに、笑顔と一口に言っても、彼女のそれには色んなニュアンスが込められていた。  
だけど、今の彼女の笑顔はまるで仮面を貼り付けたような、  
その奥に何の感情も感じさせないような、そんな無機質な笑顔だった。  
最初は自分の思い過ごしではないかと考えた。  
しかし、日を追うごとに彼女に対する違和感は、笑顔だけでなく、その態度や、仕草の一つ一つに広がっていった。  
先週の金曜日、放課後、堪りかねた望は、彼女に問いかけた。  
「何か、辛い事でもあるんですか?」  
その言葉に、可符香は一瞬驚いたような表情を浮かべた。  
「えっ!?…いやだなぁ、先生、そんな事あるわけないじゃないですか」  
「辛い事や苦しい事は誰にでもありますよ」  
「そ、そうですか?」  
「ええ、私なんかいつも絶望してるじゃないですか。辛い事があるのなら、言ってください。私でいいなら、力になりますよ」  
望がそう言うと、可符香はくすくすと笑って  
「心配性ですね、先生は。……本当に、何にもないんですよ」  
そう言って答えた。  
「本当ですか?」  
「ええ、本当の本当です」  
その、彼女の笑顔は、本当に嬉しそうで、楽しそうで……。  
そんな彼女の笑顔を久しぶりに見られた事で、望はようやくホッと胸を撫で下ろした。  
「でも、心配してくれて嬉しかったですよ。ありがとうございます、先生」  
そう言って、彼女はぺこりと頭を下げると、鞄を片手に教室の外へ。  
「それじゃあ、さようなら。先生」  
「ええ、さようなら。気をつけて帰るんですよ」  
笑顔で望に手を振ってから、彼女は学校を去っていった。  
 
その次の月曜日、風浦可符香は学校に来なかった。  
 
それが単に学校を休んだだけではない事はすぐにわかった。  
一人暮らしの彼女の家は全くのもぬけの殻で、玄関の鍵さえ掛けられていなかった。  
鞄も、財布も、何もかもが置き去りにされていた。  
制服も脱ぎ捨てられ、彼女の私服もそのまま残されていた。  
ただ、着物でも仕舞っていたらしい桐の箱が、蓋を開けたままで転がっていた。  
近所の住人に聞き込みをした所、数人が袴姿で夜の街を走り抜けていく少女の姿を目撃していた。  
僅かな荷物も、お金さえも持たず、身一つで、彼女は失踪したのだ。  
望は強く責任を感じていた。  
あの時、あの放課後、無理やりにでも彼女から何かを聞きだしていれば、こんな事にはならなかったかもしれない。  
「………彼女は私が見つけ出します」  
警察だけに任せておくわけにはいかなかった。  
もともと授業も平気で休んでしまうような、教師失格な人間なのだ。  
今更、何を気にする事もない。  
望は学校の仕事を放り出して、可符香を探し回った。  
彼だけではない。  
2のへの生徒達も、放課後の時間を割いて、彼女を探してくれた。  
甚六先生や智恵先生も望に協力してくれた。  
やたらと広い交友関係を持つ彼女。  
そんな彼女の知人達から何か情報を得られないだろうかと、色んな人間と会って彼女の事を聞いてまわった。  
中には、明らかにカタギとは思えない人種も存在していて……。  
 
『なんじゃあっ!!可符香さんに何か用があるんかいっ!?』  
だが、そんな彼らも望の話を聞くと、一様に彼女を心配した。  
『あの娘は、抜け目ないし、強かだし、ワシらなんぞ歯牙にもかけんような大物だよ。だけどな……』  
とある組の組長だという、その男は言った。  
『何というか地に足がついてないというか、今にも風に吹き飛ばされてしまいそうな、  
そんな危なっかしい感じのする娘だったよ………』  
その後、裏の社会に精通する彼の助けもあって、可符香の居場所をいくらか絞り込む事ができた。  
『頼む。あの娘を連れ戻してやってくれ、先生……』  
男の言葉に肯いて、望は今日、この街までやって来た。  
彼女を、風浦可符香を見つけて、彼女の日常へと連れ戻すために……。  
 
 
「もう一度言います。辛い事があるなら、私が力になりますから、だから、戻って来てください……」  
先生の眼差しが私を射抜く。  
悲しげで、優しい、先生の瞳。  
どうやら、私の鬼ごっこはここで終わりのようだった。  
「いやだなぁ…辛い事なんてないですよ、先生」  
「し、しかし……」  
「辛い事なんてないんです………ただ、思い出してしまっただけ…」  
昔あった色んな事、お父さんの事、お母さんの事、今はもういない家族の事……。  
そんな記憶の欠片が不意に浮かび上がってくる。  
本当に時々だけど、そんな時、私の心は凍り付いてしまう。  
だけど、あの日、あの金曜日の放課後、先生の言葉がそれを溶かしてくれた。  
私も、それでもう大丈夫だと、そう思っていたのだけれど……。  
「色んな事があったんです。ただ、それを思い出してしまっただけ……」  
あの日、家に帰って、何気なく開いた押入れの奥から、お母さんの着物と袴が出てきた。  
昔、成人式の時にお母さんが着たというソレは、我が家に残された数少ないお母さんの思い出の品だった。  
『お前が成人するときは、これを使っていいからね』  
そう言って微笑んだお母さんの顔が瞼の裏に蘇って、着物を抱きしめたまま、私は泣いていた。  
そこからの事はほとんど覚えていない。  
気が付くと、お母さんの着物と袴を身に着けて、私は夜の街を走っていた。  
私の心はもう一度凍りついて、私はあてもなく街を彷徨った。  
先生が、みんなが、心配してくれているだろう事はわかっていた。  
でも、その事を考えれば考えるほど、私の心はさらに硬く冷たく凍り付いていった。  
曜日も、日にちの感覚も磨耗して、もうこのままどこか遠い所に行ってしまおうかと、そう思っていた時だった。  
 
(あ……先生…)  
街の雑踏の中、先生の背中を見つけた。  
『先生、どこ行くんですか?』  
気が付いた時には、話しかけていた。  
先生は、私の失踪について、無理に聞き出そうとするような事はしなかった。  
『あなたこそ、随分めかしこんで、どうしたんですか?』  
何気ない、いつものような調子で私に接してくれた。  
そして、その上、あの発言、あの行動。  
『せっかくの休日ですからあなたも有意義に過ごすんですよ。………それでは、さようなら』  
一人、路面電車に乗り込んでその場を去ろうとした先生に、思わず私は追いすがった。  
同じように路面電車に乗り込んでしまった。  
よくよく考えれば、あれが先生の作戦だったんだろう。  
あの手の駆け引きは私の得意技の筈なのに、まんまとのせられてしまった。  
それからの、今日一日の出来事は、とても楽しくて……。  
先生の隣にいられる時間が、すごく嬉しくて………。  
「あなたの過去に何があったのか、それがどれほどの苦しみなのか、  
私にはそれを全て理解してあげる事はできません。ですが……」  
そして、私の心に残った最後の凍りついた場所を、迷いを、先生の言葉が溶かしていく。  
「今度は、私の所に来てください……苦しむあなたを、せめて傍で支えさせてください……」  
「先生……」  
私は、先生の胸に飛び込んだ。  
伝わってくる先生のぬくもりに、全てを委ねる。  
そんな私の震える肩を、先生の腕が、強く、優しく、抱きしめる。  
「先生……ごめんなさい…」  
私は、少しだけ泣いていた。  
やがて、ガタンゴトンと音を響かせて、路面電車が乗り場へとやって来た。  
顔を上げた私に、先生が笑顔で言った。  
「さあ、帰りましょう……」  
「はい、先生……」  
寄り添う私と先生を乗せて、路面電車は走り出す。  
私の帰るべき場所へ……。  
私が幸せでいられる、あの暖かな場所へ………。  
 

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